「ゴヤ」マドリードの聾者

フランシスコ・デ・ゴヤは18世紀スペインが生んだ最大の画家です。

寒村に生まれ、18歳のときにマドリードに出てフランシスコ・バイユーのアトリエで働き、後に彼の妹と結婚しました。

マドリードはスペインの文化の中心でしたが、ゴヤが名を成したのは遅く、43歳にして初めて宮廷画家になります。

そのときから画家としての将来が保証され、より高い地位へと足早にのぼっていきました。

ゴヤは初めタピスリーの下絵を描いて名声を得たが、後には肖像画で成功します。

彼の本当の傑作が生み出されるのは、重い病気にかかって完全に耳が聞こえなくなってからでした。

風変わりで現実離れした「想像上の産物」である絵画やエッチングのあとには、上流社交界への風刺と、

戦争の惨禍をぞっとするような光景で示した作品が続く。

晩年の「黒い絵」はさらに劇的で、重苦しく、ひじょうに衝撃的なことで有名です。

 

ゴヤの幼少期

フランシスコ・デ・ゴヤ・イ・ルシエンテスは1746年3月30日、

スペイン北東部の寒村フエンデトードスで錬金術師の息子として生まれました。

14歳のときに一家は故郷アラゴン地方の県都であるサラゴーサに移り、

フランシスコは当時サラゴーサを代表する画家であったホセ・ルサンに弟子入りした。

サラゴーサでゴヤはもう1人の画家フランシスコ・バイユーを知る。

バイユーは彼より12歳年長で、早くから画家として成功をおさめ、1763年はマドリードで宮廷画家の地位を得ます。

ゴヤはバイユーのあとを追ってマドリードに移り、彼の工房で働くことになりました。

 

芸術の都マドリード

この時代、スペインの地方の画家が単にその地域にとどまらない広い評価を得るには、

事実上、マドリードで身を立てる以外になかった。

スペイン専制王室の豊かな富と、財産を惜しまない芸術擁護の姿勢は、他のヨーロッパの巨匠たちの心を引きつけました。

1760年代と1770年代には2人の大画家、ヴェネツィアのジョバンニ・パッティスタ・ティエポロとドイツの

アントン・ラファエル・メングスが宮廷に招かれ、両者ともが画家としてのゴヤの成長に大きな影響を及ぼします。

1763年と1766年にゴヤは、創設されて間もないサン・フェルナルド王室美術アカデミーに応募したものの、

願いはかなえられませんでした。

そこで、野心に燃えた若い画家の例にもれず、おそらく1770年に彼もイタリアへと赴いた。

その地で、パルマ美術アカデミー主催の絵画コンクールの佳作賞を得、ささやかながら初めての成功を勝ち取ります。

1771年にスペインに帰国し、2年後にバイユーの妹ホセファと結婚した。

翌年、初めメングス、次にバイユーの監督のもとに、マドリードのサンタ・バルバラ王室工場で

織るタピスリーの下絵を描くように命じられます。

彼1792年までときどきこの仕事に従事している。

画家ゴヤの初期の歩みは遅く、目立たないものでした。

きちんとした公的な評価が初めて与えられたのは1780年代で、そのとき彼はすでに30代半ばになっていました。

1780年にサン・フェルナンド王立アカデミー会員に選ばれ、5年後には同アカデミーの絵画部長代理となり、

1789年にカルロス4世が即位すると、宮廷画家の列に加わるというかねてからの野望が達成され、貴族の称号も手に入れました。

 

襲いかかる静寂

1790年代に入ると、タピスリーの下絵描きをやめ、今日良く知られる類の作品、

つまり肖像画や思想的構図の作品に打ち込み始める。

ところが1792年の暮れ近く、彼は人生における衝撃的な変化が起こります。

原因不明の大病にかかったのです。

梅毒だとか、シルバーホワイト(鉛白)を使うための鉛中毒、あるいはきわめてひどい神経衰弱だとか、

いろいろな解釈があるが、どれも定かではない。

いずれにしても、これがもとで一時的な麻痺や失明に近い状態に陥り、病気が治った後、

彼の耳は完全に聞こえなくなっていました。

のちにそれをアカデミーに提出する際にゴヤ自身が語っているように、

彼は「病気のことばかり考えて、力をなくした想像力を活動させるために」この連作を描いたのでした。

ますます内向的になり病的なほど想像力がふくらんだゴヤの画風は、当時の画家たちにあまり評判がよくなかったが、

マドリードの美術界で日増しに高まる彼の名声を誰も押しとどめることはできませんでした。

1795年、バイユーの死にともなってアカデミーの絵画部長に昇進し、

1798年にはマドリードのサン・アントニオ・デ・ラ・フロリーダ聖堂の壁画を描く栄誉ある注文を受けています。

次の年、彼は首席宮廷画家に任命され、このころには、友人やパトロンのなかに、

マドリードの主要な知識人や遺族の姿が数多く見られるようになった。

 

裸のマハ

ゴヤはアルバ公爵夫人と特に親密な交際があり、

彼女は美しく知的で、権勢をも有した女性でした。

2人の関係は多くのゴシップ種になり、公爵夫人が夫の死後に移り住んだアンダルシアの別荘で、

ゴヤが1796年の夏を過ごしてからはなおさらでした。

美術史上最も有名な伝記の1つに、ゴヤの有名な対画「裸のマハ」と

「着衣のマハ」のモデルは彼女だったという話がある。

ゴヤという人物像の私的な側面を知る資料がかなり乏しいために、こうした当て推量がしばしば肉付けに使われてきたのです。

大変な女狂い、躁鬱病患者、革命家、あるいはまた、世の中を疑いと悲しみの目で見つめ、

最後には超俗の境地にいたったハムレット的人物といったふうに、その人となりがこれまでさまざまに取り沙汰されてきたのです。

しかし、どれも証拠不足です。

ゴヤの暮らしぶりでわかっている事実は、社会的地位に強い関心をもっていたこと、金銭に抜け目がなかったこと、

鳩撃ちが好きだったこと、そして政治であれなんであれ、理想主義が生活の実際的な面に入り込むのを喜ばなかったことぐらいです。

ゴヤの前半生はスペインが政治的に安定した時期と重なっていました。

しかし、カルロス4世の治下(1788~1808年)、社会不安が高まり、

フランス革命の影響が国際的に広まるにつれて、それはさらに悪化します。

カルロス4世は気弱で怠惰な君主であり、勝気な妃のマリア・ルイ―ザに振り回されていたが、

彼女のほうは成り上がりの寵臣マヌエル・デ・ドゴイの言いなりでした。

王妃の言にもある「聖三者」の統治は、民衆の反乱が起こり起こり、ゴドイは失脚、

カルロス4世は退いて息子のフェルナンド7世に位を譲った。

フェルナンド7世はフランスと同盟を結んで、ナポレオンの軍隊をスペインに迎え入れたものの、

すぐさま王位をナポレオンの兄ジョセフ(ホセ1世)に渡すはめになる。

フランスによる占領はマドリードにただならぬ暴動を引き起こし、それは血なまぐさい独立戦争へと広まったのです。

ゴヤ自身の立場は明確ではないが、戦いの残忍さに驚愕し、エッチングの連作「戦争と惨禍」で両軍による残虐行為を写し出した。

 

敵から与えられた栄誉

政治的見解がどうであれ、ゴヤも生計を立てなければならなかった。

だから特に王に忠誠を誓い、1811年にはジョセフから王室勲章も受けました。

このために、ヴェリントン公爵(ゴヤは彼の肖像も喜んで描いている)指揮下のイギリス軍の介入により、1814年にフェルナンド7世が王座に返り咲くと、ゴヤはトラブルに巻きこまれた。

自由主義者の友人の何人かが罰せられたが、彼自身はフランス人の王からもらった勲章は身につけたことがないと主張して、なんとか罪をまぬがれます。

さらには、独立戦争の引き金となったマドリードを描いた有名な2作品、

「マドリード、1808年5月3日」をフェルナンド7世に捧げてもいる。

ゴヤの晩年の絵の暗さは、フェルナンド7世復位後のスペインの柳圧的な雰囲気を反映している。

大学と劇場は閉鎖、出版物の検問制度が導入され、残酷な宗教裁判所である異端審問所が再開されました。

ゴヤも「侵略者から職を得た」嫌疑は逃れたものの、すぐさま異端審問所に呼び出され、みだらであると告発された「裸のマハ」とその対の絵をなぜ、誰のために描いたのかについて申し開きを強要された。

ゴヤはほかの問題も降りかかっていました。

妻が1812年に他界しており、当時は妻のレオカーディア・ウェイスとの情事が進行中で、彼は悪意に満ちたゴシップのただなかに立たされたのです。

 

公的生活からの引退

フェルナンド7世はゴヤの絵にほとんど関心を示さなかったにもかかわらず、彼を首席宮廷画家の地位にとどめておいた。

ゴヤがついにその地位を退くと、フェルナンド7世は彼に十分な年金を与えたため、老画家は死ぬまで安楽に暮らすことができた。

1815年以降、ゴヤは実質的に公の場を退き、もっぱら自分自身と、ごく親しい友人たちの絵を描いきました。

1819年に彼は再度、重病に襲われたが、マドリードの高名な医者エウヘ二オ・ガルシア・アリエータの

おかげで一命をとりとめます。

これに感謝してゴヤは、ベッドで半死の状態にある自分と、それに感謝してゴヤは、ベットで半死の状態にある自分と、

それを支えて薬を差し出すアリエータを描いた、珍しい二重肖像画を制作した。

背景には暗く不吉な人物群が見える。

マドリード郊外の田舎に新しく購入した別荘「キンタ・デル・ソルド」壁に

1820年から1823年にかけて描かれた「黒い絵」にも、同じく死と老いの反映が見てとれる。

 

ボルドーでの晩年

ゴヤの全画業のなかでも最も恐ろし気であるが技術的にはすべらしいこの連作に彼が取り組んでいた3年間、

スペイン社会はフェルナルド7世の圧制からのつかの間の解放を楽しんでいました。

しかし、1823年の暮れには再び反動が起こり、ゴヤのリベラルな友人の多くがフランスへと亡命した。

何人かはボルドーに逃れ、そのなかには、おそらくゴヤとのあいだにできたと思われる2人の子を連れたレオカーディア・ウェイスの姿もあった。

療養のため、プロンピエールの鉱泉が必要だとの口実で王から臨時の暇をもらったゴヤもまもなくそこに合流した。

そこで友人たちが目にしたのは「耳が聞こえず、年老いて、動作ものろく弱々しい」ゴヤの姿でした。

だが、彼の生きる事への情熱は相変わらず強く、制作力も衰えなかったといいます。

観光旅行の足をパリに伸ばすほど元気で、「ボルドーの闘牛」連作では新しくリトグラフの技法を試みてもいる。

亡命仲間を驚かせたことに、ゴヤは2度にわたってスペインに一時帰国し、

最初の帰国時(1826年)に宮廷画家の辞職を申し出ます。

1828年の春、息子の嫁が孫を連れてボルドーの彼のもとを訪れました。

彼らの訪問に興奮したゴヤは、自ら語ったように「少し加減が悪くなった」。

そして4月16日、中風の発作で世を去った。

享年82歳で遺骨は1900年にスペインに運ばれ、いったんマドリードのサン・アントニオ・デ・ラ・フロリーダ聖堂に移された。

 

 

人間の暗い面

ゴヤは当時のヨーロッパにおける最大の画家であると、ほぼ世界的に認められている。

彼の作品の独創性、感情の豊かさ、大胆な技法は他の画家に抜きんでていました。

実際、想像力と表現力の偉大さにおいて、彼に匹敵する者は同時代に求めようとすれば、ベートーベンがあげられるくらいです。

ゴヤは画家あるいはグラフィック・アーティストとして、おびただしい作品を生んだが、

その画家としての歩みは遅く、とりわけ独創的で注目すべき作品が出てくるのは30歳を過ぎてからでした。

初期のころはおもに、マドリードのサンタ・バルバラ王立工場で織られたタピスリーの下絵を

繰り返しデザインする仕事に従事していた。

 

深い傷を残した病気

ゴヤはタピスリーの下絵を描いたのは1792年までだが、

このときまでに彼の傾向は大きく変わっていました。

1780年代に宗教画家としてかなりの評判をとり、1789年には宮廷画家に任命されて、

肖像画制作がおもな仕事となっていきます。

だが、画風に決定的な変化をもたらしたのは、この体験によってゴヤの人間の生命の苦痛と苦悩への認識を深め、

作品のテーマはいよいよ暗く不吉なものへと変わっていく。。

 

伝統と自然に学ぶ

名声をはせた2つの分野(肖像画と創造的主題の作品)において、

ゴヤは過去の巨匠たちにつながる面と驚くべき独創性の両面を示した。

彼は、師と仰ぐのは「ベラスケスレンブラント、そして自然」だけだと、自ら語ったと伝えられる。

この2人(それぞれ17世紀のスペインとオランダを代表する芸術家)は過去最大の肖像画家に数えられ、

ゴヤは彼らの洞察力に富んだ人物描写に学んだ。

絵具を巧みに使うことでも、ゴヤは彼らと共通していた。

細部まで細かく描き、滑らかに仕上げるのを好んだ当時のたいていの画家と、ゴヤはこの点で違っていました。

「自然のどこに線が見えるのだろう?」と彼は問うた。

「私には線や細部は見えない。私は通行人の髪の毛の1本1本、コートのボタンの数を数えたりしない。私は見えないものが、私の筆に見えるはずはない。」

想像的な場面を描くにあたっても、ゴヤは豊かな伝統に学んでいる。

スペインは熱烈なカトリック崇拝国であって、美術の世界でも聖者の苦悶する姿や恍惚の表情が数世紀にわたってもてはやされてきました。

ときには、殉教の苦痛を強調した不気味なものもある。

ゴヤが生まれる2世紀前、スペイン国王だったフェリペ二世はフランドルの画家ヒエロニムス・ボスの怪奇な絵を熱心に収集した。

ゴヤは王室コレクションでそれを見て、精神的に深い影響を受けたと思われる。

 

黒い絵

人間の暗い側面に対するゴヤの視点が初めて示されたのが、

エッチングの連作「ロス・カプリ―チョ(気まぐれ)」であり、

当時の暮らしへの風刺が怪奇な幻想と結びついて表現されている。

このテーマが最後にゆきついたころから、いわゆる「黒い絵」が生まれた。

1819年の死にいたると思われた病気から回復してすぐ、彼が自分の家の壁に描いた絵がそれです。

恐ろしい表情を描写したこれらの絵は、色彩はないのに等しいが、ゴヤは凶暴とも言えるほどの大胆さで絵の具を駆使したのでした。

ゴヤの巧みなテクニックと工夫のほどは、絵画だけでなくグラフィックな作品にもよく現れています。

彼はほかのメディウムに混じって鉛筆、インキ、淡彩でも描いたが、版画家としてはアクアティント、エッチング、リトグラフに優れていました。

アクアティントとエッチングは描いた図柄を金属の版面に「刻む」ために腐食液を使う。

リトグラフは石版の上にワックス・チョークで図柄を描き、油性のインキを塗って印刷する(チョークでなぞった部分にしかインキがつかない)。リトグラフが考案されたのは1798年で、ゴヤはこの技法を最初に用いた大画家でした。

 

 

版画の連作

「ロス・カプリ―チョス」のほかに、ゴヤは3つの優れた版画連作をものにした。

1808年のフランス軍侵入後に起こった恐ろしい出来事を記録した「戦争の惨禍」、闘牛のシリーズ「タウロマキア(闘牛技)」、さまざまな面での人間の愚行を描いた謎めいた連作「プロベルビオス(ことわざ)」である。

なかでも「戦争の惨禍」が衝撃的であり、ゴヤの描く戦争にはヒーローは登場せず、栄光もない。

死、負傷、苦痛、退廃だけがある。

写真やフィルムでこうした残忍な光景を目にすることに慣れた今日にあっても、これらの版画はインパクトを失っていない。

それは、善と悪、生と死、光と闇という相反する力の、時間を超えた表現である。

 

名画の構成「マドリード、1808年5月3日」

1814年、ゴヤは2点のみごとな大作を描いた。

フランスの占領軍に対して起きた、1808年のマドリード市民の蜂起を記念するためでした。

1作目は5月2日の街路での衝突を描き、第2作は翌日フランス軍が行った報復を画題としている。

何十人もの反逆者が、反乱に加わった証拠もないまま逮捕されていた他の多くの囚人とともに処刑された。

フェルナンド7世がスペイン王座に返り咲いたとき、ゴヤは「暴君に対するわれらが栄光ある反乱の、最も記念すべき英雄的な行動場面を絵筆によって永遠に残したい」とこの絵の制作を申し出たのだった。

 

まとめ

ゴヤはスペイン3大巨匠の一人です。

ゴヤの作品は、エル・グレコとベラスケスの流れを受けているばかりか、

彼らの時代以上に絵画で真実を伝えようとしています。

宮廷画家としての地位を築いたゴヤでしたが、戦乱による民衆の苦痛を描き、

当時の魔女の話を題材に魔術的なことなどを絵にした画家でもありました。

ゴヤは耳が聞こえないこともあり、そのぶん人より真実に忠実であったので

自分の想像の世界に没頭できたのでしょう。

黒い絵の連作は美術界に大きな衝撃を与えるばかりか、後のスペイン絵画にも影響を与えている。

彼はベラスケスとレンブラントの画法を取り入れ、ボッスやブリューゲルにも多くを学んでします。

後のピカソやダリはゴヤを尊敬しており、その影響が大きく作品に表れていることを見ることができる。

新古典主義やロマン派の時代でありながら、スペイン独自の光と闇を描いた当時としては稀な才能を持つ画家でした。

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taesun

画家活動をしています。西洋絵画を専門としていますが、東洋美術や歴史、文化が大好きです。 現在は、独学で絵を学ぶ人と、絵画コレクター、絵画と芸術を愛する人のためのブログを書いています。 頑張ってブログ更新していますので、「友達はスフィンクス」をよろしくお願いします。