縦1.31m、横1.75mもあるこの大きな名画は、ルノワールの最も忠実な友人であり、印象派絵画コレクターで画家だったカイユボットの遺言によって、1894年に国に寄贈されました。
しかし、今から思えば信じられないことで、遺言は拒否されかれないありさまだったのです。
と言うのも印象派はまだアカデミーに拒絶されていたし、国の行美術行政当局も(6年後に開催される)1900年の万国博覧会までは、印象派に対して頑固なまでの無視と反対の姿勢を崩さなかったからです。
けれど結局、幸いなことに国はしぶしぶこの遺言を承諾します。
当時近代美術館に展示された「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」はたちまち有名になり、ピカソやデュフィに新鮮なインスピレーションを与えました。
微妙に響きあう色彩の輝きゆえに「酷評」された代表作「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」
「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」はルノワール35歳の年に完成されました。
78年の生涯に、ルノワールは数多くの裸婦像を含む名画を残しています。
それら全作品の中でもこの「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」は、貧しい仕立職人の子として生まれ、磁器の下描きとして絵とかかわりを持ち始め、後に印象派と呼ばれるようになる仲間たちとの出会いによって、初めて画家となったルノワールの「輝ける記念碑」だといえます。
ルノワールは、同じテーマでこの絵の他にも「ムーラン・ド・ギャレットの舞踏会」という作品を描いています。
また、作品のための素描も残しており、この1枚への愛着の深さを示しています。
パリ郊外、モンマルトルの丘に誕生したダンスカフェの名物は「ギャレット菓子」
1876年、ルノワールが「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」を描いたのは、モンマルトルのシンボルマーク、サクレクール寺院が建てられる50年も前のことです。
モンマルトルはまだ、パリ郊外のブドウ畑が広がるのどかな丘で、あたりにムーラン(風車)があちこちに建っていました。
その一つの、目先のきいた粉ひきのドブレ親子の風車小屋が、野外ダンスカフェ「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」に変身。
物珍しさで、カフェはあっという間に人気の遊び場になり、ギャレットという焼き菓子が名物で、ダンスホールと共に愛されて学生や画家が集まりました。
外で遊ぶことが、パリジャンたちの最新ファッションになった時代
フランスに初めて蒸気機関車が走ったのは、ルノアールが生まれる10年前のことで、鉄道は次第に整備され、地方からパリへ、パリから地方へと人々は移動するようになりました。
ルノワールが20歳になったころ新聞には「旅をすることこそ生きること。旅は人を自由にする」といった記事が出るようになっていました。
レジャーが日々の日常になり、「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」もこうしたパリの人達の恰好の遊び場でした。
このダンスカフェは、地方からパリに出て働く労働者たちを巻き込んで、郊外ののどかな丘モンマルトルが、急速に歓楽地化していったのです。
「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」は2枚あった?100年後、1枚は海を渡って日本に・・・
ルノワールは1枚の絵を描くにも、何枚ものデッサンや異色作を残した画家です。
例えば「ピアノを弾く少女」は頼まれて画家自身が模写したため、同じ絵がなんと5枚もあります。
「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」もこれほどの名作でありながら、2枚とも絵柄はほとんど同じで、1枚は画家存命中に競売で印象派のコレクターのショッケ氏が購入しました。
その後アメリカのホイックニー氏の元に渡り、1990年のサザビーズのオークションで、日本の企業の会長に落札され、落札額があまりに高額だったため大きな話題になりました。
もう1枚は長い間スイスのコレクターの元にあります。
このことが知られたのは1987年で、このため二枚どちらかが贋作ではないかと議論まで起こったのでした。
「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」絵画史上どんな意味を持つのか?
「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」を描いていたルノワールは人物にあたる光の効果を研究していました。
「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」に登場するジャンヌをブランコに乗せて、木の間から漏れている太陽のきらめきを描いたり、マルゴを窓辺に座らせて読書させ、光の美しさを描いています。
ルノワールのパレットは「虹色のパレット」と呼ばれ、そのパレットに黒の絵の具が乗せられることは、めったになかったといいます。
それまで黒で表現されてきた影を、彼は補色(赤には緑、黄色には紫)を用いて表現しました。
大作「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」は、こうしたルノワールの、光と色彩の探求の集大成です。
木漏れ日の揺れる広い庭でお喋りをして、踊る若い娘たち・・・・・
彼はこれ以後もずっと、無邪気で陽気な女性を描き続けていきます。