ルーベンスは、17世紀フランドルの最も偉大な芸術家であり、全時代を通して最も多作な画家の一人でもあって、国際的に華々しい名声を博した大画家です。
ハンサムで教養があり語学も達者だった彼は、外交官としての役割も果たし、イギリスのチャールズ一世からナイトの爵位を授けられました。
国際的な舞台で活躍し、政治的な寓意画の大作を自由自在に描いたり、愛する家族の肖像画も手がけ私的な側面も見ることができます。
年譜
1577年 ドイツのジーゲンに生まれる。
1587年 母とアントワープに戻る
1598年 アントワープ画家組合に親方として登録
1598年 イタリアに旅立つ
1603年 最初の外交官でスペインを訪問
1609年 アルブレヒト大公とその紀イザベラの宮廷画家に任ぜられる。 イザベラ・プラントンと結婚
1610-1611年 「十字架昇架」を制作
1611-1614年 「十字架降下」を制作
1622年 「マリー・ド・メディシスの生涯」連作を描く
1626年 妻イザベラ死亡
1628-1629年 スペイン訪問」
1629-1630年 イギリスを訪れ、チャールズ一世からナイトの爵を授与される
1630年 エレーヌ・フールマンと結婚
1634年 ホワイトホール宮バンケティング・ハウス天井画のための連作を完成
1635年 ステーンの館を購入
1640年 アントワープで死亡
「ルーベンス」と小説フランダースの犬
その昔、フランドル地方(現在のベルギー、英語読みでフランダース)の小さな村に、両親を亡くし、おじいさんと暮らす貧しい少年がいました。
少年の名はネロで、愛犬パトラッシュと一緒にミルクを運ぶ少年は、いつの日か画家になることを夢見ていました。
そんな少年のささやかな希望は、アントワープ大聖堂にある有名な祭壇画を見ることだったのですが、少年にとっては、その拝観料の銀貨1枚も大金だったのです。
展覧会に出品する絵を描きながら、何度もくじけそうになるネロを大聖堂の前に立つ画家の銅像が励ましてくれました。
「頑張るんだ!勇気を出して!」
おじいさんが亡くなり、村人から放火の疑いをかけられ、全てを失ったネロ。
たった一つの頼みの綱だった展覧会も落選したクリスマスの夜、ネロはパトラッシュと一緒に大聖堂に向かいました。
幸運にも祭壇画の覆いは外されていて、一条の光が巨匠の絵を照らしだしています。
その夢にまで見た祭壇画の前でネロとパトラッシュは息絶え天国へ・・・
子供のころ、誰もが親しんだ小説「フランダースの犬」(僕が子供のころアニメも放送していました)
この物語の中で、いつもネロを励ました銅像の男、ネロが人目見たいと切望した祭壇画を描いた画家、その人こそ、この古都で活躍し、バロック絵画のけんらんたる巨匠となった画家ルーベンスだったのです。
100年以上前に書かれたこの物語そのままに、ネロが憧れた祭壇画と広場の銅像は今もこの街を見守っています。
「ルーベンス」の華麗な人生の始まり
ドイツで生まれたピーテル・パウル・ルーベンスが家族とともに父の故郷アントワープに戻ったのは10歳のころです。
17世紀最大の画家と呼ばれ、2000点あまりもの油彩画を残した多作の画家でした。
「三美神」 1639年
ルーベンスが最晩年に描いたもので、美神たちの豊満な肉体には彼が理想とした女性美が反映されている。
初期のもっと活気に満ち、入念な描写と違って、古典的なポーズをとるこの構図の落ち着いきは、より成熟し内省的になったルーベンスの魅力を伝える。
・作風の特徴
ルーベンスはおそらく、豊満な女性のヌードで最も名が知られているだろう。
太り肉のプロポーションは彼個人の好みであったし、画家としての目にもアピールした。
当時は、肉づきのいい女性の体の線がもてはやされ、絵にも多く描かれた。
・ミルクと血
ルーベンスは生気あふれる肉体の描写で有名だった。
赤、青、黄、白を独特に混ぜ合わせて用いる見事なテクニックのため、彼が描くふくよかな女性像はミルクと血でできていると人々に評価された。
常にエネルギーに満ちあふれ、外交官としても活躍した巨匠の華麗な人生はこの古都から幕を開けました。
13歳で伯爵夫人の小姓となり、優雅な立ち振る舞いを身に着けてやがて画家になる夢をもちます。
10代で3人の画家の弟子となったルーベンスは、21歳で画家組合の親方画家として登録するほどの力がありましたが、すぐには自分の工房を持つことができず相変わらず、師事した画家の仕事を手伝う日々が続きました。
1600年ルーベンスは大志を抱いてイタリアに旅立ちます。
「ルーベンス」の9年間の厳しいイタリアでの修行
当時のイタリアは、芸術家のあこがれの地でローマ、フィレンツェには古代遺跡やルネサンス時代の傑作があふれ才能豊かな若者でにぎわっていました。
青年ルーベンスにもイタリアはまぶしいほどの芸術の都に見えたに違いありません。
そして実際すぐにチャンスが訪れます。
芸術の関心に深かったマントヴァ公に絵と人柄を気に入られ、宮廷画家として契約できたのです。
ルーベンスは公のコレクションに触れることを許されて、古代やルネサンス時代の絵画と彫刻をも写生し学びました。
「ルーベンス」万能画家の活躍
1608年31歳のルーベンスは母の死をきっかけにイタリアからアントワープにもどります。
すでに名声を得ていたルーベンスは総督アルブレヒト大公夫婦の宮廷画家に任じられ、また画家は名家の娘イザベラ・プラントと結婚し公私ともに充実し、ますます精力的に制作活動を展開していきます。
特に1609年~1621年は名作を大量に生んだ12年で、アントワープ大聖堂の「十字架降架」「十字架昇架」もこの時期に描かれました。
そしてネロ少年が「いつか大画家になって、あんな大きな家に住むんだ」と憧れた大邸宅もこのころに建てられました。
近年復元されたこの邸宅は、ルーベンス自身の設計で住居とアトリエに分かれ、巨匠のすべての本拠地にふさわしい王侯貴族の宮殿のような建物でした。
(ルーベンスが自分の所有地を描いた絵です。左に邸宅が見えますね。)
この邸宅でルーベンスは朝4時に目覚めまず教会で神に祈りをささげると、家に帰り朝食後すぐにアトリエで大勢の助手たちに手伝わせながら制作をスタートします。
制作中も助手に手紙を口述筆記させたり、来客を迎え入れたりと文字道り多忙な毎日でした。
この驚くべき社交性がさらなる活躍の場を広げていきます。
1620年代、画家は各国の宮廷から名誉ある注文を次々に受けて、「マリー・ド・メディシスの生涯」盛期バロック絵画の名作の数々を生み出し、またその一方でネーデルランド総督の外交官としても活躍を始めたのです。
母国ネーデルランド語のほかに当時の国際的公用語だったラテン語、さらにイタリア語、フランス語、なども自由に操ったルーベンスは、有名な芸術家として各国の宮廷に出入りしながら、時に秘密裏に国家間の平和のために動いたりしました。
特に1630年には、スペインとイギリスの和議に成功し、イギリス王チャールズ1世からナイトの称号を授与されています。
「ルーベンス」の創作と美少女エレーヌ
「順風満帆」とはこの画家のような人生をいうのだと誰もが思うような日々・・・
しかしそんなルーベンスにも、避けることのできない不幸に襲われます。
1626年妻イザベラが4人の子供を残して亡くなり、友人への手紙には「実に素晴らしい伴侶を亡くしてしまった」とルーベンス自身がしたためています。
それから4年の歳月が流れて37歳は年下の新しい女神を迎え入れたのです。
当時16歳のエレーヌ・フールマンは前妻の姪にあたり、裕福な絹織物商の娘でした。
「麦わらの帽子」 1620~25年
この名作がなぜこのタイトルで呼ばれてきたのか謎である。
というのも、帽子は明らかに麦わらで出来てはいないからだ。
フランス語のプワル(毛皮)が転じてパーユ(麦わら)となったのかもしれない。
モデルをルーベンスの後妻の姉シュザンヌ・フールマンとする説もある。
おそらく彼の肖像画のなかでも最も愛された作品で、輝くばかりの肌の描写は比類がない。
「ルーベンス」の幸せな晩年
ルーベンスはスペイン王とイギリス王から位を賜って立派な「貴族」でしたが貴婦人との再婚は断って、この年に彼は外交官の仕事から身を引いたのです。
「今妻子とともに静かな日々を送っております。平和に生きる以外望みはありません」ルーベンスは53歳になっていました。
「ヴィーナスの祝祭」 1630~40年
これほどあからさまにルーベンスの生命讃歌を伝える作品はほかにないと言ってよく、とりわけ官能の喜びが高らかに謳われている。
ルーベンスの2番目の妻エレーヌ・フールマンが左端の女性のモデルと思われ、彼女の豊かな肉体の魅力がこの絵の源泉となったことは疑いない。
穏やかな日々を望んだからとルーベンスは筆を置いたわけでもなく、多くの助手を使ってあいかわらず宮廷や教会の注文を描き続け、また幸福な家庭を映し出したような家族の肖像や風景画などが数多く生み出されます。
特に年若い妻絵エレーヌは愛情こまやかに幾枚も描かれ、血色のいい肌で豊満な肉体、誰もが驚く美貌はルーベンスの理想と女性美そのもので、晩年の10年を充実させたミューズでした。
1640年5月30日痛風を悪化させたルーベンスは最後まで助手たちに指示して制作を続けながら幸福に満ちた62年の人生に幕を下ろしたのでした。
アントワープの聖ヤコブ教会に公私ともに幸福の絶頂を極めた大画家は、今も静かに眠っています。
フランドル最大の天才画家
ピカソを例外とすれば、ルーベンスはあらゆる巨匠のなかで最も多作な芸術家でした。
実際、数えきれないほどの膨大な作品を生み出しています。
すべてのジャンルにわたっている絵画と、そのためのスケッチやデッサンだけでなく、タピスリー、祭壇の装飾、本の挿絵と扉のデザインも手掛けています。
また、彫刻家、建築家、金工家にイメージ材料の提供もしています。
1621年に、自ら「私の才能はひじょうに優れているので、作品がどんなに大きくても、また主題がいかに多様であろうと、臆することなくあらゆる依頼を引き受けることができた。」と書いています。
自画自賛に聞こえるかもしれませんが、これは単純に事実を述べたにすぎませんし、彼は限りない肉体的、知的活動の持ち主であったといえます。
「ルーベンス」の工房
ルーベンスが速筆の腕のいい画家であったことは有名ですが、大画家でもあるとともに批評家でもあったレノルズは、彼の作品が「まったく自由に次から次へと流れ出てきて、彼には何の苦労もなかったようだ」と評しています。
ですがそのルーベンスでさえ、助手の手助けなしにあれだけの量の注文をこなせなかったはずです。
ルーベンスがいつごろどれだけの弟子をかかえていたなかはわかっていません。
というのも、宮廷画家であったため、その人数を画家組合に登録する義務がありませんでした。
当時の優れた画家数人を雇っていたり、彼らと共作したことは確かで、特にヴァン・ダイク、ヤン・ブリューゲルの名が知られています。
ルーベンス自身が制作に携わる度合いは、注文の重要度に左右され、それは絵の値段に反映していました。
ある手紙には、「私自身の手になり、ただし鷲はスネイデルス(当時最高の動物画家)がえがいた」とあり、別の絵では「私のオリジナルですが、きわめてしい風景はその道に秀でた名人の手になっています」とあり、ほかにも「弟子の1人が着手しましたが・・・・それでは完成しないので、私自身が全体に手を加えることになり、オリジナルと言っていいでしょう」と記され、また「弟子の1人が描き始めた・・・・しかし全面的に筆を加えました」となっています。
多くの場合は、ルーベンスが小型の彩色下絵を描き、助手たちがそれを大きな板かキャンバス上に写し、いかなる段階でも必要とあればルーベンス自身が手を加えたと思われます。
名画「十字架降下」
ルーベンスが「十字架降下」を描いたのは1611年から14年にかけてであり、別の傑作「十字昇架」が完成した直後のことでした。
2つとも現在アントワープ大聖堂にかけられています。
「十字架昇架」が聖ワルブルガ教会の依頼で描かれ、のちに現在の場所に移されたのに対し、「十字架降下」は当時から大聖堂のために制作されました。
絵を依頼したのは、市の火縄銃組合で、その守護聖人は聖クリストフォロスでした。
聖人は片方の翼パネルの表側にしか登場しないものの、ルーベンスは聖人のギリシャ名の意味(キリストを背負う者)を暗示することによって、作品全体を通して彼をたたえています。
すなわち、中央パネルでは、力の失せたキリストの体が支えられながら十字架から降ろされ、両翼の「聖母マリアの御訪問」とキリスト奉献」では、キリストはそれぞれマリアの胎内と神殿の大祭司シメオンに抱かれます。
この祭壇画はすぐさま有名になり、その影響は版画を通して広く世に広まりました。
まとめ
ルーベンスの多彩な生涯は、かれが忙しく精力的に活動したことを思わせる。
画家で外交官で家庭人であり、その上さらに活気に満ちた工房を指導運営し、おびただしい数の作品を生み出しました。
彼の生み出した多くの絵画は、あまりにも素晴らしく美術史に大きな功績を残した。
彼が残したものは、絵画だけでなく、ヨルダーンスやヴァン・ダイク、スネイデルスという偉大な後継者を残し絵画の素晴らしい発展に貢献しています。
まさに彼は、バロック最大の画家だったと言えるでしょう。