1777年のある日、ドイツの作家ヴェルヘルム・ハイゼンは、朝から古代ギリシャ神話をまとめた1冊の本を読みふけっていました。
「牧歌」という題のその本の中で、その日たまたま読んでいた箇所には、全能の神ゼウスの双子の息子かカストールとポルックスが、彼らの叔父レウキッポスの娘2人を掠奪し、結婚する場面が描かれていた。
その日の午後、ハインゼは偶然、宮廷でこのルーベンスの名作を見ます。
力あふれるこの名画は、古代ローマの若者が、略奪によってサビニ人の未婚の娘たちを略奪結婚する「サビニの女たちの掠奪」という話を描いたものとされていた。
この絵の前に立ったハインゼは、朝たまたま読んだ神話を思いだし、この絵がまさにその中の一場面そのままだということに気づいたのです。
完璧な構図の中に描かれた「双子座」の神話
この絵を描いた、17世紀フランドル絵画最大の巨匠ルーベンスのいしずえは、イタリアへの遊学によって築かれました。
画家はここでルネサンス美術、とりわけミケランジェロやヴェネツィア派を徹底的に研究し、過去の巨匠たちの技量と精神を吸収し、これをダイナミックに展開させて、バロック絵画の扉をひらくのでした。
この一枚の名画は、ルーベンスの代表作の一つであり、正方形に近い巨大な画面に、荒々しく激しい動きの男女4人の姿が描かれています。
・神話的主題
ルーベンスは、「遅れてきたルネサンス人」と評されるように、古代の神話を題材にした魅力的な作品を数多く残している。
「レオキッポスの娘たちの掠奪」もその一例だが、彼は神話画は決して古典作品の単なる模倣に終わることはなく、自らの創意に満ちていた。
神話を題材にしている点ではルネサンス的と言えますが、実は「レオキッポスの娘たちの掠奪」の物語を描いた作品は、古代にも、ルネサンス期にも、もちろん他の時代にもほとんど見当たらない。
後世、この絵のテーマが「サビニの女たちの掠奪」であると誤解されたのも無理もあません。
この作品は、掠奪とはいえ「結婚」を主題としていること、もとの神話には登場しない愛の神キューピッドが描かれていることなどから、誰かの結婚を祝った絵だとされている。
しかし、この絵が制作された1618年頃から、プファルツ選帝候のデュセルドルフ・コレクションに加えられる1716年頃までの所在はわかっていませんでした。
1777年、バイエル選帝候が継いだ、プファルツ選帝候家出身のカール・テオドールがこの作品をミュンヘン宮廷にもたらし、以来、バイエルンの都ミュンヘンの宝となりました。
描かれた星の神話の物語
夜空に輝く星座は、数千年前ギリシャで生まれた神話に基づいたそれぞれの物語をもっていて、私たちにロマンティックな夢を見せてくれます。
この「レオキッポスの娘たちの掠奪」は、そんな星座の一つ、双子座の物語のある場面を描いている。
全能の神ゼウスは、スパルタ王ティンダレオスの妻レダに恋し、ゼウスは白鳥の姿に変え、変え川岸にいた彼女のそばに舞い降り、彼女と一夜を共にします。
・カストール(兄)
双子の兄カストール。
荒々しい場面だが、カストールは穏やかな表情を見せ、ヒラエイラを優しく見つめている。
この掠奪事件の後、姉妹の婚約者に殺されてしまい、天の星となる。
・ヒラエイラ(姉)
この絵の中心に位置する、ヒラエイラのポーズは、ルーベンスがかつてミケランジェロの「レダと白鳥」からとられている。
必死に抵抗しながらも、その右手はまるで愛撫するのかのように優しげにかストールの腕に添えてられており、これも祝婚図説の根拠の一つとなっている。
・動物
ルーベンスは動物に関しても、丹念に観察し、素描し、非常に熱心に研究している。
この馬のポーズはローマのクイリナーレ広場に立つ彫刻からとったものではないか言われているが、この絵の動きの中で、この馬が占める役割は非常に大きい。
・キューピッド
双子座の物語には本来登場しない愛の神キューピッド。
馬の手綱をとる行為は、「情欲の制御」を象徴する。
そのことから、この作品を寓意的祝婚図とみなす説もある。
ルーベンスは、左の「ヴィーナスの饗宴」のように、情愛に満ちた子供の絵も数多く残している。
レダは卵を産み落とし、この卵から双子の兄弟が生まれました。
カストールとポルックスです。
この兄弟の叔父であるメッセニア王レウキッポスには、美しい2人の娘がいました。
・レダと白鳥 (フォンテンブロー派によるミ、ケランジェロの作品の模写)
レダに姿をかえたゼウスとレダの恋物語は官能的な画題として好まれ、多くの作例が残されている。
双子座の物語の絵からのポーズをとったのは偶然か?
姉はヒラエイラ、妹はポイベーといいます。
この2人は、カストールとポルックスの従兄弟にあたる、別の双子の兄弟と婚約していました。
しかしカストールとポルックスは、この美人姉妹を力ずくでさらって、無理やり自分の妻にしてしまい、それぞれの息子をもうけた。
・ポルックス(弟)
この絵の中でのポルックスは重要な役割を担っている。
左ひざ左手をポイベーの脇の下に差し入れてしっかりつかまえつつ、右肩と右手でヒラエイラも担ぎ上げている。
このポーズが肉体の重みと抵抗を感じさせて、絵に躍動感と重量感を与えている。
・ボンベー(妹)
この複雑ばポーズでも自然にならないのは、ルーベンスの技量の確かさゆえである。
バラ色の輝いてまばゆいばかりの肌、柔らかい肉体、いずれもルーベンスの最大の特色であり、自身も実際このような女性を好んだ。
一方、いいなずけを奪われ、怒りと復讐に燃えた元の婚約者は、2人を追跡し、ついにカストールは殺されてしまいます。
いつも一緒にいた兄を失ったポルックスは嘆き悲しんで、父ゼウスはポルックスの願いを聞き入れ、2人を天に輝く星にし、永遠に一緒にいられるようにした。
こうして夜空にまたたくことになった星、それが双子座なのだといいます。
名画に見るルーベンスの力量
神話を題材にしたところは、いかにもルネサンス絵画を徹底的に研究したルーベンスらしい。
ところが、双子座の物語が絵画化された例は無いに等しく、わずかにローマのクイリナーレ広場にある古代彫刻、それもカストールとポルックスだけの像が知られているにすぎません。
つまり、ルーベンスは先例に頼らず、完全に自ら創意によって、この作品を構想したのです。
そして、この名画には、ルーベンス芸術の本質が潜んでいる。
このほぼ正方形の画面の中によるものは、みんな激しく大きな運動のただなかにある。
必死に抵抗するヒラエイラとポイベー、これを力強く抑え込み、抱え上げようとするカストールとポルックス。
そして、驚き暴れる2頭の馬。
・激しさと抑制の結合
白い矢印は、力の動き方向を示している。
すべての矢印が、統一感なくバラバラの方向を向いているのがわかる。
これらの、いわば「外向きのエネルギー」は赤い矢印で示した、画面に内接する大きな円に吸収され、時計回りに循環する。
これによって、画面に安定と調和がもたらされる。
ルーベンスは人物と馬を巧みに配して内接円を構成した。
その登場人物たちの視線を、ポルックスがポイベーを見つめ、ポイベーがカストールを見上げ、という具合に、循環させるよう仕組んだ。
人が絵を見るときに、描かれた人物の視線を自然と追うという習性を、ルーベンスは巧みに利用した。
一切の調和が無視されているように見える激しい動きは、やがて大きなうねりとなって、円という完全な調和の形を形成するのです。
ここに表される「激しい抑制の結合」それがだれにも真似のできないルーベンスの構想力であり、天才の証でしょう。
そして、その構想を実現する素晴らしい技量。
ルーベンスは、バロック絵画の本質を体現した巨匠でした。
しかし何よりも、ここに描かれた人物の、動物の、そして植物の、輝かしい生命観こそが、ルーベンスという、才能とヴァイタリティーと崇高な人格をあわせもった、類いまれない巨匠の魅力なのではないでしょうか。
「模写の天才?」のルーベンス
イタリアに9年滞在し、ルネッサンスの巨匠たちの作品を徹底的に研究したルーベンス。
その方法は、ひたすら模写をすることでした。
それが後世の我々に思わぬ副産物をもたらしています。
今では失われてしまった名画、例えばダ・ヴィンチとミケランジェロが技を競ったフィレンツェのヴェッキオ宮の壁画「アンギリアーリの戦い」「カッシーナの戦い」も、ルーベンスの模写によって、その姿を知ることが出来る。
ルーベンスの模写は完璧で、失われた絵がどのようなものだったか充分に判別がつきます。
「レオキッポスの娘たちの掠奪」は絵画史上どんな意味をもつのか
美術史にルーベンスが残した足跡は圧倒的に大きく、バロック=ルーベンスといっても過言ではない。
17世紀最大のフランドルの絵画といわれますが、ルーベンスは地域性を超越した普遍的な画家でした。
彼は、同時代のイタリアの画家よりもむしろ正統なイタリア・ルネサンスの後継者として、バロック絵画の扉を開いた巨匠といえます。
古典に学んだ確かな基礎と雄大な構想力によって、歴史、神話、宗教、風俗、肖像、風景と、ジャンルを選ばず制作し、そのいずれにも高い到達点を示した。
「レオキッポスの娘たちの掠奪」は、そうしたルーベンスの特質を余すとこなく伝えています。
彼はまた美術史上有数の多作な画家である上に、有能な外交官でもあったために、彼の作品は広くヨーロッパ各国に渡り、その影響力は18世紀のロココ絵画はもちろん、19世紀の印象派にまで、その影響は及んでいます。