フラ・アンジェリコは若くしてドミニコ修道会に入り、写本装飾によって芸術家の道を歩み始めた。
ヴァザーリの著作のなかでは、世事にはまったく関心を示さず、はじめは宗教に、
次いで芸術に打ち込んだひじょうに敬虔な人間として描かれています。
しかし、その作品は宗教界だけでなく俗界のパトロンたちの注目も集め、
彼は多くの制作依頼に応じるために広く各地を旅してまわる。
フラ・アンジェリコは自分が知るかぎりの透視図法、色彩、光と陰を駆使して数々の板絵を生み出した。
それらは当時の最高に魅力的で記念すべき作品であるが、彼の名声は、タブローよりもフレスコ画によって広まってく。
これらの壁画においてこそ、彼がモニュメンタルな装飾というイタリアの偉大な伝統を担う者であることが立証されている。
フラ・アンジェリコの幼少時代
フラ・アンジェリコがいつ生まれたのか正確には誰も知らないが、
本名がグイド・ディ・ピエトロであり、フィレンツェの北西32キロほどの小さな町
ヴィッキオの出身であることはわかっている。
フラ・アンジェリコの生誕年は伝統的に1387年とされてきた。
それは16世紀の修道会年代記に記されているとあり、彼は1417年にはすでに画家であったが、まだ平信徒だった。
1407年という情報はおそらく間違いだろう。
彼は実際には、1418年から1421年のあいだに聖職に就いた。
十代の後半で修道院に入るのが普通だとすると、
彼は1395年から1400年のあいだに生まれたことになり、
現在の学者はそう考えている。
年代が不確かなのは、フラ・アンジェリコがちょうど中世から
ルネッサンスのに移行しかかったころに生きたからであり、
中世の社会では、芸術家にはまったく注意が払われなかった時代だったのです。
フラ・アンジェリコから数世代あとのミケランジェロやレオナルド・ダ・ヴィンチの業績は、
手紙、回想録、教則本、美術批評家など実にさまざまな分野で丹念に記録されており、参考にする資料が広範にある。
ところがフラ・アンジェリコの時代には、芸術に関してはだれも何も書き残しておらず、
契約書とか請求書、あるいは修道院や教会の記録といった乏しい公文書の類に頼らざるをえない。
フラ・アンジェリコの生涯についての解説が初めて発表されたのは、
1550年と1568年(彼の死から約100年後)に2度にわたって刊行されたヴァザーリの「美術家列伝」においてであり、
ヴァザーリの理想化された記述を信じたいと願う人は、ヴァザーリはフラ・アンジェリコが
長年暮らしていたフィレンツェのサン・マルコ修道院の僧たちと親しくて、
彼らが先人たちについて語る話を参考にできたのだと指摘する。
しかし、僧たちが自分の修道会の歴史を精巧につくりあげ、
きわめて都合のよい光をあてたがる傾向があったのも周知のことだった。
ヴァザーリは、フラ・アンジェリコが素朴で世慣れしない人間であり、
決して知識人でなく、ひたすら宗教に身を捧げたと述べている。
「フラ・ジョバンニ・アンジェリコは・・・・・修道会に献身的な一員であると同時に画家として名を知られていた。
彼はもし望むならば、絵の技量によって金持ちになり、俗世でこの上なく安楽に暮らせたであろう。
若くしてすでに大家だったのだから。
だが、生来信心深かった彼はそうはせず、心の平穏とりわけ魂の救済を求めてドミニコ修道会に入る道を選んだ・・・・。
神への奉仕と人類のために良きことをなすのに全生涯を捧げたのだから、アンジェリコ(天使のような)と呼ばれてもまさに当然であり、狡猾なところがまったくなく、すべての点で高潔だった・・・。
彼は世俗に汚れないように身を処し続け、清浄と高潔のなかで生きながら、かくも貧者の友だったのだから、その魂はいま天国にあると私は信じる」。
絵筆を手にした天使「フラ・アンジェリコ」
ヴァザーリはこの調子で長々と続け、フラ・アンジェリコが神聖な主題だけしか手がけず、
磔刑像を描いたときには顔を涙でぬらしただろうと書き添えている。
こうして、純真で高徳な修道士、中世カトリックの典型的な人物であるフラ・アンジェリコが出現する。
彼は、実際には修道会でフラ・ジョバンニと呼ばれており、
「アンジェリコ」という呼称はおそらく晩年についたのだろうが、
それが初めて文書に登場するのは死後のところである。
彼はまた、イタリアで福者と呼ばれるようになった。
この美化は、1984年にやっと公認されたのが、何世紀ものあいだ、彼の感傷的なイメージを彩り続けてきた。
フラ・アンジェリコこのような見方を裏付ける、いくつかの信頼できる証言があることはある。
「彼は数多くの美徳で輝いていた」と、フラ・ドミニコ・ダ・コレラは1462年ごろに書いた。
そして1480年には、感傷を交えることのなかったマネッティが、フラ・アンジェリコは作品の代金を受け取らず(報酬はすべて修道院に収められた)、絵を描くための宗教義務を怠ったことはなかったと記録している。
だが作品自体から別の見方を引き出すことは可能であり、その見方はもっと活動的で個性的な人物像を浮かび上がらせる。
なぜなら、フラ・アンジェリコは中世というよりむしろルネッサンスの画家だったからです。
彼は投資図法、光と陰の効果、1枚の絵の中で物語にまとまりを
もたせることの重要性に関する新しい発見を、精力的に実行に移しました。
実際の場所で実際に動く実際の人々を描いたのである。
彼が描く人物は聖人かもしれないが、だからといって現実感を失ってはいない。
フラ・アンジェリコが若くして、おそらく兄のフラ・ベネットと同じころに入ったドミニコ会の修道院は、
大都市フィレンツェを見晴らす丘陵にいだかれフィエーゾレにあった。
15世紀に、その他はフィレンツェの政治、ならびに理念の大きな影響下におかれていました。
ドミニコ修道会自体は、世の中を改善する熱意に燃えていたのです。
修道士たちは禁欲的な規律に厳格に従い、貧者に伝道するという特別の任務を担っていた。
フラ・アンジェリコが加わったとき、指導的な地位にあったのはジョバンニ・ドミーニチで、
その有名な小冊子「ルクラ・ノクティス」は、当時勢いを得つつあった新しいルネッサンスの理念である
実質主義的な人文主義に対抗して伝統的な精神性を擁護していた。
フラ・アンジェリコも神による天地創造という神秘的教養をひたすら信じることを説くドミ―ニチのような人物と、
物質世界とそのなかでの人間の地位の合理的な解釈を求める人々とのあいだの論争に、深くかかわっていたに違いない。
何年もかけて徐々にだが、フラ・アンジェリコは人文主義の諸発見を精力的に利用して、
自ら芸術における精神的な意味合いに力を与え、この2つの考え方を独自の手法で生き生きと統合してみせた。
俗世に出た修道士
フィエーゾレのサン・ドメニコ修道院で彼はまず写本装飾を手がけたらしいが、
はっきりとした証拠はなにも残っていない。
1429年の1枚の請求書は、サン・ピエトロ・マルティ―レ聖堂の修道女たちが、
1点の絵の代金としてフィエーゾレのドミニコ修道会にフィオリーノ金貨10枚分の借りがあったことを示しているが、
その絵はおそらくフラ・アンジェリコが2,3年前に描いたものだろう。
何人かの学者は、その絵がサンマルコ美術館に現存する傷みのひどい
「サン・ピエトロ・マルティ-レの三連祭壇画」だと考えている。
その様式が示すところでは、1420年代のフラ・アンジェリコはロレンツォ・モナコという画僧の
影響下にあった直後に教えを受けていた可能性すらある。
傷みが激しく制作中も明確でないが、この時代のフラ・アンジェリコの作と思われている別の数点もこの見方を裏付けています。
1432年までには、彼は少なくとも宗教界のパトロンのあいだでは明らかい名を知られていたようで、
数百キロメートル北に離れたプレッシャの聖母マリア下僕会のために「受胎告知」の図を制作しました。
1433年7月11日、フラ・アンジェリコは、今度は世俗の財源による注文を受けます。
これは重要なことです。
というのは、フィレンツェではその当時、世俗の団体や個人の芸術保護の面で
従来の教会の優位をしだいにくつがえしつつあり、ルネッサンス的な考えに大きなはずみをつけていたからです。
彼が描くことになったのは、裕福なリンネル商組合のための聖母子と聖人像「リナイウォーリの祭壇画」でした。
新古典様式の建築的な枠は、フィレンツェの大彫刻家ロレンツォ・ギベルティがデザインすることになっていた。
この仕事の受注は、フラ・アンジェリコにこれまで以上に新しい傾向、
とりわけ数年前に20代で死んだマザッチオの革命的な画風を意識させたに違いない。
こうした影響下に、フラ・アンジェリコはその中世的な様式から脱皮し、初めてルネッサンス様式の傑作を生み出します。
つづく数年間の作品を年代順に並べる試みは、学者たちを悩まし、意見が一致したためしがないようです。
彼はフィレンツェの南の属領コルトーナにあるサン・ドミニコ修道院で、荘厳な「聖母の戴冠」を描き、
フィレンツェのサンタ・トリニタ聖堂のためには、「十字架降下」を描きました。
これらの作品をみると、彼がもうそのころには助手のグループを使って大作に従事できるようになっていたことがわかるが、
それでも高度な仕上げや細部の技術には彼自身の腕が見える。
1436年、ドミニコ会がフィレンツェのサン・マルコ修道院を手に入れ、
1437年に同じフィレンツェのメディチ家の指示で改修が始まった。
このあとすぐ、フラ・アンジェリコは最高傑作の1つ、今日もこの修道院を飾る壁画群の制作にとりかかり、
数年間をかけて(おそらく1440~1445年に)彼は数多くの部屋に装飾を施します。
フラ・アンジェリコ1人でこれだけの数の仕事がこなせるはずはなく、
完全に彼の手になるのはごく一部にすぎないと何人かの学者は主張する。
だが、大多数の絵の構想と実際の作業には彼の監督がきちんとゆきとどいており、
なかでも、重要な大きな画面は間違いなく彼の作です。
場所にふさわしいく、また瞑想に霊感を与えるという信仰目的から、壁画の大半は極端に単純な構成で、
新約聖書の諸場面や聖人と殉教者の生涯の出来事が簡素な風景のなかに描かれている。
フィレンツェのこの修道院を訪れ、オルヴィエートに向かった彼はその地で、
優れた弟子ベノッツォ・ゴッツォリをはじめとする協力者とともに、
オルヴェ―ト大聖堂サン・ブリッツォ礼拝堂の天井画を手がけた。
芸術を保護した教皇
教皇ニコラウス5世とのつながりは明らかに重要な意味をもった。
この教皇には人文主義の理念が骨の髄までしみ込んでおり、
彼はローマで大規模な建築と芸術計画に着手し、ルネッサンス美術の発展に強い刺激を与えたからである。
教皇はフラ・アンジェリコを高く評価していたようで、ヴァザーリによると、
フィレンツェ大司教の座が空席になったとき、彼にその地位に就くようすすめたほどでした。
ヴァザーリは、つつましく純朴な修道士がそれをどうやって断ったか、
また、教皇が代わりにフィレンツェのドミニコ会の別の地位を与えた物語を記しています。
しかし、このように重要な政治的意味をもつ地位を提示されたほどだから、
フラ・アンジェリコはヴァザーリがいうよりももっと世慣れしていたに違いない。
1450年、フラ・アンジェリコは古巣のフィエーゾレの修道院に戻ります。
だが、1452年に修道院長の任務も終わりを告げ、彼はローマに呼び戻されて、
1453年ごろに教皇のために別の礼拝堂の壁画を描いている。
2年後の1455年2月18日、フラ・アンジェリコはローマのサンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ修道院で世を去ります。
彼は修道院の衣服をまとった簡素な芸術家の肖像の下、その修道院聖堂に埋葬されました。
天使の作品
ヴィクトリア時代の偉大な美術批評家ジョン・ラスキンは、
フラ・アンジェリコへの伝統的な観点を要約するかのように、
「彼は本来の意味での芸術家ではなく、霊感を受けた聖人だった」と書いた。
フラ・アンジェリコは確かに敬虔な人物だったが、
彼が優れた職業画家意外の何者かだったと指摘した点で、ラスキンは完全に間違っている。
フラ・アンジェリコは様々な着想の先駆者だっただけでなく、
効率の良い工房を指揮し、注文に応じるためかなり遠方まで出かけることもあった。
彼は同時代のロレンツォ・モナコとフィリッポ・リッピ、それに2世代あとに同じ
サン・マルコ修道院で仕事をしたフラ・バルトロメオである。
しかし、最高の技術と輝くばかりの精神性を組み合わせて偉大な完成度を示した
フラ・アンジェリコの広い人気におよぶものはだれ1人としていない。
アンジェリコの画風のいくつかの特徴、特に装飾感覚とすばらしい色遣いはほとんど全作品に見られるが、
彼の芸術は経験を積むと同時に大きく発展してきたのであり、それはおおまかに3つの段階に分けられる。
まず最初、彼は非凡な天賦の才を秘めながらも、まだ伝統的なしきたりの枠内で仕事をする画家として登場する。
2段階では、当時の大芸術家たちの考えを吸収し深めるんつれて、作品に清澄さと重みが加わる。
そして第3段階において、フレスコ画家として抜きんでた存在になるのである。
珠玉のような作品
アンジェリコの最も初期の作品は小ぶりで珠玉のような趣がある。
その種の絵画では、最初の依頼契約で、金や高価な青の顔料を使う量が指定されたのだろう。
それらはフィエーゾレや、ほかのドミニカ会の支配下にある聖堂の祭壇を飾るためのものだった。
このころのフラ・アンジェリコは写本装飾にも携わったが、
それは若い修道士の務めとして広く行われた習慣でした。
きらびやかなコルトーナの「受胎告知」は、この初期の段階の頂点を示すと同時に、
建築に見られる透視図法が後期のより写実的な様式を予感させる。
彼の画風の発展で鍵となる作品は、1433年にフィレンツェのリンネル商組合のために
制作された有名な「リナイウォーリの祭壇画」である。
その見事な枠は、当時の最も著名な彫刻家ロレンツォ・ギベルティの手になり、
フラ・アンジェリコの描いたさまざまな板絵が1つにされて全体の統一を形づくっている。
祭壇の扉を閉じると、2人の堅固な堂々とした聖人(マルコとペテロ)が頑としたふくおん書記者聖ヨハネが立会人、
守護者は、プレデッラと呼ばれる3枚の小さな板絵があり、「聖ペテロの説教」「東方博士の礼拝」
「福音初期者聖ヨハネの殉教」というそれぞれに完結した情景が描かれている。
各場面とも実際の出来事をまのあたりにするかのように、想像力豊かな解釈がなされている。
聖母子を囲むアーチに描かれた天使たちだけが、フラ・アンジェリコの初期のより古風な様式を示しているように思われる。
ルネッサンスの影響
フラ・アンジェリコは、ルネッサンスの清明さに一夜にして到達したのではなかった。
初期の作品のいずれかにも、ルネッサンスの理念の影響が見てとれる。
例えば単一の光源、写真的な草木などの細部、聖人たちの衣装のひだの真に迫った垂れ方、
そして最も特筆すべきは画面に奥行きをもたせる幾何遠近法の科学的な使用などである。
だが、「リナイウォーリの祭壇画」と、フィレンツェのサンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂のために描かれた
「十字架降下」といった1430年代の作品は、それからが制作上の原理となっている。
彼の板絵が美しく壮麗であるにもかかわらず、
フラ・アンジェリコの名声と人気は主としてフレスコ画にもとづいている。
フレスコ画の技法はほかのいかんる国にも増してイタリアで大きく発展し、
何世紀にもわたって芸術家の雄大な思想を表現するのに唯一適した手段とみなされてきました。
明るい陽光のために、イタリアの壁画の大きな部分か絵が湿気を帯びると絵の傷みが早いので、
イタリアのおおむね乾燥した気候は画面の保持に最適でした。
制作の手順
課せられた要求の規模からいって、フラ・アンジェリコはかなりの人数の
チームを組んで壁画群の制作にあたらねばならなかった。
・まず、壁に漆喰の粗塗りをほどこし、師が素描を描く準備がなされている。
・次に、きめの細かい湿った漆喰がちょうど1日の作業分だけ上塗りされる。
・漆喰が乾いてしまうと顔料を吸収しなくなるので、描く作は速く正確でなければならない。
驚くべきことに、サン・マルコ聖堂とフィエーゾレの修道院の壁画修復の際に、
フラ・アンジェリコ自身の下絵が数点発見された。
漆喰の上塗りをはがすと、その下からすばらしいデッサンが現れたのである。
これは、大きくして複雑な画面を多くの助手を多くの助手たちとともに
仕上げていくための明確な構想であり、作品が彼自身のものであることを確信させた。
彼は教皇ニコラウス5世の招きでローマを訪れたとき、
ベノッツォ・ゴッドォリをはじめとする助手の一団を連れてったのだが、
そこでも自分の芸術的個性をはっきりと作品に刻印した。
フラ・アンジェリコは、芸術の役割が単に宗教的意味合いや装飾機能だけをもつというより、
それ自体だけで評価されるものへと変わり始めた時代に生きた。
ルネッサンスの人間的なメッセージが熱烈なカトリックの教養をも担いうることを、彼の作品は明確に示しました。
実際、彼はルネッサンス、いや、いかなる時代のどの画家とも違って、
神への敬虔さと芸術的偉大さの統合を成し遂げてみせたのです。
名画の構成「十字架降下」
「十字架降下」は、フィレンツェのサンタ・トリニタ聖堂
ストロッツィ礼拝堂のために、1枚の板に描かれた。
画家ロレンツォ・モナコが祭壇の3つのピナクルの
装飾を手がけたようであるが、彼は1425年に死んでしまった。
おそらくそのために祭壇画が未完のまま残され、
おそらくそのために祭壇画が未完のまま残され、
フラ・アンジェリコが仕事を継続して1443年ころの完成させた。
画面中央では、キリストの体が十字架から降ろされ、
十字架にかかった2つのはしごが垂直感を強調している。
前景でひざまずく人物は、見る者の目を中心の人物群に引き寄せるはたらきをする。
両端に立つ人物たちは、左の建物の塔と右の木と相まって、画面を区切る役割を果たす。
右下のラテン語の刻銘は、「いかにして正しい者が死に、だれもその死を内心で信じていないのをみよ」と読める。
細部までみごとな観察がゆきとどいているが、その細部も荘厳な悲劇の場面を決してじゃましてはいない。
まとめ
フラ・アンジェリコの作品には、修道院での規則正しさと無名性が映し出されている。
しかし、彼はそのうえに哀感をもうまくしみ込ませていて、それゆえに作品が時代を超えて人の胸を打つ。
彼はすでによく知られたテーマを描きながらも、そこに新しい表情と発展をつけ加えて、
形式ばった宗教画の構図に深い感動と人間性がみなぎった好例を生み出しました。
それらは瞑想と精神世界を助け、集団に欠かせない宗教的な規律を修道士たちに促すためのものになり、
フラ・アンジェリコを15世紀イタリア絵画の本流に位置付けた。