アングル 新古典主義の騎手

優秀な画学生であった時代から、名声につつまれた晩年にいたるまで、アングルは伝統的な価値を堅く守り続けました。

しかし、アングルは政治的な危機やアカデミーの競争のために、名声を得るまで想像以上に時間がかかりました。

アングルは批評には神経質でしたが、新古典主義の旗手と称されて満足を感じていたようです。

社交界の肖像画や官能的な裸体画で有名になり、現在でも評価が非常に高い画家です。

年譜

1780年 モントーバンに生まれる

1791年 トゥールーズの美術学校で学ぶ

1797年 パリに行き、ダヴィッドのアトリエに入る

1799年 エコール・デ・ボザールに入学

1801年 ローマ賞受賞

1806年 ローマへ出発

1813年 マドレーヌ・シャベルと結婚

1814-15年 ナポレオン帝国崩壊 フランス人顧客を失う

1824年 パリのサロンで認められる

1834年 ローマのフランス・アカデミー院長を引き受ける

1841年 パリに戻る

1843年 シャトー・ダンピエールの壁画に着手

1849年 妻死亡

1852年 再婚

1863年 「トルコ風呂」完成

1867年 パリで死亡

 

ヴァイオリンの名手

1780年フランス南西の田舎町モントーバンに8月29日にここで生まれました。

アングルだけがこの町の出身者として著名だといいます。

父は彫刻や装飾的な左官工事、ミニアチュールの肖像画を手掛けた名の知れた芸術家でした。

父親は自分の身に着けた技芸の多くを息子に伝え、彩色、デッサン、さらにはヴァイオリンの弾き方を教えます。

アングルは画家の道を歩みますが、終生、ヴァイオリンを手放すことはなく、優れた腕前だったといいます。

1797年8月アングルはトゥールーズの美術学校の推薦状を携えて、パリに向けて出発しました。

 

賞に恵まれる学生

アングルはパリに到着するや、幸運の連続に見舞われる。

フランス一の大画家ジャック・ルイ・ダヴィットのアトリエに弟子入りを許されます。

ダヴィットの教える古典主義を熱心に受け入れて、1801年9月のローマ賞を獲得しました。

だが、フランスが経済的にも政治的にも不安定だったため、アングルは1806年までローマに行くことができず、それまでは政府からアトリエを提供され、多少の給料をもらったようです。

 

ローマでの日々

1806年10月ようやくローマに到着し、4年間国費留学生として、巨匠たちの作品を研究したり模写したりして過ごします。

特に打ち込んで学んだのはラファエロで、その作品をますます敬愛するようになりました。

特に「小椅子の聖母」に大きな影響を受けています。

彼は本国に「ユピテルとテティス」を送りますが、この絵は散々な批評を浴びます。

「ユピテルとテティス」 1811年

この類例のない絵はホメロスの「イリアス」のエピソードにもとずくもので、ニンフであるテティスが全能の神ユピテルに、トロイア戦争で息子のアキレウスに味方するように哀願しているようすを描いている。

アングルをけなす批評家たちは、この作品の「プリミティヴさ」にあきれた。

 

・ギリシャ風の横顔

「人物の内的な形態は、線と輪郭だけで表現できる」とアングルは考えていた。

そのため曲がりくねった線を使って、人物の横顔を表現することが多かった。

これが古代ギリシャ美術に負うことを、彼は決して隠そうとはしなかった。

 

・エレガントな歪曲

アングルがこの絵に一風変わった型と古代風の明快な輪郭を使用したのは、情感の純粋さとエレガントな簡素さをもつ洗礼されたフォルムを求めたためである。

テティスのふくれた首と不自然に伸びた腕は、従順な女性らしさの理想を表現している。

アングルに対して最も過激な批評家は、テティスが甲状腺の障害に苦しんでいるとののしっている。

奨学金の出る4年が過ぎても、アングルはローマに滞在して1813年結婚を決意します。

モントーバンの帽子屋をしていたマドレーヌ・シャベルと仲介結婚することになりますが、2人は結婚する前に会ったことはなく、アングルは相手に、デッサンによる小さな自画像を送りました。

後になってマドレーヌは冗談まじりに、そのデッサンは実物より良く描かれていたと語ったそうです。

彼女は一人でローマにやってきて結婚し、苦しい日々に、良き伴侶としてアングルを力強く支えることになりました。

 

悲惨な年

1814年アングルはナポリの王妃カロリーヌ・ミュラの肖像を描くよう依頼されていたが、ナポリの軍に敗れ、帝国は完全に崩壊し、アングルの庇護者たちは消え去り仕事を失います。

パリのサロンに提出した絵は依然として無視されたが、信望強く仕事を続け、巨大な裸婦像「グランド・オダリスク」を完成させて1819年のサロンに「アンジェリカを救出するルッジーロ」と一緒に送りまでした。す。

しかし、ここでの評判も、冷たく敵対的なものばかりでした。

「オダリスク」のねじ曲がった裸婦の姿態はい一部の物議を醸しだしたのです。

「グランド・オダリスク」 1814年

子の裸体画を注文したのはナポリの王妃カロリーヌ・ミュラだったが、ナポレオン帝国崩が崩壊したために、作品は王妃の手に渡ることはなかった。

アングルは背中の曲線をことさら強調したが、サロンでは、その未熟さと奇怪さが酷評を浴びた。

 

体の歪曲

「グランド・オダリスク」の裸婦の異様に長い背中が、アングルを批判する人たちに言わせると、余計な椎骨が3本もあると言っています。

この種の効果を高めるために、アングルは人物の立体感を抑えて、奥行き感によって二次元的な構図が阻害されないようにしました。

また、同じ理由から絵の表面をできるだけ滑らかになるようにして、筆後が目につかないようにしていました。

絵は「玉ねぎの表面のように」平らでスベスベしていなければならない、と考えていたのです。

そのため弟子のキャンバスから余分な絵具を削り取ったこともあったといいます。

 

古典主義とロマン主義

アングルはフィレンツェに移り住み、ダヴィッドのアトリエ時代以来の古い友人と生活を共にし、大使や重要人物の肖像画を専門とするお抱え画家的な立場を守りながら、何とか生活していました。

こうして1829年には、モントーバン大聖堂から依頼された「ルイ13世の誓い」を完成し、絵を携えてパリに行きます。

この作品は、サロンに展示されましたが、そこには若き画家ドラクロワの「オキス島の虐殺」も出品され物議を醸しだしているさなか、44歳になったアングルは自作が大好評を博していることに驚きました。

牙を出し始めたロマン主義に対する反発から、批評家が伝統的な価値の守り手としてのアングルを讃美したのでした。

帰国後レジオン・ドヌール勲章を授けられ、美術アカデミー会員にも選ばれ、アトリエを開くとたちまちにして100名を超える弟子が押し寄せてきました。

 

ローマのフランスアカデミー委員長に就任

1827年に取り付けられたルーブル美術館の天井画「ホメロスの礼賛」の依頼をこなし、1829年エコール・デ・ボザールの教授になり、1834年には1年だけ校長を務めます。

「ホメロスの礼賛」 1827年

1827年ルーブル宮に設置された絵画で、アングルはこの絵を自分が描いた最も美しい作品と見なしていた。

古典主義宣言を意図した作品で、バランスのよい構図はラファエロを模範としている。

同年「聖サンファリアンの殉教」がサロンで酷評されたことからパリを離れ、ローマのフランスアカデミー委員長に就任することを引き受けました。

管理者、教師としての務めを果たし、学校の施設改善に大きく貢献しました。

 

旋故郷への凱旋

1841年アングルはパリに戻ります。

この時彼はフランス官学派の押しも押されぬ巨匠になっていました。

王侯貴族たちは肖像画を描いてもらおうと列をなして集まり、公共機関から大規模な作品の依頼がよせられます。

1849年献身的な妻が亡くなり、アングルは嘆き悲しみます。

1855年パリの万国博覧会でアングルとドラクロワには、自作の展示にそれぞれ1室が与えられ、2人の対立は1824年に若いドラクロワが18歳年上のアングルをしぶしぶほのめかしたとき以来のものでした

ドラクロワにとって、アングルの作品は「不完全な知性の完璧な表現」だったといいます。

80歳に手が届くころのアングルは、数限りない栄誉につつまれ、グランドフィシェ勲章まで授けられました。

1867年1月14日に86歳でパリでなくなり、ペール・ラシェーズ墓地に埋葬されました。

郷里のモントーバン荷は、数点の絵画と4000点のデッサンが残されたが、これらの作品は現在、アングルの使ったパレットやヴァイオリンやその他メモ帳と一緒に、アングル美術館に保管されています。

 

線の美

アングルに対する最も痛烈な批評の1つに、名前をもじった「アングリ」(灰色で)という言葉がある。

彼をかなす批評家たちは、この語で、アングルの絵がライバル、ウジェーヌ・ドラクロワの燃え上がらんばかりの色彩豊かな絵に比べて、色が貧弱で退屈であることをにおわせていました。

アングルの肖像画のモデルたちが身にまとった服の豊かな色合いからすると、こうした批評は当を得ていないように思えるが、それでも、これには真理が含まれていた。

アングルにとっては、色彩よりもなによりもデッサンが重要であり、デッサンにかけて、彼に並ぶ者はまずいなかった。

アングルの肖像画のスケッチは、ほかの例がないほどの正確さを示していて、アングルとはまったくタイプの違うドガやピカソといった後世の画家が、彼のスケッチに大きな影響を受けている。

 

絵画への道

アングルにとってデッサンはけっして目的ではなく、複雑な経路をたどって最終的に完成された絵となるまでの1段階でしかなかった。

この点で、アングルはダヴィッドのアトリエやエコール・デ・ボザールで学んだ教えに従い、何十枚となくデッサンを積み重ねながら、モデルの正確な表情やポーズを発見していきました。

肖像画を描くときでさえ、ヌード・モデルを使って、流行の服の下に隠された体の形を理解しようとしました。

モデルを使ってデッサンと並んで、巨匠たちの仕事にも彼は大きな関心をはらっていました。

ことにアングルは誰よりもラファエロを尊敬していて、イタリア滞在時代は、ヴァチカン宮殿をはじめとするコレクションを熱心に模写しています。

そのため、彼は模写をくり返したのではないかとさえ思えるほどです。

たとえば、世界的に有名な裸婦像「グランド・オダリスク」の女性の顔はラファエロの描く聖母の顔と同じであるように見える。

アングルのアトリエは、彼自身の描く模写やデッサンのほかに、巨匠たちの作品をもとにした銅版画でいっぱいでした。

「ベルタン氏の肖像」 1832年

ここに描かれているのは、大きな影響力をもっていた雑誌「ジュルナル・デ・デバ」のオーナーである。

当時66歳のベルタンの巨体がキャンバスの大半を占め、かれが重要な人物であったことを示している。

エドワール・マネは、この肖像画を「ブルジョワの仏陀」と形容した。

作家のテオフィル・シルヴェストルはアングル批判の中で、1857年のかれのようすを次のように書いています。

「アングルは、魔法をかけられた銅版画に囲まれて、うきうきと、頭像、腕、手、人物像、集団像、墓、女性人像柱、寺院・・・・・の向きを変えたり、また戻したり、こちらに置いたかと思うと、また別の位置に移したりしていた」

こうしたやり方が、骨の折れる試行錯誤の連続だったことは明らかで、アングルの求めたのは、ラファエロがやり遂げたような並外れた構成と構図の調和でした。

「ドーソンヴィル伯爵夫人の肖像」 1845年

アングルが「われらがいとしのおてんば伯爵夫人」と呼んだこの女性は、作家のスタール夫人の孫娘にあたり、社交界の花形であった。

アングルは考え込むようすの夫人を描いており、鏡に映った後ろ姿を取り込むことで絵全体の奥行きを考えている。

しかし、こうした努力は完全に満足のゆく結果にはなりませんでした。

アングルの大規模な歴史画や神話画には、彼が求めていたような統一性が欠けていることが多く、ときにはスケッチ、とりわけ油彩エッチのほうが完成作品より優れていた。

 

ヌードのスケッチ

アングルのスケッチからは、彼の制作方法の一端がうかがわれる。

人物はしばしば驚くほど自然主義的で、「アンジェリカを救出するルッジェーロ」のためのスケッチに描かれた裸婦は、当世風の髪型、生身の人間らしい表情と現実にありうるポーズを取っていて、陰毛まで描きこまれています。

しかし、完成された絵には、純善たる空想が写実的な表現に取って代わっている。

優雅なアンジェリカの姿は、アングルの原型ともいえる、のけぞった首、大げさなポーズ、理想化された体型に変わっています。

アングルはデッサンやスケッチのプロセスを踏んで、完璧な、純化した理想型を追求していました。

現代風の言い方で言えば、彼の求めたものは抽象的なリズムと形態であり、それらは実際に描かれている人物や物体、あるいは動きにはほとんど依っていません。

20世紀のフォーヴィズムやキュビスムや抽象画の画家たちよりはるか以前に、アングルは自分の絵を、確実な輪郭と支配的な面のパターンから構成されたものとして、ほとんど二次元だけで考えていました。

絵における三次元な錯覚の要素は、アングルにとっては「無言劇」と同じように嫌っていました。

 

体の歪曲

自分の好んだ物憂げな曲線のリズムを得るために、人物の体型をゆがめることにアングルは、なんらさしさわらなかった。

そのもっとも有名な例は、1819年に公開された「グランド・オダリスク」の裸婦の異様な長い背中です。

この種の効果を高めるために、アングルは人物の立体感を抑え、奥行き感によって二次元的な構図が阻害されないようにしました。

同じ理由から、絵の表面をできるだけ滑らかになるようにし、絵は「玉ねぎの表面のように」平らでスベスベしていなければならないと、考えていたのです。

そのため弟子のキャンバスから余計な絵の具を削りとったこともあった。

ひとたび完全なフォルムを発見したり満足できるフォルムに行き当たると、アングルはそれに固執しました。

「ヴァルパンソンの浴女」の信じられないほどの優美な背中はいたく気に行ったようで、このモチーフを何年にもわたって数点の絵で繰り返し使用しています。

その中でも最も有名な作品は、この絵から半世紀以上もあとになって完成された「トルコ風呂」です。

同時代の人々は古典主義の騎手であり、その規則と原則を決して裏切らない画家とアングルは見られていたが、矛盾の多い彼の芸術のなかで核となる矛盾は、アングルが傑出した画家とされるのは、結局のところ、アカデミーの原則に従ったことよりも、その個性的なくせ、固定観念、そして、彼独自の型にはまった表現によるものでした。

シャルル・ボードレールが言うように、アングルの最高傑作は「とてつもない感覚の産物である」。

 

名画「トルコ風呂」

「トルコ風呂」の原画は1852年にデミドフ伯爵のために制作されたが、伯爵の手には渡らずに、7年後、ナポレオンの甥にあたるナポレオン公(のちのナポレオン3世)が購入しました。

しかし、ナポレオンの妻は赤裸々な構図にショックを受け、夫を説得して1804年制作のアングルの「自画像」と交換させました。

アングルのアトリエに戻った「トルコ風呂」はすっかり描き直されて、1863年にようやく完成した。

このエロティックな想像画は、最後になってトルコ大使が2万フランで買い取りました。

 

まとめ

アングルは絵画史上、ミケランジェロに続く線の画家として名高い。

彼のデッサンは魅力的で、見る人を引きつけるほどの画力があります。

彼が最終的に求めていたのは、古代ギリシャ彫刻のレリーフのような美の世界でしたが、その芸術は当時の人達には理解しがたいものでした。

ローマでの生活が長かったことで、古代ギリシャ、ローマの知識とルネサンス絵画の知識が融合して生まれた表現は、残念ながら、当時のアカデミーの3次元主義からは理解しがたい2次元の世界だったことです。

アングルは古代人と同じ表現で、神を描こうとしたのでしょう。

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