「ティエポロ」 偉大な伝統に育まれた画家

ティエポロはイタリア・ロココ様式を代表する画家でした。

17世紀末にヴェネツィアに生まれ、短期間ながら地元の無名画家に学び、20歳のときに1点の油彩画が公の場に展示されて、一本立ちの画家として認められます。

そのあとすぐフレスコ画に転じ、この分野で存分に力量を発揮して、一連のみごとな壁画と天井画を生み出ししていく。。。

ティエポロの装飾的なフレスコ画には、かつてない幻想性が付与され、まばゆいばかりの光の効果を見ることができた。

まもなく彼は国際的な名声を勝ち取り、画歴の絶頂期にドイツに招かれてヴュルツブルク公兼司教の館を装飾している。

最後に手がけた大プロジェクトはマドリードのスペイン王宮の装飾であり、その地で1770年に世を去った。

 

ティエポロの幼少期

ジョヴァンニ・パッティスタ・ティエポロは1696年、ヴェネツィアの東部に生まれました。

父親は船持ちの貿易商でしたが、ジョヴァンニ・パッティスタがわずか1歳のときに亡くなっている。

だが残された母親と5人の子供が暮らしに困ることはなかったといいます。

ティエポロが育った町はすでにヨーロッパ中の旅行者を引きつける都市の一つになっており、観光と賭博と夜の歓楽の中心地でしたが、政治と文化の面ではもっぱら過去の栄光によっていた。

ヴェネチア共和国はいまや、腐敗する一方の貴族段級に完全に支配されており、貴族たちは変化と外来の思想をかたくなに拒み続けていたのです。

18世紀ヴェネチアにおける芸術家の暮らしはことのほか苦しく、生存競争は熾烈をきわめた。

かつての無数のルネサンス美術の傑作を生むことになった国家も、もはや芸術家を庇護する財政力を事実上なくしており、ティエポロのような大画家にさえ、たった1つの小規模な制作依頼しかできないありさまになっていたのです。

市にやってくるおびただしい観光客は、おもに町の様子を描いた土産物的な絵にしか関心を示さず、一方、貴族段級は当時の画家よりも昔の巨匠たちの作品を収集することにはるかに熱心だった。

これまで通り芸術家保護の役割を担っていたのは教会だけにすぎない。

ところで、芸術家がなんらかの方法と場所で支給者を見いだしたとしても、成功の維持はかなりのスピードで制作できるかに大きくかかっていました。

絵画に一身を捧げたジョヴァンニ・パティスタ・ピアッツェッタは極度の貧困のうちに死んだが、それは当時の人の言によると「彼はカタツムリのように仕事をした」からでした。

だが幸いにして、ティエポロは最初から例外的な器用さを示すことになる。

他のイタリア大都市のほとんどの画家と違って、彼は当時にあってなお、工房の徒弟となって中世的な修業を積まねばならなかった。

保守的なヴェネツィアでは絵画彫刻アカデミーの設立がきわめて遅く、1750年のことだったからです。

弟子入りしたのはグレゴリオ・ラッツァリアーニという画家のもとであったが、ティエポロの初期の伝記作者ヴィンチェンツォ・ダ・カルナによると、まもなく彼は師の「入念堅実な手法を離れた。そして血気盛んに、もっと手早く自由な手法をとるよになった。

 

早くからの成功

20歳のとき、ティエポロは絵画コンクールに当選し、その絵「紅海の渡渉」(現存しな)がサン・ロッコ聖堂の外の野外ギャラリーに展示されて名をあげて、あくる1717年にはヴェネツィア絵画組合のメンバーに登録されました。

1719年までにはかなり安定した地位を得ていたらしく、風景画家フランチェスコ・グァルディの妹チェチリア・グァルディと結婚しました。

夫婦は9人の子をもうけ、そのうち2人がティエポロの助手を務めることになるドメニコ(1727年生まれ)とロレンツォ(1736年生まれ)です。

1720年代に、当時のヴェネツィアでもっとも進取の気象に富んだパトロンだった貴族のドルフィン家に庇護され、ティエポロの将来が保証される。

彼らの求めで、ティエポロはヴェネツィアの館の巨大な部屋を、ローマ史を主題とする大規模な油彩連作で飾った。

そのあとすぐ、同じ一族のウディネ大司教が自邸の回廊のためにフレスコ画を依頼しました。

これはティエポロが手がけた最初のフレスコ画大作でした。

フレスコ画は過去1世紀のあいだ顧みられず、そのころヴィネト地方(ヴェネツィアの周辺地域)でようやく復活していた。

ティエポロが名声を得たのは本質的にはフレスコ画家としてでした。

それは彼がこの技術で前例のない名人芸を発揮したからです。

17世紀と18世紀の大規模なフレスコ装飾は人物画家1人の手になるものではなく、建築家、ストゥッコ師、装飾師、箔置き師、クアドラトゥーラ(建築画家)を含めたチーム全体の所産でした。

クアドラトゥーラはなかにフレスコ画をおさめる建築枠を入念に描く仕事を受け持った。

彼は間違いなく、人物画家に次ぐ重要なメンバーであり、人物画家との関係は演劇における演出家と脚本家のそれに近かった。

したがって、装飾計画が成功するか否かは2人の専門家の協調関係に大きく依存しており、ひとたびパートナーシップができると、どちらか一方が死ぬまでそれが続く傾向にあった。ウディネの仕事はティエポロにとって、建築画家メンゴッツィ・コロンナとの2度目の共同制作であり、のちにコロンナの名はティエポロと分かちがたく結びついて、彼らが制作したフレスコ画で常に賞賛された。

 

ヴェネツィア外からの制作依頼

ヴェネツィア内の注文に事欠いたため、たいていの画家は市外に仕事を求めねばばらず、税が課せられるようになるとその度合いが増した。

ティエポロはウディネ滞在で初めてヴェネツィアを離れたわけだが、1730年代以降、名声が高まったこととコンスタントに注文をこなす必要から、ますます故郷外での仕事が多くなった。

30年代の傑作のいくつかはロンバルディア地方の都市ミラノとペルガモで描かれ、1736年には遠くストックホルム王宮の装飾に招かれさえします。

彼の名声を雄弁に物語る話だが、十分な額の提示がなかったために、この重要な依頼を断っています。

1740年代に入ると、ティエポロは画家として完全に円熟期に達し、「イサクの犠牲」など初期作品の多くに顕著だったマニエリズムを払拭した。

当時の人たちは、16世紀のヴェネツィアを代表した画家になぞらえて彼を「第2のヴェロネーゼ」と呼び始めました。

ヴェロネーゼの色鮮やかな作品がそのころひじょうにもてはやされていて、少し前の画家セバスティア―ノ・リッチなどは「リッチ風はもういいから、ヴェロネーゼ風だけで」描くように要求されたほどでした。

18世紀のヴェネツィアではヴェロネーゼ熱に付随して、彼と同時代の市の大建築家アンドレア・バラ―ディオも見直された。

おもしろいことに、ヴェロネーゼに影響されたティエポロの中期のフレスコの傑作のうち少なくとも2点ヴェネツィアのジェズアーティ聖堂とモンテッキオ・マッジョーレのヴィラ・コンデリーナのものは、新パラーディオ主義の建築家ジョルジョ・マッサーリが設計した建物に描かれている。

ティエポロの目をヴェネツィア・ルネサンスの文化に向けさせるのにおおいに功あった人物の1人が、学者で美術愛好家のフランテェスコ・アルガロッティはティエポロの作品に深い感銘を受け、以後、画家のきわめて雄弁なスポークスマンとなった。

そして型どおりの賞賛を越えた言葉でその業績を評価した唯一の批評家となった。

間違いなく彼のおかげで、ティエポロは将来自分の最も人気がある主題となる「クレオパトラの宴」を見いだした。

この宴の物語は、エジプト女王がワイングラスのなかでひと粒の真珠を溶かし、彼女の驚くべき富を見つけてマルクス・アントニウスを感動させるというものであり、ティエポロにヴェロネーゼ流の豪華な宴会場面を描く格好の口実をもたらした。

また同時に、これは裕福なパトロンたちを喜ばせる主題でもあった。

ティエポロは1740年代にさまざまなバリエーションを制作したが、なかでも最も大きく有名なのが、ヴェネチアのパラッツォ・ラビア「宴会の間」のフレスコ画です。

ラビア家は貴族に成り上がったばかりの商人の一族で、明らかに自ら富をできるだけ誇示したがっていました。

ティエポロがこの絵を描く少し前、彼らは宴会を催し、クレオパトラの突飛なふるまいをまねて、高価な銀食器を大運河に投げ捨てた。(実は水面下に漁網が張ってあって、ひそかに回収された)。

ティエポロ自身もこのころには大変豊かになっていました。

彼の姉は1752年に死んだとき、ティエポロが「すでに有り余るほどお金をもっている」という理由で彼に遺産を残さなかった。

当時、ティエポロは息子たちを助手に使い、それまでにない名誉ある依頼を手がけていた。

ヴュルツブルク公兼司教グライフェンクラウの宮殿の装飾です。

これはドイツ・ロココの著名な建築家バルタザール・ノイマンが設計した世俗建築の傑作であり、ティエポロがイタリアでは目にできなかったほど大きく豪奢な館でした。

そもそも彼がそこに招かれたのは、白と赤と金色でまばゆく輝くストゥッコ装飾の天井をもつ「玉座の間」に、その調和する壁画を描くためでした。

しかし、すぐに高い名声を得たため、階段室の大ヴォールトも装飾するよう求められます。

ティエポロのほかの多くの作と同様、このフレスコ画も活力と雄弁さで主題のバカらしさを超越した出来栄えでした。

ヴュルツブルクの平凡な歴史と、グラフィックラウ自身が四大陸の賞賛者たちに囲まれて天国に昇る場面が描かれている。

1753年にイタリアに帰国すると、ヴェネト地方のヴィラのために数多くの壁画を描いた。

そこでは以前にも仕事をしたことがあった。

ヴェネツィア市内の邸宅の多くがもっぱら人を圧倒すべく設計されたのに対し、17世紀と18世紀にヴェネト地方におびただしく建てられたヴィラは、簡素な避暑用の別荘か、農業を営むための施設として利用されました。

1757年、ティエポロ自身がヴェネツィア近くのツィアニーゴ村のはずれにこうしたヴィラを入手し、のちに息子のドメニコが愉快な神話と幻想的情景の連作でそこを飾った。

1757年から58年にかけて、ティエポロ父子とメンゴッツィ・コロンナはヴィチェンツァ近郊のヴィラ・ヴィルマラーナのためにフレスコ連作を描いた。

のちに、ドイツの詩人ゲーテがそれらをティエポロの最高傑作と評している。

ティエポロのいくつかの装飾に比べ、やや小ぶりで親しみやすく、主題の面でももったいぶったところがなかったからです。

だが、次に手がけた最後のヴィラのフレスコでは、ゲーテが「ヒロイックな作風」といったものに戻る。

ストラにあるけばけばしいヴィラ・ピサー二のために制作した「ピサーニー族の栄光」がそれです。

ヴィラ・ピサーニのフレスコ画に携わっているあいだに、ティエポロはスペインのカルロス3世によって完成されたばかりのマドリード王宮の仕事のために招かれる。

ティエポロは老齢で、たぶん妻と家族から離れるのが嫌だったでしょう。

だが結局のところ、息子ドメニコとロレンツォをともなって1762年の春に出立した。

自分の壁画をこの上ない栄光で閉じることを約束する申し出を断れないと考えたのかもしれない。

 

リードのマドリードの晩年

しかし、事態は予期しないものでした。

ティエポロはそこで描いた巨大な天井画「スペイン王家の栄光」にさえ、王宮の広大さのなかに没してしまうような奇異な感じを抱いたに違いない。

また生まれて初めて、ほかの画家から激しい敵愾心を向けられた。

宮廷画家のアントン・ラファエル・メングスで、ティエポロの一生で唯一残っている逸話によると、ある日メングスがライバルを襲おうと待ち構えている木から落ちた。

生来人のいいティエポロは、その場にとどまって相手がけがをしたかどうか確かめ、病院に連れて行ったという。

このようなあったにもかかわらず、彼は王宮のフレスコ画を完成させたあともマドリードにとどまりたいと願い出ます。

その理由は謎のままですが、王は願いを聞き入れ、アラフェンス聖堂の王室礼拝堂のために祭壇画連作を依頼しました。

しかしながら、これら板絵は王の聴罪司祭の気にそまず、すぐに取り除かれてティエポロの面目をつぶした。

彼はイタリアに戻らず、1770年3月27日に突然にして世を去り、マドリードのサン・マルティン聖堂に埋葬されました。

 

自在な筆とエネルギー

18世紀の傑出した装飾家ティエポロは、今日しばしばその作品がまったく「装飾的」だとしてかたずけられる画家です。

そして装飾的という言葉は、内容のないうわべだけの魅力を意味するようになっている。

最近のティエポロ評の多くは、19世紀の批評家ジョン・ラスキンに根があると言うべきで、彼はティエポロ芸術を、画家が生きていたヴェネツィアのデカダンス、つまり「道徳的退廃」の反映と見ていた。

ティエポロは天の画家であり、パステルのような色調で表す画家と見られがちだが、画歴の出発点ではまったく異なっていました。

彼が若いころのヴェネツィアで人気があった絵はどれも、色彩が暗くフォルムがねじれて激しい感情を表しており、同地の16世紀の画家ティントレットの影響が濃いものでした。

ティエポロの初期の注文制作パラッツォ・ドルフィンのために描いたローマ史の油彩画連作は、この伝統をそのまま追っており、「プルートゥスの死」などはむごたらしさを如実に示している。

しかし1720年代の末までに、フレスコ画への人気がすでに油彩画を上まわるようになっており、より軽快で鮮やかな色調が求められるようになります。

ティントレットの芸術がしだいにすたれていく一方で、彼と同時代人だったヴェロネーゼの荒々しいさのない官能的で装飾的な絵が人気を博し始めた。

これは彼の生存中に決してなかったことでした。

ティエポロの色彩家としての技量と、光の効果を大きく生かす能力が初めて発揮されたのは、ウディネの大司教館のために聖書をテーマに描いた「ソロモンの裁判」でした。

しかしながら、初期の傾向と同様、これらの作品においてもまだ身振りと表情が誇張されており、1730年代に入ってようやく色彩と構図の調和をなしとげ、「第2のヴェロネーゼ」と呼ばれるようになったのでした。

 

叙情と官能

ヴェネツィア市民の流行が変わり、従来の古代史を題材にした激烈な場面とは違った感傷的、叙情的、官能的な主題が求められた。

そしてそれはおもに古代神話からとられた。

1730年代に、ティエポロは初めて神話画の大作を描きます。

現存しないが、ミラノのパラッツォ・ドゥニャー二とパラッツォ・アルキントンの壁画群で、後者は1点のためのみごとな油彩習作「太陽神の馬車の準備」によって、いかに自在に神話を絵画化したかがうかがえる。

意味のよくわからない神話上の人物で画面を満たすペンダンティックな作品ではなく、画家は単純きわまる普遍的な道具立てて夜から昼への移り変わりを表現しようと試みており、夜は、月光に照らされた風景を背に暗い影のように描かれている。

ティエポロは主題を複雑に用いているよりも、ムードを暗示することを好み、その傾向は初期の版画集「気まぐれ」にも見られる。

そこでは、はっきりとした意味は提示されていないが、雰囲気の持つ力が圧倒的です。

学者で美術批評家のフランテェスコ・アルガロッティが1740年代にティエポロに対して、芸術に取り組む姿勢をもっと学問的にするよう、そして「詩的幻想をいくぶん抑制するよう」説いた。

彼はティエポロの「クレオパトラの宴」の最初のバージョンで、普通の水差しではなく古代ギリシャの壺を描かせるのに成功したものの、それ以上の影響を画家に与えることはなかった。

パラッツォ・ラビアの「宴会の間」に描かれた同じ主題によるフレスコのバージョンでは豪華な衣裳の描写が主題となっており、周りの生き生きとした建築表現と同様、いっさいの衒学所三趣味を免れている。

パラッツォ・ラビア壁画群はヴェネツィアの特筆すべき観光名所であるけれども、装飾家としてのティエポロの力量が十全に発揮されたのは、ヴュルツブルク宮殿のフレスコ画群をおいてほかにない。

最初に手がけたのは「王座の間」の装飾だが、階段室の天井画は断然これにまさっている。

天井画の縁に沿って四大陸を象徴するユーモラスな群像が描かれ、そこには象やアメリカ・インディアンなどの写実的表現が見られるほか、ヨーロッパを描いた部分にはティエポロの自画像も登場しています。

画面中央に大きく広がるパステル・ブルーの空には多くの人物が飛翔し、彼らは明らかにアポロンの戦車から放射されたピンクの幅広い帯に向かって引き寄せられる。

心浮き立つ天のイメージで描かれています。

ティエポロ芸術がより親しみと激しさを示すのは、ヴィチェンツァ近郊ヴィラ・ヴァルマラーナのフレスコ画群で、その大半がホメロスの「イリアス」と、16世紀イタリアの2大叙事詩であるタッソの「解放されたエルサレム」およびアリオストの「狂乱のオルランド」を主題にしている。

ヴィラの小さな主室を飾るのはトロイア戦争の時代、風が凪いでアウリスで動けなくなったギリシャ戦隊を救うために、イフィゲネイアが父によって犠牲に供されるという場面で、物語は見物人が取り囲む舞台上で展開しており、誰の目も、哀れな半裸の生贄を連れ去ろうと天から飛び来る女神アルテミスのほうに向けられています。

画家は叙事詩に歌われたヒロインティックな戦闘場面をいずれの部屋にも描かれず、代わりに失意の愛など大いなる悲哀を前面に出した。

古典と神話のテーマをあまりに数多く手がけたため忘れさられがちですが、ティエポロは間違いなくヨーロッパにおける最後の偉大な宗教画家でした。

この分野の作品は残忍さのあらわな「聖アガタの殉教」から、ユーモラスなもの(例えばベルガモにあるフレスコ画では、洗礼者ヨハネが説教をするなかで、目立つ位置に描かれた犬が眠りこけている)まで幅広く、そこにはティツィアーノレンブラントベリーニ、プッサン、ルーベンスなどさまざまな画家たちの影響が見てとれる。

おそらく、なかでもティエポロ本人の感情が最も感動的に示されているが「聖痕を受ける聖フランチェスコ」など最晩年にスペインで描いた作品であり、単純な静物の細部表現への愛着と、厳しいスペインの風土に対する画家の鋭い感応があらわに感じられる。

ティエポロの業績の大きさを示す事実だが、彼がスペインの栄光をたたえたわずか20年後にこの群主国を風刺したロマン主義の画家ゴヤが、ティエポロの類まれな想像力と、自在な感情表現ならびにテクニックに感動し、強い影響を受けている。

ルネサンス伝統の最後を飾る偉大な画家ティエポロは同時に、ジョン・ラスキンが「近代主義の父」と呼んだ画家でもあった。

 

名画の構成「ヨーロッパ」

ティエポロによるヨーロッパの寓意表現は、ヴュルツブルク宮殿階段室の天井を飾る壮大なフレスコ画の一部であり、1752年から53年にかけて制作されあたこの天井画は、四大陸がカール・フィリップ・フォン・グライフェンクラウ公兼司教に敬意を表すさまを描いています。

ヨーロッパは壇上の豪華な衣裳をまとう婦人の姿で現され、諸芸術と宮廷の高官を象徴する人物たちが取り囲む、上方では、アポロンをはじめとする神話の神々が公の肖像画をたてまつっている。

このフレスコ画はだまし絵の傑作といってよく、周録にそって人物群が揺るぎないポーズをとる一方、上では優雅な神々が一見際限ない空間に飛翔して、その空間は階段から天へと広がっていくように見える。

 

まとめ

18世紀の芸術家は苦難の時代の始まりでした。

教会の力が弱まり、バロック時代を超える画家が現れなかったロココ時代に、ダイナミックな天井画で有名なティエポロが活躍したことは絵画の世界に大きな刺激を与えたに違いない。

王侯貴族がその噂を耳にして大きな壁画依頼をしたのは、かつてのルネッサンス時代に憧れたことでもあり、絵画による権威の復活といえる。

だが彼のような絵画演出で成功出来た画家はほとんどおらず、そのスケールの大きさについていける画家もいなかった。

彼はフレスコ画だけでなく、ドラマティックな油彩画も多く描いています。

そのタッチと色彩、陰影の描き方は独特のものであり、ティエポロ特有の描き方ですぐにかれの絵画とわかる。

省略された造形とインパクトある色彩は、ルネッサンス時代やバロック時代の画家たちに劣らず、素晴らしい動きを感じさせることに成功しています。

動きを感じさせることで、ティエポロの絵画世界は生き生きとしており、現代の我々が見ても飽きない魅力を秘めています。

まさに大画面の動きを自由に操れる演出の巨匠でした。

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ABOUTこの記事をかいた人

テソン

画家活動をしています。西洋絵画を専門としていますが、東洋美術や歴史、文化が大好きです。 現在は、独学で絵を学ぶ人と、絵画コレクター、絵画と芸術を愛する人のためのブログを書いています。 頑張ってブログ更新していますので、「友達はスフィンクス」をよろしくお願いします。