長い生涯を通して、ティッティアーノはヴェネツィア画家として第一人者の名をほしいままにしました。
ヨーロッパの王侯貴族もまた熱心にティッティアーノの作品を手にいれました。
感覚的な色を好むヴェネツィアの伝統を新たな高みにまで到達させ、表現豊かな筆遣いで革新的なスタイルを発展させました。
年譜
1485年 イタリアのピエーヴェ・ディ・カトーレに生まれる
1508年 ヴェネツィアのドイツ人商館」の壁画をジョルジョーネと共作
1516年 ヴェネツィア共和国の御用画家となる 「聖母被昇天」に着手
1530年 初めてカール5世に謁見する
1533年 カール5世の宮廷画家となり、「宮中伯」と「金拍車の騎士」の称号を授与される
1545年 教皇パウルス3世をローマに訪問
1548年 アウグスブルクの宮廷に9か月滞在。 ミラノでフェリペ二世と会う
1554年 フェリペ二世のために「ポエジア」連作に着手
1576年 ヴェネツィアで死亡
「ティッティアーノ」のヴェネツィアでの修行
ティッティアーノは1585年1585ごろアルプスの村ビエーヴェ・ディ・カドーレに生まれました。
若き日のティッティアーノは、貿易について学ぶためヴェネツィアに出て、モザイク制作を学び続いて画家ジェンテーレ・ベリーニのもとで修行するが、時代遅れと感じ弟のジョバンニ・ヴェリーニの工房で学びます。
「ティッティアーノ」、ジョバンニ・ベリーニに学ぶ
新しい師はイタリアでも指折りの画家の一人で、近年入ってきたばかりの油絵技法を完成の域にまで発展させたました。
ジョバンニ・ベリーニは、色彩と鮮やかな光の効果と雰囲気をもつ祭壇画や小型の宗教画で有名でした。
(ジョバンニ・ベリーニ)
ティッティアーノの色彩はジョバンニ・ベリーニの影響が強く感じられます。
「ティッティアーノ」、ジョルジョーネと仕事をこなす
1508年独立した画家となっていたティッティアーノは、ヴェネツィア派の画家ジョルジョーネと共に商館の外壁にフレスコで寓意画を描いていました。
ジョルジョーネとの共同作業はこれ以外にも数多くおこなわれ、長年のジョルジョーネが指導的役割を担いながら、二人は絵具を溶かさずにじかに目の粗いキャンバスに塗るという油絵の新技法を開発したのでした。
現代の油絵具を作りあげました。
「ティッティアーノ」共和国御用画家になる
1513年、ティッティアーノは、教皇レオ10世からしょうへいを受けたが、旅嫌いで教皇の招きを断ってしまいます。
そしてそれまでどおりヴェネツィアの宗教機関や貴族階級の人々をパトロンにして、制作を続けました。
ローマ招へいによってティッティアーノの名声は明らかに高まって共和国の御用画家になります。
公約依頼の最初の作品は、ヴェネツィア有数の教会であるサンタ・マリア・フラーリ聖堂の祭壇画「聖母被昇天」でした。
「聖母被昇天」 1516~18年
ティッティアーノはこの大作を、ヴェネツィアで最も重要な聖堂の1つであるサンタ・マリア・デイ・フラーリの祭壇画として描いた。
聖母が金色の光を浴びて昇天する姿を、地上の使徒たちが驚きの目で見つめる。
この劇的な場面は、ティッティアーノの華麗な色彩によっていっそう強調されている。
2人の使徒の着ている赤いローブが構図を下から支え、聖母の深紅のガウンと、頭上にいる聖父のマントに同系色が繰り返されることで、構図全体に上昇する力を与えている。
そして侯爵、マントヴァやウルビーノの貴族たちがパトロンとなり、親交を結びます。
1519年レオナルド・ダ・ヴィンチの死に続く1520年ラファエロの死によって、またミケランジェロが彫刻と建築に没頭していたために、イタリア第一画家としてのティッティアーノの地位を脅かす者はいなかったのです。
「青い袖の服を着た男」 1511年ころ
この半身像は、これまで詩人のアリオストを描いたものと考えられてきたが、実際は自画像かもしれない。
プレーンな背景の前に立つモデルは、ティッティアーノのイニシャルを刻み込んだ欄干にもたれている。
男の自信あふれるポーズと確信に満ちた鋭いまなざし、そしてみごとに描かれた青い袖が目を奪う。
それは見る人の目をみごとに欺き、画面から飛び出しているように見える。
伝説では、若きティッティアーノの自画像とされている。
「ティッティアーノ」王侯貴族を友人にして
「ティッティアーノ」カール五世の肖像を描く
テティッティアーノは万人が認めるように上品で魅力があり、話題が豊富で人々をひきつけました。
教皇パウルス三世に招かれてローマに行ったばかりでなく、15世紀に最も権勢をふるった神聖ローマ帝国でありスペイン王でもあるカール5世の宮廷画家ともなっていました。
「カール5世騎馬像」 1548年
この素晴らしい肖像画は、カール5世の有名なミュールベルクの戦勝を記念して描かれたもので、皇帝の騎乗ポーズは、ローマにあるマルクス・アウレリウス騎馬像に由来する。
夕映えの素晴らしい風景は、ティッティアーノが自然の描写に卓越して名声を得たゆえんを示している。
ティッティアーノがカール五世の個人的にきわめて親しい友人だったことはよく知られていまうす。
1533年ティッティアーノが皇帝の肖像画を数多く仕上げ、大変喜んだカール五世はティッティアーノを専属の肖像画家に指名し、その才能をアレキサンダー大王を描いたアペレスになぞらえてたたえました。
そして画家としては前代未聞の「宮中伯」と「金拍車の騎士」の称号を授与し、宮中への出入りを含めて貴族階級に与えるのと同等の特権を与えられます。
皇帝に仕えるため、ティッティアーノは1548年真冬にアルプスを越え、生涯で最も多忙な9か月をドイツで過ごすこととなり、皇帝とその家族、ドイツ君主、アウグスブルクで開かれた「帝国議会」に集まった諸君主の肖像を描くのに忙殺されました。
カール五世は退位して隠居生活に入った時、ティッティアーノが描いた数多くの絵を携えていきます。
カール五世の息子スペイン王位を伝承したフェリペ2世も、父の後を継いでティッティアーノのパトロンになりました。
「ティッティアーノ」の大胆な筆遣い
ジョルジョ・ヴァザーリの批評
1566年にティッティアーノを訪ねたヴァザーリによれば、『ティッティアーノの初期の作品は緻密で驚くほど念入りな仕事を見せているが「これら晩年の絵は大まかな筆で描かれているため、近くからは何を描いているのかわからないが、遠く離れれば完璧に見える」のである。』
自らも優れた画家だったヴァザーリは、この技術がティッティアーノの絵を何気なく描かれたように見せているが、それには時間と労力がかかっていることを知っていました。
彼は「これらの作品は何度も修正され、何度も色を塗られているから、どれほどの労力が注がれたかを伺いしることができる」としるしています。
ティッティアーノの晩年の弟子パルマ・ジョヴァーネの逸話
『師の手法はまず、大きな色のマッスでスケッチするのが常であった。これが作品の基礎になるのである。
次にそれを壁に向け、ときには数か月もかえりみずに放置した。
長い期間をおいて再び絵に戻ると、人物を構成し、直し、手を加え、必要ならばどんな変更も行った。
最後に作品に再び手を加えた。
指を使ってハイライトをぼかし、色とトーンのバランスをとった。
また、構図に活気を与えるために、やはり指で暗い影や鮮やかな赤を加えた。』
パルマによると、最後のだんかいだは、ティッティアーは筆よりも指を使うことの方が多かったといいます。
「ティッティアーノ」の工房による制作
ティッティアーが制作するときは、まず最初にもととなる独像的なスケッチを描き、最後に仕上げの手を加えるだけで、途中の段階はほとんど弟子の手にゆだねていました。
ティッティアーノは1540年代から大きな工房を抱えていたらしく、少なくとも30名の弟子の名前が記録に残されています。
独立して名をはせたのはティントレットとエル・グレコだけで、多くは工房の仕事に専念していました。
パトロンと批評家は人筆人筆にこの天才の筆後を見いだそうとし、彼らは弟子が描いて最後の二筆ほど加えて売るやり方に不満を抱いていました。
真の芸術家愛好家は、ほかに例がない「けたはずれの天才」による作品ならば、未完成のまま素描であっても、作者のわからない工房の完成した作品より価値が高いと考えはじめていました。
「ダナエ」 1553~54年
1554年から1562年にかけて、ティッティアーノはフェリペ二世のために6枚の神話画を制作した。
フェリペ二世が「ボルジア」と呼ぶこれらの絵画は、詩をもとにして描かれ、そのなかにはオウィディウスの「転身物語」も含まれている。
ティッティアーノは、一時この官能的な場面「ゼウスが黄金の雨に姿を変えてダナエを誘惑する」絵画も連作に加えようと考えた。
「ティッティアーノ」の晩年
若き日のティッティアーノが受けた教育についてはほとんど知られていません。
しかし彼は生涯を通して、当時もっとも博識な人々の賞賛を集め魅了しました。
そんなティッティアーノの晩年についても知られていませんが、視力は弱まり、手は絵筆を自由に操れなくなって、大所帯の工房は才能ある息子オラーツィオに率いられ今や実際に作品を手掛けるのは息子の方だったようです。
最後の筆だけはティッティアーノが筆をいれ、彼自身の作品としてフェリペ二世に送られました。
ヴェネツィアでは、ティントレット、ヴェロネーゼといった新しい世代の画家が台頭し始めティッティアーノの工房は、地元での注文を受けるために彼らと競合することになります。
しかしティッティアーノほどの名声を手にしたものはいません。
1576年8月27日に彼が世を去った時はペストの大流行している時期で、死の翌日遺体はひっそりとサンタ・マリア・デイ・フラーリ聖堂に埋葬されました。
名画「聖愛と俗愛」
1514年ころ、ヴェネツィアの高級官僚であるニッコロ・アウレリオが、俗に「聖愛と俗愛」と呼ばれる作品を依頼しました。
美しい絵ですが、その主題に関してはいまだに謎で、さまざまな解釈がありますが、最も一般的に信じられているのは、地上のヴィーナスと天上のヴィーナスを描き、俗なる愛と聖なる愛を象徴させているというものです。
しかし、もしかしたらそれほど難しい解釈ではないのかもしれません。
ニッコロ・アウレリオは1514年に結婚し、その記念にこの絵の制作を依頼したという可能性があり、白い服を着た女性が花嫁で、裸身のヴィーナスに従うキューピッドは水盤の水をかきまぜながら、女神の愛のたくらみに協力していると考えられます。
ティッティアーノはニッコロ・アウレリオの紋章を泉のフリーズの中に描き込んでいます。
彼の花嫁、ラウラ・バガロットの紋章も銀の皿に描かれているのが最近発見されました。
こうしたことも「結婚記念の絵」という説を補強するのではないでしょか。
まとめ
ティッティアーノは歴代の巨匠の中でも、最高の地位と名声を得た大画家でした。
2代にわたり皇帝のお抱え絵師となり、その絵画は古代のギリシャ、ローマ時代の絵画を思わせる大胆な作品でした。
ティッティアーノの絵画は、今までにない画法で描かれ、絵画史に新たな新時代を作りあげるお手本にもなっています。
ティッティアーノの影響で、ヴェネツィア派のヴェロネーゼやティントレットトが育ち、スペインのエル・グレコもティッティアーノの弟子でした。
その後バロック時代には、ルーベンスとヴァン・ダイク、ベラスケス、レンブラントに影響を与え、ティッティアーノの絵画が分散して発展を遂げていきます。
後世に多大な影響を与えたティッティアーノを、歴代の画家たちは「画家たちの王」と称えた。