「フラゴナール」軽妙で官能的な画家

ジャン・オノレ・フラゴナールはフランス・ロココ美術の大画家です。

ポンパドール夫人に寵愛されたフランソワ・ブーシェに4年間師事したのち、

念願のローマ賞を受賞して、1756年にイタリアに留学。

その地で、精気あふれるイタリア・バロックの絵画作品に深い感銘を受け、

とりわけティエポロとピエトロ・ダ・コルトーナを敬愛するようになった。

パリに戻るや、歴史画の大作1点をもってアカデミー会員の地位を勝ち取り、

同作品はサロンでも賞賛されます。

しかし、彼はもっと小規模で親しみやすい作風へと身を転じ、

もっぱら官能的な主題を手がけて、パリのブルジョワ階級のあいだに確固とした地歩を築きます。

晩年はフランス革命の到来とともにフラゴナールの人気は凋落し、

世に忘れ去られたまま没する。

 

 

フラゴナールの幼少期

ジャン・オレノ・フラゴナールは1732年4月5日、

フランスのプロヴァンス地方の村グラースに生まれました。

南仏プロヴァンスの実り豊かで多彩な風景がフラゴナールに決定的な影響を与え、

明るい色彩の好みを育んで、のちの多くの作品に見られる華麗な背景を生みことになる。

また、牧歌的な地中海の風土は陽気で屈託のない気質を育むのにも役立ったとみえ、

そのおかげで彼は友人やパトロンからおおいに愛される。

フラゴナールがまだ幼少のころ、手袋製造を職としていた父のフランソワは、

蒸気ポンプの利用を画策したがうまくいかず、全財産を失ってしまう。

1738年、一家は建て直しをはかるためにパリに移り、フランソワは小間物商人の手伝いの仕事を得、

フラゴナールは(15歳)パリの法律事務所に下級事務員として働きに出された。

しかし、彼は決まりきった日課になじめず漫画を描いて時間をつぶしていたので、

とうとう雇い人が美術教育を受けさせてはどうかと両親に進言します。

すると母親は息子をフランソワ・ブーシェの工房に連れていきました。

(ブーシェは官能的、牧歌的な作風で人気を博していた画家である)

だが、ブーシェが未経験な弟子を受け入れたがらなかったので、

フラゴナールは繊細な描写の風俗画を得意とする優れた画家ジャン・パティスタ・シャルダンに弟子入りする。

シャルダンは現代版画を模写して学ぶよう弟子たちにすすめ、自分の入念な技法を教え込んだ。

フラゴナールはたちまち厳格な訓練に嫌気がさし、6ヶ月にしてシャルダンの工房を飛び出して、

パリ各所の聖堂や個人コレクションの絵画作品を模写しながら独学で修行を続けました。

 

結局のところ1748年に、ブーシェは彼に弟子入りを許した。

ブーシェは当時、人気の絶頂にあった。

ルイ15世の愛人だったポンパドール夫人お気に入りの画家で、

華麗な装飾を施した彼のパネル画にはおびただしい注文が寄せられていたのです。

この師はフラゴナールに型にはまった美術教育はほとんどせず、

工房が有名なゴブラン工場のための手がけていた大規模なタピスリーのデザインをさせたらしい。

ブーシェは明らかにフラゴナールの才能に着目しており、

弟子がアカデミックな訓練を欠くのにもかかわらず、

1752年にはローマ賞に応募するようにすすめている。

フラゴナールは持ち前の技量を発揮して、

要求されるような「グランド・スタイル」で宗教画を描いて最初の挑戦でみごと受賞し、ローマ行きの切符を手に入れます。

 

 

 

イタリアでの修業

1756年12月、彼は学生仲間とともにローマに到着した。

一団のなかには、ブーシェの弟子で娘婿のジャン・パティスト・デエの姿もあった。

ローマでの最初の数年間は心が落ち着かず、無為のまま過ぎた。

フラゴナール自身が告白しているところによれば、ラファエロミケランジェロの作品に圧倒されて自信を失い、伝統的な訓練である石膏像デッサンと古代彫刻の模写に苦痛を感じたという。

彼はもっと自由で喜びあふれたバロックの大画家たちのほうに親近感をおぼえ、17世紀の画家ピエトロ・ダ・コルトーナの作品を何点か模写したりしている。

ローマのフランス・アカデミー院長シャルル・ジョゼフ・ナトワールは開けた思いやりある人物で、フラゴナールの進歩の度合いを気づかないながらも、わが道を進むにまかせた。

だが、フラゴナールが真に自己の才能にめざめたのは、1760年にサン・ノン修道院長の寛大な庇護を得てからだった。

この修道院は富裕で愛想がよく、熟達したアマチュア画家でもあり、イタリア文化への認識を深めようとローマに滞在していた。

おそらくナトワールの紹介でフラゴナールに会った彼は、軌道にはずれているにしてもすばらしいその画才を認め、旅費を出すからいっしょにヴェネツィアに旅しようとフラゴナールを誘ったのだった。

旅立つ前、彼らは有能な風景画家ユベール・ロベールとともにティヴォリの荘厳なヴィラ・デステで夏を過ごし、以来ロベールはフラゴナールの親友の1人となった。

ティヴォリから、3人そろってヴェネツィアを訪れました。

そのあと、フラゴナールは1人でナポリに旅し、いやまさる信念をもってバロックの巨匠たちをペンとインクのデッサンに模写をしました。

これらはのちにサン・ノン修道院の出資で出版刊行される。

1761年の秋に、フラゴナールとサン・ノン修道院長はパリに戻った。

つづく数年間、フラゴナールは比較的無名のままに活動し、風俗画と牧歌的風景画を手がけ、ティボリでのスケッチを「ティボリのヴィラ・デステの庭」のような画面に仕立てた。

しかし1765年に、メロドラマ風の歴史画の大作「コリロエーを救うために自害する大際司コレシュス」

によって彼は初めて公的な成功を得ます。

この作品はフラゴナールにアカデミー会員の地位をもたらし、パリのサロンでも熱狂的に迎えられ、特に、ブーシェの手厳しい批判家として有名な批評家ドニ・ディドロに絶賛されました。

だが、フラゴナールはこの成功のあとを追わなかった。

王室建造物局長が絵のタピスリーに仕立てるように注文したが、王国財務局からの支払いは遅れ、彼はまもなくもっとお金のもうかる絵画制作のほうに向かうようになった。

 

 

 

官能的な作品

このころまでに、フラゴナールはすでに官能的な場面を描く画家という名声を得ていたらしい。

というのも、1766年にサン・ジュリアン男爵から、現在「ブランコ」の題名で知られる艶めいた作品の依頼を受けているからである。

これ以後、女優、金融業者、富裕な美術愛好家たちの客間や私室を飾る、色恋を扱った官能的なテーマの注文が相次いだ。

フラゴナールが歴史画を断念したのは、単に財政上の理由だけによるのではなかった。

彼は名人芸的なテクニックの冴に恵まれており、想像力に足枷はめずに素早く描くとき最も本量を発揮できたからだった。

そして中産階級のパトロンたちはうるさい注文をつけなかったため、サロンという厳格で気取った世界よりも画家の自由裁量が大幅に許容されました。

とりわけ重要なのは、自分がいちばん気楽にやれる軽い主題を追求できるという点であった。

フラゴナールは知識人ではなく、実務的で活動的に富んだ人間であり、生来の魅力と人を楽しませるウィットを兼ね備えていた。

友人たちからは「愛すべきフラゴ」と呼ばれて誰からも愛されたらしく、ある同時代人は彼のことを「丸々と太っていながら小粋で、いつも明るく陽気だった。健康的なバラ色の頬と輝く瞳をもち、豊かな灰色の髪を乱れるままにしていた」と書いています。

人となりの魅力に加え、あけっぴろげなユーモア感覚と芸術に対する現世的な姿勢が彼の人気を高めるのに役立った。

知人の1人はこう述べた。

「彼は根っからの画家であり、芸術の悪魔にひどくとりつかれていると感じており、彼自身の言葉だからそのままの言い回しで言うと、「もし必要なら、私はお尻でだって描くよ」と言ってのけた」。

1767年、フラゴナールは2度目にして最後となるサロン参加として、デッサン数点、頭部像1点、プットの群像を描いた小品1点を出品したが、批評家たちはひどく失望させられた。

ディドロはプットの群像を「うまく調理されたオムレツ」とけいべつをこめて語り、翌年にはブーシェの弟子たちは筆の握り方やパレットの持ち方も知らないのに、子供たちからなる花輪を編もうとし、丸ぽちゃでピンクのお尻を描くとか、あらゆる類の無節操にふけっている」と批判文を記している。

それにもめげず、フラゴナールは「待ちこがれるとき」などエロティックな傑作の数々を生み続け、同時に一連の「演出肖像画」エキゾチックな衣装を身に着けた友人やパトロンの肖像画を驚くべき妙技とスピードで描き続けた。

 

 

幸福な家庭

1769年にフラゴナールは結婚をしました。

新妻のマリー・アンヌ・ジェラールはグラース出身の香料製造業者の姉妹で、絵を習いにフラゴナールのもとに通っていた。

結婚生活はわりあい幸福だったけれども、マリー・アンヌが愛嬌のない女性だったため、フラゴナールはのちに彼女の美しい妹マルグリットのほうにはっきりと好意を示すようになった。

同時代人の証言によると、フラゴナール夫人は「とても背が高くてうんと太った、ごく庶民的な女性であり、若さのなごりを残すわずかな魅力も、なんともけばけばしい化粧で台無しにしていた」らしい。

1775年にマルグリットはフラゴナール家に同居し、絵も習い始めた。

彼女は姉の醜さに半比例してチャーミングで、みんなに好かれ、「特にフラゴナールおじさんに」愛された。

1770年代初期に、フラゴナールの最高傑作のうちの何点かが世に出ます。

1771年、ディ・バリー夫人(ポンパドール夫人に代わって、ルイ15世に愛されていた)がルーヴシェンヌの自分の城館の庭に新しく設けた東屋を飾るため、4点の装飾品を彼に注文する。

この「恋の追求」連作はすばらしい出来ばえだったにもかかわらず、思いがけなくも1773年に送り返され、新しい擬古典的な様式の無味乾燥な絵に取り替えられてしまいフラゴナールはひどく落胆したという。

絵を受け取り、申し出のあった支払いも受け取りを拒否して、以降この件についてはかたく口を閉ざした。

 

 

画風の変化

1773年末、フラゴナールはぺルジュレ・ド・グランクールからの旅費提供を得て、再びイタリアに赴いた。

ぺルジュレは富裕な金融業者で、大切なパトロンとなる人物でした。

帰国すると、彼は再度目にしたイタリアの風景を背景にとり入れてみごとな構想画のシリーズを生み出し、その代表例である「ブランコ」と「目隠し遊び」はともにサン・ノン修道院長の所有するところとなります。

この時期にはまた、ひょっとするとマルグリット・ジェラールに影響されてか、彼の作品のなかでは最も繊細な魅力に富む女性像も何点か描いている。

「読書する娘」はその代表例といえる。

1780年までに、フラゴナールのいちばん多作な時代は終わりを告げ、

さかのぼる10年間のあいだに、官能的な絵に対する需要がしだいに減っていったのです。

フラゴナールの華麗で装飾的な作風も、新古典主義の流行のもとに時代遅れとなり、他方、新しい様式はフランス革命へと続く時期におおいに人気を博した。

1789年に革命が勃発し、フラゴナール自身は劇的な変化をこうむらなかったものの、恐怖政治のあいだ彼は家族を連れてグラースに避難します。

一家は1791年の3月にパリに戻り、翌年、息子のアレッサンドル・エヴァリストがジャック・ルイ・ダヴィッドの工房に弟子入りした。

ダヴィッドは新古典主義の最高の体現者であり、当時のフランスで最も影響力をもつ画家となっていた。

芸術観が根本的に違うにかかわらず、ダヴィッドとフラゴナールは仲がよく、1793年にダヴィッドは、新しく組織された美術館委員会の主要ポストに年長のフラゴナールを推挙しました。

委員会の目的は美術品の国有財産化を確立することにあった。

この地位からの所得と、たまに肖像画や家族の情景を描いて得る収入とで、フラゴナールはかなり安楽な暮らしができ、ルーヴル宮内の居室を自由に使う権利を与えられた。

しかし、1799年には委員会の職務を剥奪され、6年後ナポレオンがルーヴル宮殿内の美術館拡張を決定するや、その居室も明け渡さなければならなかった。

フラゴナール夫妻とマルグリット・ジェラールはパレ・ロワイヤル内に間借りし、彼はそこで貧しく忘れられたまま翌年まで暮らします。

1806年8月22日に、フラゴナールはこの世を去った。

ジャン・ド・マルスへの散歩から帰り、暑気を払おうとアイスクリームを食べた直後のことでした。

 

 

 

活気に満ちた画面

1758年8月30日、ローマのフランス・アカデミー院長シャルル・ジョセフ・ナトワールは王室建造物局長に手紙を寄せ、フラゴナールの画法の進展具合について報告している。

それには「フラゴナールは次から次へと手法を変える、仰天するほどの才能を有し、そのため彼の作品にはむらがある」と記されている。

院長はさらに、この若い画家がせっかちで情熱にまかせがちでありすぎ、古大家を充分性格に模写する忍耐心に欠けるとも書いた。

この多芸ぶりと生来の短気こそが、フラゴナールの絵を理解する鍵となる。

それと同時に、画家として彼を分類することを困難にもしている。

というのも彼は、じつに多様な手法を駆使して、みごとに即興的な演出肖像画から「恋の追求」に見られる入念な細部表現と繊細な仕上げまでをこなしえたからだ。

また、多様な主題を自由に描き分けもした。

有名な官能画はもちろん、風景画と肖像画を描かせても巧みだった。

さらには想像力に富む挿絵画家であることも立証してみせ、アリオストとラ・フォンテーヌの著作のために精力的に挿絵を提供した。

ただし、これらの著作はフラゴナールの生前には出版されず終わった。

 

 

フラゴナール絵画の眩惑的なぼかし

多芸多才であったとはいえ、フラゴナールの力量が最高に発揮されたのは、官能画と演出肖像画を素早い素描風の手法で描くときでした。

官能画は彼の業績のごく一部にすぎないけれど、この分野においてこそその手法が最大限に活用されている。

たとえば「待ちこがれた時」において、人物は数本の手早い筆さばきでざっと形どられています。

肉体の輪郭線を十全には引かず、素早くとらえどころのないタッチで塗り分けており、その筆遣いが画面に活気と動きを与えている。

この素早い、漠然と描く手法によって、フラゴナールの官能的な作品は低俗なポルノグラフィティーにおちいるのを免れている。

19世紀の批評家ゴンクール兄弟(エドモンとジェール)がフラゴナール作品の特徴をきわめて巧みに要約しています。

「フラゴナール芸術における表現の大胆さのことごとくは、慎み深い画面処理の下に半ば隠れ、身をふるわせている。

この慎み深さは、裸体が揺らめいてほとんど目に映らず、女性の姿は眩惑的なぼかしによっておおわれているといった、スケッチのような表現をとることに現れている」。

 

 

官能的とウィット

別の意味で、この「眩惑的なぼかし」はフラゴナールの作品の官能性を高めています。

たとえば「盗まれた夜着」では、キューピッドが娘の夜着をはぎ取り、彼女の肉体は薄い紗のカーテンの背後にあるかのようにぼんやりとしか映らないが、それだけに見る者の想像力をかきたてる。

「待ちこがれた時」においては、有頂天の恋人たちの輪郭がじれったいほどあいまいにぼかされ、2人は乱れたベッドのうねりのなかに溶け込んでいく。。。。

官能的と慎み深さ、エロティシズムとウィットのみごとな組み合わせが、

フラゴナールの想像力と名人芸であり、いわゆる演出肖像画の目新しい表現になっています。

そのうちの2点については1時間で描き上げたと自ら公言している。

これらの肖像画は18世紀フランス美術の中で独自な存在であり、その正確な意味合いは今日でも充分に解明されていません。

それらは主として男女の半身像であり、必ずしもすべてのモデルが特定できるわけでなく、おしなべてエキゾチックな衣装を身につけ、しばしば本や楽器など寓意的持物を思わせるものが添えられている。

目新しさはまた、フラゴナールの類まれな筆の冴にもみとめられる。

画像が数少ない色筆の断片で荒っぽく描かれ、厚い絵の具が猛烈なスピードで塗られていて、

モデルの内に秘めた活力と躍動感が伝わってきます。

「霊感」と呼ばれる作品はおそらくサン・ノン修道院長の肖像であろうが、フラゴナールのほとばしるような筆遣いは、ミューズの声に耳を傾けようと書く手をとめた瞬間のモデルの創造力と緊張感の表現となりえている。

 

 

 

ロココ様式

フラゴナールの芸術はロココ様式の最後の花といえます。

ロココ様式とは本来、1710年から40年にかけて流行した室内装飾のスタイルのことであり、ルイ14世からヴェルサイユ宮殿で享受した壮麗な建築と重圧なインテリアに対する反動という面ももっていました。

以前と対照的に、ロココ様式の室内装飾家たちは小さく軽快で優美などで活気を添え、ところどころに人物や花をモチーフにしたスケッチ風に描かれた絵を飾った。

絵画におけるロココ様式とその軽妙な主題は、こうした装飾形式を補うものとして生み出されたのです。

フラゴナールの作品の大半も、たいてい湾曲した扉枠の上など特定の場所を意図してデザインされており、鏡と湾曲パネルのあいだとが元来の場所に置かれて初めてその真価を理解できる。

ロココ様式の最も典型的な芸術家がフラゴナールの師ブーシェである。

彼は、新しい美術購買層として台頭してきた都会のブルジョワ階級に絶大な人気を博した。

オルレア公の時代(1715年~23年)とルイ15世の治世の初期に、深刻な経済不安を利用して投機家と金融業者たちは富を築いています。

貴族階級のパトロンだったため、ブーシェもフラゴナールもそこに格好のマーケットを見いだしたのです。

ブーシェが描く官能的で牧歌的な情景は、大部分が裸のニンフや優雅な衣装の「田園人たち」が集う住古の田園と空想世界の眺めだ。

フラゴナールの偉大な業績は、この伝統に新たな活力と生命を吹き込んだことであり、ブーシェの理想化された女神に代えて生身の陽気な女性像を登場させ、恋人たちが果てしなく恋のかくれんぼを演じているさまを描いた。

「ぶらんこ」のような装飾画の大作も同様の活気に満ちており、優雅な人物たちがまばゆいばかりの幻想風景のなかで暇を楽しんでいる。

 

 

 

名画の構成「ぶらんこ」

フラゴナールは1766年にサン・ジュリアン男爵から、ぶらんこの場面を描いてほしいと依頼される。

この注文は最初、歴史画家ガブリエル・フランソワ・ドワインのもとに寄せられました。

パリのサロンに展示された彼の宗教画の1点が、男爵の目にとまったからです。

男爵は画家にきわめて明確な注文をつけました。

自分の愛人がぶらんこに乗り、1人の司教が揺らしている場面を描いてほしいというのだったのです。

「私については、構図のどこか、このかわいい女の脚がじっくり眺められる位置に登場したいものだ」と彼は言った。

ドワイヤンは驚愕して依頼を断り、フラゴナールに頼めと言い返します。

フラゴナールは喜んで引き受け、ただし司教のかわりに女のにこやかな夫を配する条件をつけた。

フラゴナールは持ち前の軽妙さとウィットで画面を組み立て、男爵の注文に数々の楽しいディテールを加味した。

前景で興奮する愛犬、困惑した表情のプットたち、唇に指を押しあてたキューピッドなどが抗いがたいユーモアを醸すと同時に、画家は豊かな空想の要素ももち込んだ。

広大な異国趣味の庭園には、噴水、東屋、木陰で抱擁する恋人たちの姿がぼんやりと見えて、画面に夢のなかの出来事のような感じを与えています。

この効果は、のちの「ランブイエの宴」に見られるおとぎ話のような世界を予感させる。

 

 

まとめ

フラゴナールの諸作品は、革命前のフランスの浮ついた世相を要約しているといえる。

主題はほぼ一貫して軽妙、エロティックなものであり、それがあまりにみごとに活写されているので、我々が画面を見るとき感じるのと同じ喜びを、画家もそれらを描くことで楽しんでいたのだと思わざるえないほどです。

彼は風景画にもきわだった才能を示しました。

ひと夏をすごしたティヴォリのヴィラ・デステが終生脳裏を離れなかったらしく、その幻想的な情趣は「目かくし遊び」といった円熟期の作品にも再び用いられている。

晩年のフラゴナールは刺激的な主題が時代遅れだと悟り、「読書する娘」に見られるように、女性の美しさをもっと穏やかで抑制のきいた画面に表現しうる技量を示した。

フラゴナールの想像力ある名人芸は、演出肖像画の目新しい表現になっており現在の我々にも

大きな影響を与え続けている。

ABOUTこの記事をかいた人

画家活動をしています。西洋絵画を専門としていますが、東洋美術や歴史、文化が大好きです。 現在は、独学で絵を学ぶ人と、絵画コレクター、絵画と芸術を愛する人のためのブログを書いています。 頑張ってブログ更新していますので、「友達はスフィンクス」をよろしくお願いします。