ヤン・ファン・エイク 「三連祭壇画」の神秘

この絵は、15世紀フランドルで活躍した画家ヤン・ファン・エイクが描いた「祭壇画」の傑作です。

3つの画面からなり、左右の小さな画面と中央の画面はつながっていて、扉のように開閉する仕掛けになっています。

このような形式の祭壇画は「三連祭壇画」とよばれています。

一般の祭壇画というと、教会内にすえられる巨大なものが多いのですが、この「三連祭壇画」は簡単に持ち運びできるほど小さく、おそらく個人用に作られたものだと考えられます。

しかし、ミニチュア祭壇画とはいえ、この小さな名画には油彩画の創始者と讃えられるヤン・ファン・エイクの、最高の技法が発揮されています。

「ヤン・ファン・エイク」と油彩画芸術のエッセンス

当時、油絵具はすでに発明されていましたが、ヤン・ファン・エイクはこの新画材の可能性を探り、工夫を重ね、誰も及ばない油彩画の技法を完成させたのです。

この作品に描かれている玉座の模様や、右翼に立つ聖カタリナの冠などに見られる驚異的な細密描写も、その技法によって、はじめて可能になったといえます。

ヤン・ファン・エイク40代後半に描かれたこの名画は、18世紀半ばにはすでにドイツのドレスデン美術館に所蔵されていましたが、そのころは、ドイツの巨匠デューラーの作品と思われていました。

しかし、近代の多くの美術史家たちは、この中世の祭壇画にぎしゅくされた精巧な油彩画技法が他でもないヤン・ファン・エイクのものであることを確信していました。

実際、1958年、額縁の洗浄修復のとき、下縁から「ヤン・ファン・エイク1437年われ描き完成す」と記された文が発見され、ヤン・ファン・エイク晩年の作品であることが判明したのです。

 

「三連祭壇画」は個人のために作られた小祭壇画

一般に、祭壇画といえば教会の内部にあっての中央を飾るスケールの大きなものを想像します。

しかし、この祭壇画は縦27.5㎝、横は両翼を含めて37.5㎝で、手提げバックほどの小さいものです。

つまり、これは私的な礼拝のために制作された、個人用の祭壇画だと断言できます。

観音開きの左右の翼をもった、中世以来のこのような形式は、三連祭壇画(トリプティック)とよばれています。

閉じた扉には、大天使ガブリエルが、聖母マリアに神の子を宿したことを告げ、「受胎告知」の場面が描かれています。扉を開くと、中央の画面には幼子イエスを抱いた聖母マリア。

その右に描かれているのは、キリストの花嫁たらんと志した聖カタリナ(アレクサンドリアのカタリナ)です。

左には、大天使ミカエルが、この祭壇画の制作依頼者を、聖母子に紹介している情景が。

通常、寄進者(制作依頼者)の洗礼名と同名の聖人が寄進者を紹介することから、この男はミケーレ(ミカエルのイタリア読み)という名であることがわかる。

また、この祭壇画に描かれている主題を、「受胎告知」、幼子イエス、イエスの花嫁と並べて考えてみると、この絵の依頼者ミケーレの祝婚画として描かれたと考えることができます。

 

 

「ルネサンスを超えた」中世の画家ヤン・ファン・エイク

ヤン・ファン・エイクが活躍したフランドルの町ブルージュ(現在はベルギー)は、15世紀当時、ヨーロッパにおける貿易の中心地のひとつで、あらゆる商品が行きかう商業都市でした。

ヤン・ファン・エイクが仕えたブルゴーニュ公フィリップ善良公の宮殿は、ヨーロッパで最も華麗で、最も洗練された宮廷と言われていました。

ヤン・ファン・エイクの伝記、とくに若いころの経歴は謎に包まれています。

1390年頃に生まれたと考えていますが、ヤン・ファン・エイクの名がはじめて記録に現れるのは1422年のことです。

したがって、ヤン・ファン・エイクが絵画技術をどのようにして身につけたのかもわかりません。

しかし、とにかくこの名画が描かれた1437年頃には、ヤン・ファン・エイクの名声はアルプスを越えて、美術の本場イタリアにまで知れ渡っていたのです。

このころイタリアといえばルネサンスが始まり、文化史上最高の収穫期を迎えようとしていました。

しかし、このルネサンスの波動が届かない北方のフランドルで、ヤン・ファン・エイクは独自の創意工夫と技術的な努力によって、中世を脱却し、新たな時代を築こうとしていました。

とくに遠近法は、この頃フィレンツェで完成しますが、ヤン・ファン・エイクは理論ではなく、経験的にすでにこの技法を獲得し、習熟していたことが、この作品に見ることができます。

 

「ヤン・ファン・エイク」と「デューラー」

1521年、北方ルネサンス最高の巨匠デューラーは、たった1枚の絵を見るために、わざわざベルギーの都市ゲントに赴きます。

目当ての絵はシント・バーフ大聖堂にあるヤン・ファン・エイクの「ゲントの祭壇画」でした。

完成してから100年を経たこの絵画を見たデューラーは、「驚嘆(きょうたん)すべき絵」と叫んだと言われています。

デューラーの偉大さは、イタリア・ルネサンスの精神を正確に理解し、その世界を、北方絵画に特有の細密描写によって完成したところにあります。

そのデューラーを驚嘆させ、北方の細密描写の水準を、押し上げた画家ヤン・ファン・エイクは、デューラーに最も影響を与えた、偉大な先達でした。

 

並ぶものなき「ヤン・ファン・エイク」の油彩画技法

完璧な遠近法によってとらえられたロマネスク様式の教会堂の内部。

そこには巧みに人物が配され、その細部にいたるまで徹底的に描きこまれています。

ヤン・ファン・エイクが到達した油彩技法は、「油彩絵具の発明者」という伝説を生んだ完璧なものでした。

そして、その後これだけの技術を身につけた画家は一人もいません。

例えば、描かれてから100年ほどしか経たない印象派の作品でさえ、画面が傷んでいるものは珍しくありません。

しかし、ヤン・ファン・エイクの作品はこの祭壇画も含め500年以上たった現在も、描かれた頃のままの色彩の輝きをみごとに保っています。

 

「三連祭壇画」は絵画史上どのような意味をもつのか

ヤン・ファン・エイクは、フランドル絵画の始祖とされ、同時代のイタリアの画家をふくめても、15世紀最も傑出した画家の一人に数えられるでしょう。

ヤン・ファン・エイクの初期の画業は不明な点が多く、いかにしてこの「三連祭壇画」ほどの画境に到達したのかははっきりわかっていませんが、その神業的な技巧と創意に満ちたメティエは、デューラーをはじめとする北方ルネサンスの画家たちに影響を与えてす。

(アルブレヒト・デューラー自画像)

また18世紀には、ドイツ・ロマン派の画家たちが深い影響を受け、ルネサンス期のイタリアでもヤン・ファン・エイクの作品は、熱心に収集されていました。

しかし、ヤン・ファン・エイクの業績でそれ以上に特筆すべきは、油彩技法の完成でした。

それまで、タブローには、テンペラ(顔料を卵黄で溶いた絵の具)を用いるのが主流でした。

しかし、ヤン・ファン・エイクが油彩技法を確立し、まったく新しい表現の世界を開いたことによって、油彩がテンペラにとって代わり、いまだにこれを越える画材は生れていないのです。

この油彩画の技法は、北方との交易が盛んなヴェネツィアにもたらされ、油彩画によってのみ可能なみずみずしくつややかな表現は、ヴェネツィア派に影響を与え、やがて多くの画家たちに受け継がれていったのです。

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テソン

画家活動をしています。西洋絵画を専門としていますが、東洋美術や歴史、文化が大好きです。 現在は、独学で絵を学ぶ人と、絵画コレクター、絵画と芸術を愛する人のためのブログを書いています。 頑張ってブログ更新していますので、「友達はスフィンクス」をよろしくお願いします。