ドガは同世代の画家のなかでひときわデッサンに優れていました。
彼は18歳のとき法律を学ぶことを放棄し画家を志します。
常に巨匠たちの伝統を尊重しますが、彼自身のインスピレーションはパリの日常生活の場から得ていました。
オペラ座の練習室で稽古する踊り子や、舞台上で華麗に変身する踊り子たちの愛らしく心に残る絵は最もよく知られています。
彼はほとんど数人の親しい友人がいただけで、女性関係は知られていないません。
生涯はもっぱら芸術にささげられ、晩年はいっそう非社交的になり、衰えた目を日光がいためるためもあって、モンマルトルの薄暗いアトリエにこもり、とりつかれたように仕事をしました。
ドガは83歳でさびしく生涯を終えた。
裕福な幼少期
エドガー・ドガは1834年7月19日、パリで生まれました。
洗礼名はイレール・ジェルマン・エドガー・ガスだったが、画家になってまもないころ、ごく簡単な「ドガ」という名に変えました。
父親のオーギュスト・ド・ガスは名の知れた銀行家であり、母セレティーヌ・ミュソンは植民地の裕福な家庭の人で、彼女はドガ13歳のときに死亡したが、このことはドガにとって、少年時代の最もつらい出来事でした。

彼は裕福な家庭の子弟としいて、リセ・ルイ・グランで一般教育を受け、その後法律の勉強を始める。
しかし、彼の話によると、このころはほとんどルーブルの名画の模写ばかりして時を過ごしたといいます。
やがて彼は父親に法律の勉強を続けられないと告げ、父のオーギュストは18歳のエドガーに画家としての道に進むことを許します。
ド・ガス家の一室をアトリエに作り替え、エドガーは、現在では忘れられてしまった2人の画家、最初はフェリクス・ジョセフ・バリアス、そしてルイ・ラモートについて絵の勉強をしました。

ラモートはジャン・ドミニク・アングルの弟子で、アングルの考えに従ってドガに絵を教え、記憶によって描くことと大画家たちの作品の重要性を強調した。
当時、アングルの絵を所有していたエドゥワール・ヴァルパンソンがその展覧会にっ貸し出すことを拒んでおり、ドガがアングルのために調停役をつとめることになった。
たまたまヴァルパンソンはド・ガス家の友人であり、若いエドガーはヴァルパンソンを熱心に説得し、ついにその考えを変えさせることに成功します。
ヴァルパンソンはドガを75歳のアングルのもとに連れて行った。

アングルは、大望を抱くこの若い芸術家に貴重な助言を与えました。
「線を描きなさい。記憶によって、あるいは自然を見ながら、とにかくたくさん線を描きなさい。そうすれば、優れた画家になれるでしょう」。
それはまさしく、ドガが求めていた言葉でした。
優れたデッサン力を持つ彼には、力強い輪郭線を用いた描き方こそが本来好みに合っていたからです。
イタリア旅行
1850年代にドガは数回イタリアへ旅行し、ローマで絵の勉強をしたり、フィレンツェやナポリの親戚を訪ねたりした。
しかし、すぐに風景を眺めることには飽きてしまい、人々や美術作品に興味を持つようになった。
この時期とパリに戻ったころに、彼は優れた肖像画を何枚か描いている。

例えば、イタリアのいとこたちを描いた「ベレル家の人々」に見られるように、これらの肖像画はのちの作品の気取られない近代的な風景を予見させる。
しかしアングルの弟子として、彼はまだ「画家にとっては歴史こそが適切な主題である」という当時の正統派の教えを忠実に守っていました。

「スパルタの少年少女」などの作品では、広く世間に受け入れられている「グランド・スタイル」の画家として名声を得るための努力をしているようすが認められる。
このような様式の絵を描生きながら、同時にドガは、アングルのライバルであるウジェーヌ・ドラクロワの作品から新しい影響を受けていた。

また、友人のヴァルパンソンが所有するノルマンディーの別荘に滞在したとき、馬を描くことに興味をひかれるようになった。
1860年にはすでに競馬の絵を描いており、ロンシャン競馬場に出かけて、騎手やその騎乗のようすをスケッチしています。
マネとの親交
1862年、ドガはエドワール・マネに出会った。
マネはドガより2歳年下で、ドガと同様、上流階級の出身でした。
マネは、現代生活を大胆に描く画家としてすぐに名をなしており、若手画家のうちで英雄的な存在となっていました。

その後のドガとの親交は、互いに影響を及ぼし合い、尊敬し合い、ときにはライバルとして反発し合うというものでした。
1860年代にドガは数多くの肖像画を描いている。
父親が開く「月曜の夕べ」の集いで演奏する音楽家たちをえがいたものも何枚かあり、そのなかにはギタリストのパガンスやバスーン奏者のデジレ・ディオ―らがいた。
彼はドガの親しい友人となり、「オペラ座のオーケストラ」にも描かれている。

ドガはまた画題として劇場に興味をもつようになり、有名な踊り子の絵を描き始めます。
彼はすでに仕事にとりつかれていた。
「ほんの数時間仕事から離れていると、自分が罪深く、愚かで、くだらない人間に思もわれてくる」と述べています。
生活のなかで友人と付き合うことはあっても、恋愛をしている余裕はなかった。

彼はかつて、特有のそっけない言い方で、「愛があり、絵がある。そして、心は1つしかない」と言っている。
1870年、フランスはプロシアと戦争を始め、手痛い敗北を喫した。
ドガは召集され、砲兵隊で兵役についた。
しかし、1871年のパリ包囲の際に、なんらかの原因で視力がいちじるしく低下します。
彼は後半生、しだいに進む視力の低下と戦いながら制作を続け、失明の恐れに堪えていなければならなかった。

1872年から1873年には、母方の親戚が住んでいるアメリカのニューオーリンズに6か月間滞在した。
ミシシッピの生活に魅力を感じはしたが、明るい日の光が目を痛めることもさることながら、何から何まですっかり知りつくしている環境のなかでなければ、十分に仕事はできないと不満をもらしている。
画家はそのように十分な知識があってこそ、自分の題材を選択し、構成することができるのであり、そうでなければ絵に感情のないスナップ写真にすぎないと思っていたのです。
家族の危機
家族に対するドガの誇りは確固たるものであり、彼の人生に深く影響を及ぼした。
1874年、父親が死亡すると、彼が経営していた銀行には莫大な負債が残されていることがわかった。
さらに悪いことが続く。

弟のルネがニューオーリンズで事業を始めるにあたって、4万フランの借金をしていたが、1876年には債権者に返済を迫られ、訴訟を起こされかねない事態となった。
家族の名誉を守るために、ドガと義弟は自分たちの財産を借金の返済に当てることにしました。
ドガは自分の家と美術品のコレクションを手離し、生れて初めて自分の作品を売って生計を立てなければならなかった。
のちに彼は、生活のために日々作品をうみださねばならないことを苦しげにこぼしています。

ドガの経済的窮乏は、ある程度彼自身にも原因のあることでした。
それは、彼が完全主義者であるため、注文された作品を期日どおりに渡せない場合も多く、ときにはまだ手直しする必要があると考えて、自分の作品を買い戻すことさえあったからです。
そういった作品はアトリエに置かれたまま、何年も忘れられていた。
ドガの死後、ようやく日の目をみることのできる作品もある。
一方、ドガは展覧会の組織者という不慣れな役割も引き受けます。

ピサロ、モネ、ルノワールらと一緒に、フランスの美術界を支配していたサロンという公式の制度とは別個に展覧会を開催するための協会を設立した。
ドガはこの事業に熱心に打ち込み、展覧会は1874年にカピュシーヌ街にある、写真家のナダールのスタジオで開かれました。
反対派の批評家によって「印象派」というレッテルを貼られ、この名称が定着するこになるが、ドガにとってこれはむしろ深いなことでした。
アトリエで入念に制作されるドガの作品は、戸外ですばやく仕上げてしまうモネのような印象派の画家たちの風景画とはほとんど共通点をもたなかった。

ドガにとってこの展覧会は、「写実主義のサロン」であり、現代的な主題や現代精神が当然与えられるべき価値を認められることになるはずの場だったのです。
印象派の画家たちに浴びせられた悪口にも、ドガはまったく動じず、いつもと同じように超然として孤高を保ち、卑しいものを相手にしなかった。
彼は批評家で品のないアルベール・ウォルフのことを、「どうやって彼を理解できるんだ。木から降りてきてパリに来たようなやつのことを」といって一蹴している。
人をひるませる男
このころ、ドガは「熊」と呼ばれるようになっていました。
近づくと危険な男、それも制作活動が関係するときはとりわけ危険だといわれた。
彼のアトリエは神聖な場所で、ほこりが積もり、薄暗く、紙ばさみや箱やさまざまな道具が一見乱雑に一面に散らばっていたが、彼以外には決して誰にも手に触れさせなかった。

モデルと画商のほかは、ほとんど誰もそこに入ることを許されなかったようです。
しかし彼は、自分の作品にとって必要な場合には、かなり社交的になることもありました。
1876年にかけて8回開かれた印象派展のうち、ドガは7回出品している。
新しいパリのオペラ座に足繁く通っては、稽古中や上演中のダンスをスケッチし、のちに夫人帽子屋や洗濯女たちの世界にも、まったく同じように入っていった。

1870年代の終わりころには、カフェ・ヌーヴェル・アテ―ヌでマネと激しい言葉のやりとりをしながら、一方でアメリカの画家、メアリー・カサットと親しくなったりもした。
ドガの仲間たちは2人が恋人同士だと信じていたが、もしそうであったとすれば、彼らの慎重さは驚くべきもので、後世に2人の間の心の通い合いを示すいせき痕跡は何一つ残していない。
ただしドガは1度だけ、カサットについてこう述べている。
「ひょっとすれば、彼女と結婚していたかもしれない。だが、性的な関係を持つことはできなかっただろう」。
黒メガネを使用したり、専門医の診察を受けたりしたが、1880年代のあいだにドガの視力さらに弱まっていった。
おそらくこれが原因で、彼は以前ほど油彩画を描かなくなり、代わりに彫刻やパステル画のような扱いやすい表現手段を使うようになったのです。

彫刻なら触覚が重要な役割を果たしたし、パステル画は比較的手早く描き進めることがき、時間をかけて細部まできっちりと描いていかなくてもすむからでした。
視力の衰えは、彼の非社交的で風変わりな行動をいっそう極端なものとさせる原因にもなったと思われる。
1886年の最後の印象派展のあとは、作品を発表することも少なくなり、世間との付き合いを避け、一方では相変わらず金が足りないことをこぼしていた。
新聞や雑誌で彼のことがどれほど好意的に書かれていても、ドガはそれに腹を立て、記者たちに決してドアを開こうとはしませんでした。
「何たることだ!物書きたちに言いたい放題のことを言われていなければいけないとは」と彼は文句を言っている。
世間に背を向け、ドガは以前にもまして数少ない昔からの親しい友人たちを頼みとし、孤独と闇からの逃げ場とした。

彼はパリに2つの「家」を持っていました。
木曜の夜はオペラの台本作者リュドヴィック・アレヴェの家で夕食をとった。
アレヴェの妻はドガの幼なじみです。
金曜日は学校時代の古い友人で技師のアンリ・ルアールやその家族と一緒に過ごしました。
パリの外には、ノルマンディーのヴァルパンソン一家や、ドガがアトリエを抜け出して訪ねれば、彼の突発的な怒りや急激なうつ状態を我慢し、同情してくれる人々もいた。
しかし、ドガはときには人付き合いがよくなることもあり、1890年には彫刻家のポール・バルトロメを口説いて、一緒にブルゴーニュ地方への小旅行を楽しむなど、めずらしく長く愉快な時間を過ごしている。
ドレフェス事件
ドガの晩年は暗く、その生活は1897年以降ドレヒュス事件によってさらに苦しいものとなります。
1894年ユダヤ人の陸軍将校ドレフュス大尉はスパイ行為のかどで有罪となり、南米ギアナ沖の悪魔島へ送られた。
しかし、不当な裁判が行われたらしいということが明らかになり、審理が再開されると、フランス中の意見は真っ二つに割れた。

右翼で反ユダヤ主義のドガは、ユダヤ人でリベラルな考え方をもつピサロやアレヴェといった年長にわたる友人たちとの付き合いを断ってしまった。
最終的にドレフュス大尉が無罪となったことは、彼の苦しい思いをさらに深めただけでした。
1912年、ドガはヴィクトール・マッセ街のアトリエを強制的に立ちのかされます。

この出来事は、健康と視力の衰えと相まって、彼の制作活動に終止符を打った。
仕事という唯一の心の慰めを失ったドガは、長い、古めかしいインヴィネスコートを身にまとって、パリの通りを歩き回り、しだいに増えてきた自動車におびやかされたり、道を横切るのに警官に助けられたりした。
そして第一次世界大戦のさなかの1917年9月27日に死亡した。
舞台裏のパリ
「人は私のことを踊り子の画家などという。私にとって踊り子は、美しい衣装を描いたり、彼女たちの動きを表現するための口実にすぎないことがわかっていないのだ。」
批評家に対する怒りの言葉のなかで、ドガは自分の絵の意図をこう述べている。
つまり、いかに描写的あるいは刺激的な絵であろうとも、それが意図するところは画題だけにあるのではないという。

ドガが踊り子の絵を描くとき、彼の心を捉えているのは踊りそのものではなくて、人体が空間につくり出すスぺクタルであり、それを絵に描きとめるという困難な課題への挑戦でした。
画家としての生涯を通してドガは、相反する2つの力に引かれるのを感じ続けます。

1つは友人のマネや印象派の画家たちが実践しているような芸術の近代化が必要と思う気持ちであり、もう1つは巨匠たちが成し遂げた偉大な業績を尊び、守り続けていきたいという願いだった。
彼は常に、自分はヨーロッパの優れた伝統のなかにある芸術家であり、ヨーロッパ美術の成果は厳しく鍛錬されたデッサン、構成、豊かな色彩にもとづいたものだと考えた。
尊敬する画家からの助言
デッサンはドガに大きな喜びを与えてくれるものでした。
青年時代、彼はルーブルで多くの絵を模写し、すぐれた素描家となった。
彼は尊敬するアングルの「線を描きなさい、たくさんの線を」という教えを生涯忘れませんでした。
デッサンの訓練こそ、同時代の人々が失ってしまった過去との重要な結びつきを与えてくれるものだと感じ、生涯を通して執拗にデッサンを続けます。
デッサンは彼の観察力を磨きあげ、創造意欲を抱いた、絵を描くための下準備の手段でした。

青年時代のドガは伝統的な主題にのみ目を向け、一連のスケッチや事前の習作をあらかじめ何枚も描いて十分な準備を重ねたうえで、大きな野心的な絵を制作しています。
だが1860年代になると、現代的な主題(当時のパリのごくありきたりな生活の情景や、まばゆい光、華やかな上流社会の生活など)に魅力を感じるようになる。
ドガは競馬場やコンサートホール、裏通りの洗濯屋などに目を向けます。

これらの新しい主題は、技法の根本的な変革を必用とするものでした。
ドガは今までよりも小さなキャンバスを使うようになり、初期の作品に見られる緻密な細部を犠牲にしても、もっと大胆で人の目をあえる効果を重視しました。
中心のずれた構図や画面の端で半身が断ち切られた人物などを用いた実験も試みます。
これはあたかも通りすがりの観察者が、パリ市民の生活の思いがけない面をかいま見たような形のものとなっている。

1870年代には新たな絵画的効果を求めて、パステル画、テンペラ画、版画など、さまざまな技法や表現の研究に没頭した。
パステル画は彼のも目的に最もよく適し、好んで使う表現手段となっていく。
パステルだと、従来の油彩画のように長々と時間をかけることなく、デッサンと色づけを同時に行い、豊かな質感と立体感を表現していくことができる。
自分の望む効果を出すため、ドガはやかんの蒸気でパステルを湿らせて指で画面になすりつけ、線やハッチングを加えて堅牢な画面うつくりあげていきます。

ドガは描くことにとりつかれたような画家であって、写真であれ、彫刻であれ、あるいは新しいエッチング技法であれ、自分のイマジネーションをとらえた新奇なものや新発見にすぐに夢中になった。
エッチングとリトグラフを試み、モノタイプという目新しい版画技法を活用している。
彼はこれを用いて、娼家の生活をちらりとのぞき見したような絵など、生気に満ち、創意に富み、驚くほど親近感を感じさせるシーンを何十枚も描いた。
この時代、ドガの絵の性的なイメージは、多くの批判を浴びました。
無情なまでに誠実なバレエの絵でさえ、当時の人々からは不快なものと受け取られることが多かったからです。
洗濯女たち、踊り子、カフェの歌い手など、彼の作品は世間一般にはショッキングなものでした。
今日では大いにもてはやされ、どう見ても罪のない裸婦のデッサンも、ドガが「これは鍵穴から彼女たちを見ているのだ」と言ったことが、スキャンダルを巻き起こした。

画家としての生涯の半ばに達するころには、ドガの主題ははっきりと決まっていました。
友人たちの肖像、裸婦、踊り子、歌い手、洗濯女、騎手などが、何千点という彼のデッサン、パステル画、油彩画、版画、彫刻の主題となった。
彼はきわめてよく仕事をする多作の画家であり、しだいに自分のアトリエの世界に閉じこもっていきました。
そして、ますます直接の観察をしなくなり、記憶に頼って絵を描いたり、ためこんだデッサンをもとに絵を描くことが多くなっていったのです。

自分の構図を何回も繰り返して描くことが多く、自分を満足させるイメージを求めて人物を付け加えたり、新しい、まったくの空想による色の組み合わせを工夫したりしました。
ある絵に描かれている人物や馬が、1年後、ときには何十年もあとになって突然別の作品に再び現れたりすることはドガの若いころの勉強ぶりや、伝統に対する敬意を思い起こさずにはいられない。
「私の絵ほど内発性を欠いたものはないだろう。私のしていることは、巨匠たちにちて塾考し学んだ結果であり、インスピレーションや、内発性、気質などということとはなんの関係もない」と彼は書いている。
繰り返される主題
ドガはモデルたちの心理状態などはおかまいなしに、体を洗う裸婦やリハーサル中の踊り子といった特定の主題を繰り返し際限もなく描き直すことから、厳しく、残酷な人間性の観察者という評判を得ています。
彼がしばしばモデルの顔を隠しているのは事実だが、同時に真正面にモデルたちの手足の疲れやぎこちないポーズに示される品位を作品にとどめることによって、彼女たちに最大の讃辞を贈っている。

自分自身すべてを投入するプロフェッショナリズムに敬意を払った。晩年のドガはまさに世捨て人となり、衰えた健康と視力が許す限り熱心に仕事をし、なおもデッサンを描き、蝋で塑像をつくり、若いころの作品の手直しをした。
ドガは、70歳を過ぎても仕事を続け、木炭による力強い輪郭と燃えるようなパステルの色彩を生み出している。
細部描写はずっと以前から行われなくなっていたが、彼は驚くべき力強い画像を描きだすことができ、それは、彼がこのうえなく愛した巨匠たちに比肩するほどのものでした。
名画「ダンスのレッスン」
この清々しい作品で、ドガはパリ・オペラ座の若いバレリーナたちの厳しい練習の日課のある瞬間をとらえている。
絵を見る人が受ける印象は、「たまたまリハーサル室をなにげなくのぞくと、踊り子たちは大判の休憩していて、そのなかで、バレエ教室のジュール・ペローが戸口を背景にしている若い踊り子に稽古をつけていた」といったとこだろう。
こうした直接自分の目で見た感じを出すために、ドガはル・ペルティエ街の旧オペラ座の舞台裏で何時間も過ごし、練習中のバレリーナをスケッチした。

そして、あとでその膨大なデッサンをもとに最終的な構成をつくりあげた。
向こうの隅で体を伸ばしている疲れた踊り子から、手前にある、ほこりっぽい床を湿らすための水が入ったブリキの容器まで、忠実な観察はあらゆる細部にゆき届いている。
だが、今日見られる絵は、ドガが最初に描いた構図とはまったく異なっています。
X線で調べたところによると、ジュール・ペローは元は後ろの壁に向かって立っていた。
現在の絵では、そのうちの1人は我々に背を向け、もう1人は、ピアノの上に腰をかけて背中をかいている少女が描き加えられたためほとんど隠れてしまっている。
まとめ
マネと共に近代絵画の模範的存在の画家ドガは、その画法は日本の油彩画の基礎となっています。
ドガの現代的な力強く省略された現代的なデッサンと油彩画は、大いにもてはやされ世界の画家に強い影響を与えました。
画題にしても、特徴的なカットで構成され、画家として初めてカット割りやクローズアップなどを用いています。
絵の構図も奇抜な方法で遠近と色彩による、新たな目線のリアリズムに挑戦していることにも絵画的な素晴らしさを感じる。
彼の絵は生き生きとしていて、踊り子や婦人たちの生命そのものを描けているところに、彼の芸術の偉大性があると思います。