スペイン最高の肖像画家といわれるベラスケス。
彼の生涯のほとんどを、スペイン・ハプスブルク家の王フェリペ4世の宮廷画家として、マドリードの王宮で過ごしました。
その華麗なる宮殿を舞台に、ベラスケスが描いた肖像画には、まるで描かれた人物の感情までもが、描きだされているかのようでした。
それは彼の優しい目がとらえた人間の「心」だったのかもしれません。
略歴
1599年 セビーリャに生まれる
1610-16年 パチェーコのもとで修行。 2年後にその娘ファナと結婚
1623年 宮廷画家に任命され、マドリードに移る
1629-31年 第一回イタリア旅行
1634年 国王の衣装係に任命される
1646年 役職付側更に昇進
1648年 フェリペ4世の二人めの王妃を出迎えのため、マドリードを出発。その後美術品の購入を理由に、2年間ヴェネツィアとローマに滞在
1652年 王宮配室長に任命される
1656年 エル・エスコリアル宮殿の美術品配置の指揮を任される
1660年 王女マリア・テレーサとフランス王ルイ14世の婚儀の準備のため、フェザン島へ赴く。8月死亡
若きベラスケスが訪れた王宮
16世紀から17世紀にかけてスペインを支配し、黄金の王国を築き上げたハプスブルク家のもう一つの居城マドリード。
その王宮に若冠24歳の画家ベラスケスがやってきたのは1623年の夏の暑い日でした。
故郷セビーリヤから、絵の師匠パチェーコと共に都へ向かう彼の胸には、大きな夢がふくらんでいました。
「立派な画家になり、貴族になってみせる・・・」
一年前、ベラスケスが描いた詩人ゴンゴラの肖像画は都でかなりの評判となり、その噂を耳にした宰相オリバーレス伯爵が、ベラスケスの才能を試すためにマドリード王宮に呼びよせたのでした。
ベラスケス国王の肖像画を描く
このチャンスをつかむことができれば、青年は宮廷画家として王宮に迎えられます。
パチェーコも認める自分の才能を信じて、若きベラスケスは首都の門をくぐりました。
不安と希望を胸に王宮に上がったベラスケスは、何人もいる宮廷画家たちを差し置いて18歳の国王フェリペ4世の肖像画を描くチャンスを手に入れます。
ベラスケスの巧みな筆使いで、王の優しい表情と気品に満ちた風格を描きとめました。
王はこの絵を一目見て気に入りると、「今後ベラスケス以外に肖像画は描かせない」と宮中で公言するほどの喜びようだったといいます。
正式に、国王付き宮廷画家という名誉を与えられたベラスケス。
彼はその時、自分を認めてくれた王に、一生忠誠を尽くすことを心に誓います。
王から慕われ続けたベラスケス
宮廷での暮らしは驚くことばかりで、宮廷内の絵画の数々にベラスケスは目を見張ります。
後にフェリペ4世はベラスケスを身分を越え友人として慕っていきました。
気弱で判断力に乏しい王は、自分が政治に不向きだと感じていたのです。
自信と落ち着きに満ちた6歳年上の画家に心からの信頼を寄せたのでした。
王の寵愛ぶりは、ほかの宮廷画家を̪嫉妬させるほどで、よくベラスケスのアトリエを訪れ、彼が絵を描く姿を何時間も眺めていたそうです。
画家ベラスケスの優しい目差し
ベラスケスは、王や貴族だけの肖像画だけでなく、宮廷に仕えていた道化師や召使の矮人をも描きます。
彼らは貴族たちを楽しませるための【笑い者】でしたが、ベラスケスは彼らの短い脚が目立たないように座らせ、王を見るときと同じ目差しで見つめました。
その絵には、一人の人間の気高さと存在感、汚れのない表情が生き生きと描きだされています。
ある日「ベラスケスは肖像画しか描けない画家だ」という噂が、王の耳に入ります。
ベラスケスに嫉妬する、ほかの宮廷画家たちが流した悪意に満ちた中傷だったのです。
王がこの噂をベラスケスに伝えると、彼は怒りもせずに静かに答えます。
「光栄です。陛下。私は今まで、本当にうまく描かれた肖像画を見たことがありませんから」
この答えに王は関心し、ベラスケスの実力を示すコンクールを開きます。
「宮廷道化師セバスティアン・デ・モーラ」 1644年
ほかの君主と同様、フェリペ4世も道化師を余興のために身近においた。
これは哀れな者たちを描いたベラスケスの肖像画は人間的な共感に満ちており、誰もが独立した人格として扱われている。
セバスチティアン・デ・モーラは1643年に宮廷に入った。
この絵はその後まもなくして描かれたものと思われる。
・性格表現
ベラスケスの絵では、常に人物の性格描写が最も魅力的に描かれている。
モデルはありのままに描かれ、理想化はほどこされていない。
時にはつかの間の表情をとらえるために、画家は顔をごくおおまかに自由に描写しており、キャンバス間近で見るとぼやけている。
そして優勝したベラスケスの名声は、以前にもまして揺るぎないものとなりました。
あるときフランドルの大画家ルーベンスが、マドリード王宮にやってきて、「最高の芸術がある、イタリアに行きなさい」親しく付き合うようになったルーベンスは、ベラスケスにそう勧めます。
「ブレダの開城」 1634~35年
オランダの町ブレダは、スペインの圧政に対する戦略上重要な拠点だったが、10ヶ月に及ぶ包囲ののち1625年6月にスペイン軍の手に落ちた。
ベラスケスの絵はユスティン・フォン・ナッサウ伯が町の鍵をスペイン軍の指揮官アンブロジオ・スピノラに渡すさまを描いている。
これはフェリペ4世の治世の戦勝を記念するために、宮廷画家たちが描いた12点の絵画連作の1点で、それらはマドリードに新しく建設されたブレン・レティーロ宮殿を飾った。
ベラスケスが制作にあたったとき両司令官とも故人となっており、(彼はスピノラとは面識があったが、ユスティンを見たことはない。)
彼は文献記述と版画を頼りに事件を再現した。
このことを考えれば、画面の現実感は驚くばかりで、絵画表現と心理表現の両方ですこぶる説得力があり、生の報道に触れるかのようである。
スピノラはブレダでの温情処置で名をはせ(降状条件はきわめて寛大なものだった)、敗れた敵将の肩に手を置く彼の忘れがたい身振りは、その騎士道精神をみごとに表現している。
X線写真によるとベラスケスが画面構成を途中で変更したのがよくわかり、右手の堂々とした馬はあとで加えられたものだ。
そのそばに林立する槍は左の勢いがないオランダ軍の武器と対照的で、この絵のスペインの通称「ラス・ランサス」(槍の意味)が生まれるものとなった。
ベラスケスがこの比類ない傑作を完成させた2年後、オランダ軍はブレダを奪回した。
そして30歳の年、王の許しを得たべらすけすは希望を胸にイタリアへ出かけることになったのでした。
ヴェネツィア、ボローニャ、ローマなどを回り、多くの芸術作品に触れたベラスケスは、帰国後それまで以上に輝きをみせます。
帝国の没落と開花したベラスケスの夢
優雅な宮廷生活とは逆に、この時すでにスペインでのハプスブルク家の権威は失墜していました。
30年戦争で負け続けたスペイン軍。
国民は税金に苦しめられ、追い打ちをかけるように、国中に伝染病が流行しさらに王領のポルトガルやナポリでは、反乱が起き、カタルーニャ地方はすでにフランス・ブルボン家の手に落ちます。
そして1644年、37歳の王自身にも不幸が訪れます。
「皇太子フェリペ・プロースペロ」 1659年
ベラスケスがこの感動的な肖像画を描いたのは、おそらく皇太子の2歳の誕生日のことだったと思われる。
夭折する子供のはかなさが青白い肌にはっきり感じられ、衣装には悪病を退散させる魔除けが飾られている。
王妃イザベルに続いて二年後には、たった一人の世継ぎカルロス王子がこの世を去りました。
ベラスケスは、悲しみにくれる王を慰め王の肖像画を描き続けたのです。
優しさに満ちた王の表情は、ベラスケス自身の悲しみの現れでもありました。
自分の心を唯一理解してくれる友人ベラスケスを、王は一層頼りにするようになり、ウイーンから嫁いでくる二人目の王妃間リアーナを出迎えるためベラスケスは再びイタリアへ旅たちます。
「教皇インノケンティウス10世」 1650年
ベラスケスの最も有名な作品の1つで、息をのむような描写力だけでなく、心理を見通す力によって、肖像画の至高の作と世に広く認められている。
ベラスケスがいかに見事に、モデルの性格をとらえたかを認めるかのように、教皇は絵が「あまりに真実すぎる」と言った。
その後帰国したベラスケスを待っていたのは、王宮で三番目の要職、王宮配室長で選考委員会の反対を押し切っての、王の決定でした。
王宮配室長には、王の訪問先のすべての手配、準備など多くの任務があり、王に従って旅するこの役目は53歳のベラスケスには過酷な仕事でした。
多忙な日々が続く中、57歳を迎えたベラスケスは、あこがれのエル・エスコリアル宮殿の装飾監督に任命されます。
この宮殿に何度も足を運んでは、その美術品の素晴らしさに胸躍らせた日々。
かつてルーベンスとイタリアで絵画について、熱く語り合ったのも、この宮殿でした。
遠く懐かしい思い出が鮮やかによみがえり、ベラスケスは疲れも忘れて懸命に任務に取り組みます。
ベラスケスの最後の仕事
60歳の年、ついにベラスケスは、貴族の最高の名誉サンティアーゴ騎士団を与えられます。
久々の朗報がベラスケスのもとに届きます。
王の娘マリア・テレーサと、ブルボン家の皇太子ルイ14世の婚約が成立し、王宮は喜びにあふれました。
「鏡のヴィーナス」 1648年ころ
ベラスケスの唯一現存する裸婦像で、19世紀にヨーシャー、ロークビーのモリト家に旧蔵されていたことから、「ロークビーのヴィーナス」の異名がある。
裸婦を扱った絵画は一般にわいせつとみなされていたためスペイン美術ではめずらしいが、ベラスケスにはこれ以外の作品(現在は失われている)もあったと記録されている。
この作品はスペイン貴族ドン・ガスパール・メンデス・アーロの所蔵品として1651年6月に初めて記録に見えており、ベラスケスはこれを1648年に2度目のイタリア旅行に立つ直前に描いたと思われる。
キューピッドが立てかける鏡に我が身を映すヴィーナスという主題はティッティアーノが広めたものである。
この絵にもヴェネツィア派の影響で色濃く感じられることから、イタリアで制作してスペインに船で送ったのだろうと考える学者もいる。
18世紀には、この絵はゴヤと親しかったアルバ公妃の手に渡っている。
したがって、ゴヤが異端審問所とのトラブルに巻き込まれるもととなった「裸のマハ」(公妃を描いたものと思われる)になんらかのインスピレーションを与えたとする話も信じられないことはない。
「鏡のヴィーナス」は1914年、婦人参政権を訴える女性運動家によって、ナショナル・ギャラリー内でひどい切り傷をつけられた。
巧みに修復されてはいるが、近くでよく見ると傷痕が見える。
べらすけすは、老体にむち打ってフェザン島に向かい、三か月後に迫った式に備えて、王族の宿舎、式場の設営、そして飾りつけと、かけまわります。
当日、式は最高の舞台でとり行われ、盛況ののうちに幕を閉じ、大役の果たした満足感で胸はいっぱいだったものの、ベラスケスの肉体は疲れ果てていました。
フェザン島からの昼夜を問わぬ旅の果て、マドリードに帰りついた彼は、過労から病の床に就き、そして二度と立ち上がることなく巨匠は静かに息をひきとったのす。
61歳の夏の暑い日でした。
「画家の中の画家」とたたえられたベラスケス。
常に冷静な目で人間の本質を見据えた点に、ベラスケスの偉大さがあったといえます。
遅筆の画家
ベラスケスは遅筆だったようで、宮廷の職務に多大な時間をとられたこともあって、作品数は少ない。
彼の手になる現在作品は150点に満たず、現在までの数世紀間に失われた分を入れたとしても、200点を大幅に上回ったかは疑問とされています。
40年を超える画業にしては数が少なく、平均すると約2か月に1点の割になる。
ベラスケスは師フランシスコ・パチェーコは「何事であれ、あるがままに描け」と教え、著書「絵画芸術」の中で、若い弟子が彼の指示にいかに熱心に従ったかを記しています。
「彼はいつも地元の少年を金で雇ってモデルにし、さまざまなポーズをとらせた。あるときは泣かせ、あるときは笑わせ、いかなる困難をもいとわなかった」と。
この自信は確かにベラスケスの早熟の才を示す特徴で、まだ10代でありながら、テクニックの完璧な習得を感じさせる絵を描いていました。
質素な作風
初期の作品はほとんどは宗教画か、「ボデゴン」と呼ばれるものでした。
ボデゴンというスペイン語は「居酒屋」とか「安食堂」を意味するが、転じて細部の静物画をきわだたせる厨房画やそれに似た絵に適用されるようになったようです。
このような絵はスペインで広く人気を博しますが、ベラスケスほど巧に描いた画家はいません。
彼の伝記作者パロミーノは、かれがこうした絵で「偉大な名声と、それにあたいする尊敬を勝ち得た」と述べ、さらに「何人かが彼に、ウルビーノのラファエロにならって、もっと崇高な主題を繊細優雅に描かなければいけないと忠告したところ、彼は、優雅さで二流に甘んじるよりも、この種の粗野な絵で第一人者でありたいと答えた」と記している。
「セビーリヤの水売り」は、これら下層の暮らしを題材にした格好の作例だと言えます。
作品の方向転換
1623年にマドリードに出ると、ベラスケスの作品は方向転換し、肖像画をもっとも多く描くようになりました。
ボデゴンをまったく描かなくなり、宗教、歴史、神話のテーマは数が少なくなり、絵具の扱いも変わっていきます。
初期の作品では、絵の具が厚く豊かに塗り重ねられていました。
「織女たち(アラクネの寓話)」 1656~58年
この絵はパラス・アテネ(ミネルヴァ)とアラクネの機織り競争のさまを描いている。(前景)
アラクネは機織りの腕を競って女神に挑戦したが、敗れてクモに変えられた。
この情景は背景のタピスリー前で示されている。
しかし、王宮コレクションで目にした作品、特にティッティアーノの絵に影響されて、筆使いは軽やかで幅広くなり、セビーリヤ時代の特色である見事に描写された静物的なものは影をひそめ、むしろ無地の背景を好むようになります。
また、徐々に、細部を全体的な効果に完全に従属させていき、晩年の作品では、空間表現と雰囲気は驚くほど鮮烈なのに、細かく観察するとフォルムはぼやけた筆遣いのなかに溶け込んでしまっているように見えます。
パロミーノも、「彼の絵は、近寄りすぎると理解できないが、距離をおいて見れば奇跡だ」と評した。
人間の本質
真実をとらえる感覚はベラスケスの技術的手腕を示すばかりではなく、彼の正確描写の特徴でもあって、生まれた作品は本人にこの上なくよく似ていると同時に、同胞に対する共感と理解に満ちています。
当然ながら宮廷画家として、作品には地位の表現に気を配っているものの、彼の目には一貫して外面的な見せかけを越え、内に秘められた人間の神秘を見通している。
かつしてフェリペ4世も、世界最大の帝国の支配者としての威厳を示す一方で、宮廷の哀れな小人の道化たちでさえ、神々しい生気を帯びています。
彼のモデルは例外なく魂をもっていて、彼らが神の目のもとに平等であるからこそ、ベラスケスにとって等しい尊敬に値するのだと、われわれには感じ取れる。
この信じられないほどの民主主義な精神と、主題をきわだたせる能力は、ほかのジャンルの作品にも明らかに見てとれます。
たとえば「ブレダの開城」では、ルーベンスならきっと華やかに描き出したであろう、寓意表現をいっさい避け、代わりにこの場面の人間的なドラマに焦点をあてています。
スペイン側の勝利者が敗者の敵から、町の鍵を受けとっているのですが、その身振りは美術史を通じて間違いなく最も雅量にとんでいると言っていい。
自在な制作方法
ベラスケスの制作方法については、ほとんどわかっていません。
彼の手になるデッサンはきわめて少数(現存するのは優れた素描家の筆を示しているが)であるから、たいていはじかにキャンバスに向かったと考えてよさそうです。
彼はしばしば制作途中で構図を変えた。
パロミーノは彼は格別長い筆を使ったといっていますが、「ラス・メニーナス」の中で彼が使っているのはごく普通の物のようです。
ベラスケス作品の多くには質の良い模写が現存している。
この数からして、画家が忙しい工房を運営していたことが察しが付きます。
弟子または助手のうち何人かの名が知られていますが、義理の息子ファン・デル・マーソと奴隷または助手だったフアン・デ・パレーハ以外は、独立した画家の域に達していない。
ローマで制作した「教皇インノケンティウス10世」のような少数の例外を除いて、ベラスケスの作品はナポレオン戦争が終わるまでスペイン国外ではほとんど知られてないままでした。
国が他のヨーロッパ諸国から独立していたからです。
ですが、19世紀の初期以後は、その作品の精妙さと自在なテクニックのゆえに、ベラスケスは進歩的な画家たちによって偉大なヒーローとしてもてはやされました。
特にエドゥワール・マネが賞賛したことはよく知られています。
名画「ラス・メニーナス」
「ラス・メニーナス」(宮廷の侍女たち)というタイトルは19世紀につけられたもので、絵の意味の解明には役立たない。
この複雑な作品は、ベラスケスが王家の家族たちに取り巻かれてアトリエで制作しているさまを描いています。
画面で実際に何が起こっているかについて、2つの解釈がなされてきました。
つまり、ベラスケスが王と王妃(鏡に映っている)を描いているときに、幼い王女と侍女たちが邪魔に入ったか、あるいはその逆でしょう。
自画像を画中に表すことによって、ベラスケスは自分の重要性を主張しているが、その僭越さに後ろめたさを感じていることを示すため、壁にルーベンスのスケッチ2点がかかっている。
それらには、無鉄砲にも芸術の神々に挑戦しようと企てたために、地獄に落とされる人間の姿が描き出されています。
まとめ
ベラスケスの絵画は、19世紀の画家ドラクロワやマネより200年も前の画家でした。
彼の絵画は、写実的なばかりでなくその人間の心の性格まで描き出し、絵の中で息をしているかのような空気感まで表現できている。
まれに見る、天才であるばかりか、人間的にも情が深く生真面目な性格は、王と王室の家族にまで信頼される人物でした。
先輩画家ルーベンスの教えに耳を傾け、熱心にルネサンス絵画や古代ローマ彫刻を勉強したベラスケスは、先輩画家たちが描いたこともない表現で、あらゆる名画を誕生させました。
尊敬するティッティアーノとヴェネツィア派を研究したことで、スペイン流の新たな表現に到達できたのでしょう。
その名画は19世紀から20世紀に大きな影響を与え、画家たちに新たなインスピレーションのヒントを与えています。
彼の功績は、スペイン美術だけでなく、ロマン派と印象派やモダンアートにまで影響を与えました。