ルーカス・クラナッハは当初こそ無名だったが、やがて画家として名を成し、富を得た。
ドイツ・ルネサンス期において、彼にまさるのはデューラーだけだ。
彼は50年間にわたって、ヴィッテンベンクの宮廷で歴代のザクセン選帝候に仕えました。
成功の大半は、彼らの理解ある庇護のおかげといっていい。
大きな工房を営み、見事な出来栄えの絵画を数多く世に出したが、2人の息子の手によるものも多い。
常に学者たちと親しく交わったクラナッハは、イタリア・ルネサンスの理念と絵画表現をドイツにもたらすのに大きな役割を演じ、1515年ころ以後はプロテスタント運動公認の画家ともなっています。
しかし、クラナッハの作品は宗教改革やルネッサンスの理想を単に表現しているのではなく、画風は彼独自のもので、地理的条件からして地方色が濃く、独特の世界観のゆえに個性的いでした。
謎の幼少時代
ルーカス・クラナッハはその姓を、彼が1472年に生まれた町の名クローナハからとった。
クローナハは高いフランケン地方の小さな町で、神聖ローマ皇帝領に属し、バンベルク教区を通して教会の支配下でした。
町はザクセン選帝侯が治めるコーブルクの東わずか24kmに位置していたが、90kmほど南の帝国都市ニュルンベルクの文化圏に入っていた。

ルーカスの幼少時代や初期の修行時代については、ほとんど何も知られていません。
父親は画家で、文献にはハンス・マーラー(画家ハンスを意味する)と記されている。
ルーカスも初めはこの姓を名乗っていました。
父のもとでの修業
父ハンスは成功した画家だったらしく、クローナハの市の立つ広場に面したりっぱな家に住んでいた。
この時期、彼の作品として確証のあるものは1点もないが、木版画をよく制作し、土地の教会や平信徒のために祈禱画を描いたり、壁画も手がけたようである。
ルーカスは父親の手助けをし、彼から手ほどきを受けたのでしょう。
ルーカスは26歳となる1498年ころまで父親の工房にいたようです。

確証はないが、一説では1493年にザクセン選帝侯フリードリヒとバイエルン公クリストフに随行して聖地パレスティナに巡礼したとあります。
もしそれが事実であれば、途中ヴェネツィアとロードス島に立ち寄ったのでしょうが、のちの作品には彼が外国風景を目にした形跡は見られません。
より確かなのは、彼が1501年ころ以後ウィーンにいたということです。

ウィーンへの旅の途中にニュルンベルクを通り、この地で1歳年長のアルブレヒト・デューラーの作品に触れた可能性がある。
このころすでに彼は30歳にもなっていたにもかかわらず、その時期以前のクラナッハ作品の存在は確かめられていません。
ウィーンで描いた署名と年記のある最初の作品には成熟した才能が見られ、1503年には当時第一流の印刷業者のために木版画の下絵を制作していました。

「ヨハネス・クスピ二アン博士とその妻アンナ」 1502年
ヨハネス・クスピ二アンは暦住学者でウィーン大学学部長をつとめ、クラナッハがウイーンに移ってから交わった学者グループの1人だった。
このクラナッハの手になるクスピ二アン夫婦の肖像画は、おそらく1502年ころに行われた2人の結婚を記念して描かれたのでしょう。
絵は占星術的象徴に満ちている。
ヨハネスの肖像画に登場する爪で鳥をとらえるフクロウは、モデルの優れた性格を示す。
妻の画像の方の鷹、アオサギ、オウムは、彼女の多血質を表している。
これらにはデューラーの版画作品の影響が明らかなものの、たくましい激情の表現はクラナッハ独自の表現になっている。
ウィーンはフランケン地方よりはるかに知的水準が高く、クラナッハはまもなく人文学者のサークルに加わった。
彼らは大学を中心に集い、イタリアからルネッサンスの理念に影響を受け、ウィーン大学学部長ヨハネス・クスピ二アン二とその妻の肖像は、クラナッハの初期の傑作です。
「クラナッハ」選帝侯に使える
1504年ころ、クラナッハの画家としての名声は高まり、大学の進歩的知識人との交友もあずかって、ザクセン選帝侯のフリードリヒ賢明候に仕えることとなった。
選帝侯はおそらくウィーン宮廷を通してクラナッハを知ったのであり、彼はすでに皇帝のために制作したと推測される。
1505年、クラナッハはフリードリヒ賢明候に従ってヴィッテンベルクに行きました。
エルベ川沿いのこの町は15世紀にザクセンの首都として発展してきたが、周囲はやせた土地が多く、ヒースの荒野と森に囲まれた村落が散在していた。

鉱山業で富んだ領地をさらに発展させ、近代化させる方策の一環として、フリードリヒ賢明候は1502年にヴィッテンベルクに大学を創設し、著名な学者たちを呼びよせる道を開きます。
ある意味で、クラナッハもその一員でした。
彼が指名されたのは、選帝侯の威光を高めるため、つまりみごとな美術品で飾られた壮麗な宮殿に住む、豊かで教養あふれる支配者像を強調するのに役立つと考えられたからでした。
候の庇護はクラナッハの地位と生活の安定をもたらし、ほぼ50年にわたって彼はヴィッテンベルクに住み活躍した。

何百点もの作品を生み、常に華やかさを増す人生をわがものとしたのです。
時期は定かでないが、彼はバルバラ・ブレングビアーという女性と結婚していて、年は彼より5つ年下でした。
5人の子供をもうけ、そのうち2人の息子は長年にわたり父の工房で働いた。
ヴィッテンベルクにおけるクラナッハ最初の作と知られるのが「聖カタリナの殉教」で、この主題はすでにウィーン時代に手がけたものです。
こうした大作の依頼と同時に、ザクセン選帝侯とその家族や廷巨の一連の肖像画にも着手し、この仕事はクラナッハの全生涯におよぶこととなりました。

「聖カタリナの殉教」 1506年
ヴィッテンベルク宮廷にやって来てから、クラナッハの画風は根本的な変化を見せた。
初期のどちらかといえば荒っぽい筆使いにかわって、ここでは先の細い筆を用い、衣装の錦文様や装身具をみごとに描き出している。
さらに、選帝侯の新しい建物の装飾も任され、彼は器用で勤勉な職人気質の持ち主だったらしく、助手たちを巧みに操った。
だからこそ美しく仕上げられた膨大な数の作品を、生み出すことができたのです。
宮廷衣装や近衛兵の武具を飾る紋章のデザインなど、ほかの職務もこなしている。

数少ない資料から、クラナッハがヴィッテンベルクで大きな成功を享受したことが見てとれる。
1508年、フリードリヒ賢明候から盾形紋章を賜った。
同じ年、彼は候の名を受けてネーデルラントに赴き、その地でのちの神聖ローマ皇帝、当時8歳であったカール5世の肖像画を描いたが、これはきわめて名誉な事でした。

また、言い伝えによると、クラナッハはネーデルラント滞在中に、ウィーン時代の記憶を頼りにマクシミリアン皇帝の似顔絵を壁に描き、実際に皇帝に謁見したことのある人々をおおいに驚かせたと言います。
1508年ころから、古代神話を題材にした作品が増えており、宮廷で人文主義の理念が重視されたことが分かります。
しかし、それよりもはるかに重大な事態「全キリスト教世界に後戻りできない変化を及ぼすことになる事態」がヴィッテンベルクで起こりつつあったのです。
1508年マルティン・ルターが論理学を議論するため大学にやってやって来た。

その急進的な思想はヴィッテンベルクで熱狂をもって迎えられ、やがてドイツ全土で大論争を引き起こした。
1517年、彼はヴィッテンベルク大聖堂の扉に有名な「95か条の論題」を貼りだして、存続の教会制度の腐敗を激しく攻撃し、4年後には教皇によって破門されました。
こうした混乱のさなか、ルターは一貫してフリードリヒ賢明候の保護を受け、危機が及ぶヴァルトブルク城にかくまわれて、ギリシャ語とヘブライ語の聖書をドイツ語に通訳する作業にとりかかった。
その間に、ルターの支持者たちはフィリップ・メランヒト率いられて、彼の思想を実践に移し始めた。
宗教改革の擁護者
クラナッハが以上の事態に巻き込まれたことは疑いありません。
彼はルターと親交を結び、その肖像画を何度も描いています。
また、プロテスタントの宣伝に一役買っていて、ルターを支持することで、クラナッハとヴィッテンベルク宮廷の歩調は完全に合っていた。

ザクセン選帝侯はドイツ諸侯の動きを指導し、ローマ教会からの独立を宣言させ、皇帝の権限を縮小するにいたったからでした。
クラナッハとルターの友情がどれほどの程度であったかははっきりしないが、何通かの書簡が残っており、そのなかでルターはクラナッハの家族の平安を心情あふれる言葉で願っており、2人の関係が親密だったことをうかがわせる。
だが、ルターの教えがクラナッハの画家としての仕事の方向性を、完全に変えたわけではなかった。

変化があるとすれば、祭壇画の制作が増え、諸聖人伝説よりはキリストの生涯に題材をとった場面を描くことに専念するようになったことぐらいです。
ルターは聖像破壊や平等主義を唱えたのではなかった。
彼は敬虔なキリスト教信仰は宗教像に抵抗を感じなかったし、1524年から25年にかけてのドイツ農民戦争では、反乱者たちへの厳しい断罪をも提唱しています。

「ホロフェウスの首をもつユデット」 1530年
ユデットは旧約聖書に登場するユダヤのヒロインである。
自分の町を包囲したアッシリア軍の陣地に潜入した彼女は、敵将ホルフェウスを誘惑し、酒を飲ませたうえでその首をはねた。
この物語は、悪徳に対する美徳の勝利を象徴するものと考えるが、この場合のように、男をとりこにする美女を描く口実に利用されることが多かった。
というのは、現代人の目には奇妙に映るのだが(問題の複雑さを示しているが)、クラナッハはためらいもなくカトリックのパトロンたちの仕事を続けており、グリューネバルトの庇護者で知られる枢機卿アルブレヒト・フォン・ブランデンブルクからの制作依頼もあった。
こうした背景のもと、クラナッハはますます富を蓄えていく。
彼は早くも1512年にいくつかの地所を所有しており、1520年には選帝侯の侍医マルティン・ポリヒを共同経営者として薬屋を開業した。

そして引き続き地所の獲得につとめ、自分の大邸宅を構えていた華やかな繁華街から離れた土地も所有し、そこからかなりの額の地代を得ていました。
実際、彼が商売で成功したのは明らかで、ことによると画業以外の面での収入の方が多かったかもしれません。
繁盛した工房
クラナッハはそのころすでに、繁盛をきわめる工房の親方となっていました。
工房からは肖像画、宗教画、神話画がザクセン選帝侯をはじめとする多くの大パトロンのために生み出され、ドイツ全土の教会から注文が相次いだ。
彼はワイン販売業に手を出したという記録があり、さらに、プロテスタントの宗教改革がヴィッテンベルクの出版業にもたらしたブームにも乗り遅れていない。

「ルクレティア」 1529年
古代ローマ伝説上のルクレティアは、辱めを受けたのちに自ら命を絶った女性で、クラナッハの作品にたびたび登場する。
このルクレティアはいくぶん刺激的に、ヴィッテンベルク宮廷風の衣装をまとっている。
1525年、ヨハン・フリードリヒ1世が選帝侯の座につき、宮廷出入りの宝石商クリスティアン・デーリンクとともに印刷所を営む許可を与えてました。
ルターらによってプロテスタンティズムに関する著作への熱狂的な需要が印刷業の成功を保証しており、たちまちヴィッテンベルクはライプツィヒに代わって、この地方の出版の中心地となった。

クラナッハとデーリンクはルター訳聖書第1部の出版という大事業に出資し、1525年には2人はライバルの印刷業者をヴィッテンベルクから追い出してしまいました。
だが1533年ころには、かつての勢いがなくなり、すでに単独オーナーだったクラナッハが社を売却している。
1528年の所得申告によると、クラナッハはヴィッテンベルク有数の金持ちで、申告額は4000ギルダーにのぼっています。

その暮らしぶりが華やかだったことを示す一例だが、追放されたデンマーク王クリスチャン2世が1523年にヴィッテンベルクに来た時、クラナッハの数ある所有地の1つに滞在したと言います。
彼の工房は2人の息子をはじめとして数多くの助手を雇っていたはずで、効率よく運営され、膨大な作品を生んでいます。
1532年、ヨハン・フリードリヒ大度候が新たにザクセン選帝侯となったが、クラナッハは1533年に、以前の選帝侯2人の肖像画を60対も受注している。

1537年、彼はヴィッテンベルク市長に選出され、1540年と1543年にも職をつとめた。
1537年にはまた、長男ハンスを勉強のためイタリアに送り出しています。
ハンスも才能ある画家だったようで、その作品は父親のものと見分けがつかないほどだったが、不幸にしてボローニャ滞在中に死んでしまった。
ニュルンベルクへの旅
クラナッハ自身も1530年代に時々旅に出ていたようで、第3回帝国議会のためにニュルンベルクを訪れ、また1539年にも、ヴィッテンベルクを見舞った疫病を逃れて当地を再訪した。
記録によればクラナッハの妻は1540年に死亡しているが、どういう事情で亡くなったのかはよくわかりません。
クラナッハは当時すでに68歳でしたが、作品に明らかなように、まだまだ力を十分発揮していました。

普段は次男のルーカスが工房をきりもりしていたのだろうが、特に重要な依頼に対しては父が筆を握った。
1540年だいになると、カトリック教徒である神聖ローマ皇帝とプロテスタントの庇護するザクセン選帝侯の争いが激化し、1544年にヴィッテンベルクが包囲されました。
驚いたことに、クラナッハは街から安全に導き出され、皇帝との謁見に招かれた。

「エジプトへの非難途上の休息」 1504年
このテーマを描くことで、画家たちは聖家族を風景のなかに配する機会を得た。
初期のころクラナッハは特に風景に関心を払っており、ここでも青々した木々をはじめ輝くばかりの色彩を駆使して、おとぎ話にも似た雰囲気を醸し出している。
クラナッハの署名が見える最初の作品である。
モノグラム(頭文字の組み合わせ)と年記が前景の石の上にほどこされている。
皇帝は自分が所有する1枚のクラナッハ作の絵が、父の手になるのか、それとも息子のどちらかが描いたものなのか知りたかったのです。
1547年、ヨハン・フリードリヒ大度候がミュールベルクの戦いで敗れ、アウグスブルクで囚われの身となったが、そこでクラナッハ再会した。
和睦が成立し、1552年、クラナッハはいまや一介の公国君主となったヨハン・フリードリヒ大度候とともにワイマールに向かい、この地で、娘の屋敷に滞在してときおり絵筆を握りながら暮らし、1553年10月16日に世を去った。
速筆の画家
ドイツ・ルネサンスの偉大な画家ルーカス・クラナッハは、中世ヨーロッパの伝統に代わって新しく誕生しつつあった進歩的な知的潮流の最前線に位置していました。
だが、彼は生涯の大半を辺境の北の町で送り、イタリアで展開されたルネサンスの完璧な表現からは間接的な影響しか受けなった。
その結果、ジョルジョーネやラファエロなど同時代のイタリアの画家に比べると、その作品は風変わりで地方的に見える。

しかし、彼は彼なりにまた進歩的だったのであり、孤立していたがゆえにこそ、ある面ではより個性的だったといえます。
故郷クローナハでの初期作品は1つとして知られておらず、確かなクラナッハの作品を目にするには、彼が30歳でウィーンに登場するまで待たねばならない。
1502年の大作「磔刑」と木版画「聖ステファヌス」は、彼がデューラーから多くを学んでいたことを感じさせます。
1505年以後、ヴィッテンベルクでフリードリヒ賢明候に仕え始めると、クラナッハの独自性はいっそうあきらかになっていきます。

宮廷画家の役割に素早く順応し、パトロンたちの感性にあっさり同調してみせたのです。
たとえば1506年の壮麗な祭壇画「聖カタリナの殉教」では、リアリズムと色彩、材質感、線がもたらす官能的な美しさが結びついて、ひじょうに複雑でなまなましい場面が描き出されている。
1508年に公務でネーデルラントを訪れてから、クラナッハの作品にはイタリア・ルネサンスの影響があらわになり、聖家族の群像を描いたいわゆる「トルガウの祭壇画」がその一例で、混乱を避け、バランスのとれた構図となり、人物もしっかりとした実在感を帯びています。

「トルガウの祭壇画」 1509年
「聖家族の祭壇画」とも呼ばれるこの絵のバランスのとれた構図は、おそらくイタリア・ルネサンスの画家たちの影響によるものである。
クラナッハがネーデルラントを訪れた際に彼らの絵を目にしたことは間違いない。
おそらく、この地方の画家たちからイタリアのデッサンや版画のコレクションを見せられたのでしょう。
また、彼の古代神話の主題が初めて登場するのも、このときからで、1508年の版画は三美̪神を裸体で描く「パリスの審判」をテーマいていおり、これはのちに彼の最もなじみの画題となった。
こうした新たな展開は興味をそそると言えば、数のうえでは依然として型にはまった作品が大半を占めていました。

フリードリヒ賢明候の宮廷は肖像画や、礼拝堂を飾る祭壇画と小型の祈禱画を依頼し、クラナッハはおびただしい数の作品を制作し始めます。
どれもが見事な出来栄えで、しかも注文どうりにきちんと納められたから、選帝侯とその宮廷が満足しないはずはなかった。
特に肖像画は、凝った流行の衣装をまとった宮廷人たちの姿を描いていました。
クラナッハはパトロンたちに何年も完成を待たせるような気まぐれな画家ではなく、技巧と能率を誇る工房をプロらしく巧みに運営し、たくさんの助手からなるチームを率いて仕事をこなしていたのは明らかだが、多数の作品のなかに単なる模索は1つとしてなかった。

1つの作品からさまざまなバージョンが生み出されたにしても、親方である彼の監督は厳しく、すべてに口を出して細部を修正し、最も難しい箇所は自ら筆を握ったと思われます。
肖像画に関していえば、クラナッハは、ますます注文を増やす身分の高い客たちかの姿を何点か紙に油彩でスケッチし、ファイルしておき、数年間これを活用してポーズと衣装に変化をつけて絵を仕上げたようだ。

この方法だと、そのつどモデルになってもらう必用がなかった。
1520年以後、ルターや宗教改革を指導したザクセンの諸侯たちの肖像画依頼をこなすため、この手法はいっそう欠かせなくなりました。
感覚的な好み
1520年の後半から、今日マニエリズムと呼ばれる美術洋式がイタリアを発信地として広がり始めた。
これはルネッサンスの古典主義がもつ厳しさが緩和され、絵画の感覚的で楽しい面が新たな強調される兆候でした。
それはクラナッハ自身の画家としての気質をよく反映するものだったために、彼はこの潮流に喜んで応じたようです。

「報酬」 1532年
不釣り合いな2人というテーマは、北方ルネサンスの絵画になじみのものだった。
最も有名な例はチョーサーの「商人の物語」(カンタベリー物語のなかの挿話)にみられ、それは老人ジャニュアリー(1月)が若い女性メイ(5月)と結婚する話である。
画面で行われている取り引きがどういう性格のものかはっきりしないが、老人の表情から見て、かれの心中にあるのが商売でないことは明らかである。
肖像画、とりわけ女性像はより理想化され、小さく丸い頭部にほっそりした姿態で描き、彼女たちの衣装、特に帽子が強調され、最新流行のファッションが前面に出された。
しだいに官能的なヌード(たいていはイヴ、ルクレティア、ヴィーナスの姿をしていた)が、クラナッハ作品に目立ってきた。

しかし、それらはルネサンスの古典的な裸婦ではなく、想像力を刺激するかのように透き通ったヴェールで裸体をおおい、あるいは装身具や帽子を身に着けてエロティックな意味合いを際立たせる、理想化された宮廷美でした。
そうしたあいだにも、かれの工房は肖像画、祈祷画、神話画、祭壇画を生産し続けました。

クラナッハの晩年の傑作の1つである「自画像」は、1550年つまり78歳のときに描かれたもので、いかめしい雰囲気にあふれ、これまでどの作品にも劣らず写実的です。
この射すくめるようなまなざしから何事か読み取れるとすれば、それはみごとに仕事をやりとげた人間の誇りだと言っていい。
名画「パリスの審判」
クラナッハはこの興味深い主題を繰り返し描いており、この見事な小品は1530年の作ですが、彼はまず1508年に版画でこの主題を試みたが、その構図はのちの絵画作品とほぼ同じです。
ヘルメス(メリクリウス)が地上に降り立ち、裸の三美神をともなってパリスの前に現れた。
パリスはいちばん美しい女神を選ばなければならない。

ヘラ(ユノ)は彼に富を約束し、アテナ(ミネルヴァ)は戦いでの勝利を請け合ったが、パリスは思うがままの美女の愛を約束したアフロディテ(ヴィーナス)を選んだ。
返礼にパリスにヘレネが与えられたことから、トロイア戦争が起こった。
クラナッハはこの神話のエロティックな意味合いを見逃していません。
彼の描くパリスは物語にあるような羊飼いの若者ではなく、甲冑を身につけた騎士であり、三美神はお互いに競って性的魅力を振りまいています。
まとめ
クラナッハは仕事が速いことで、有名で墓碑には「速筆の画家」と刻まれています。
彼は多方面に秀でていたが、おそらくは魅惑的な女性像を描いた画家としてとりわけ人々に知られています。
中でも「ルクレツィア」「ホロフェウスの首をもつユデット」はおびただしい模索とバージョンの数からして、当時の人たちが常に求めた2大テーマだったのでしょう。
クラナッハの宮廷風な装身具やお洒落な帽子などは、現代の我々が見ても美しく、女性の美しさをさらに引き立て不思議な魅力を感じさせます。
クラナッハが描く人物は宮廷風でありながら、どこか庶民的な人間性を見ることができ、愛情温まる目線で描かれています。
クラナッハはルネサンスの時代の、独創的な個性を持った特別な巨匠として、今も世界中の多くのファンに愛されています。