エル・グレコは、ベラスケスやゴヤと並び称されるスペイン3大画家のひとり。
けれどこの画家は、本名をドメニコ・テオトコプーロスといい、地中海のクレタ島で生まれたギリシャ人なのです。
イタリアで10年修業を積んだ後、スペインの都トレドに移住したのは30代後半になってからのこと。
そして、画家としての才能を花開かせたのは、ギリシャでもイタリアでもなく、このトレドでした。
名画「オリーブの園での祈り」は、画家の第二の故郷」トレドにおいて、晩年、円熟期を迎えた70歳ころの画家が描いた傑作中の一枚。
16世紀スペインの巨匠が描いたキリスト最大の苦悩
この絵は、キリストが最後の晩餐の後、すなわち捕らえられて十字架にかけられる直前に、3人の弟子とともにオリーブの園にこもり、神に祈りを捧げる場面が描かれている。
目の前に迫りくる死の恐怖に苦悩するキリスト。
彼のもとに神の使いが舞い降り、迷える心を救う。
この主題は16世紀、カトリック教国の画家に競って取り上げられ、宗教画の中でもポピュラーなものの一つでした。
当時のヨーロッパは、ドイツでマルティン・ルターが火をつけ、キリスト教国全域に燃え広がった宗教改革運動に対抗し、カトリックの再生運動が大きな巻き返しを見せていました。
なかでも、中世を通じてスペイン・カトリックの総本山であったトレドでは、この頃、異端審問制などがしかれ、異郷に対する検閲が強化されていた。
教会は、カトリック布教活動の一環として、自国の画家に、人々を敬虔な祈りに誘うような聖書の中の場面を描くように要請しました。
そのような時代にあって、エル・グレコはヴェネツィアで学んだ華麗な油彩画の技術や、ローマで吸収した盛期ルネサンス以後の絵画様式「マニエリズム」の手法を、自己の作品の中で独自に昇華させていき、トレドの教会から依頼された宗教画の中にそれらの技法を展開し、一躍このカトリックの王都で名を馳せる。
この作品の、青みを帯び、寒色を基調にした色彩や、光と闇を効果的に用いた画面構成、さらにマニエリズム絵画から受け継いだ細長く引き伸ばされた人体などに、エル・グレコの特色を見ることができる。
そうした独自の技法で生み出された画面全体を包む神秘性は、この絵の大きな魅力になっており、そこに塾考を重ねた画家の工夫が読み取れます。
トレド近郊の小さな教会を飾っていたこの絵は、ハンガリーの大銀行家ヘルツォグの手を経て、1951年にブタペスト国立美術館におさめられた。
そして、ヨーロッパでも有数のエル・グレコ・コレクションを誇るハンガリーの美術館の重要な作品の一つとして、今も個性ある輝きを放っています。
キリスト苦悩の場面にこめられた画家の哲学
エル・グレコが描いたこの作品は、新約聖書の3つの福音書に見られる主題が表されています。
最後の晩餐の後、使徒のペテロ、ヤコブ、ヨハネを従え、エルサレムのオリーブの園に赴いたキリスト。
いつものように、ひざまずいて祈りのポーズをとるが、この時、神の子はかつてない絶望感にとらわれていた。
裏切り者ユダに手引きされた兵士たちは、すぐ近くまで迫っている。
彼らはキリストを捕らえ、十字架にかけるだろう。
キリストの死は、もはや避けられぬ運命でした。
そこで天使が舞い降り、受難の象徴である聖杯をキリストに渡します。
キリストは再び使命感に奮い立ち、肉体の誘惑に負けて眠りこむ使徒たちを戒める。
聖書の中のこの場面で、たとえばキリストを救う天使は、3つの福音書のうちルカ伝にしか登場しません。
また迫りくるユダたちの姿は、エル・グレコが描いき加えたもので、画家は聖書のキリスト最大の苦悩の場面にこうした独自の解釈を加え、崇高で危機感迫る作品を作りあげたのです。
精神世界を表す独自の技巧
極度に引き伸ばされた人物、非現実的な世界を感じさせる冷ややかな色調、神秘的な場面を演出する光の効果。
エル・グレコ晩年のこの名画は、高い精神性を描こうとした独自の表現にみちています。
ギリシャのクレタ島で生まれた画家は、27歳でヴェネツィアに移住し、ティッティアーノやティントレットらの鮮やかな油彩画の技法を吸収します。
そのうえで、彼はヴェネツィア派暖色系の色彩とは対照的な、寒冷で青みがかった神秘性あふれる色調を生み出しました。
それは、キリストの苦悩を描いたこの作品にも見事に活かされている。
また、天上かた天使を経てキリストや下方の使徒たちに神々しく降り注ぐ光の表現は、ルネサンス思想の一つ、ネオ・プラとニズムの、光は神から発するものという考えに基づいている。
また、祈りを捧げるキリストの両手に見られる引き伸ばされた人体表現や、眠る使徒たちの不自然な姿勢は、マニエリズムの特徴。
エル・グレコは、盛期ルネサンスの巨匠たちの表現に範をとり、それらを極度に誇張したマニエリズムの手法をイタリアで修得し、自分の心の中にある理想美を画面に再現したのです。
一枚の名画を生んだ16世紀トレドの状況
こうした多くの様式を、自分なりに使いこなして生み出されたのが「オリーブの園での祈り」。
この一枚の名画を誕生させたのは、16世紀から17世紀にかけてのトレドでした。
11世紀以来、カトリックの都として栄誉を担い続けたこの街は、この頃、著しく緊迫した空気に包まれていました。
ヨーロッパ全土をおおう宗教改革の嵐に必死で対抗するスペイン・カトリックの一大拠点として、トレドはかつてない激動の時代を迎えていたのです。
1542年、ローマ教皇パウルス3世の命により、イタリアおよびスペイン国内に多くの異端審問所が設置され、徹底的な「異教徒狩り」が行われるようになった。
トレドでも、異教徒の逮捕や処刑は大量に実施された。
1545年以降には、宗教改革に対抗してトリエント公会議が開かれ、イタリア、フランス、ドイツとともに、スペインの司教たちは教会のあり方について検討を重ねました。
なかでも、スペインの教会は自国の画家たちに神話画や裸体画の制作を禁じ、純粋な祈りの対象となる宗教画のみを認可するようになっていく。
そんな当時のトレドの状況を受け、エル・グレコは、美術の本場イタリアで学んだ色彩学や技術を駆使して内なる世界を表現。
このカトリックの都を拠点に、多くの人々に祈りの気持ちを起こさせる神秘的な宗教画を生み出しました。
目には見えない天上界を描いた数々のの傑作、その中の1枚が、この「オリーブの園での祈り」なのです。
「オリーブの園での祈り」は絵画史上どんな意味をもつのか
エル・グレコは生前から、スペインにおいて宗教画としての栄養を獲得していたが、その芸術が真に評価され始めたのは、死後300年近くを経た20世紀初頭になってからでした。
この頃から、この画家は例えば、表現主義などといった近代美術の先駆者ともみなされるようになっていく。
聖書の重要な場面を描いて傑作のひとつとなった「オリーブの園での祈り」には、目には見えない天上の世界を、大胆な技巧によって表現しようと試みた画家の先進性が確かに感じられる。
そしてそこには、ヨーロッパにおける新旧の美術様式の応用が顕著に見られる。
エル・グレコの描く聖人の顔立ちには、故郷のクレタ島で学んだ、ビザンティン美術のイコン画の手法が残されています。
また、人体を長めに引き伸ばしたり、群像を画面の下から段々に積み重ねて、見る者を視線を地平線より上方の天上界にひきつけるという構図は、盛期ルネサンス後に流行したマニエリズム絵画から影響をうけたもの。
こうした様々な手法を取り入れて生み出されたエル・グレコの絵画は、精神世界を表現するための深い考察によるものであることが再認識され、近代の美術家たちに大きな刺激を与えたと思われる。