マドリード王宮の代表的な宮廷画家ベラスケスは、3歳から8歳までのマルガリータ王女の肖像画を、全部で5枚描いています。
その中でも、彼の最晩年の作品「青いドレスのマルガリータ王女」は、最も美しい1枚と評価が高い。
しかし、こうした肖像画は、ただ単に王女の成長を記録するために描かれたのではありませんでした。
それは、スペインとオーストリアの両ハプスブルク家を結ぶ政略結婚を進めるための「見合い写真」としての意味をもっていた。
現在、この作品を含めて3枚ものマルガリータの肖像画がウィーンにあるのは、こうした理由が関係していたのです。
「見合い写真」として贈られた王女8歳の肖像画
主君であるフェリペ4世に信頼され、慕われていた画家ベラスケス。
彼はこの肖像画を描いた頃、長年の夢だった騎士の称号を与えられ、貴族としても最高の栄誉を手に入れます。
しかし、スペインにおけるハプスブルク家の「黄金時代」は、すでにかげりを見せ始めていました。
(イーペレン画)1667年
外国との戦争に負け続け、内乱は各地に広がっていましたが、政治に無関心なマルガリータの父は、美術品の収集や狩りに明け暮れていました。
この絵が描かれた5年後、13歳で約束通りオーストリアへ嫁いだマルガリータ王女。
彼女には、愛する祖国の没落を、ただ遠くウィーンから眺めているしかすべがありませんでした。
(マーソ画)1666年
そして1665年9月、父王フェリペ4世の死去とともに、スペインにおけるハプスブルク家の歴史は終わりを告げる。
父の死にかけつけたマルガリータ。
義父の跡を継いで宮廷画家になった、ベラスケスの娘婿マーソが描いた15歳のマルガリータには、もはやかつての愛らしい少女の面影はなく、深い悲しみにうちひしがれる王女の姿が見られるだけです。
花嫁が行き来した2つのハプスブルク家
マルガリータは、スペイン・ハプスブルク家の王女として、1651年7月12日に生まれました。
ハプスブルク家は、彼女の父フェリペ4世の曾祖父、カール5世の代からスペインとオーストリア両国に君臨し、両国のハプスブルク家の間では、信頼の証として何組もの婚姻が結ばれていた。
「バラ色のドレスのマルガリータ王女」1653~54年
・バラの花
当時3歳のマルガリータ王女はバラの花がとても好きだったらしい。
さわやかな風が心地よい朝などは、よくバラをつんで過ごしたという。
・黒いレース
レースでオシャレすることが30年戦争(1618~48年)の頃にスペインで大流行した。
宮廷の婦人たちはもちろん、紳士たちもこぞってレースを衣装にあしらったという。
そしてマルガリータも3歳の頃から、母マリアーナの実家、オーストリア・ハプスブルク家に嫁ぐことがすでに決められていたと言います。
この青いドレスのマルガリータ王女は8歳の肖像画で、ベラスケスによって描かれた、王女の「見合い写真」です。
「マルガリータ王女」1654年
・ファージンゲイル
ファージンゲイルは、クジラの骨でできた傘状の下着で、スカートを広げるために、ペチコートの下につけた。
16世紀末から宮廷の婦人たちのあいだでも流行し始め、まだ4歳にも満たないマルガリータも、すでにこれを使って、女性らしい体型を作り出している。
ハプスブルク家は代々、軍事力で他国を侵略制覇するというやり方を好まず、政略結婚という平和的な方法でヨーロッパ各地に勢力を伸ばしていました。
しかし、その裏で不幸な運命に流された花嫁も少なくありませんでした。
たとえば、フランス革命に巻き込まれ、ギロチンにかけられた悲劇の王妃マリー・アントワネットも、実はオーストリア・ハプスブルク家の出なのです。
運命にもてあそばれたマルガリータ王女
1664年、11歳年上の義兄弟レオポルド1世に嫁いだ、13歳のマルガリータ王女。
彼女にも不幸な運命が訪れます。
1年後に父フェリペ4世が死去。
跡継ぎのないスペイン・ハプスブルク家は、滅亡の一途をたどります。
「白いドレスのマルガリータ王女」1656年
・肩をおおうレースのえりと大きくくびれたウエスト
「ラス・メニーナス」に描かれてのと同じ年ごろのマルガリータ。
ファージンゲイルを使って腰から下の部分を強調すると同時に、肩を大きなえりでおおうことによってウエストの細さをより一層強調したスタイル。
自分の意志を口にすることもなく、祖国の繁栄を信じたマルガリータの結婚は、結局無意味になりました。
生れつき体が弱かった彼女は、深い失意の中、1673年に22歳の若さでこの世を去ります。
結婚の意味もまだよくわからず、無邪気な表情を浮かべた王女。
ベラスケスは、その無垢な美しさを生き生きとキャンバスに描き出しました。
「見合い写真」としてウィーン王宮に送られた、バラ色、白、青のドレスに身を包んだ3枚の肖像画は、ウィーン美術史美術館に大切に保管され、両家の固いつながりを現在に伝えています。
「マルガリータ王女」1660年
・隠された胸元と腕
敬虔なカトリック教徒であり、また厳格さを重んじていた当時のスペイン宮廷では、婦人は常に胸元と腕を隠し、むやみに肌を露出しないよう、いましめられていた。
実はこのドレスを着た肖像画は長い間紛失したと思われていました。
1923年に美術品の倉庫で発見されたときは、無惨にも楕円形に切り取られていましたが、慎重で大規模な修復が行われた結果、ついにこの名画は完全な形で現代によみがえったのです。
しかし、その表情が無邪気であればあるほど、王女の運命が一層哀れにも感じられる。
「青いドレスのマルガリータ王女」は絵画的にどんな意味をもつのか
肖像画家として知られるベラスケス。
確かに、彼の描いた全絵画のなかでも、肖像画がしめる割合は大きい。
彼の卓越した才能は、人物を描く事によって最大限に発揮されました。
生き生きとした人物表現、モデルの外見を描くだけでなく、キャンバスの上にその人物の性格、その感情までをも巧みに写している・・・
ベラスケスの絵画の特徴の一つは、色彩の明暗とタッチの変化で形をあらわすその独特の手法にある。
近くで見ると斑点の集まりのようにしか見えない、ぼやけた輪郭線は、少し離れて見るとくっきりと浮かび上がり、肖像画の中で重要な役割を担い、衣装の豪華さや材質感を忠実に再現しています。
「青いドレスのマルガリータ王女」1659年
・大きく広げたスカート
当時は布をたっぷり使い、スカートをゆったり広げることが贅沢の象徴だったが、質実を重んじるスペイン宮廷ではこれが限度。
フランスでは、もっとゆったりとひだをとったスカートが描かれている。
・銀のレースがついた青いビロードのドレス
8歳のマルガリータが着ている美しい青いビロードのドレス。
このドレスのデザインは、17世紀の宮廷で流行した、代表的な婦人用礼服ファッションのひとつである。
・大時計
後ろの時計は節度の象徴として描かれている。
たとえば、マルガリータの金髪の柔らかさや、青いビロードのドレスの心地よい肌ざわりが、実際に手に伝わってくるかのようです。
200年後に、ベラスケスを「画家の中の画家」と絶賛した印象派の先駆者マネも、ベラスケスの絵画に影響を受けた画家の一人。
ベラスケスの技法は、繊細な光や空気を表現しようとした印象派の誕生に、大きく貢献したといえるかもしれません。
また、ベラスケスのすぐれた人物表現もさることながら、「ラス・メニーナス」(宮廷の女官たち)に見られるその複雑な空間表現も、絵画史上特筆すべき点のひとつです。
「ラス・メニーナス」1656年
・5歳のマルガリータ王女
まだ幼い王女にはポーズをとり続けることが苦痛なようで、すねた様子を見せている。
王女の侍女が、王女に赤い水差しの壺を渡して懸命になだめている。
・鏡に映ったマリアーナ王妃
フェリペ4世に寄り添うマルガリータの母マリアーナ王妃。
華やかなウィーンから嫁いだ王妃は、質素で堅実なスペイン王宮での暮らしに満足できずいつも不機嫌な顔をしていた。
・ベラスケス
誇らしげに胸につけた赤い十字勲章は、サンディーゴ騎士団の証明。
この絵を描いた3年後、その名誉ある称号を授けられた画家は、喜びのあまり勲章を加筆したという。
奥に開かれたドアや、横から差し込んでくる光。
暗闇に描かれた、絵の中の絵。
鏡の中には、見ていると我々と同じ場所に立っているはずの、王と王妃の姿が映っています。
これらすべての要素が、絵の広がりと遠近感、複雑な空間を構成していて、今でも「絵画の神学」と評されている。
まとめ
不運のマルガリータ王女ですが、ベラスケスの描いた肖像画の中では、今でも生き生きとした愛らしい姿を見ることができます。
青いドレスのマルガリータ王女は、最近クリーニングされたようで、古いニスをはがし新しいく修復されました。
より、当時の美しさを取り戻したベラスケスの名画を、是非鑑賞してみたいものです。
ベラスケスの画法は、下地の上から一気に上塗りを施し、重要な部分を集中的に描き込む方法です。
ティッティアーノの技法を研究して作りあげたこの技法は、空気感を作り人物に生命観を与える効果が特徴です。
今でもマルガリータ王女が生きているよな存在感は、見る人たちに忘れがたい印象を与えます。
まさに、肖像画の傑作といえます。
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