「モディリアーニ」放浪の画家

アメデオ・モディリアーニの生涯は短く不安定で、悲劇的だった。

イタリアの生家で一家の知的雰囲気に刺激された彼はパリに出たが、極端な貧困の中で暮らし、酒と麻と数々の恋人たちに慰めを見いだした生活をしていた。

ほかの画家や詩人たちとの交流はあったものの、前衛芸術とは一線を画し、独自のきわめて個性的な画風を生み出しました。

彼が影響を受けた画家はただ1人、セザンヌだけだった。

モディリアーニはがかとしても彫刻家としても並外れた才能に恵まれていたが、生存中、作品はそれほど売れませんでした。

この貧困が、自由奔放な生活とあいまって、彼の健康を害したのです。

陽光にあたらせようと、画商は彼と彼の子を身ごもった恋人を南フランスに送り出したが、モディリアーニは1年後に世を去った。

彼の才能は、伝統的な美術的価値と現代精神を統合する効果をもたらした。

 

甘やかされた子供時代

アメデオ・クレメンテ・モディリアーニは1884年7月12日、イタリアの地中海に面した港町リボルノで生まれました。

噂によると、かつてモディリアーニ族はローマの格式ある銀行家の家柄で、母は偉大な哲学者スピノザの血を引いていたという。

モディリアーニ自身こうした噂を助長させたが、噂の常として多少の真実を含んでいる。

アメデオの父フラミニオは実業家であったが、彼が生まれた年に破産した。

フラミオは事業に失敗したために各地を転々とせざるえなくなり、アメデオの母エウジュニアは家に残って所帯を切り盛りしました。

両者ともセフルディー(スペイン、ポルトガル系のユダヤ人)で、スペインに入植したユダヤ人を祖先に持っていて、信仰の一環として、モディリアーニ家は先祖代々の伝統を重んじるとともに、リベラルな教育を大切にした。

リボルノの中産階級の人々の眼には、エウジュニアは因習にとらわれない女性に見えたようです。

彼女は紅茶を飲み(イギリス流の習慣)、文学的な文章を書き、翻訳もこなしたが、多くの家族をかかえた彼女にとっては、このことは進歩的というより現実的な事でした。

少年アメデオはにぎやかで刺激に富んだ環境のもとで大きくなり、まもなくさまざまなことに早熟な文化的関心を抱くようになった。

母は彼にレオパルディ、ワイルド、ボードレール、ランボーといったロマン派や象徴派の詩人の存在を教え、祖母のラウレを通して、独創的な才能と直感ゆえに社会から追放された芸術家の姿を記述したニーチェの哲学になじむようになります。

のちのパリ時代に、モディリアーニはよく自作の詩を友人たちに詠んで聞かせた。

その詩は彼の絵と同じく完成度が高く優雅なものでした。

 

モディリアーニ絵画教室に通う

モディリアーニは、美しい顔立ちのため、あるいは虚弱な体質のために甘やかされた移り気な子供だった。

1895年の夏に肋膜炎を患い、1898年にひどい腸チフスにかかっている。

同じ年、母は日記にこう書いています。

「8月の初め(テド)が絵を習い始めた・・・・・。彼はもういっぱしの絵描き気取りだが、私としては実のところ励ましたくはない。

こうした幻影を追い求めるあまりに、学業をすっかりおろそかにしてしまいかねないから」。

モディリアーニは1898年にグーリェモ・ミケーリの絵画教室に入り、その後まもなくしく分派的な美術グループを作ったが、1900年暮れに肋膜炎をこじらせて結核になり、学業を放棄せざるをえなくなった。

 

モディリアーニの新しい環境

病気の回復期に、モディリアーニはナポリ、アマルフィ、カプリと旅をし、のちにローマとヴェネツィアも訪れた。

健康を取り戻すと1902年に故郷を離れ、まずフィレンツェ、次いてヴェネツィアで絵を学んだ。

ヴェネツィアでは多くの友人(そのなかに画家のウンベルト・ボッチョーニがいた)を得、ベリーニティッティアーノカラヴァッジョら過去の巨匠たちの作品に接している。

1906年の1月、モディリアーニは肖像画家として運をためそうと決心し、パリに向かいました。

そこでももっぱら、ヴェネツィアの古い街区でやっていたようなボヘミアン的な暮らしをし、引っ込み事案な性格を克服しようとしてか、ハシッシやアルコールなどによる興奮に頼っいた。

それでも、彼の初めてのパトロンとなった医師ポール・アレクサンドルは、「彼は非常に育ちのよい青年だった」と回想しています。

居心地のよいホテルで2、3週間贅沢をしたあと、モディリアーニは下宿を転々として放浪生活を始め、最初はモンマルトル、次いて、セーヌ川の南のモンパルナスに移った。

母親からわずかな仕送りは、しだいに酒場や娼館に入りびたることの多くなった生活に十分な足しにはならなかった。

勘定が払えないために、彼は画業を投げ出し、下働きしたり数フランと引き換えにカフェで似顔絵を描いたりします。

パリという街はモディリアーニにユダヤ人であることを敏感に感じさせ、彼は「呪われた画家たち」に精神的にも芸術的にも共感を見いだした。

彼らのほとんどは国もなく貧しいユダヤ人でした。

貧しい芸術家、とりわけユダヤ人を歓迎しなかった異国の都市にあって、彼はこうした画家たちの不安を共有したのです。

 

常軌を逸したふるまい

絶えず金不足に悩まされていたせいか、モディリアーニも品行は悪くなり始めた。

他人の作品を壊したために、医師アレクサンドルがつくった芸術家共同生活体から追放されます。

彼は、キュビズムをめぐる討論でケンカ腰になったのでしょう。

モディリアーニは青年特有の文学的霊感と、ニーチェの「政外された天才」という観念に従っていたと思われます。

彼は同様なことをすでに1901年に、友人宛の手紙に書いている。

「我々のような人間は他人とは異なる権利を有しています。なぜなら、我々は連中の道徳にあてはまらない欲求を持っているからです」。

こうしたパリでの初めの数年間、モディリアーニは当時すでに時代遅れになっていた「デカダン」な芸術家のイメージそのままに暮らしていた。

「いつも栗色のコーディロイの洋服を身に着け、首には色鮮やかなスカーフを巻き、つば広のフェルト帽をかぶっていた」と友人の1人が記しているように、彼は芸術家スタイルの服装を好み、ピカソの機能的な労働者風のつなぎの服を軽蔑していました。

絵も流行遅れで、印象派とトゥルーズ・ロートレックとアール・ヌーヴォーをまぜ合わせたような画風でした。

実験と自己発見のための数年間だったころ、セザンヌの回顧展が1907年に開かれ、すぐにモディリアーニは色彩を通してフォルムと空間を暗示するセザンヌの手法を模倣し始めた。

この新しく起こったフォルムの関心にひかれて、初めて彫刻を試みるようになり、1909年から1914年の第一次世界大戦が勃発するまでのあいだ、絵をほとんどわずかしか制作していません。

彫刻家コンスタンティン・ブランクーシの隣に住んで仕事をし、野心的な彫刻「カリアティード」などに専念したが、完成作品はごくわずかでした。

こうした年月はモディリアーニにとってまさしく修行時代といえるもので、1909年にリボルノに戻ったとき、弱った体で無理を重ねたことは母親の目には明らかだった。

彼女は息子をいたわり、新しい洋服を買い与えました。

1912年に再びリボルノを訪れたとき、かつての美術学校仲間は彼の変わりように驚いています。

「髪はそり上げ、逃げ出した囚人みたいだった・・・。みすぼらしいリンネルの上着とオープンシャツを着て、ズボンは紐でゆわえられていた」。

彼は自分の彫刻の写真を仲間に見せたが、彼は狂っていると言い、ゴミ捨て場捨てたらどうだろうと冗談をいっている。

モディリアーニはこれほど芸術上の孤独感を味わったことはなかったでしょう。

1914年、南アフリカのジャーナリストで、モンパルナスの隣人たちには「イギリスの女流詩人」として知られるベアトリス・ヘイスティングスがモディリアーニに出会ったとき、彼女の心をとらえたのは彼の芸術ではなく、その容貌でした。

彼はコーディロイの洋服に身を包んだ「青白く、うっとりするような悪党」で、ベアトリスとの関係はモディリアーニにとって初めて長続きします。

彼女はわがままな点でも、麻薬や酒を受けつける能力においても、モディリアーニにひけをとらない相手でした。

ベアトリスとの関係が続いた時期は、モディリアーニの生涯で精神的に傷つきやすい時期と重なっています。

 

ポール・ギヨームとの出会い

彫刻からしだいに離れていくことへの深い失望感に、第一次世界大戦による窮乏状態が追い打ちをかけ、しばしば病気になり、実家からの仕送りもとだえ、彼はあくどい投資家たちに食い物された。

友人の多くは前線にあり、カフェに残ったのは外国人と病人だけでした。

だが皮肉なことに、この大戦のあいだに、彼の肖像画は心地よい調和と深い洞察力を見せるようになります。

彼を力づけたのは画商のポール・ギヨームで、彼の作品をすべて買い上げ、アトリエも貸し与えた。

そこで彼は、愛人たちを描いた有名な一連の裸婦像を制作していきます。

ベアトリスとの関係は相変わらずひどく荒れ狂ったものでした。

論争はしばしば暴力的なけんかとなり、あるときは彼は本当にベアトリスを窓から放り出したし、別の夜には彼が急所をしたたか打たれて、ショック状態でアパートから転げ出たほどだった。

1915年には、モディリアーニはますます麻薬に溺れるようになり、一方ベアトリスも、彼の行きすぎを抑えきれず、事実上アルコール中毒になっていました。

1年後2人の関係は完全に破綻した。

1917年の7月に、モディリアーニはジャンヌ・エビュテルヌを知る。

彼女はアカデミー・コラロッシで学ぶ19歳の優秀な学生でした。

彼は他の誰よりも彼女の肖像画をたくさん描き、彼女は彼の娘ジャンヌを産みますが、2人の暮らしは、ベアトリスの時と同じく荒れていて、モディリアーニが公の場で彼女を何度も虐待したのは有名な話です。

晩年になっても、成功はなかなか手に入らなかったが、ギョームのあとを継いで1916年からモディリアーニの画商となったレオポルド・ズボロフスキーはキャンバスをもってパリ中を歩きまわり、機会があるごとにコレクターたちの関心をひくのに努めました。

実際モディリアーニは展覧会にほとんど出品しなかったので、彼の作品を見るのは難しかった。

 

世間を騒がせたモディリアーニの個展

1917年の12月、モディリアーニの初めての個展がベルト・ヴェイル画廊で開かれた。

かれはそれまで報道機関から注目はほとんど受けておらず、1912年のサロン・ドートンヌに7点の頭像彫刻が展示されたものの、ほとんど無視された状態でした。

そんなわけで、ズボロフスキーは来客の注意をひこうとするあまりに、何点かの裸体画を画廊の窓に飾ったところ、不幸にもこれが警察を刺激することになります。

戦時下で特別な権力を手にしていた警察は、「わいせつな」展示に異議を唱え、オープニングの日に展覧会を打ち切らせてしまった。

ズボロフスキーはポーランドの詩人であり、「呪われた画家たち」に同情を寄せていました。

彼は絵がほとんど売れなかったにもかかわらず、モディリアーニに少額ながら金を与えたし、1918年の4月には自分が抱える画家たちを南フランスに旅行させたりもした。

その地でモディリアーニはセザンヌへの憧憬を再発見し、知られる限りでは、イタリアでの学生時代以来初めて風景画も描いている。

彼は友人の画家スーチンに伴われてカーニュ・シュール・メールも訪れています。

スーチンはモディリアーニの緊密な構成の絵とはまったく逆に、荒々しい風景画を何点も描いた。

人生の終局に向かうようになり、はかない才能がおびやかされるとでも感じたのか、アトリエの掃除や入室を許しませんでした。

この不安感は成功から見放されたことからくるもので、財政面での安定などは彼にはどうでもよかっただが、自尊心は絶対的なものだった。

1920年のひどい寒い1月に、モディリアーニは肺炎にかかり、毎夜のように酒場を飲み歩き、仕上げは決まってラ・ロンドンで、身を切るような夜明けの大気のなかにシャツ姿で転がりこんでいて、こんな光景を目にした当時の人が、彼は「しだいに酔っ払い、悪態をつき、ひどくやつれて見えた」と書いています。

死の数日前、彼はジャンヌと共同で使っていたアトリエで倒れたが、おびえた若い娘は医者を呼ぶことも思いつかず、ただ死にゆく彼を見つめていた。

1月24日に、モディリアーニは結核性脳膜炎で世を去った。

35歳でした。

ジャンヌの悲劇はモディリアーニのそれと深くつながっています。

第2子を身ごもっていた彼女は、彼の死後すぐに住まいの上階の窓から身を投げた。

5年後、遺体はバニュー近くの墓から、ペール・ラシェーズのモディリアーニの墓のそばに埋葬された。

 

伝統とモダニズムの共存

モディリアーニは主題は最初から肖像画と裸婦と決まっていた(風景はほんのわずかしか描いていない)。

彼は容姿を写実的に描くこよには関心を払わず、モデルの感じているものや雰囲気、特に彼との関係におけるそれらを表現しようとした。

初期にはしばしば緊張と不安のモチーフが繰り返し現れるが、それはおそらく当時の彼の生活を反映していると思われる。

パリで貧しい外国人として暮らすことの不安に加えて、前衛芸術家たちからのけ者にされているという気持ちもあった。

金の不足は画材の欠乏を意味し、彼は絵の具を薄く広げ、キャンバスの両面を使わなければならなかったにもかかわらず、1908年には早くもいくつかの特徴のある彼独自のスタイルをつくり出し、画家としての個性が確かになってきます。

これらはしだいに洗練され、晩期の優雅でバランスのとれた作品を生むようになる。

肖像画においては、なだらかな肩と細長い首がゆるやかに傾いた顔を支え、小さな口、長い鼻、暗く内省的な目が催眠術にかかったような表情のなかにとらえられている。

イタリア時代から、モディリアーニは象徴主義とアール・ヌーヴォーの影響を受けており、初期の作品には雰囲気の面でも線のパターンでもそれが顕著に見えます。

だがパリにでた彼は、1907年の回顧展でセザンヌを発見して、構図の組み立て(色彩を通してのフォルムの配置と平面からの離脱)だけでなく、切れ切れの筆使いにも明らかです。

セザンヌはキュビズムへとつながる芸術の新しい道を切り開いたが、同時に人体のフォルムの完全性を重視し続けており、このことがモディリアーニにとっての中心課題となった。

 

石の彫刻

1909年の夏にリボルノに戻って来た時、モディリアーニは彫刻家になるという前々からの野心を実行に移そうと心に決めていました。

そもそも、3年前にパリに出たのはそのためでした。

1909年から1914年にかけて、絵画はわずか20点しか描いていません。

1909年に出会い、2年間アトリエを隣り合わせたルーマニア人彫刻家ブランクーシに影響され、モディリアーニはその5年間、素晴らしい頭部の彫刻に打ち込んでいます。

それは、セザンヌにひきつけられもととなったマッス、ボリューム、フォルムへの関心を実体化する試みでした。

謎めいた表情をし、記念碑のようなこれらの作品には神秘的な力がやどっている。

荒々しく彫られた石炭石のかたまりは、一目見れば決して忘れられないでしょう。

それはまた、モディリアーニが当時の人たちと共有していた、アフリカやオセアニアの未開人の彫刻への深い関心を物語っています。

モディリアーニは常に自分を画家兼彫刻家と考えており、すでに1902年にはカラーラで最初の彫刻作品を制作していて、象徴的にもミケランジェロに石を供給した石切場もカラーラにあった。

パリでは、建築現場で頼んで分けてもらったり盗んだりした石で彫刻を続けたが、彼は彫刻の修業をしていないうえに、彼の野心的な計画を完成させるだけの経験も体力も(ほこりは肺を傷めた)もなかった。

それは人間性に捧げる聖堂を築くという計画でした。

戦時中は彫刻に使える材料もなく、彼は1914年に彫刻を断念します。

 

様式化された肖像

肖像画においてもモディリアーニは鋭い洞察力を示している。

それは自分の個人的な考えを反映するものであったが、裸婦像への取り組み方は違っていた。

彼は恋人たちの裸を描くことはめったになかった。

素人をモデルにし、特に下働きの女性を好んで使っていて、興味深いことだが、彼はいつも裸婦像をシリーズで描いており、一定期間はそれにとりかかりきりだったことをうかがわせる。

彼の裸婦は露骨なほど肉感的で自身にみちており、ティッティアーノやゴヤやルノワールと並んで、そのジャンルの伝統にのっとっています。

暖かい色彩は女体のフォルムを囲む官能的にうねる線で高めており、フォルムは生き生きとした筆によって勝ち取られたものでした。

肖像画と違って、表情はどれ同じに見える。

自身にあふれた線の使い方は、モディリアーニが終生続けたおびただしい数のデッサンのたまもので、彼にとってのデッサンとは本来、絵を描くための準備作業でした。

ジャック・リプシッツは、モディリアーニが多くのデッサンをすさまじい勢いで描き、手を休めて「修正したり、考えたり」することはめったになかったと回想しています。

彼はこのようにしてモデルを熟知し、徐々にポーズを決めていったと思われる。

次いでキャンバスに向かうと、彼は素早く描き上げ、「ときたまそばに置いたびんから酒を飲むために筆を休めるだけ」だった。

友人のルニア・チェコフスカびよれば、彼は安物のブランデーか粗末な赤ワインをあおっていきおいついた時が、いちばん良い状態仕事ができたという。

絵を描くという行為はモディリアーニにとって猛烈に感情移入を必用としたのであり、欲求不満になると歩きまわったり、深くため息ついたり、叫び声をあげたことでしょう。

たった1回のポーズで絵を仕上げるため、彼は極端な集中力で制作した。

死の前年に、モディリアーニは南フランスを訪れている。

土地の人々をモデルに絵を描いたが、なかでも子供をテーマにしたのは、もうすぐ父親になるという感情にかられていたためかもしれない。

またそこで、彼には珍しく風景画も描いているが、絵はすべて家と木が中心で、人間の手が加えられていない自然には、しりごみしたと思われます。

地中海の戸外を嫌っていたにもかかわらず、この時期の彼の絵には南の明るい光が感じられる。

モディリアーニの現代美術への貢献は、ぞの独自性にあり、前衛画家たちと違って、形の分解には関心がなく、過去の伝統を保ちつつ完璧なフォルムを追求した。

その一方、構図の工夫には彼の現代性が現れており、そのために彼の肖像画が新しく独自なものに見えるのです。

彼の作品をほかの画家の作品と見間違えることはなく、どの派にも属さなかったモディリアーニには、1人として後継者はいません。

 

名画「ジャック・リブシッツ夫妻」

リプシッツとモディリアーニはともに中流階級のユダヤ人で彫刻家だったが、2人の仲はそれほど親密ではなかったようです。

この肖像画の型通りの構図にそれが感じられます。

1916年に、リプシッツが自分と新妻ベルトの肖像画をモディリアーニに依頼したとき、彼は候言った。

「値段は1回のポーズに10フランとアルコールを少々」。

モデルに慣れるために、モディリアーニはたくさんのデッサンをし、翌日、下塗りした古いキャンバスに向かって制作にかかった。

一心不乱に描き、日が暮れるころには絵を仕上げてしまいます。

リプシッツはもっと彼を援助したかったので、「もう少し中身を濃く」描くように要求した。

「絵をだめにしたいのなら、続けよう」という答えが返って来て、モディリアーニはもう2週間をこの絵に費やします。

リプシッツは自分の肖像が気に入らず、クローゼットにしまったままにし、1920年のモディリアーニの死後すぐ、自分の初期の彫刻数点を取り戻すために交換してしまいました。

 

まとめ

モディリアーニは美術史上最も悲劇的な画家の一人です。

彼の生活は、放浪するかのような自由気ままな物でしたが、その生活の中で人には見えない世界を見ていました。

前衛美術としては死後に評価を得た画家でしたが、現在の我々の美術に大きな影響を及ぼしている。

ピカソやマチスと並んで20世紀美術を代表する画家であるだけでなく、彼はヨーロッパの伝統芸術と大きな結びつきを感じることができる。

フォルムと線、ボリュームという3つを表現することで、独特の空間芸術をつくり出しています。

そして芸術に新たな表現手段を、この世に残した功績は計り知れない。

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画家活動をしています。西洋絵画を専門としていますが、東洋美術や歴史、文化が大好きです。 現在は、独学で絵を学ぶ人と、絵画コレクター、絵画と芸術を愛する人のためのブログを書いています。 頑張ってブログ更新していますので、「友達はスフィンクス」をよろしくお願いします。