「モネ」印象派の純粋な体現者

クロード・モネは印象派画家のうちでも最もひたむきで、純粋な実践者でした。

18歳のモネは、ノルマンディーの片田舎で過ごし、田舎の恵まれた自然美が、生涯をとおして風景画に対するモネの情熱の源泉となりました。

彼は、パリに出てからは、ルノアールマネ、ピサロといった偉大な芸術家仲間と新しい画風による制作を試みました。

パリでボヘミアン生活を送るモネの生きる支えは、絵画への情熱でした。

略歴

1840年 パリに生まれる

1845年 一家はノルマンディーのル・アープルに移住

1858年 ウジェーヌ・ブーダンに出会う

1859年 パリに移る

1863年 ルノワール、シスレー、パジールに出会う

1867年 カミーユ・ドンシュウとのあいだにに第一子ジャン誕生

1870年 カミーユと正式に結婚。ロンドンを訪問

1871年 妻子と共にアルジャントゥーユに移り住む

1879年 カミーユ死亡

1883年 ジベルニーに居を定める

1892年 「ルーアン大聖堂」の連作にかかる。アリス・オシュデと再婚

1900年 ジベルニーの自庭の睡蓮の池を広げる

1908年 健康と視力を害す

1911年 アリス死亡

1914年 「睡蓮」制作のため大アトリエを建造

1926年 ジベルニーにて死亡。 享年86歳

 

幸福な幼少時代の「モネ」

クロード・モネは1840年11月14日、飲食商店で元船乗りのアドルフ・モネの長男としてパリに生まれた。

1845年、一家はノルマンディーの港町、ル・アーブルに移り、幸せな子供時代、そして青年期を過ごします。

叔母の影響で少年モネは絵を描くようになり、15歳のころには、町で評判になり売れるまでになりました。

モネの絵は町の額縁屋に展示され、これが彼の人生を決定するきっかけとなります。

同じオンフール出身画家、ウジェーヌ・ブータンもこの店に絵を展示しており、ここで二人は知り合いました。

ブータンは16歳のモネに風景画を描くことを勧め、ともに制作にはげみます。

1858年の夏、17歳でもねは、実物を描く風景画こそ自分の天職であると悟ります。

 

パリの画学生「モネ」

青年モネの心にはパリへ行きたいという思いがふくらみます。

パリ、それはフランスのみならず全世界の芸術家の都であり、画家を志す若者たちの憧れの地でした。

父親は公立の美術学校へ入学させたがったが、モネは常に強い意志と自信に満ち、アトリエ・シェイスで学ぶことを選びます。

このアトリエでは、のちの印象派の中心人物となる、カミーユ・ピサロと知り合いとなり、ギュスターヴ・クールベ、エドワール・マネら前衛芸術家のたまり場でした。

 

貧乏画家「モネ」

1862年、故郷から再びパリに戻ったモネは、当時肖像画家として名を馳せていたシャルル・グレールのアトリエに入りました。

しかし、モネはアトリエでヌードモデルの絵を描くという通常の学び方には不満を抱いていました。

仲間の一人、オーギュスト・ルノアールは「グレールは弟子たちに力を貸すことはなかった。だが、少なくとも勝手気ままにさせてくれた」と語っています。

このアトリエには、ほかにフレデリック・パジールやアルフレッド・シスレーがおり、彼らは後にモネやルノワールとともに印象派を背負って立つことになります。

また彼らと共にフォンテンブローの森で戸外制作に励み、富裕な家の出身であったパジールはモネを経済的に援助し、これは1870年にパジールが死ぬまで続きました。

 

イギリスでの「モネ」

1867年、愛人カミーユとのあいだに家族に認められないまま息子までもうけるが、ル・アープル近くのサン・タドレスに滞在していたモネは父からの送金を絶たれたため、極度の貧しさでパリにいる妻子に会いに行く資金すら作れなかったのでした。

家族の反対を受けていたカミーユとのあいだも、1870年になってようやく正式な結婚にこぎつけましたが、同時期に勃発した戦争を逃れるため、モネは単身ロンドンに向かいます。

まもなく妻子を呼び寄せ、ロンドンに居を構えて美術館に足を運び、コンスタブル、ターナーなどの風景画を研究したり、市内の公園やテムズ川を描いたりしました。

イギリス滞在での最大の収穫は、フランス人画商のポール・デュラン・リュエルと知り合ったことです。

リュエルは印象派絵画に初めて理解を示した画商で、以後継続的に彼らの絵を買いあげることになります。

そのおかげでモネは困窮状態から脱することができました。

翌、1871年には、オランダ経由して、フランスに戻ってきたモネ一家は、アンシャントューユに家を借りて落ち着きます。

パリから数キロのこの地での生活は、モネの生涯の最も実の多い時期でもありました。

結婚生活は安定し、カミーユが遺産を多少相続したこともあって、経済的にも楽になったようです。

 

カミーユの死と「モネ」

印象派画家たちが最も結束を固めたのもこのころであり、1874年には第1回印象派展が開催されました。

しかし、この展覧会は商業的には失敗し、翌年リュエルによって行われた即売会でも借金がかさみます。

こうしてモネの安定した生活も終わりに近づいて、1878年にはパリからずっと離れたベトゥーユに移り、妻のカミーユは長らく患っていて1879年にここで息をひきとりました。

妻の死の悲しみと、残された息子たちの重責にあえぐモネの慰めとなったのは、アリス・オシュデでした。

アリスはカミーユの看護をし、子供たちの世話にも努め、モネの借金の肩代わりもします。

1883年パリから60キロ離れたジベルニーに腰をすえて、初期印象派グループはほぼ解散状態となっていましたが、モネは印象派の理念である自然の追及をなおも試み続けていました。

 

精力的な制作威力の「モネ」

1990年アリスと再婚して、今やモネは居を定め家庭生活は落ち着いてきましたが、モネの生来の精神的な制作意欲はとどまることを知らず、絵の対象を求めて、オランダやイタリアまで足をのばして風景を描きます。

この時期作品が次第に世間に認められ、それに伴って経済的にも潤いはじめました。

これは、1883年にベルリン、ボストン、ロンドン、ロッテンダムといった各地で印象派展を単独で組織してくれたリュエルのおかげででした。

1890年までには経済的にも安定し、モネはそれまで借りていたジベルニーの家を買い取ることができました。

1891年にパリのリュエルの画廊で開かれた個展では、開催3日目にして全作品が売約済みになる盛況ぶりでした。

この個展では、「積みわら」をモチーフにした作品が15点並べられ、このころからしだいにこれらの連作のため、アトリエで仕事をする時間も増してきます。

今や彼は、目前に素材を置かなくても、望みのままの効果をキャンバスに描き出すすべを身につけていたのでした。

 

 

庭師「モネ」

彼は1899年ごろからジベルニーの庭を描きはじめたが、1906年ころになると、水連を中心とするこの水の庭は、彼の芸術生活の中心をなすこととなりました。

常に変化し続ける色彩と光にあふれた睡蓮の池に、モネ自身「私の睡蓮の池は、魔法にかけられたようだ」といっています。

「睡蓮」制作第1期は90㎝四方の小さなキャンバスであったが、モネはこのモチーフに夢中になっていき、しだいに大作となっていきました。

1914年には、巨大な作品を制作するための特別なアトリエを作らせます。

1911年に妻アリスに先立たれますが、妻の連れ子である娘のブランジュ・オシュデをいつくしみ、自らも画家であった彼女にささえられ、

晩年も制作にはげみました。

このころには、モネは押しも押されもせぬフランスを代表する労大家となっていて、ジベルニーには多くの著名人が訪れていました。

当時の首相ジョルジュ・クレマンソーもモネを訪問し、国家に睡蓮の大作を寄贈することが約束されます。

視力は衰え、白内障の手術を受けて、老眼や孤独の創造の苦しみなどと戦いながら、すさまじい執念でモネは、「睡蓮、水の習作」の大連作を完成しましたが、パリのオランジェリー美術館の開幕式の日(1927年5月17日)も見ずに、そも前年の1926年12月5日にジベルニーの自宅で86歳の生涯を閉じ、小さな村の教会のそばに埋葬されました。

 

移ろう光を追いかけた「モネ」

モネはしばしば最も偉大にして、典型的な印象派画家と評されたのは、作品の質だけでなく、生涯を変わることなく印象派の理想を貫き通したその制作態度によるところが大きいでしょう。

戸外制作そのものは珍しいというほどでもないのですが、モネは戸外制作を自分の信条としていました

終生モネが描くことをめざしていたのは、たえず変化する光と雰囲気能力の印象を捉えることであり、これを彼らは、「移ろいの効果」と称しした。

モネの富と名声をもたらした連作「積みわら」の制作においては、義理の娘ブランシュがいくつものモネの描きかけのキャンバスを手押し車で運びながら、彼について歩きました。

モネは畑の中に立ち、光線が変化するたびに、その刻々と変わる光の各効果を、別々のキャンバスに次々と描き上げていったといいます。

 

「モネ」の制作スピード

モネは自由奔放で自然な筆さばきを熟達させ、スピード感あふれる制作を身につけていきました。

彼の筆使いは柔軟で多様性に富み、ときには大胆で豪快に、ときには繊細で優美でした。

晩年の大作「睡蓮」になると、このスピード感や強烈さはやわらぎ、加筆して色を重ねることで花の厚みを盛り上がりを描きだしています。

アトリエで制作が増すにつれて、モネは、自分の絵が単なる観察とその記録にあるのではなく、無限に変化する光の効果を表現して、くすんだ色合いで描き、平面のキャンバスに自然そのものを再現する絵画を生むことであると気がついたのです。

優れた芸術作品にいえることですが、モネの作品も最終的には分析や説明を必要としません。

とりわけ晩年の秀作「睡蓮」のシリーズは、事物の奥底まで見通す鋭い視覚と、衰えをしらない筆使いのなせるわざの結晶というだけでなく、詩的情感の香り高い作品だといえます。

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画家活動をしています。西洋絵画を専門としていますが、東洋美術や歴史、文化が大好きです。 現在は、独学で絵を学ぶ人と、絵画コレクター、絵画と芸術を愛する人のためのブログを書いています。 頑張ってブログ更新していますので、「友達はスフィンクス」をよろしくお願いします。