アルブレヒト・デューラーは北方ルネサンス最大の画家で、宗教をテーマにした劇的な木版画と精妙な銅版画で有名です。
デューラーの芸術は北方ヨーロッパと南のイタリアの伝統の融合が見られ、ヴェネツィアを訪れた際に接した同地の絵画に深く影響されています。
デューラーは知的で教養が高く、人文主義者と学者をまぜ合わせたような人物であるだけでなく、神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世をはじめとする名士たちの庇護も得ています。
略歴
- 1471年 ニュルンベルクに生まれる
- 1490年 遍暦の旅に出る
- 1494年 アグネス・フライと結婚。イタリア旅行
- 1496年 「ヨハネ黙示録」を出版
- 1502年 父が死亡
- 1505年 ヴェネツィアに旅する
- 1512年 教皇マクシミリアン1世に仕える
- 1514年 母の死。版画「メランコリア1」を制作
- 1520年 ネーデルランドに旅行
- 1526年 ニュルンベルク市に「4人の使徒」寄贈
- 1528年 ニュルンベルクで死亡
「デューラー」の幼少時代
アルブレヒト・デューラーは1471年5月21日、ドイツ南部の都市ニュルンベルクで生まれました。
父親はハンガリー出身の金細工師、親方の娘バルバラ・ホルンバーと結婚し、18人の子供をもうけました。
アルブレヒトは3男です。
子供時代のデューラーは土地のラテン語学校に通い、そこでヴィリバルト・ピルクハイマーに出会います。
この貴族の子弟はのちに有名な人文学者となり、デューラーとは生涯にわたる親交を結び、さかんに手紙のやりとりをしました。
学校を出てから3年間、デューラーは慣習に従い、ちちの工房で金細工師として修行を積みます。
このころすでに、驚くべき芸術的才能をみせたようで、死の直前に記した回想録のなかで、彼は当時をこう書いています。
「父は私をひどく気にいっていました。というのも、私が細工のやり方をしきりに知りたがるのを見たからで、彼は私に金細工師の仕事を教えました。望みうるかぎり手ぎわよく細工はこなせたのですが、私の気持ちは絵のほうにもっとひかれていました。
父にいっさいを話すと、父は今までの時間が水の泡だと嘆き、とても悲しそうでしたが、それでも譲歩してくれたのです」
15歳の時に、デューラーはニュルンベルクの画家ミヒャエル・ヴォルゲムートに弟子入りします。
師は古い中世末期のスタイルを残す大家でした。
1490年にヴォルゲムートの工房で3年間の修行を終えたデューラーは、ドイツ伝統の遍歴の旅へと出発して、町から街へとさまよって人生の意義を探す期間で、これを経て初めて身を落ち着け、家族をもつのでした。
「デューラー」の遍歴時代
デューラーは当時の神聖ローマ皇帝の領土だった各地を旅してまわり、2年後にアルザス地方のコルマール(現在はフランスのドイツ語圏地区)に赴き、前世代のドイツ最大の版画家マルティン・ショーンガウアーに会うためでした。
不幸にして、ショーンガウアーはデューラーの到着するほんの数か月前に世を去っていました。
それでも故人の弟のもとに滞在し、彼から大家の技法の秘密をいくらか学んだに違いなく、のちにそれを自分の作品で駆使することになります。
デューラーはまたバーゼルとシュトラスブルクで出版業者のために働き、聖書などの書物の木版挿絵を手がけました。
1493年に、父は息子を地元の銅細工師の娘アグネス・フライと結婚させるてはずを調え、デューラーはみごとな出来栄えの自画像を家に送っています。
22歳のときの自画像は、ヨーロッパ美術全体を見まわしても最初の自主的自画像(画家の私的な欲求のために描かれた像)でした。
デューラーは1494年の春にニュルンベルクに戻り、結婚しましたが、彼の妻についてはほとんど知られていません。
友人のピルクハイマーは「彼女はガミガミ小言をいい、意地が悪く、欲張りだった」と後年に嘆いています。
結婚して数か月のうちに、デューラーは妻をニュルンベルクに残し、最初のイタリア旅行に出かけました。
ピルクハイマー家から旅費を借りたようです。
「デューラー」のイタリア旅行
ニュルンベルクではこのころ疫病が流行していて、これが若い画家が町を離れた動機だったのかもしれません。
理由はどうあれ、デューラーがこれまでに旅先で耳にしたに違いない、イタリアの新しい絵画や素描の大家たちの業績に、彼が
強く心ひかれていたのでしょう。
デューラー自身が述べていますが、ドイツの芸術家が「野生の刈りこまれていない樹木のように無自覚」なのに対して、イタリア人は、「古代ギリシャとローマであがめられた芸術を200年前に再発見していた」のでした。
当時は長旅に適した乗り物などなかったので、馬に乗ってアルプス越えは困難をきわめたに違いありません。
ですが、その途中でデューラーは、山岳風景の印象を素晴らしい水彩画連作に記録しました。
デューラーの旅のハイライトはヴェネツィアでした。
デューラーは、同時代のイタリアの巨匠たちから学べるかぎりのものを吸収し、遠近法の科学と裸体表現を研究します。
また、マンティーニャやほかの版画家たちの作品を模写し、仲間のヴェネツィア画家たちとさまざまな理論をめぐって議論もしました。
翌1495年に帰郷したとき、彼はイタリア・ルネサンスの基本原理を身につけており、それを故郷の北方で開花させようと考えていました。
木版画と銅版画で生計を立て、ときとして1枚かぎりのデザインであることもあったが、それらは妻と母親が市場で売り歩き、町の行商人の手でヨーロッパ全土に運ばれました。
2年後、デューラーはまた自画像を描いており、正面を見据え、キリストを思わせるポーズを意図的にとっています。
画家となるべき己の宿命をそのときまでにはっきりと自覚していた人間の、プライドと自意識にあふれた作品です。
つづく数年間、デューラーはイタリア旅行で得た教訓をゆっくりと消化吸収し、実際さまざまな作品を生み出しています。
絵画注文も自治都市の市民段級や、ザクセンンの選帝侯であるフリードリヒ賢明候をはじめとする貴族たちからよせられますが、
名声を広めたのは木版画と、しだいに数の増えた銅版画であり、その業績によって念願の一本立ちの画家となりまいた。
「デューラー」再びイタリアに向かう
1505年の夏の終わりに、デューラーは再び南に向かいます。
ヴェネツィアで富を得たドイツ商人グループのための祭壇画を描くよう依頼されたのです。
当時すでに、かれの版画はイタリアの総督や大司教ら名士たちから賛辞が寄せられ、総督と大司教はデューラーのアトリエを訪れもしました。
デューラーは自分が線描だけでなく色彩と絵の具の扱いにも優れ、そのころ印象深い描写で大評判となっていた謎の画家ジョルジョーネに四敵する才能を、ヴェネツィア人に見せてやろうと心に決めていました。
ですが、デューラーが最も尊敬していたのは、全世代の大画家である年老いたジョバンニ・ベリーニでした。
80歳のベリーニがデューラーのアトリエを訪ねて作品をほめたとき、35歳の若いドイツ人画家は得意満面だったでしょう。
デューラーはヴェネツィアでの生活を満喫し、画家たちと交遊し、料理とワイン、美しい景色を楽しみました。
ヴェネツィア市が同地にとどまって仕えることを条件に200ドゥカートの年金支給を申し出たにもかかわらず、デューラーはこれを断って1507年1月に帰国します。
ニュルンベルクに戻ると絵画大作に取り組みますが、イタリアのライバルたちが評判をとっているような公的な大作はありませんでした。
そのため、しだいに絵画をあきらめ、もっぱら版画作品を手がけるようになり、1509年には人気がでたことで、一家が数年前から借りていた家を即金で買い取れるまでになります。
1512年以後、デューラーは神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の庇護をうけ、皇帝のための挿絵を制作し、「凱旋門」の共同制作にも携わっています。
1513年、ニュルンベルク市議会の名誉会員になるが、これはアルプスの北で活躍する芸術家にとって前例のない名誉でした。
そして1515年には、皇帝の命により100フロリンの終身年金が認められました。
「デューラー」の困難な時代
公的な成功を得たにもかかわらず、私的な面でデューラーにとってつらい年月が続きます。
収入はかなり増えたものの、浪費癖がすぐにそれを帳消しにしました。
自分で使うだけでなく気軽に人に金を貸し、家にはいろいろな珍しい、または貴重な品があふれていました。
1514年の母の死が彼を深く悲しませ、芸術面と精神面双方で危機を経験したことが、版画「メランコリア」に見てとれます。
彼はまだイタリア画家の偉大な業績への嫉妬にさいなまれており、特に美と調和の概念が自分には欠けていると常々感じていたようです。
1517年、ドイツのヴィッテンベルク大学の進学教授であるマルティン・ルターが、教会の腐敗に対して大々的な批判を開始し、後に宗教改革と呼ばれるヨーロッパ宗教界の激変に火が付きました。
デューラーは、フィリップ・メランヒトンらの改革派からまわされるルターの著作をむさぼり読みます。
メランヒトンは人文主義者で、デューラーと同様、イタリアがもたらす新たな学識とドイツに新しく起こった信仰とのギャップを埋めようと努力した人物でした。
ルターの教えにより、デューラーは内面の苦悩からいくぶんか救われたようです。
「デューラー」の晩年の旅
皇帝マクシミリアン1世が1519年に死ぬと、ニュルンベルク市当局はデューラーの終身年金を打ち切ってしまいました。
そこで彼は新皇帝に年金継続を願い出ようと、ネーデルランドへの長旅を思い立ち、妻と召使を連れて、1520年にニュルンベルクをあとにしいます。
デューラーはいたるところで金持ちと権力者に歓迎され、ドイツ最大の画家として敬意を表されました。
デューラーにしてみれば、芸術家の公的地位を高めるという長年の夢がかなえられたといえます。
アーヘンに着いて、新しい教皇カール5世の戴冠式に立ち会い、宮廷がケルンに移るに及んで、彼の年金も正式に認められました。
デューラーは多くの肖像画を描き、版画を数多く売ったものの、収集癖が高じて、べっこう、オウム、サンゴ、ホラガイ、象牙などを買いあさったため、全体として旅は赤字に終わりました。
アントワープにいたデューラーに、ルター逮捕の知らせが届き、同地のカトリック派による攻撃をおそれたためか、彼は妻とともに急ぎ帰国します。
1521年8月にニュルンベルクに到着したが、市は混乱のさなかにあり、友人や弟子は異端信仰ん罪で追放されていました。
周囲の農村では不満がつのっており、結局は1524年に農民戦争という形で爆発することになります。
デューラーは用心深く権力側にとどまりながら、新しい運動への共感を隠しませんでした。
最後の絵画大作「4人の使徒」では、深い信仰心と彼が愛したヴェネツィア美術の要素がみごとに融合しています。
デューラーはこの絵を1526年にニュルンベルク市に寄贈し、次のような銘文を書き入れています。
「この危険な時代にあって、現世の支配者たちは神の言葉を忘れて人の誤った道に従わないよう注意しなければならない。
神はその言葉に何も加えず、なにも取り去りはしないから」
「デューラー」著述に打ち込む晩年
デューラーは晩年、精力の大半を著作の執筆に注ぎます。
人体比例、遠近法、都市計画に関する本を次々と刊行し、一家の年代記や回想録も編み、生前に完成しなかったが、若い画家への助言集も書き留めています。
古くからの友人ピルクハイマーは、彼の健康を害していると嘆きました。
「彼はワラ束のようにやせ衰え、幸福な人間にはもどれず、人々と交わることもできなかった」
1528年4月6日、デューラーは57歳にして故郷のニュルンベルクで息を引きとりました。
かつてのゼーラントで感染した熱病の再発が原因でした。
メランヒトンはその死をいたんで、「賢者であり、かくも優れた芸術的才能といえども、彼の美徳のごく一部でしかない」ともベています。
版画家の芸術
イタリアの影響
デューラーが用いた木版技術は前からドイツで一般的に使われていた方法でも、彼の手にかかると、それが新しい表現力を帯びました。
デューラーはじかに木に図柄を描き、習練を積んだ職人が彫る、そして彫り残して盛り上がっ部分にインクをつけ、紙に刷りました。
こうした版画で、デューラーは人物素描にイタリアの技法を用いており、天使、悪魔、人間がそれまでの木版に見られなかった立体的な迫力を持っています。
そして、遠近法を駆使して、幻想のドラマを一般人にもわかりやすい形で示しました。
しかし、「ヨハネの黙示録」の木版画はデューラーの母国の伝統で描いており、イタリア人の作品と見間違えることは決してありません。
イタリア人から学んで得た感情と様式の混在は、新約聖書の逸話を扱った多くの絵画、木版画、銅版画に見られます。
デューラーは旧約聖書からはめったに主題を選らびませんでした。
「東方三博士の礼拝」に見られる生気あふれる色彩、幾何学的に組み立てられた構図、古代建築の利用などはすべて、ベリーニとレオナルド・ダ・ヴィンチの影響を物語っています。
それと同時に、人物と背景は明らかに北方的な性格を帯びています。
完璧なプロポーション
デューラーにとって、しだいに人間が芸術的関心の的となり、人物の姿形がその基礎に飽きることなく裸体を研究しました。
初めてヴェネツィアを訪れた際に、イタリアの画家にして版画家のアントニオ・ポライボーロとマンティーニャの古典的な裸体画を模写して、自作のデッサン、絵画、そして優れた銅版画「原罪」においても人体表現の定式、つまり頭部、脚、胴、腕の完璧な比例を生む指標を追及しました。
彼はこうした定式が数多く存在し、確かな美の尺度は、きめられないとの認識に達しますが、以上の努力のおかげで作品の視野が広がり、小品の木版や銅版でも、イタリアの画家が壁画や絵画で生み出すのと同種の壮麗さを表現できるようになります。
細やかな観察
デューラーの有名な「野兎」に代表される驚くほど精密な動物素描は、レオナルドに負けず劣らず、彼も自然界に見せられています。
このイタリアの同時代人が特定の主題にこだわったのに対し、デューラーのほうは目に触れるものすべてをデッサンし描いていて、彼は「じつのところ、芸術は自然のなかにあり、それを捜しあてられる者だけが芸術をものにしてきた」と信じていました。
デューラーの最高傑作の何点かは銅版画で、この技法は木版と金銀の装飾彫りの技術が組み合わさって生まれたもので、金細工師の修行を積んだ彼にはうってつけの制作方法でした。
デューラーは自分で彫刻刀を使って銅板に絵柄を刻む、それには大変な忍耐力と視覚、確かな腕を必用としました。
名画「ロザリオの祝祭」
デューラーはヴェネツィア到着後まもなく、1506年2月にこの絵に着手しています。
ドイツ商人のグループが、ドイツ商館の近くにあったドイツ民族教会サン・バルトロメオ聖堂のために依頼したものでした。
選ばれた主題はバラ冠の聖母で、ロザリオの祈りを唱える聖母という伝統的なものです。
バラの冠(ロザリオの象徴)を聖職者と平信徒、男と女、富者と貧者にわけへだてなく受け入れる行為は、キリスト教の四海同胞の教えを表す。
堂々とした画面で、幾何学的なシンメトリーと鮮やかな色彩はヴェネツィア美術の影響を物語り、背後の風景と群れなす人物は北方絵画の典型です。
デューラーはこの作品がとりわけ気にいっていました。
確かに画家としての彼の才能を立証しています。