ボナールは19世紀後半に生まれ、青年期にはナビ派に属し、日本の浮世絵の影響を強く受けている。
第一次世界大戦後には、ルノワールとともに「若きフランス絵画」の名誉会長にも選ばれるほど、評価はたかまり、
「ブルジョワ的ボヘミアン」といわれ、終生フランスの北と南を行き来していました。
日常生活のなにげない風景、子供や小動物などを親しみをもって描き、愛妻マルトをモデルに特色ある裸婦画を数多く描きます。
一見、その人生は平穏で起伏はなかったが、芸術面では個性的であることを願って努力を重ねる気性の持ち主でした。
妻の死によって人生と芸術の支柱を失ったボナールはその5年後、甥の手を借りて最後の作品に加筆しながら、1947年2月23日、ル・カンネの家で亡くなりました。
恵まれた中流家庭
ピエール・ボナールは1867年10月3日、パリ近郊のフォントネー・オー・ローズで生まれた。
そこは地名からもわかるように、昔から有名なバラの産地として知られた温和な土地です。
父ウジェーヌ・ボナールはフランス南東部のドーフィネ地方の出身で、母エリザベート・メルッドルフは北部のアルザス地方の出身です。
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父は陸軍省の局長クラスの役人であり、一家は典型的なブルジョワ(中産階級)の家庭で、なに不自由ない生活ぶりでした。
家族はほかに兄のシャルルと、ピエールがよくかわいがった妹アンドレがおり、この妹はのちに作曲家のクロード・テラスと結婚し、「中流家庭の午後」など、ボナールの絵にもしばしば登場している。
ボナール家には、ドーフィネ地方のル・グラン・ランに地所があり、別荘もあった。
豊かな自然に囲まれた大きな田舎家で、ピエールはここで楽しい少年時代を過ごしています。
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ボナールは画家としてのごく初期には、コローに近い画風で、この地方を題材にした風景画も描いている。
この地は彼にとって、少年期を心のどかに過ごさせてくれたふるさとといえるだろう。
彼は高校でも優秀な成績を修め、当時の中流階級の青年にとっては一般的であったように、大学入学資格試験にも合格した。
そうして父親の意向にそって、大学の法学部に入学して行政職につく準備もしていました。
美術学校での生活
1886年、法律を学ぶかたわら、私立の美術学校アカデミー・ジュリアンで絵画の勉強を始めた。
しかしまだ、はっきりと画家を志していたわけではなく、趣味の延長のようなものでした。
のちに彼はこう語っている。
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「そのときは自分が画家になりたいのかどうかもよくわからなかった。ただ、イマジネーションを自由に表現でき、楽しんで生きる自由があるのが芸術ではないかと考えてはいたが、むしろそれよりも芸術家的な生活に魅力を感じていたであろう。
長いあいだ、絵に興味をそそられてはいても、それは決して逃れがたいほどではなく、ただ単に、単調な生活から逃げ出したいと願ってのことである」。
ボナールには、このころから。ボヘミアン的生活を望んでいた兆しがうかがえる。
当時、アカデミー・ジュリアンには、新しいものを生み出そうとする意欲ある若者たちが集まっていた。
ボナールはここで、ボナール・セリュジエ、モーリス・ドニ、ポール・ランソン、フェリックス・ヴァロットンといった友人に出会って、多く影響を受けた。
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彼らはやがて「ナビ派」を形成していくが、のちには印象派の優れた後継者の1人とされるボナールが、この当時はモネやルノワールの作品もあまり知らず、かえって印象派と対立する雰囲気にあった若い若い画家たちに影響されていたことは興味深い。
ボナールも当時は、このナビ派の画家たちそれぞれが新しい独自の方向性を見いだしていったように、ボナールもそこを離れていく。
画家としての出発
ボナールがアカデミー・ジュリアンで目指したのはより洗練されたアンティーム(親密)な絵画であるが、のちに「自分は生涯を通してアンティミスト(親密な室内画家)と装飾家とのあいだを行き来していた」と彼自身が語っているように、芸術家としてまず注目されたのは、この装飾家としての才能でした。
こんころ、ボナールは新人画家の登竜門であるローマ賞のコンクールには落選するが、1889年、フランス・シャンパーニュ社の課題ポスターに当選し、100フランという多額の賞金を得たのを機会に、画家として進んでいく決意が固まった。
彼は、わずか20歳そこそこで、まず版画家としてデビューします。
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このポスターを一目見たトゥルーズ・ロートレックは強い感銘を受け、ボナールを訪ねて、さっそく石板印刷所を紹介してもらっている。
これが「ムーラン・ルージュ」など、ロートレックの一連の傑作ポスターが生まれるきっかけともなった。
また同じ年、ボナールはエコール・デ・ボザール(国立美術学校)にも入学しており、当時ここで開かれた日本の浮世絵版画展に強い印象を受けます。
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その心酔ぶりは、仲間から「ナビ・ジャポナール」とあだ名されるほどでした。
日本の浮世絵版画を参照した色面の組み合わせ方や人物像のとれえ方など、技法的影響は彼ののちの作品に強く反映されていったのです。
ボナールを世に送った2つの画廊
1891年、ボナールは初めてアンデパンダン展に出品しました。
芸術家として彼の地位は徐々に確立し、批評家ロジュ・アルクス、アルベール・オーリエらに認められるようになります。
また、1889年に芸術雑誌「ラ・ルヴュ・ブランシュ」が創刊され、多くの作家、画家たちがそれを中心に集まり、文学と美術との交流が盛んにはかられるようになった。
彼らの多くは、その時代の中心的存在であったブルジョワジーの出身であり、知的で洗練され、互いに刺激し合っていた。
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文学好きだったボナールは、むしろ文学者たちと進んで交流をはかり、ヴェルレーヌの詩集のための版画制作も行っています。
また、画商アンブロワーズ・ヴォラールの依頼で描いた「ルヴェ・ブランシュ」のポスターも有名です。
文学を愛したボナールの別の資質に気づき、文学作品と関連した石版画をいくつかつくらせたのは、このヴォラールで、彼は単に絵を売るということだけではなく、画家の才能を見抜き、育てる面でも優れた力をもっていた。
ボナールが石版画を制作したヴェルレーヌの詩集「パラレルマン」(1900年)もヴォラールによって出版されたものです。
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さらに、ボナールを画家として世に送り出すのに大きな役割を果たしたのは、ベルメーム兄弟によるベルネーム・ジュヌ画廊でした。
彼らの姉妹の1人とボナールの友人ヴァロットンが結婚したこともあり、ナビ派との関係が深い画廊でした。
1904年以後、ボナールは定期的にこの画廊で個展を開き、画廊としての業績にも貢献する一方、同時に、画家としての安定した生活や、彼が最も願っている穏やかな日々を得る基盤を確保することにもつながった。
マルトとの出会い
1893年ころ、ボナールはのちに妻となる女性、マルトと出会う。
彼女は人とうちとけことを嫌い、かなり気まぐれな性格で、そのうえ人体も弱く、1日のほとんどを入浴しているといったような変わった女性だったという。
しかし、彼はそんなマルトを愛し、共に暮らします。
やがて、彼女の健康のための気候のよいところへ移り、世間から閉ざされるように常に2人きりで過ごすようになる。
20世紀に入ると、ボナールは自然との接触を積極的に求めるようになった。
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そして、生活の場の都会と田舎とにもち、絶え間なく移動を繰り返す。
1905年以降の数年間は、スペインをはじめとして、海外へも毎年旅をして、
後半生の作品に大きな影響を与えることになる南仏へも向かう。
彼はそこでまばゆいばかりの南国の陽光と色彩に強い衝撃を受け、作品の色調もしだいに明るさを増すようになった。
とりわけ、1909年の夏のサントロペ滞在は彼の画風に決定的な影響をもたらしています。
以後数年間、彼は南仏で精力的に制作にいそしみ、数々の個展を開いた。
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また、1912年、パリから約80km離れたセーヌ右岸のヴェルノンに家を買い、「マ・ルーロット」(私の愛馬車)と名付けて、
彼は、夏をヴェルノンで過ごし、また、南仏の各地をも転々としたりした。
マルトとの出会いから31年たって、1925年にボナールは正式に彼女と結婚しました。
これを機会に、南仏のル・カンネに別荘を買い、「ル・ボスケ」と名つけ、永住の地としたのです。
晩年のボナール
世間の評判とは裏腹に、ボナールにとっては最良のモデルであったマルトは、
1942年、ル・カルネの家で73年の生涯を終えた。
最愛の妻に先立たれたボナールは精神的打撃を受けます。
しかし、それを忘れようとするかのようにますます精力的に制作に打ち込むようになる。
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すでに、彼の画家としての地位は世界的に揺るぎないものではあったが、創作意欲は衰えることを知らず、それ以外にはせいぜい好きな読書をする程度の毎日を過ごしていました。
しかし、肉体的衰弱は誰の目にも明らかであり、1947年1月23日、マルトのあとを追うようにル・カルネの家で生涯を閉じた。
病床に伏し、筆をもつことすら困難な状態となっても、全情熱を制作にそそぎ、画家としての生涯をまっとうした。
彼は、ブルジュワジーの出身でありながら、金銭欲や物欲がまったくない人間でした。
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定住を嫌うボヘミアン的生活を送りながら、制作の環境にもひじょうに無頓着で、殺風景でなにもない部屋、ときにはホテルの一室ですら描くことができた。
イーゼルも使わず、画布を画鋲で壁にとめるだけで、きわめてシンプルな制作風景であったという。
なによりも自由を愛した彼に必要だったのは、妻と絵に、2匹の愛犬であり、名声も地位も彼にとっては、なんの意味もなかった。
色彩のハーモニーを求めて
ボナールは日常生活のなかのさりげない風景を、
穏やかながら微妙な筆遣いでとらえ、多様な色彩によいハーモニーを演出した。
まばゆいばかりの光と華麗な色調は、不思議な幻想の魅力を誘い出して
見る人に温かさや穏やかさを与えてくれる。
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もちろんその傾向は、色彩表現に負うところが大きいが、注目されのは、
ごく普通の人々の日常の生活に画題を選びながら、外面的な描写にとどまらず、
内部にこめられた微妙な生活感情に触れてさりげない詩情をそそいでいることである。
アンティミスト(親密派)ボナール
「小さな洗濯女」などは、当時のパリの街頭でよく見かける一場面を切り取ったものにすぎないが、
お互いに通じ合わず行きずりになってしまうかもしれない人の犬とを、
画家は孤独と哀愁といった共通項によって結んでいる。
あるいは、光(犬)と影(人物)との対比に、
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のちの「逆光の裸婦」の原型を見ると言うのは飛躍が過ぎるだろうか。
彼の作品には、このように犬や猫がよく登場するが、
独特のユーモアを感じさせながら決して漫画的にはならず、
人間心理のあやを表出する微妙な役割まで果たしているのは興味深い。
雑誌「ラ・ルヴュ・ブランシュ」のポスターに見える犬など、その点で象徴的であるし、
家族のくつろぎの情景である「中流家庭の午後」の猫も同じ効果をうかがわせる。
色彩への開眼
華やかな色彩と独特な色遣いで知られているボナールが色彩表現に
開眼したのは40歳を過ぎてからであり、年をとるにしたがって円熟味を増した。
彼は色彩がつくり出す新鮮なハーモニーを求め、自らの鋭い感覚を表現しようとした。
それが彼の作品を特徴づけ、新しい道を開いたと同時に、思いがけない、
いままでになかった効果を生み出したのです。
赤とモーヴ、黄色とオレンジといった同系色を並べることにより、
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見る人の目に強いインパクトを与え、同時に温かみを生み出し、
また、乳白色やピンクといった柔らかい色を混ぜ合わせることにより、
だれもが想像できるような冷たい薄明るさではなく、虹色に輝く光の効果をつくり出した。
色彩の力を最大限に高めることで、彼はセリュジエから受け継いだゴーギャンの理論を自分なりに取り入れた。
20世紀に入り、たびたび南仏を訪ねるようになると、ボナールの色調はますます明るさを増します。
「私は「千夜一夜物語」のような衝撃を受けた」とサントロペに滞在したとき語っている。
彼は、「色彩そのものは形態(フォルム)と同じくらい重要な主張をもつ」と考えていた。
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制作においては、常に描く対象から一歩退き、距離をおいてあとからそれをよみがらせることで表現しようとしました。
現場にイーゼルを置いて細かい観察はせず、手帳にその印象を書き留め、あとでそれをもとに思い起こして描いたのです。
その理由として彼はこう述べている。
「対象やモチーフの存在は、画家にとって制作中はじつに目ざわりである。
作品の出発点は、1つの理念であるから、対象が制作中おこにあると、直接に、
即座に見るということに左右され、画家は常に主たる理念を見失ってしまう危険がある」。
彼は生涯を通してこの「理念」に従った色彩を描こうとしていたのです。
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妻マルトは、ボナールにとって単なる伴侶であっただけでなく、画想を富ませてくれるミューズでもありました。
1910年以降の「浴室の裸婦」、1925年以降の「浴槽の裸婦」シリーズこそ、
ボナール芸術を特色づける作品群であるが、彼女はそこでの次くべからざる存在であることを実証して見せた。
たとえば、「浴槽の裸婦」におけるあたたかな空気と光、やわらいだ色調は、
やはりマルトという最高の媒体を得て、ボナールが手中にしたものでしょう。
ここではマルトの裸婦は、なごやかだが精妙な色彩のなかでみごとな存在感を示している。
まとめ
日本の現代絵画の影響はボナールから始まったといってもいいほど、
彼の詩情あふれる絵画世界は暖かい色彩で表現され、
妻と犬と穏和な風景と生活を愛した現代フランスの代表的な色彩画家として活躍していました。
彼の色彩は創造的世界で「色彩はデッサンより道理がかなったもの」と考えていました。
ボナールはさまざまな筆遣いをまじえ、反対色をも巧みに駆使することによってフォルムを示し、画面を構築しています。
彼の絵画は印象派を超える近代的絵画となり、当時幼い少年バルチュスに大きな影響を与えていて、
20世紀絵画の新たな道を開いた巨匠でした。
・「絵のテーマと表現」は、その人にとってわかりやすい形がある