エドゥワール・マネは19世紀における最も独創的で、影響力をもった画家の1人でした。
これまでにない現代生活の情景と驚くほど大胆な筆使いは、フランス絵画に新しい息吹をもたらし、印象派の画家たちにインスピレーションをあたえました。
礼儀正しい芸術家で、いつも非の打ちどころのない服装をしていたしていたマネは、自分の作品がスキャンダルを引き起こすとは考えていませんでした。
そして世に認められないことに、絶えず落胆していましたと言います。
ようやく評価を得たのは晩年で、その時には病気のために手足の自由が奪われていました。
略歴
- 1832年 パリに生まれる
- 1848年 海軍学校の受験に失敗。 見習い水夫となる
- 1850年 クーチュールのアトリエに入る
- 1860年 パティニュール街のアトリエを借りる
- 1862年 父が死亡し、多額の遺産を相続
- 1863年 ジュザンヌ・レーンホフと結婚「草上の昼食」が落選者展に展示されわいせつと酷評される
- 1865年 「オランピア」で激しい非難を浴びる
- 1868年 ベルト・モリゾと知り合う
- 1869年 カフェ・ゲルボワによく出入りする
- 1874年 モネとともにアルシャントゥーユで制作
- 1879年 致命的な病の最初の症状が出る
- 1881年 レジオン・ドヌール勲章を受ける
- 1883年 パリで死亡
「マネ」の幼少時代
エドゥワール・マネは1832年1月23日、司法省の高級官僚の長男としてパリに生まれました。
中流のそれもかなり上の家庭に育ったエドゥワールは、堅実な法律家になるはずでした。
しかし、エドゥワールは父の歩んだ道に進みたいと思わず、気質も法律家には向いていませんでした。
1848年、エドゥワールが16歳の時、父親とのいさかいが頂点に達し、息子が画家になることに激怒します。
結局、エドゥワールは法律家にも画家にもならず、海軍学校に入学しますが、入学試験に失敗して商船で半年間見習い水夫になります。
「マネ」画家の道を選ぶ
船旅から戻ったマネは、再び試験に臨みますが、またしても合格できませんでした。
海上での苦しい生活が自分に不向きであることを身にしみて感じたマネは、どうしても画家になりたいと父に頼み込みます。
息子の真剣さを認めた父はついに折れ、1850年1月、マネは当時尊敬を集めていた画家トマ・クーチュールのパリのアトリエに入学しました。
マネの絵の才能は天性のもので、すぐさま同級生の誰よりも有望と見なされました。
しかし、18歳のマネはすでに絵画に関する自分の考えを持っており、そのことごとくが師とは意見が違っていたのです。
彼は絵に新しい考えを抱きながらも、とりわけフランス美術界の権威の中心であったサロンに、受け入れられることを望んでいました。
結婚とイタリア旅行
1850年、まだ学生の身でありながら、マネはピアノ教師である20歳の美しいオランダ人女性シュザンヌ・レーンホフと恋に落ちます。
2年後、彼女はマネの子を出産しますが、マネの家庭環境から不道徳な結婚を父親が許すとは思わなかったので、母の助けを得てジュザンヌに間借りさせます。
年を経て2人が正式に結婚したのちも、ジュザンヌジュザンヌはわが子レオンを弟だと偽り通し、マネはレオンの名つけ親のふりをし続けました。
マネは6年間クーチュールのもとで学び、中断したのは1853年にイタリア旅行をしたときでした。
その年ヴェネチア、フィレンツェ、ローマをめぐり、過去の巨匠たちの作品を模写します。
1856年クーチュールのアトリエを離れ、独立して創作を始めるが、見を落ち着ける前にオランダ、ドイツ、オーストリア、そしてもう一度イタリアに旅し、美術館を訪ねたりスケッチをしたりしています。
マネは制作に励んだが、それでも遊びの時間を見つけては夜会やカフェで、美術界の名士たちと知り合って友人たちの人気を集めていました。
マネは友人に寛大で、ボードレールによく金を貸し、モネを財政的に援助したりもしています。
「マネ」の失意とスキャンダル
1863年の春に開いた個展で「テュイルリーの音楽会」が悪評を呼び、マネはショックを受け傷つきます。
それでも新作「草上の昼食」を1863年のサロンに出品しようと決心しますが、結果は落選し、代わりに新しく設立された落選者展に展示されました。
ここには、サロンに落選した作品が一同に展示されて、マネの絵もセザンヌやホイッスラーといった画家の作品と並んで飾られ、多くの観衆はマネの作品の「草上の昼食」をわいせつだと批判し、笑いぐさにしました。
公的評価を得たいと願う自分の気持ちに反して、心ならずもマネはまもなく、反逆的な芸術家の一派のリーダーと見なされるようになってしまいます。
そして1865年、裸体画「オランピア」がサロンに入選して展示されると、さらに激しい非難の嵐が巻き起ったのです。
マネは世間の想像を絶する厳しい反応にショックを受け、しばらく絵筆を握ることもできなかった彼は、一時スペインに逃れてそこでベラスケスの作品を見て圧倒されるのでした。
運が開けた「マネ」
仕事のうえでは苦闘の日々でしたが、マネは金に困ることはなく気楽でした。
父親の死によって何不自由なく暮らしているだけの遺産が入り、シュザンヌと結婚する自由も手に入れました。
カフェでは、毎週木曜日にマネの会合のためにテーブルが確保され、そこにはホイッスラー、ルノワール、ドガ、モネ、写真家のナダールらが顔を出しました。
35歳になっていたが、マネはまだ絵で食べていくにはほど遠かった・・・
1867年のパリ万国博の年には自費で個展を開いたが、結果は予想どうり悪評で批判され、世間の目は相変わらず冷たかったことで、マネの神経はずたずたになり、悪意に満ちた新聞記事に腹を立て、知人のジャーナリストに決闘を挑みさえしています。
1870年7月から1871年5月まで普仏戦争が勃発し、マネは創作活動を中止して、国防軍の中尉として参戦しました。
戦争後マネは健康を害しブローニュで療養生活を送っていたその年に、画商のポール・デュラン・リュエルが30点ほどのマネの絵を買い上げ、二年連続入選してサロンの功績が保証されたかに見えました。
マネは40歳になって若い画家たちの影響を受けて、戸外での制作に取り組みはじめ、色使いも明るさをました作品を描きます。
アルジャントゥーユでモネやルノワールとイーゼルを並べて制作し、マネの作品は以前よりも色鮮やかでのびのびしたものになりました。
しかし、彼はなおもサロンという公の場で認められるのが正統と考えており、印象派のグループが1874年に開いた独自の展覧会にはサンかを断っています。
マネは彼らの目的に共感を寄せ、その運動を変わらず支持しました。
晩年の病
1870年を通して、サロンでのマネの評価は不安定でした。
しかし、作品は徐々に批評家の指示を得るようになり、テクニックには以前にもまして磨をかけていました。
1870年代末にマネは体の異常に気づき始め、左足が痛み、極度の疲労を覚え、全身に刺すような痛みがあった。
最初はリューマチと神経の疲労からくるものと考えていたが、まもなく歩行性運動失調症と診断されます。
制作は続けたが、パステルを使うことが多くなり、1880年にヴェルサイユ公園の近くに別荘を借りて、暮らすうちに病気は快方に向かいました。
1881年81にはサロンで2等賞を獲得し、その暮れには、芸術担当大臣だった終生の友アントナル・プルーストのおかげで、レジオン・ドヌール勲章も授与されました。
ですが1882年に遺書を書き、1883年3月に壊疽(えそ)にかかり、4月に左足を切断しました。
4月30日、ひどい苦痛にみまわれながらマネは息を引き取りました。
51歳でした。
「なんてひどい死なの!」義妹のベルト・モリゾが悲しみの声をあげています。
現代生活を描く「マネ」
自在なスケッチ
パリの通りやカフェで目にする自分の周辺の生活を自由自在にとらえ、どこにでもスケッチブックを持っていきスケッチしました。
マネがデッサンでつかんだ自然の印象は、彼の芸術に決定的な意味をもち、制作はそれを保つためになされていました。
印象派の画家たちとの交流から戸外で絵を描く喜びもまなんだが、彼の作品のほとんどはアトリエ描かれたのであり、戸外で新鮮な感覚を保ち続けるのは容易なことではなかったでしょう。
家族のモデル
プロのモデルを使った場合にありがちなありきたりな感じを避けるために、マネはもっぱら家族や友人に頼んでポーズをとってもらいました。
弟や義弟たち、のちに義妹となったベルト・モリゾ、そのほか友達や批評家がかわるがわるマネの絵に登場しています。
マネの絵は確かに、計画的なものを少しも感じさせません。
彼は思い通さいりの結果を得るために長時間苦しみ、自分に厳しく、納得いくまで何度も細部を塗り直し、キャンバスを破って最初からやり直すことさえありました。
描く主題が日常的に目にするものであっても、マネはよく過去の美術館にインスピレーションをもとめました。
ルーブルに根気よく足を運び、またオランダ、イタリア、スペインの旅先でも過去の巨匠たちの作品を数多く模写しています。
スペインではベラスケスの絵に深い感銘を受けて「笛吹き」にみられるような、背景を無地に明確で大胆なフォルムを際立たせるというマネ好みの手法を生み出しています。
マネの絵に特有の大胆さは、構図と色彩法だけでなく絵の具の使い方、特に光と影の処理の仕方によるところが大きいといえます。
名画「オランピア」
1863年「草上の昼食」がスキャンダルを引き起こしたのち、マネは世間を再び刺激しかねない作品の発表には用心していました。
「オランピア」は1863年に完成していましたが、1865年まで出品を控えていたのです。
いずれにしても、発表したとたんに騒ぎは以前に増して大きく、批判が殺到しました。
「オランピア」の主題は長年の伝統にのっとったもので、当時非常に崇拝された画家たちも扱っていたのですが、モデルのあからさまに挑むような官能性が、まっすぐな落ち着きはらった目差しが、絵をショッキングなものに思わせたようです。
世間一般の道徳と社会秩序を脅かすものと映ったのです。
まとめ
マネはドラクロワの後継者のように、陰影を色彩としてとらえて分析していきました。
暗い影の中にも色彩があるということを、屋外での制作で感じ取り、やがてどこにいてもそのように描けるようになります。
ベラスケスから少しの色彩のタッチによって、空間を作り出すことができると感じた彼は真っ先にその方法を試し、新たな表現方法を確立しました。
このマネの大胆な活躍は、印象派の画家たちに勇気を与え後に絵画史所最高の絵画ブームを巻き起こします。
マネが与えた影響は、後の画家たちの方向性を決めたと言っていいかもしれません。