多くの恋の遍歴を重ねながら、限りなく優しさを秘めた聖母像を描き続けた画家ラファエロ。
この天才は永遠の美を求め、37年の生涯を創作に捧げました。
その短くも華やかな生涯を、画家が青春を過ごした街フィレンツェに最高傑作「小椅子の聖母」はあります。
聖母の画家ラファエロが円熟期に描いた最高傑作
15世紀大輪の花を咲かせたルネサンス。
フィレンツェを舞台に偉大な3人の芸術家が現れます。
レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロ、なかでも、ルネサンス最後の巨星と称されたラファエロは37年の生涯に50枚の聖母を残し、その多くは青年期に過ごしたフィレンツェで描かれました。

1514年にローマで描かれた「小椅子の聖母」は、フィレンツェ時代に描き続けた聖母子の集大成で、ラファエロ31歳の傑作です。
その「小椅子の聖母」は画家の死後、トスカーナ大公に買い取られ、16世紀前半までメディチ家に所有されたのち、1800年前後ナポレオンの戦利品としてパリに渡って、1912年にフィレンツェのピッティ美術館に戻りました。
聖なるものと人間的なものの融合
聖母像を初めて描いたのは新約聖書「ルカ福音書」を記した聖ルカだという伝説があります。
聖母マリアを神の子キリストの母として崇拝する【聖母崇拝】はその後東方を中心に盛んになり、聖母は神に近い神聖な存在として描かれていました。
しかし15世紀のフィレンツェではルネサンスの思想とはあいまって、マリアの母性がより強調されて描かれるようになります。

芸術の都フィレンツェといっても一般の女性がモデルになることを嫌がる傾向がありましたが、この聖母像の流行にともなって「聖母のモデルなら」と進んでポーズをとる女性が現れ始めたのです。
ラファエロは実在の女性を聖母のモデルとしてデッサンをすることで、生き生きした聖母を完成させていきました。
ラファエロが聖母に託したもの
ラファエロは母の愛を存分に受けて幸福な幼年期を送っていましたが、8歳のころ母は突然天に召されます。
上品で優しい母との8年間の幸せな思い出と、その後の孤独感は、彼の心に母への強い憧憬を植え付けました。

その消えることのない思い出は現実には依頼主の妻や自分の恋人をモデルにしながらも、その絵は現実をこえて母性愛あふれる理想的な聖母像を描いたのです。
「小椅子の聖母」もモデルは恋多き画家の恋人の一人だと言われています。
この「普遍的な女性美」は神聖さを漂わせながらも、そこに優しく温かみのある人間的な「母性」の輝きが読み取れるのです。

なぜ「小椅子の聖母」は丸いのか
伝説では・・・
昔通りすがりの隠者を救った一人の少女が、そのお礼に「永遠の命」を与えられる。
数年後母となった彼女を見かけた旅の途上のラファエロは、その美しさに打たれてじかのワイン樽のふたに彼女の肖像を描きとめた。
こうして彼女は名画の中で永遠の姿をとどめ「だからこそ絵が丸い」のだという。
実際は円形絵画は当時の流行でありそのルーツは古代ギリシャ、ローマのメダルやコインにたどることができます。
(ミケランジェロ)
そしてルネサンス時代の精神を育んだ「円形は無限の宇宙を表す」という解釈がさらに円形絵画を大流行させます。
ラファエロはローマでの壁画制作を通して、構成力に磨きをかけてその成果が「小椅子の聖母」をうみだしたのです。
「小椅子の聖母」は絵画史上どんな意味をもつのか
絵画史上ラファエロほど神格化された画家はいないと思います。
17世紀のフランスで設立された美術アカデミーでは、ギリシャ、ローマの古代芸術と並んで『最も美しい人間の姿』を描く理想の画家とみなし、その作品を芸術の模範としました。
「実際には美しい女はまれなので、私は心に浮かぶ理想をもとに描きます」 ラファエロ
アカデミーではラファエロの言葉通り、実際より多少の美化する姿勢はフランスが芸術の中心になるにつれ、ヨーロッパ中に広がりました。
ラファエロの評価に大きな影響を与えた「小椅子の聖母」はこの画家のバランスのとれた才能と、国と時代を越えて訴えかける永遠の美しさ結集させた傑作といえます。
まとめ
聖母の画家ラファエロの最高傑作「小椅子の聖母」は、フィレンツェの宝です。
多くの歴代画家たちの憧れの名作であり、名画を愛する人たちの心を癒す最高の名画を
是非一度は、見ておきたいですね。
・ゴーギャン 「我々は何処から来たのか、我々は何者か、我々は何処に行くのか」
・「ピエロ・デラ・フランチェスカ」 サンセポルクロの高名な息子