「フェルメール」デルフトのスフィンクス

フェルメールはデルフトで生まれ、終生その町で暮らしました。

土地の記録が生涯をわずかに、かいま見せてくれるものの、彼の人となりは謎につつまれたままで、「デルフトのスフィンクス」と呼ばれたのです。

フェルメールの作品は35点ほどしか残っていませんが、そのなかで彼はまったく独自の画風と手法を完成させました。

略歴

1632年 オランダのデルフトに生まれる

1641年 父親がメヘレンという居酒屋を購入

1650年 ファブリティウスがデルフトに移ってくる

1653年 カタリーナ・ボルネスと結婚 デルフト画家組合の親方として登録

1654年 爆発事故でファブリティウス死亡

1662-63年 デルフトの画家組合の理事に選出される

1670-71年 再び画家組合の理事に就任

1672年 ハーグを訪れる

1675年 デルフトで死亡 未亡人は破産を宣告される

 

デルフトのスフィンクス誕生

17世紀オランダに数多くのいた大画家の中で、フェルメールは今も大衆的な人気と研究者による評価の両面で、レンブラントに次ぐ地位を占めています。

ヨハネ(またはヤン)・スフェルメールはデルフトで生まれ、1632年10月31日に町の教会で洗礼を受けました。

レイニール・ヤンスゾーンとディングヌム・バルタザールがもうけた双子の下の子供でした。(もう一人は女子)

1640年以後に父親レイニールがフェルメール姓を名乗り始めます。

 

フェルメールの師

フェルメールの師についての記録はありませんが、様式上の関連性を色濃く示すのが、カレル・ファヴりティウスで、彼はレンブラントに学び1650年ころデルフトに移ってきた画家でした。

ファブリティウスがフェルメールと同様、作品の中で光学的な実験を試みたと思える事実は、二人の関係を想像させる共通点ですが資料がないので、確実ではありません。

1654年に火薬庫が爆発し、町の一部が破壊された事故でファブリティウスは命を落とします。

画家の死に際して、デルフトの出版業者は追悼詩を編み、「かくして、かの不死鳥は悲しいかな、栄光の極みに命を絶った。されど、幸いにして、彼の火の中からフェルメールが飛び立ち、見事にその道を継いだ。」と、この詩が二人の関連性を物語る唯一の手がかりです。

 

 

フェルメールの結婚

フェルメールは1653年12月29日に、画家組合の親方として名を登録しています。

その年早くに、彼はカタリーナ・ボルネスと結婚しました。

その後夫婦は11人の子供をもうけます。

 

画商フェルメール

彼は父親の居酒屋と画商の仕事を継いだ可能性も十分あります。

フェルメールが絵の売買に関与していたことは確かで、目利きとしてかなりの名声を得ていたと思われます。

というのも、彼は1672年に熟練鑑定家としてハーグに赴き、一群のイタリア絵画の真贋を判定しているからです。

フェルメールはちょっと見ただけで、それらが、「優れたイタリア絵画どころか、ガラクタにすぎない」と容赦なく断言しています。

フェルメールはデルフトの画家仲間から尊敬されていたに違いなく、1662年から63年、そして70,71年にも画家組合の理事に選出されています。

 

フランス画商のフェルメールについての評価

1663年にデルフトを訪れたフランス画商バルタザール・ド・モンコニーの言及は、作品の一部で高く評価されていたことを示しています。

「私は画家フェルメールに会ったが、彼は作品を1点も持っていなかった。パン屋で1点見つけたのだが、そのパン屋はこの絵のために600リーブル支払ったという。しかし、それは1人の人物しか描かれてない絵で私の意見では6ピストールでも高すぎるだろう。」

フェルメールの絵は土地の身分の低い市民に買われたか、一家の借金の支払いのために商人たちの手に渡ったのでしょう。

フェルメールには決まったパトロンもいたようです。

 

 

財政困難に陥るフェルメール

1657年に200フランデンを借りた記録があり、義母の屋敷に移って、1672年には年額180フランデンでメヘレンの6年間賃貸契約を結んでいます。

その年フランス軍がオランダに侵入し、侵略軍はまもなく追い出されたとはいえ、混乱にともなう美術市場が崩壊してしまいます。

それとともに、すでに不安定になっていたフェルメールの商売も破綻をきたし、1675年の暮れに43歳でこの世を去ります。

 

フェルメールの才能

フェルメールがほかの画家とは大きく異なるのは、完璧でないものに決して満足いかなかった点であると言えます。

彼の傑作見事な調和と静けさを備え、その特質がありふれた室内情景を詩の領域にまで高めており、また、色彩の筆致は絵画の奇跡と言えます。

 

フェルメールの制作工程

フェルメールがいかなる手順で制作したか、確かなことは何もわかっていません。

デッサンが皆無であることから、キャンバスにじかに描いたと考えていいでしょう。

この考えを裏づけると思えるのが、「画家のアトリエ」における画家の姿であり、そこには薄い絵具をいくらか塗った制作途中のキャンバスが示されているものの、念入りな下描きの痕跡はありません。

この絵のしめしているも一つの制作方法は、画家がマールスティック(先端にパットついた棒で、細かい部分を描くときにキャンバスに押し当てて右手を支える腕枕)を使っている点です。

 

カメラ・オブスクーラ

古くから、フェルメールはカメラ・オブスクーラ(透視箱)の助けをかりて、構図を組み立てたと考えられます。

彼の作品の数ある特徴、たとえば多用される白い点描や前景人物の広大などは、この道具が生む光学的な効果に関係するのかもしれません。

このコンパクトな機械は、室内を描く際に、遠近法を定めるのに役立ったと思います。

 

「画家のアトリエ」

題名で広く知られているこの絵は、「絵画芸術の寓意」とも呼ばれ、時代衣装を着た画家が歴史を司るミューズ、クレイオーの肖像画を描くさまを表現しているといいます。

背景の壁にかかったネーデルランド17州の地図は、寓意が特にネーデルランド絵画に関するものであることを暗示し、フェルメールが同国の芸術における歴史がの重要性を強調したかったのかもしれません。

作品が制作された事情について確かなことはわかっていませんが、フェルメールが理事をしていた聖ルカ組合に送る意図があったと考えられます。

この絵が描かれたころ、組合はフェルメールの家の裏、フェルデフラフト通りに新しい本部を建設中だったのです。

完成した建物は、自由七科(文芸、理論、修辞、算術、幾何、音楽、天文)を表す絵画と彫刻で飾られ、この複雑な象徴的意味を含んだ作品はそれらに加えられるにふさわしいものだったでしょう。

ですが、フェルメールはこの作品にひどく執着し、1675年に死ぬまで手もとから離さなかったのです。

 

まとめ

17世紀の画家たちは、緻密な画家が多かった時代でした。

フェルメールは、普通の画家たちとは少し角度が違う方向から絵画を描いています。

デルフトでは当時それほど優秀な画家は排出されていませんでした。

ですが、そのデルフトで唯一の巨匠がフェルメールです。

残念なことにデルフトには、フェルメールの作品は1点もありません。

数少ない残された作品と、デルフトの町だけが彼が生きた痕跡です。

絵画史に残る美しいフェルメールの油彩画は、17世紀のメチエの集大成とも思える出来栄えで、彼のこだわりや美に対する情熱を感じることができる。

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taesun

画家活動をしています。西洋絵画を専門としていますが、東洋美術や歴史、文化が大好きです。 現在は、独学で絵を学ぶ人と、絵画コレクター、絵画と芸術を愛する人のためのブログを書いています。 頑張ってブログ更新していますので、「友達はスフィンクス」をよろしくお願いします。