ダヴィッドは新古典主義運動を代表する最も偉大な画家でした。
簡潔で伝統を重んじる新古典主義は、彼の偉大な才能を通して、まず、フランス革命期の、次いてナポレオン帝政下の公式画家として認められるようになった。
ダヴィッド自身も独裁者でもあり、また、20年間にわたって後進の指導にあたりました。。
しかしダヴィッドは、政治に巻き込まれて窮地に陥り、危うくギロチンで処刑されるところでした。
亡命先のブリュッセルで77歳の生涯を終えています。
作品はきわめて論理的・知的な特質をもち、ときには、芝居がかった無味乾燥な作品もあるが、最盛期には、崇高な精神と共和主義美徳を表現しました。
このうえなく感動的な作品をつくり出しています。
イタリアの影響
ジャック・ルイ・ダヴィッドは1748年8月30日、パリに生まれました。
父親は旧体制下で小間物商を営んでいたが、1757年、決闘で命を落としています。。
息子が父親の激しやすい性格を受け継いでいたことは間違いありません。
父親の死後、建築家である2人の叔父、最初はジャック・ビュロン、次いてピエール・デメゾンがダヴィッドの後見人となった。
彼は、母親の要請で建築の修業を積んだが、1765年ころには、自分の天職は画家だと思うようになっていきます。
このころのダヴィッドは、情緒的にも様式的にも様式的にも、遠緑にあたる偉大なロココ画家フランソワ・ブーシェに接近していたが、ブーシェは彼にジョセフ・マリー・ヴィアンのもとで修業するようすすめ、「ヴィアンは画家としても師としても優れているが、いくらか情熱に欠けるところがある。だが、ときおり私に会いにきてくれれば、私の情熱を教えよう」と忠告した。
ヴィアンは、古代ギリシャ・ローマの様式と主題へ戻ることを当時主張していた新古典主義の理論家ヨハン・ヴィンケルマンの哲学に通じており、ダヴィッドにも古典を題材にして描くようすすめました。
1771年、ダヴィッドは23歳のとき、念願の「ローマ賞」を得ようとアカデミーに「マルスとミネルヴァの戦い」を出品するが、落選に終わった。
翌年も失敗し、彼は、食を断って死のうとするほど落胆します。
だが、1774年には4度目の挑戦を試み「アンティオコスとストラト二ケ」でローマ賞を獲得。
彼は受賞の知らせを聞いて、うれしさのあまり失神したという。
その後もダヴィッドの生涯は、こうした激しい感情の起伏に満ちたものとなった。
革命期の活動
1775年10月、ダヴィッドは、ローマのフランス・アカデミー院長に任じられたヴィアンに従って同地に赴いた。
すでにヴィアンからは、古典を題材に描くようにすすめられていたが、ダヴィッドの絵は18世紀のロココ様式の優雅さと気品から抜けきれずにいたし、古典芸術にじかに接するという圧倒されるような体験への心構えもできていなかった。
フランスを発つ際にも、「古典に心を奪われることはない」と、いかにも彼らしい言葉を吐いています。
ところが、古典にすっかり打ちのめされ、なかでも古代彫刻の豊かさに魅了された彼は、初期の自分のつまらない作品を振り返って絶望感を味わった。
ダヴィッドは彫刻だけでなく絵画にも心をひかれ、とりわけレー二、ドメニキーノ、カラヴァッジョ、リベーラ、ミケランジェロ、プッサン、そして、彼が「神々しい人」とたたえずにおれなかったラファエロの作品に感嘆しました。
ダヴィッドは、ラファエロの作品における精神の壮大さを手本にしようと決心し、最初のショックから立ち直ると、ローマ周辺の風景や建造物をスケッチしたり、傑作とされる古代彫刻の手、足、目、耳、口を熱心に模写しています。
ローマでは、考古学や理論家、そしてギャヴァン・ハミルトン、アントン・ラファエル・メングスなどの画家が集まる進歩的なサークルに出会う。
ハミルトンとメングスはともに新古典主義の線上にある絵を描いていた。
なかでも特に強い影響を受けたのは、考古学のカトルメール・デ・カンシーでした。
ダヴィッドは1779年に、ナポリやヘルクラネウム、ポンペイの発掘現場を彼とともに訪れています。
1780年、ダヴィッドはイタリアを離れます。
イタリアから得たものは、絵画における崇高な観念や精神の高揚であり、その影響はたちまち作品にもはっきり現れました。
1781年、パリのサロンに出品した作品は熱烈に迎えられ、1783年には、すでに5人の弟子をとっていました。
そのうちの1人、グロにとってダヴィッドは良き師であるとともに、優しい父親的存在でもあった。
ダヴィッドがしだいに名声を高めたこの時期、家庭の安定を得ます。
1782年、ダヴィッドはシャルロット・ペクールと結婚し、莫大な持参金を得ました。
1784年に「ホラティウス兄弟の誓い」を出品するころには、ダヴィッドはフランスで最も進歩的で影響力のある画家になっていました。
新たに作品に取り入れられた、彫刻のようなスタイルと真剣な道徳性が特に賞賛され、とりわけ、フランス・ロココ美術の浅薄さと随落を非難してきた哲学者たちのあいだで高く評価されました。
この時期、宮廷と貴族階級はますます人気を失い、社会不安が増大しつつあった。
こうした状況を背景に、ダヴィッドが絵の主題とした義務や愛国心、そして、解放を求める勇気ある戦いなどは、政治的な色合いをもっていたと思われます。
事実、ダヴィッドは反対制主義者であり、アンシャン・レジームに反対していました。
だが、おそらくこの時期にはまだ政治活動はしていなかった。
「革命万歳!」
その後、1789年のフランス革命勃発で事態は劇的変貌を遂げます。
ダヴィッドは、「息子の遺骸を迎えるブルータス」の制作に取り組んでいました。
ブルータスは自国を救うやめ、陰謀を企てた息子たちに死刑を宣告したのです。
この作品がサロンに到着するまで、ダヴィッドの弟子たちは警護にあたらなくてはならなかった。
バスティーユ襲撃が始まり、この絵の主題である国家への犠牲と忠誠が、一夜にして特別な意味合いを帯びるようになったからです。
ダヴィッドは、すぐに革命の陶酔的な雰囲気にのみこまれ、フランス革命の大義に全身全霊を捧げるようになる。
それは若者の楽観主義からというより、感情に左右されやすい性格と、革命をはらんだ数年間に起きた狂騒状態のせいでした。
ダヴィッドは自分の作品を政治のプロパガンダのために使用し、政治活動家として大成しようとしました。
ロベスピエールや極左のジャコバン党を支持し、1792年には国民公会の議員に選ばれます。
各種の委員をつとめ、公安委員会では、反革命分子の動静を調査する任務についました。
1794年には、短期的ながら国民公会の議長にもなり、言語障害のハンデにもめげず、過度に激しい言辞を弄して長い演説をした。
ダヴィッドの革命絵画には、デッサンのまま未完に終わった「ジェ・ド・ポームの誓い」や革命の英雄をきわめて理想化して描いた一連の肖像画などがある。
これは国賊の凶刃に倒れた英雄の死を悼んだもので、「ルペルティエ・ド・サン・ファルゴーの死」や「マラーの死」といった作品が含まれていました。
感情的に訴えるこうした作品は、古代の英雄や思想家の英雄的な自殺を連想させる目的で描かれたものであり、ダヴィッドが当時の革命指導者たちに完全に心酔いしきっていたことを示している。
革命期の活動
ダヴィッドは政治と仕事に加えて、暇を見つけては革命の儀式や祭典を組織したり、また、家具から衣服にいたるさまざまなデザイン画を描いています。
さらには、アカデミーを偽善的なエリート集団と見なし、その解体に全力を注いだ。
1793年8月、ついにアカデミーの廃止に成功し、代わって「人民共和美術協会」を設立します。
そのわずか半年前には、国王処刑にも1票を投じていた。
ダヴィッドのこうした行動は、王党派だった妻とのあいだの溝を深め、1794年2月2人は離婚。
行く手には危険な時代が待ちかまえていました。
ロベスピエールが失脚する前夜、ダヴィッドは、いかにも彼らしい荒っぽい態度と言わざるをえないが、民衆の裏切りにあったこの革命指導者に、ともに毒薬をあおろうと提案したという。
1794年8月、ダヴィッドはロベスピエールを支持した罪で逮捕され、6ヶ月の刑を受け、最初はオテル・デ・フェルム、続いてリュクサンブール宮内に留置された。
ダヴィッドはこの投獄体験にショックを受け、当惑します。
それまでの彼はフランス革命の大義に尽力したいとのみ考えてきたからです。
ついにダヴィッドは国民公会の裁判にかけられたが、そこでロベスピエールを非難し、革命における自己の役割をできるだけ小さく言おうとした。
自分は人々にだまされたと主張し、今後は理想だけを信じると述べます。
皮肉なことに彼は、それからまもなくして、彗星のように出現して権力の座についた、意気揚々たるナポレオンという個人の抗しがたい魅力にあっけなく負けてしいます。
ダヴィッドの釈放を実際に願い出たのは、妻のシャルロットであり、1796年に、2人はあらためて結婚する。
ダヴィッドは目まくしい政治の世界から退き、代わりに「サビニの女」といった大作に取り組み始めます。
この作品において彼は、初期の感情的な芝居がかった傾向を減らし、いっそう純粋なギリシャ古典様式を完成させたいと願っていました。
しかし1799年、ナポレオンのクーデターによって総裁政府が倒れると、ダヴィッドは我が身に絶大な名声が戻ってきたことを実感します。
ナポレオンの戦勝を祝う一連の絵画の注文がつぎつぎに舞い込んだ。
ナポレオンは、ダヴィッドの作品が自分のイメージを高め、軍事行動や帝政を美化するために利用できると考えたのでした。
そこで彼は、アルプス越えをする騎馬像を依頼し、荒々しい馬の背に落ち着き払って乗る姿を描くよう注文をうつけました。
1804年にダヴィッドはナポレオンの「主席画家」に命じられる。
野心的な絵画
ダヴィッドは、ナポレオンのために一連の大作を計画したが、実際に完成したのは「ナポレオンの戴冠式」と「イーグル軍機の授与」のみでした。
それらの作品には何年のを要し、それまでずっと描いてきた私的歴史画や肖像画には手がまわらなくなった。
実際のところダヴィッドは、自分がナポレオンの主席画家の名にふさわしい栄誉と報酬を受け取ていると思ったことは一度もなかった。
ナポレオンはダヴィッドを賞賛していたが、実際に心ひかれていたのはダヴィッドの弟子グロのロマンティシズムであり、ナポレオンの軍事行動に同行したのもグロでした。
ダヴィッドは従軍を断り、イタリア美術の作品を略奪するナポレオンンやり方に反対でした。
ダヴィッドの弟子のなかではグロとデジロの人気が高まるとともに、ロマン主義運動も台頭し始め、それとともにダヴィッドのスタイルはいかいも時代遅れと思われるようになり、彼の芸術も衰退に向かった。
ダヴィッドがこれこそ本物のギリシャ絵画と考えた晩年の大作も、かつての賞賛者には退屈で独創性に欠ける作品としか映らなかった。
1815年にナポレオンが失脚すると、ダヴィッドは再び窮地に立たされます。
ダヴィッドは、ナポレオンが権力を失うようなことがあれば自分は国賊とされてもいいと明記した感願書に署名していたため、スイスに逃亡します。
1816年にブルボン王朝が復活すると、ダヴィッドはブリュッセルに亡命した。
ダヴィッドは弟子をフランスに残したが、亡命した時点で彼の流派も主義も消滅してしまいました。
常にダヴィッドに目をかけられていたグロは、師を失ったことに困惑し、自分の絵画はダヴィッドの理想を裏切っているのではないかと思い悩んだ。
ダヴィッドがブリュッセルからグロに宛てた手紙では、古代の歴史から主題を選ぶよう熱心にすすめ、「プルタルコスをひもとき、皆が知っている題材を選ぶように」と述べています。
だが、情勢が変化していました。
ロマン主義の新時代が始まり、ジェリコーやドラクロワなどの画家がサロンで幅をきかすようになっていた。
ダヴィッドは忘れ去られました。
晩年のダヴィッドの暮らしは穏やかなものだったが、傑作は生れなかった。
ダヴィッドは亡命を一種の屈辱と感じてはいたが、弟子たちが帰国の工作をしても、名誉にかけて応じませんでした。
プロイセンのフリードリヒ3世の庇護の申し出も辞退し、またヴェリントン公の肖像画を描くことも断っています。
道徳や社会問題のプロバガンダを目的としなくなったダヴィッドの作品は、ますます想像力の乏しいものになった。
1824年2月のある晩、ダヴィッドは、劇場からの帰途、馬車にはねられ、それ以後完全に回復することはなかった。
ダヴィッドは、肉体的に衰弱し、1825年12月29日に世を去ります。
ダヴィッドの愛する祖国フランスに亡骸を戻す訴えは却下され、ブリュッセルの聖グデュール教会に埋葬された。
英雄的理想主義
ダヴィッドは、古典主義の第一人者、フランス新古典派の創始者と考えられることが多い。
しかし実際には、ダヴィッドの絵画は、彼の性格と同じように、ロマンティックな面もあって複雑です。
ダヴィッドはもともと、感情と情熱にあふれた人間だったが、本人は理念の人になろうとし、絵画においてもイデオロギーを表現することを望んだ。
そのため、師のヴィアンや、ローマ滞在中に知り合った考古学者や論理家によって紹介された新古典主義という思想にも、すぐかぶれてしまいます。
18世紀のフランス・ロココ美術は、ドニ・ディドロのような哲学者たちにはすでに支持されなくなり、フランスの哲学者や新古典主義の理論家はこぞって、古代を1つの黄金時代としてとらえていました。
こうした考え方によって、ダヴィッドの想像力は燃え上がり、彼はイタリア滞在期に、偉大な思想を表現する手段として、独自の新古典主義的スタイルを打ちたてた。
ダヴィッドは、自己の芸術の基礎を古典彫刻の研究におき、古代彫像やレリーフの傑作の部分部分を、数えきれないほど模写しました。
そのほか、イタリアの遺跡やモニュメントのスケッチも行い、のちの絵画制作のための膨大な資料としたのです。
古典古代風の演出
ダヴィッドは、古臭いバロックやロココ的要素をしだいに排除するようになった。
あふれ出んばかりの大勢の人物、画面を支配する対角線の動き、すみずみまでの細密描写、劇的な光と明暗、着衣の豊かなひだといった要素がすっかり姿を消したのです。
ダヴィッドは、鮮明な線、なめらかな表面の仕上げを用いて、数人の人物をフリーズのように画面に水平に配して、大理石の浅浮き彫りのような絵画を完成させた。
人物描写はいっそう彫刻のようになり、柔らかなドラペリー(ひだ)に代わって、のみで彫ったようなドラペリーが描かれた。
重要でない細部描写は減り、人物を描き込む代わりに背景を無地のままで残すこともしばしばでした。
ダヴィッドは演劇を愛し、その生来の芝居好きのせいで、あたかも彼自身が舞台上の俳優を演出しているように場面をもりあげ、主題の真意を伝えるための人物に暗示的な身振りをとらせる作品を多数制作しています。
ひとたびこうしたスタイルが完成すると、生涯を通してほとんど変わることはありませんでした。
なめらかな表面の仕上げと入念な絵画構成の奥に秘められた力強さは、主題に対する入念な絵画構成の奥に秘められた力強さは、主題に対する感情移入から生じたものです。
ひじょうに情熱的な性格のダヴィッドは、画家は個性を作品に表現してはならないとする、考古学者ヴィンケルマンの理論にとらわてはいられなかった。
スパルタ人の勇気、義務への献身、愛国心、自由、英雄的自己犠牲、高潔な人格といった美徳をもった古代ギリシャ・ローマの精神を呼び覚まそうとする考えが、1780年代のダヴィッドを刺激して道徳的な作品を描かせたのです。
革命のような激しさ
ダヴィッドは、こうした一般的な道徳の主題に興奮を感じていたのだから、フランス革命の勃発を、ほとんど狂喜してうけとめた。
ダヴィッドの夢が現実となったのです。
政治への関心が高まった社会風潮のなかでは、共和政ローマを再建し、誰もが高潔な行為にあこがれる好機が到来しました。
国民公会の同誌と同じように、ダヴィッドは、人々が彼の作品中の人物のような行動をとることを期待していたのです。
ダヴィッドはすぐに革命指導者たちの英雄的魅力のとりこになります。
たとえば「マラーの死」は、ダヴィッドが感情にかられて描いたため、きわめて感動的な作品となっています。
無邪気で誤った観念にもとづいたものかもしれないが、革命を描いたダヴィッドの作品は、確固たる信念に満ちている。
驚くほど美しく描写されたマラーには、キリストのような荘厳さがあり、その傷ついた胸は、キリストの十字架図を思い起こさせます。
ダヴィッドは、美徳を写し出す鏡として、故意に肉体を美しく描きました。
同じような意味でナポレオンも、最初はダヴィッドのインスピレーションをかきたてる存在でした。
ナポレオンの強さと個性に圧倒されたダヴィッドは、ナポレオン・ボナパルトは自分の「英雄」であるとまで公言した。
ダヴィッドが、自分の感情ではなく個性で絵を描き、作品と自分のあいだに距離を置き始めると、信念は消えてしまう。
こうした事態は、ダヴィッドが投獄という苦い経験を味わい、革命が崩壊し、それとともに彼の理想が打ち砕かれたのち起きてくることになる。
晩年、ダヴィッドは工房に引きこもり、「ギリシャ人の定めた原則に芸術を引き戻そう」としました。
それは、人物の筋肉を目立たせず、激情を抑制し、芝居がかった不自然さを和らげ、自分の個性を消し去ることでした。
こうした傾向は、晩年、ブリュッセル亡命中に描かれた「マルスとヴィーナス」に最も現れています。
しかし、肖像画を描き、常に目の前のモデルを洞察力と思いやりをもってとらえました。
こうした肖像画の何枚かは、今日、ダヴィッドの最高傑作とされています。
おそらく最も良く知られているのが「レカミエ夫人」で、ダヴィッド自身は、肖像画は単なる金稼ぎの副業としか考えていなかった。
名画「マラーの死」
1793年7月13日の夕刻、人民の友マラーは浴槽につかっているところを王党派のシャルロット・コルデーに刺殺されます。
3日後、国民公会の一議員がダヴィッドに事件をカンバスに描き残すよう依頼する。
ダヴィッドはこの注文に即座に応じました。
病にかかったこのジャーナリストの姿はダヴィッドの記億に新しかった。
ダヴィッドは、事件の前日、マラーを訪ね、浴槽で仕事をする彼の姿を目にしていたのです。
マラーが机代わりに使っていた荷造り用の箱の上には書き物の道具が並んでいました。
そのときの観察をもとにしてダヴィッドは絵の制作にあたったが、新しい革命の殉教者的な像をつくり上げるため、現実に対して修正を加えています。
マラーの醜い容貌は無視し、瀕死の男に優雅な英雄のようなポーズをとらせた。
背景は、上品に装飾されていたマラーの浴室とは似ても似つかない、がらんとしたものに仕上がっています。
荷造り用の箱の上に、「マラーに、ダヴィッド」という簡潔で心を打つメッセージが読み取れる。
まとめ
ジャック・ルイ・ダヴィッドはその才能を、政治の中で利用されましたが、彼の力強い作品は、他の画家たちを圧倒する迫力があります。
古典主義を復活させ、後の多くの画家に影響を与えたばかりか、現代ではその造形の素晴らしさと、技法、そしてデッサン力のレベルの高さなどは、現代ヨーロッパばかりか、世界の油彩画のお手本とされています。
彫刻のようにはっきりとした写実画は、当時の人々の憧れの的でした。
アカデミーでも、ダヴィッドのデッサンや油彩スケッチなど、学生たちの目指す絵画となっていました。
グロやアングルという優秀な弟子を育成したダヴィットは、現在フランス画壇の歴史に欠かせない大巨匠と再評価されています。
・「モナ・リザ」と「レオナルド・ダ・ヴィンチ」の衝撃の真実!!