ウジェーヌ・ドラクロワはフランス・ロマン主義を代表する画家です。
有名な政治家タレーランの私生児といううわさもあり、若くして国家からなみなみならぬ支援を受けたことによって、その陰で糸を引く有力者がいるように思われていました。
彼は上流社会に出入りし、寵児となりましたが、その人間的魅力の裏には激しい炎のような気性が隠されていました。
友人たちは、ドラクロワの優雅さと獰猛さを虎になぞらえてサロンの虎といっています。
年譜
- 1798年 シャラントン・サン・モーリスに生まれる
- 1805年 父死亡
- 1814年 母死亡
- 1816年 エコール・デ・ボザールに入学
- 1818年 ジェリコー作品に感銘を受ける
- 1822年 「ダンテの小舟」がサロンで話題となる
- 1822年 「キオス島の虐殺」をサロンに出品
- 1825年 イギリス訪問
- 1832年 北アフリカを半年にわたって歴訪
- 1833年 政府から最初の大がかりな制作依頼を受ける
- 1844年 フォンテンブロー近くに家を借り、パリまで通う
- 1857年 美術アカデミー会員となる
- 1861年 サン・シュルビス礼拝堂の壁画完成
- 1863年 パリにて死亡
「ドラクロワ」の幼少時代
フェルディナ・ヴィクトール・ウジェーヌ・ドラクロワは1798年4月26日、パリ近郊のシャラントン・サン・モーリスで生まれました。
母親のヴィクトワールは、宮廷の家具職人として有名な一族の出身であり、夫のシャルル・ドラクロワは革命政府の高官として、1793年ルイ16世処刑にも票投じています。

シャルルは外務大臣もつとめたが、1797年オランダ大使に降格されて、ウジェーヌが生まれたとき彼はフランスにおらず、最近の研究ではシャルルは実の親ではないという説が生まれています。
噂によると本当の父親はもっと権勢のある人物とのことでした。

というのも、シャルルに代わって外務大臣になったのが、ドラクロワ一家のよき友人であり、当時有数の花形政治家であったタレーランだったからです。
偉大なタレーランがシャルルの地位を奪ったのみならず、その妻をも・・・しばしのあいだ・・・奪ったのではないかと思われます。
シャルル・ドラクロワはオランダから帰国すると、ジロンド県の知事に任命され、一家はボルドー地方に引っ越します。
ボルドーの小学校での日々は、彼にとってあまりにも面白くなかったようです。

ドラクロワは音楽の才能を示し、モーツァルトを知人に持つ町のオルガン奏者から、ヴァイオリニストになることをすすめられました。
しかし、1805年、ウジェーヌが7歳のとき父親が亡くなり、数か月後に一家はパリに戻ります。
ウジェーヌはリセ・アンぺリアルに入学し、まずまずの成績をおさめて文学にうちこみます。
休日にはノルマンディーに出かけて、古いゴシック修道院で過ごし、その地に残る絵のように美しい廃墟に強い印象を受けました。
彼はスケッチ画を描き始め、才能ある画家でもあった叔父リーズネールに励まされました。

1814年母が死亡し、ウジェーヌは深い悲しみを味わいます。
直後に姉のアンリエットのところに移り住むと、姉がひじょうに金がかかる裁判沙汰に一家が巻き込まれ家族全員が生活できなくなり、ドラクロワは古典派の画家ゲランのアトリエに弟子入りし、画家としての修行することになりました。
「ドラクロワ」の古典の訓練
1816年、ドラクロワはエコール・デ・ボザール(国立美術学校)に入学します。
そこは新古典主義の牙城で、厳格な指導方針のもとに、古代ギリシャ・ローマ彫刻を模倣した石膏像の写生とヌード・モデルのデッサンからなる教育を行っていました。

しかし、ゲランのアトリエにはテオドール・ジェリコーという青年がいて、あくまでも個性的な絵画表現をしようと考えていました。
1818年、ドラクロワはジェリコーが当時の海難事故を題材にしたドラマティックな大作「メデュース号の筏」を制作しているさまを目にします。

(ジェリコー作 メデュース号の筏)
本人がのちに語ったところによると、ドラクロワはひどく感激し、ジェリコーのアトリエを出ると「一目散に駆け出して」自室にもどった、といいます。
この出会いの成果が1822年、ドラクロワの最初の大作となって現れます。
彼は、その作品を官展であるサロンに出品します。
当時は、毎年開かれるサロンで成功をおさめることが、若い画家の経歴に欠くことのできない要素でした。

ドラクロワはこの勝負に賭ける心持ちで、異例なテーマによる超大作「ダンテの小舟」を完成させ、伝統的な古代ギリシャの英雄ではなく、ダンテの「神曲・地獄編」題材に決め、発表されるとセンセーショナルを巻き起こしました。
ナポレオンのお気に入りのグロ男爵が自費でこれを額装におさめ、国家が買い上げて、リュクサンブール宮殿の画廊に展示させました。
ロマン主義運動と「ドラクロワ」
ドラクロワは意気揚々と美術学校を卒業すし、24歳で野心に燃え、自己の才能に確信をもっていました。
このころからドラクロワは日記をつけ始め、自分の心の動き、体験、考えに分析を加えています。

当時盛んだった芸術論にも加わり、「ロマン主義」の作家に夢中になっていました。
彼らはアカデミックな伝統と正確さに背を向け、この世の体験に対する個人の感情や反応のなかに真実を求めていました。
ドラクロワのサロン出品第2作「キオス島の虐殺」には、その新しい関心事が繁栄されています。

この大作に描かれているのは、ギリシャ独立戦争においてごく最近起こった流血事件でした。
援護者のグロ男爵は、ドラクロワの反対にまわり、この絵を「絵画の虐殺」だと非難しました。
しかしドラクロワ支援者も多く、大物若手画家として彼に一目おくようになります。

それから数年間はロマン主義の全盛期で、ドラクロワはロマン主義運動の中心的画家とみなされるようになりました。
ドラクロワの知人のなかに、リチャード・バークス・ボニントンというイギリス人画家がいて、彼が中世の歴史の一場面を題材に描くときの、明るく澄んだ色彩をドラクロワはおおいい賞賛していました。
ドラクロワはサー・ウォーター・スコットの作品を愛読し、イギリスの影響を受けています。

1825年には数か月間イギリスに滞在し、サー・トマス・ローレンスやデイヴィッド・ウィルキーといった画家を訪ね歩いています。
テムズ川で舟遊びをし、緑濃いイギリスの田舎風景を楽しんだことが日記に記されていて、ジョン・カンスタブルの作品にも深く感動していますが、かといってドラクロワ自身が風景画をしばしば描く気になるほどではなかったようです。
ロマン主義の真髄
1827年ドラクロワは、サロン第3作を出品しました。
この作品には、パリにおけるロマン主義の精神が、ほかのどの作品よりもよく表れています。
「サルダナバールの死」の構想は、バイロンの詩の誘発されたものですが、その壮絶さと奔放なエロティシズムは、まぎれもなくドラクロワのものです。
批評家たちは驚愕のあまり、ドラクロワに「才能を正しく使い、過激な作品に浪費しないよう」要請しました。
ドラクロワ本人も、自分のなかの柳圧された官能性がこの作品に表れているのを見て、ショックを受けます。

彼はそれまでずっと、節度や統制のない絵には嫌悪感をいだいていたのでした。
おそらくこのときのドラクロワは、自身の官能的な体験に取りつかれていたともいえます。
若いころのドラクロワは、さまざまな恋愛を経験して、姉の女中をしていた英国娘のエリザベス・ソルター、それともう1人、従姉妹のジョセフィーヌ・ド・フォルジェ(ほぼ30年間親交が続いた)との仲が伝えられています。

しかし年をとるとともに、女性との関係は、セックス抜きのまじめな友情に変わっていきました。
ドラクロワは孤独を好み、作品の制作に没頭するようになり、健康状態が大きな問題でした。
1820年頃から、熱を出して寝込むこともあり、生涯を通して咽頭炎の持病をかかえていたドラクロワは、ときにはそれが悪化して体力と気力が低下することもありました。

ドラクロワは、エネルギッシュな人間のわりに小柄できゃしゃな体格であり、一心不乱に制作したあとはしばらく休息期間をとらなければならないことも多かったといいます。
「ドラクロワ」の大成功
1831年サロンに「民衆を導く自由の女神」を出品しますが、これは現在、フランスでは最も有名な作品です。
前年の1830年、「市民の王」としてルイ・フィリップを王位に就かせた七月革命が起こったが、その栄光をたたえて記念するためにドラクロワは熱意をこめてこの作品を制作しました。

作品は、大成功をおさめて「官学派」の真の偉大なリーダーであり、ドラクロワのライバルにあたるジャン・ドミニク・アングルが主導する古典主義や、エコール・デ・ボザール出身者の作品と、各分野の画家たちのなかで、ドラクロワはずば抜けた地位をしめることとなったのでした。

そしてこのころ使節団の随員に選ばれ、モロッコ、スペイン、北アフリカを訪れ「短期間で、パリに暮らす年月の20倍の体験をした」とドラクロワは記しています。
脳裏に焼き付いたイスラム文化の鮮やかな記憶と、山のようなメモやスケッチは、のちの画業に豊富なインスピレーションを提供してくれました。
政府の依頼による制作
帰国すると、フランス政府から記念碑的大作の注文が次々に舞い込みます。
小ぶりのイーゼル画は、絶えず手がけていたものの、ドラクロワはこののち、エネルギーの大半を大画面の装飾画制作に費やすことになるのです。
最初の仕事は、ブルボン宮殿の「国王の間」の装飾画で、1833年から37年までかかり、次はブルボン宮殿の図書室に9年間(1838-47年)、リュクサンブール宮殿の図書室に7年間(1840-47年)を費やしています。

1850年から51年にかけては、ルーブル宮殿の「アポロンの間」の装飾画を描き、続いてパリ市庁舎の「平和の間」を担当(ドラクロワによる壁画は1871年のパリ・コミューンの反乱で破壊された)、そして1849年にかけて、サン・シュピス大聖堂天使礼拝堂の装飾を担当しました。
そのためには何か月も休みなく、天井や壁の大画面を埋めるためのスケッチに取り組み、下絵デッサンや無数のスケッチを繰り返し、多くの助手たちを統率しなければならなかったのです。

ある友人はこう書いています。
「それがどれほどの労働であるかを知るためには、1日の仕事が終わったときのドラクロワの姿を見ておくべきだ・・・・・
青ざめ、疲労困憊し、話すこともできず、やっと拷問から逃れられたというように人体をひきずって歩いていた」こうした作業のかたわら、ドラクロワは忍耐強く日記をつけ、新聞や雑誌に多数の文章を書き、末刊に終わった美術辞典を編纂し、おもに北アフリカ旅行を題材にした何百枚にものぼる作品を描き続けまた。

しっかり者の家政婦
ドラクロワは中年になると、制作に追われてあまり社交界に姿を見せなくなり、信頼できる家政婦だったジェニー・ル・ギューが、ますます引きこもりがちになったドラクロワを用心深く世話していました。
1844年からは、仕事で消耗し病気がちの体の回復をはかるため、フォンテンブロー近くの森のなかにあるシャンプロゼーに家を借ります。

ここからパリのノートル・ダム・ド・レット街にあるアトリエまで、彼は毎日通うのでした。
1855年、50代も半ばを過ぎたころ、ドラクロワの大がかりな展覧会が開かれ、絶大な賞賛を受け、同年、名誉メダル大賞を受賞し、レジオン・ドヌール三等勲章をも受勲しました。

1857年には名誉ある美術アカデミー会員に選ばれ、1859年のサロン出品は、ドラクロワの最後のサロン参加となりました。
出品作が批評家からつまらない攻撃を受け、ドラクロワは初期には多数の作品を送り込んだサロンと縁を切る決心をしたのでした。
そのころから、ドラクロワはパリのアパートに住み始め、相変わらず地方の田舎で過ごす時間も多かったがかったが、めずらしく数か月間の健康に恵まれ、サン・シュルピス礼拝堂の装飾を完成させても、いまやその完成を目にする人はほとんどいませんでした。

いたく失望したドラクロワは、シャンプロゼーに引きこもっていました。
1863年8月13日、パリのアパートに戻っているときに喉の病気がぶり返し、ドラクロワは帰らぬ人となったのです。
享年65歳
「ドラクロワ」の大胆な筆使いと輝く色彩
ドラクロワの遺言によって、作品のいくつかは親族や友人に贈られ、大半は売却されることになりました。
遺言執行人がアトリエに入ってみると、信じられないほどの作品が残されていました。

総数9140点を下らないほどあり、油彩が853点、パステル画が1525点、デッサンが6629点で、ほかにも多数の彫刻、リトグラフ、スケッチブックなどがありました。
このことからいかに、ドラクロワがエネルギーにあふれ、多作であったかがわかるだけでなく、この画家の制作過程においてデッサンがいかに重要な位置を占めていたかをうかがい知ることができます。

1枚の大作を仕上げるために、何百枚という下絵殺習作が積み重ねられたのです。
こういう手法を、ドラクロワは美術学校で習得し、ギリシャ、ローマ美術はもちろん、盛期ルネサンスのミケランジェロやラファエロ、17世紀のプッサンとルーベンスを中心とする巨匠の作品を緻密に研究しました。

「ドラクロワ」の制作の過程
サロンに出品する作品を描くとき、まずドラクロワは心に浮かんだ全体像をスケッチし、対象物の角度や位置は、幾とおりも描いて満足できる構図がまとまると、職業モデルを雇い予定のポーズをとらせてデッサンをしました。
次に細部の足元や剣の柄、馬の頭などをデッサンを素早く描いています。

ドラクロワの芸術において色彩が最大の関心事であり、詳細なデッサンをパステルで行うこともありました。
さらに、作品全体の色調や色彩構成を見るために油彩によるスケッチも行い、特定の登場人物を習作してみることもありました。

疑問が生じると制作中でも美術館に出かけ、解決法を見つけようとしました。
たとえば、「ダンテの小舟」の亡霊たちにかかる水しぶきに苦労したドラクロワは、ルーベンスの作品を見て解決策を思いつき、しぶきを赤、白、黄、緑の斑点に分解したと言います。
新たな主題の追求
注意深く作品を構成してゆく方法は、美術学校での修行によって身につけましたが、新古典主義には全面的に反発するドラクロワでしたが、批評家からレッテルを貼られることは嫌っていました。
ですが、ドラクロワはロマン主義者であり、想像力と情感を自由にはたらかせて自然の中の真実を求めました。

そこでドラクロワは、ロマン主義の新しいテーマのオリエンタリズムに取り組み、友人の収集していた東方の衣装や武具をスケッチしています。
詩や音楽もドラクロワを夢中にし、ショパンと友人になって、自分のアトリエで演奏してもらったこともありました。

日記にはこう記しています。
「イマジネーションをはたらかせるために、絶えずバイロンの文章の一節を記憶しておけ」

動物園もアイデアのもとであり、野生動物を見るためにしばしば足を運んでします。
ドラクロワは、制作の刺激となる感情の充電が必用なとき、いつでも探しに出かけたのでした。

「ドラクロワ」の色彩の威力
色彩こそがドラクロワの最大の関心事でした。
ドラクロワにとって色彩は、美術学校の教師が教えたデッサンの正確さよりも、はるかに大きな可能性を秘めていて、頭の中の画面すべてを表現するための手段でもありました。
ドラクロワは、「総督マリノ・フェリエロの処刑」を制作しているとき、色の組み合わせをもつ表現に初めて気づきました。

美術館にルーベンスの作品を調べにいくとき、馬車を拾って乗り込むと、一条の日の光が足元の砂利照らし、影になった部分は紫色に見えました。
すると馬車の黄色がひときわ鮮やかに輝いて見えて、その瞬間、ドラクロワは、補色を対置させることによって色の豊かさが協調されることに気づいたといいます。

ドラクロワは、ますます黒い絵具を使わなくなり、暗部は反射光の紫と緑で表現し、肌色のハイライトをいっそう際立たせるようになりました。
モロッコの光と色を体験したことで、いっそうこの技法に確信を深め、また同じころ、科学者ウジェーヌ・シュブルールが「人間の目は純色を見ると、周囲がその補色になったように感じる者だ」ということを発表した論文を読む機会がありました。
(補色とは、黄に対する紫、青に対する橙、赤に対する緑である)

名画「キオス島の虐殺」
ギリシャ独立戦争のさなか、1822年の4月から5月にかけて、小さなキオス島で、2万のギリシャ人がトルコ人のよって虐殺されました。
ドラクロワは翌年、この残虐行為を絵に描く決意をします。
「名を上げるい」いい機会だと思ったのでしょう。
ドラクロワは持ち前のエネルギッシュさで制作にとりかかり、まず目撃者にその様子を聞き、オリエンタルな服装をスケッチして、多くの習作を描きました。

地中海の海の輝きを表現するために、わざわざ友人に頼んでナポリから水彩絵の具を贈ってもらったりしています。
1824年に完成し、サロンに出品するころ、イギリスの画家ジョン・カンスタブルの絵を見て気が変わり、背景を完全に塗り替えて、原色をちりばめました。
サロンでの評価は、賛否がありましたが、作品はフランス政府に6000フランで買い上げられました。