「スーラ」静かな実験主義者

ジョルジュ・スーラは小さな色の点を並べる新しい絵画手法「点描主義」で特に有名です。

スーラは、自尊心はつよいが極端なはにかみ屋であり、

ほとんどの時間をひとりアトリエにこもって絵を描くか、読書をして過ごしていました。

彼は秘密主義者でもあって、自分が発見した最新理論を親友たちにさえ教えようとはしなかったといいます。

スーラの画歴は短く、12年間の勤勉な制作活動がその全てであり、

髄膜炎だったらしく、いたましくも31歳の若さで世を去った。

 

スーラの幼少期

ジョルジュ・スーラは1859年12月2日、かなり豊かな両親のもとにパリで生まれました。

執達吏であった父のアントワーヌ・クリゾストームは孤独を愛し、無口で内気な性格は息子にも受け継がれた。

父は、機会をみつけては家族を残して郊外の別荘にこもり、

庭師と一緒に花を育てたり、ミサに出かけたりして日々を送っていて、

父親が家にいるときはきまって火曜日だけというありさまでした。

母エルネスティ―ヌ・フェーブルはもの静かで謙虚な女性だったが、子供には常に暖かく接しました。

一家のアパルトマンはマジャンタ街にあり、眺めのよいブット・ショーモン公園の近くで

ジョルジュと母親はそこでようやく時を過ごします。

子供のときに見たすべらしい風景や、一家を親しく訪れた人たちが、

後に彼のいくつかの傑作のテーマになった。

 

ハンサムな学生

スーラは背が高くハンサムな若者に育ち、「ビロードのような目」を持ち、穏やかでやさしい声をしていた。

態度も身なりも控え目で気品があり、いつも一分のすきもない服装をしていたため、

友人は百貨店の売り場主任のようだと評した。

しゃれた毒舌家であるエドガー・ドガは彼に「公証人」というあだ名をつけている。

きちょうめんなスーラの性格をよく表したあだ名である。

彼は食事や酒よりも書物に金を使い、まじめに勉学にはげんだが、彼の性格で何より目立ったのはその秘密主義でした。

スーラは模範的な学生となる要素を数多く備えていたが、学校や、

1878年に入学したパリの官立美術学校エコールデ・ボザールでは、アングルの弟子のアンリ・レーマンの教室に入り、

伝統的な素描や構図法を研究しており、視覚混合の原理や色彩配合に関する理論を学んでいる。

1879年には、パリで開催された第4回印象派展を訪れたりもしているが、この年、

1年間の兵役ため絵の勉強は中断され、彼はブルターニュの西海岸にある大きな軍港ブレストに送られる。

だが彼は兵舎の暮らしにもすぐに慣れ、暇を見つけては人物や船のデッサンをしていました。

1880年にパリに戻ると、2人の画学生仲間と共同で、左岸に初めて狭いアトリエを借りたが、

セーヌ左岸の両親の住まいの近くに自分だけのアトリエを借り、そこに移ります。

それからの2年間は白と黒のデッサンにうちこむ。

1883年のサロンで、彼の描いたデッサンが初入選したとき、批評家は「新人のものとは思えない」と賞賛しました。

その年は大作「アニエールの水浴」の制作のために費やされた。

しかし、よく1883年のサロンにこの作品は落選します。

そこで彼は指標を変えた。

以来、伝統的なアカデミズムのコースをめざすのをやめ、官展を軽蔑し、

その権威から独立しようとしていた若い画家たちと親交を結ぶようになる。

天性の才能に恵まれた画家であったスーラは、同時に人並みはずれた集中力と忍耐力を備えており、

脇目もふらずに根気強く制作に没頭した。

自分の意見の正しさと、当時つくりだしつつあった「点描主義」の手法の重要性を確認していた。

ほかの画家たちは彼をリーダーとみなしたが、それは親愛の情からというよりも尊敬の念からでした。

彼の方も崇敬されることを、自分の優れた才能、ひたむきさとその成果からして当然のものと受け取った。

 

新組織の会員

1884年5月に、新しいグループ「独立芸術集団」の初めての展覧会(アンデパンダン展)が

荒れ果てたテュイルリー宮殿のそばの仮設小屋で開かれ、スーラの「アニエールの水浴」も展示された。

展覧会は財政的には破堤はしたが、引き続く議論のなかから正式に「独立芸術協会」が設立され、

年に一度の展覧会を無審査無賞でおこなうことになった。

スーラはその委員会の会合に定期的に出席し、いつも同じ席に座ってパイプをくゆらせていた。

この会合が縁で、ポール・シニャックとの友情が生まれる。

シニャックは彼より4歳年下で、印象派の影響のもとにほとんど独学で学んだ画家であり、

スーラの理論的着想に深い理解を示した。

外交的で熱に浮かされやすいシニャックは、スーラを精神的に支援するとともに人の橋渡しの役を買って出て、

スーラは次第に前衛仲間のなかで名を高めるようになった。

1884年の夏、スーラは別の大作にとりかかる。

前と同じくアニエールのボート場を描いたものだった。

例のひたむきさから、すべての時間をこの絵のために費やします。

数か月間、決めた場所に毎日足を運び、午前中はそこでスケッチし、午後にはアトリエで大きなカンバスに向かって描く。

2年間に及ぶ精神の集中と規則正しい努力の結果、スーラはこの絵を1886年に完成し、5月の印象派展に出品しました。

「グランド・ジャット島の日曜日の午後」は同展の呼び物となり、彼は印象派からの大躍進を示した批評家から絶賛されます。

もとから好意的であった新進画家のフェリックス・フェネオンは特に感銘を受け、スーラとその仲間を「新印象派」と名付けて、彼らの熱心な代弁者となった。

刊行されたばかりの「ヴォーグ」誌の現代美術の連載記事のなかで、フェネオンはスーラの作品に特別な注意を払い、新しい手法を科学的細部にわたって解説した。

 

話題の中心人物

突然にして、スーラはパリ美術界の話題の中心となった。

彼はすでにモンマルトルのクリシー街にシニャックと並んでアトリエを構えており、

ここには、彼が深く尊敬していた保守派の芸術家ビュヴィス・ド・シャヴァンヌをはじめ、

より進歩的な芸術家たちまでが出入りしていました。

そのなかにはドガ、ゴーギャン、ファン・ゴッホ、ロートレックなどもいた。

スーラは芸術論争の的となったものの、自らは常に論争から身をひいている。

スーラの一家は財政的に豊かであったため、彼の絵を買いそうな人の扱いには不慣れでした。

そして名前は有名になったが、絵の代金として要求する額はごく普通でした。

あるときなど、ブリュッセルの「20人展」に出品した作品の値段の提示を求められて、

「私は1年の経費を算出するのに、1日当たり7フランでやっています」と答えている。

制作態度も同様に現実的で、ロマンティックなものではなく、何人かの批評家が彼の絵を詩的だというと、

「いいえ、わたしは自分の方法論をあてはめているだけなのです」と反対の意見を述べた。

しかし、自分の技法の独創性を保つためには細心の注意を払い、細部についてはかたくななまでに口をつぐんでいる。

スーラの暮らしぶりは判で押したようなものになり始めていた。

冬はアトリエに閉じこもり、春の展覧会に向けて大作の人物画に取り組み、夏にはオンフルールのようなノルマンディー地方の港町に滞在して、比較的小さい、構図の複雑な海の風景画を描いたようです。

パリでも海辺の町でも人づきあいはあまりよくなく、晩年には友人たちとの交遊もほとんど断ってしまいます。

相手が1人だとなごめたのだが、それでも彼の会話はきまって絵に関することばかりだったとだれもが語っている。

 

スーラの秘密の妻子

1889年の暮れに、30歳に達したスーラは騒がしいリクシ―街を離れて、

近くのもっと静かな通りにアトリエを移したが、そこでは両親や友人には内緒で若いモデル、

マドレーヌ・クノブロックと生活をもとにした。

1890年の2月に、彼女は男の子を産んだ。

スーラは子供を認知し、自分のクリスチャン・ネームをひっくり返してピエール・ジョルジュと名付けた。

しかし、彼がようやく妻子を母親に引き合わせたのは、死の2日前でした。

1891年3月、スーラはまったく突然に世を去ります。

髄膜炎でした。

アンデパンダン展の絵の展示を手伝い、尊敬するビュヴィス・ド・シャヴァンヌが自分の作品

「サーカス」にさして注意を払わずに通りすぎたのを気にしていた1週間後のことでした。

享年31歳。

シニャックは「かわいそうに、われらが友は働きすぎて命を縮めてしまった」と悲しげに結んだ。

 

点による図像

スーラは今日、小さな色の点を並べて絵を描くという骨の折れる技法を考案した画家としてとりわけ有名です。

絵画もデッサンも、おしなべて彼の作品は密で、隅々まで考え抜かれている。

彼の偶然性が入り込むすきを与えず、仕上がりがきちんと想定できるまでは絵筆をとろうとしなかった。

のちにある友人が述べているように、「我を忘れる感覚は彼には意味がなかった」のです。

スーラは毎日小さなアトリエにこもり、本に囲まれて過ごしました。

アトリエでの彼は、脚立に乗ってカンバスの前に立ち(カンバスはときとして3mもあった)、

パイブを口にくわえて眼に半眼にしながら、黙々と制作にはげんだ。

ぼんやりした人工光線しかないにもかかわらず作業は夜遅くまで続けられ、

一息入れたくなるとパリの町を遠くまで散歩してまわった。

 

無数の斑点

まず最初に、カンバスに絵の具を一層だけ塗り、その上から大まかな筆遣いで固有色を置く。

それからカンバスを細かい部分に分け、途方もない集中力を発揮して、さまざまな色の斑点で絵を仕上げていきました。

前もってあらゆる細部まで詳細に計算してあるため、途中で後ろに下がって全体の効果を確かめることもほとんどなかった。

友人が訪ねてきても、スーラは無口でうちとけない。

ただ、絵の着想や理論に話がおよぶと彼の口はなめらかになり、脚立から下がてチョークを手にし、

床に熱心に図形を描いてみせたという。

こうした理論はスーラ自身が創案したものではない。

むしろ、彼が賞賛していた絵画がもつ色彩に論理的な解釈を与えるために、当時の美学や科学理論を研究したのです。

彼の学生時代から、熱心に理論書を読み、研究し、その成果を絵に反映させる、きわめて論理的な画家でした。

スーラが取り上げた主要な概念に、「視覚混合」という考え方があった。

前もってパレット上で絵の具をまぜる色の輝きが失われるので、彼は原色のタッチをカンバスの上に並べて置くという方法を試みた。

そうすれば色は輝きを失う事なく、みる者の目のなかで混じり合うだろうと考えたのです。

印象派は直感からこれに似た方法を用いたが、スーラはそれに論理的根拠をもたらした。

スーラは1885年に海の景色を描いた作品で初めてこの技法を試みる。

色の斑点や長めの筆触を並べて、微妙な光の効果をこれまで以上にうまく表現しました。

これが「点描主義」と呼ばれる技法でした。

斑点の実際の色はさあざまな要素に基ついて決められる。

すなわち眼前の風景の自然な色彩、光の影の効果、色と色との相互作用などによってである。

この理論を伸展させて、みる者に彼の望む通りにみせるために、彼は1887年には絵に縁取りを施すことも始めた。

点描主義を使ってスーラが意図したものは、絵に精密さを加えることだけでなく、光の動き自体の表現であり、

絵の具などに欠陥があったために試みはうまく成功しなかった。

彼の死後の1890年代に、早くもスーラが使った色のいくつかがひどく退色し、

黒ずんでいるのを友人の画家ポール・シニャックが発見している。

 

幸福な線と悲しい線

1887年以降、スーラは休むことのない探求の目を線の問題に向けました。

線の傾きに関する、当時の美学者シャルル・アンリによる理論、

絵画においては線の使い方しだいでさまざまな感情を表現できるという考えに興味を抱きます。

上向きの線は陽気さを、水平な線は落ち着きを、そして下向きの線は悲しみを表現すると考えられた。

彼はこの理論を晩期の作品、特にサーカスということさら威勢のいい世界を描いた作品に応用し、

主題に関しては、スーラはその分析の目を現代世界に向けた。

最初は慎重に印象派と同じ主題、郊外の情景、夏の風景、海の景色からとりかかる。

しかし、移ろいゆく瞬間をとらえようとした印象派と違って、スーラは永遠の時、

いつも変わらぬ日常生活の美しさに心ひかれた。

晩期には演技をする人たちサーカスのパレード、カンカン踊りのダンサー、歌手やピエロを好んで描いています。

初期のデッサンでは個々の人物像を観察し、後期の作品にも登場させているが、

スーラの描く人物は孤立したままであり、群衆を描いても奇妙に静まりかえっている。

スーラのデッサンは彼の作品のなかで主要な位置を占める。

「これまでになかったほど美しいデッサンだ」とシニャックも述べている。

絵画作品と同様に、主題を整然と単純化し、確固とした永遠的なイメージをもたせた。

眼の粗い紙にやわらかなコンテを用い、線の細かく十字に交差させてトーンを生み出している。

しばしば、明るい背景に人物を暗く影絵風に浮き上がらせたり、ランプの光を顔に落として表情をやわらげたりした。

また、彼は大作を描く前には、何枚も油絵の具で習作を描いており、それらのなかには、1つの作品と呼べるほど完成させた。

スーラの作品は冷たく非常であると批評されることがあるかもしれない。

しかし、彼は当時の生活を正確に観察した人物でした。

彼がなしとげた色彩の調和と輝きの完璧なバランスは、ほかに類がない。

 

名画「グランド・ジャット島の日曜日の午後」

スーラがこの作品に着手したのは1884年でこの大画面を仕上げるのに2年を要した。

数か月間毎日のようにセーヌ川のこの小さな島に通い、日曜日の行楽客と陽光あふれる風景をつぶさに観察して、

すべらしい集中力を発揮して、実際の光景から想像の世界を組み立てていった。

川岸の草が伸びすぎると、友人に頼んで刈り取ってもらったりもしています。

ようやく構図が決まるとアトリエで制作に取りかかり、穏やかで動きのない人物像をカンバスの上に巧みに配置した。

完成作は1886年の最後の印象派展に出品され絶賛を博し、

スーラを賞賛する人たちは彼を「新しい絵画の救世主」と呼んだ。

 

まとめ

点描主義というとスーラしか思い浮かばないほど、彼の絵画は独創的でその印象が強い。

大きな点描から細かい点描に移行していく中で、スーラは絵画的に新たな空間芸術を生み出していきました。

今までにないその技法は、フェルメールのポアンティエとは違い、装飾的であり、モザイク的である。

彼の見ていた絵画世界は、現実とポエティックの狭間にあり、二つの色彩は同色で表現されています。

実験に力を注ぎ疲れた彼は、若くして惜しくも志半ばで倒れてしまいました。

彼の仕事は、現代のデジタル画面に通じるように正確であり、

もし長生きしていたらさらに進んだ空間芸術となっていたことでしょう。

その細やかな骨の折れる仕事を受け継ぐ画家は、残念ながら現代には存在していない。

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