「ホイッスラー」異国のアメリカ人

ホイッスラーは、16世紀の最も独創的な画家の1人であり、

世間の耳目をひく奇矯な人物でした。

アメリカに生まれ、ロシアで少年時代を過ごしたのち、帰国して陸軍士官学校に入学したが、

化学の試験に落第して学校を中退し、絵を描くために21歳でパリに渡る。

しかし画家としての名声、というより悪名を得たのは、1859年から本拠にしたロンドンでの出来事でした。

彼は日本美術から強い影響を受け、大胆きわまりない独特のスタイルをつくり上げる。

ホイッスラーの絵では、テーマはほとんど意味をもたず、調和のある構図と色彩だけが重要とした。

ヴィクトリア朝時代の人々の目には、ホイッスラーの作品は「未完成」のように映った。

ホイッスラーは「鑑賞者の面前に絵の具の壺をぶちまけた」と彼の作品を酷評した評論家を訴えたことさえあった。

作品が認められたのは晩年近くになってからであり、ホイッスラーは69歳でロンドンで没した。

 

幼少期

ジェイムズ・アボット・マクニール・ホイッスラーは、未完に終わった自伝のなかで、

「断っておくが、私はイギリス人ではない」と書いている。

ほかのどの国よりもイギリスでの生活が長かったが、絶えず旅行を繰り返し、

常に自分をアウトサイダーと見なしていた。

彼はマサチューセッツ州ローウェルに生まれました。

父親のジョージ・ワシントン・ホイッスラー少佐は、陸軍を退役してから、

土木技術者としての専門知識を生かして、1843年に家族を連れてロシアのべテルブルクに赴き、

ロシア皇帝おかかえの技術者として鉄道の敷設にあたった。

一家はかなり裕福な暮らしができたらしく、息子のジェイムズはネヴァ川でアイススケートをして遊び、

スウェーデン人の家庭教師にフランス語を習い、軍事パレードと花火が大のお気に入りでした。

1845年、ホイッスラーは10歳になると、帝国アカデミーでデッサンの授業を受けるよになり、

翌年にはクラスで一番の成績を修める。

しかし、1848年の夏に、母親はロシアの冬の寒さを再度味わうことを恐れて、家族を連れてロンドンに渡り、

その翌年の夏、夫がコレラで亡くなると、一家はアメリカに戻らざるを得なくなります。

ホイッスラーの母親は信仰心がある女性で、息子が聖職者になることを望んでいたが、彼にはそのための適性が欠けていた。

もちろん、画家になるなどというのは問題外だったから、ホイッスラーは1851年にウェスト・ポイントの陸軍士官学校に入学。

しかし、軍人の生活もホイッスラーには、およそ似合わないものでした。

軍規と名のつくものすべてに反発し、3年後、化学の試験に落第すると退学させられます。

そこで画家になる決意を固め、1855年にパリに出る。

パリでは授業料を取らないシャルル・グレールのアトリエに入り、写実主義の画家ギュスターブ・クールベの熱烈な心棒者になった。

また、伊達男で才人という役まわりに磨きをかけることも忘れなかった。

体つきこそ、背が低く痩身で、きゃしゃであったとはいえ、休むことを知らないエネルギーに満ちあふれていました。

身につける服はいつも風変わりで、パリ時代は、リボンのついたつば広の麦わら帽子、片眼鏡、白いスーツ、エナメル革の靴がお気に入りでした。

その物腰たるやまさしく見もので、喧嘩っぱやさと鋭いユーモアが同居していた。

1859年、ホイッスラーは、ロンドンの義兄の家ではるかに気楽な生活を送る決意を固め、

ロンドンには「ピアノにて」を携えて移った。

この作品は1860年のロイヤル・アカデミーに入選、ホイッスラーの敬愛する画家ジョン・エヴァレット・ミレイに絶賛されます。

しかしこのころ、これが最初でも最後でもなかったが、義兄との祈り合いが悪くなり、自分のアトリエを持つようになる。

生涯のお気に入りとなるテムズ川をテーマにした作品に取りかかったのは、この時期からであり、ワッピングの波止場の連作エッチングや油彩画を制作しました。

さらに、このころから、以後7年間にわたって愛人となるジョアンナ・へファナン(愛称ジョー)をモデルに使うようになる。

ジョーは、議論を呼んだ初期の作品「白と女」や、「白い少女」にモデルとして登場している。

 

士官か伊達男か?

フランスでジョーと休暇を過ごした後、ホイッスラーは旧バタシー橋の近くに、テムズ川を見下ろす一軒の家を借ります。

2人はこの家で暮らしたが、1863年にホイッスラーの母親はあイギリスにやってくると、ジョーは近くに間借りしなければならなかった。

母親は家に腰を落ち着かせたものの、住いのほうに閉じこもって、決してアトリエには足を踏み入れない。

しかし一度だけ、間違ってアトリエに入ってしまったとき、女中が裸でポーズを取っているのに出くわした。

ホイッスラーは独創性豊かな画家として、さらには当時の最も特異な個性を備えた人物としての評判を確立していきます。

ロンドンの画家や作家たちとも広く知り合うようになり、特にダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ親しくなる。

青花磁器、それに日本の品物ならどんなものでも夢中になって収集する趣味は、2人に共通するものでした。

さらに1865年末には、フランスのトゥルーヴィルで、最初の良き指導者、ギュスターブ・クールベに合流している。

クールベはホイッスラーのことを「イギリス人の弟子」と呼んだ。

1866年、ホイッスラーは突如、ウェスト・ポイントに学んだ者である以上、戦闘現場を見なければならないと考え、ためらいつつも全財産をジョーに残すという遺言をしたためて、当時スペインと交戦中だったチリの人々を助けるべく、バルパライソに旅立ちます。

到着したのは、折しもスペイン艦隊が港を砲撃しているときで、これを目撃することができたが、砲撃後は戦闘が中断した。

この茶番じみた冒険旅行のお土産といえば、海の風景画と港のスケッチ数点があるだけでした。

ホイッスラーの旅行中に、ジョーは金に困って、パリで仕事を見つけます。

その「とびきりの赤毛」に魅せられていたクールベがレズビアンのカップルを描いたエロティックな絵のモデルにジョーを使いました。

ホイッスラーがイギリスに戻ってくると、2人は元通りの生活を再開したが、それはごく短時間だけで、

翌年には、ジョーは姿を見せなくなり、ホイッスラーも彼女のことをめっあたに口にしなくなる。

画家として、このころのホイッスラーは混乱した状態にあった。

対人関係では、むやみやたらと癇癪を起こすようになり、まずその犠牲になった義兄は、ガラス窓から放りだされてしまった。

しかし、徐々に落ち着きを取り戻し、うっぷん晴らしにプロのボクサーからボクシングを習ったりして、元通りの生活と仕事に戻っていく。

ホイッスラーは有名な「ノクターン」連作と肖像画に着手しました。

「ノクターン」はほとんど売れなかったが、これでようやく自分の天才を証明することができたという自信をもち、

肖像画のほうは多少売れ、やっとひどい借金から逃げることができた。

 

新しい愛人

1875年、71歳になったホイッスラーの母親は、健康上の理由から医者にロンドンを離れるように言われ、ホイッスラーは新しい愛人モード・フランクリンを家に引き入れます。

肖像画から見て、彼女は痩せ型で、エレガントで、髪の輝くようなトビ色でした。

このころのホイッスラーのパトロンの1人であったフレデリック・レイランドは、ケンジントンにあるロンドンの邸宅の模様替えをさせることにした。

そこに飾られるのがホイッスラーの絵だったことから、レイランドはホイッスラーを招き、新しい装飾について意見を求める。

ホイッスラ―は多少の模様替えを提案しただけだったが、レイランドは彼にすべてを任せ、自分の口座の金で金箔を好きなように買ってよい、と言い残してリヴァヴールへ発った。

ホイッスラーはこの時と言わんばかりに、夏のあいだ中気が狂ったように働き、壁、木工品、鎧戸、屏風、果ては天井まで、なにからなにまで青と黄金の孔雀の図案で覆い尽くした。

完成すると、友人、ジャーナリスト、それにレイランド意外のパトロンを招待して自分の傑作を鑑賞させ、折り込みに解説を書いて発行した。

ロンドンに戻ったレイランドは、自宅を批評家に公開したところに怒り、ホイッスラーには、約束した2000ギニーではなく1000ポンドしか支払われませんでした。

ホイッスラーは、ありのままの姿のレイランドの肖像画を描いて仕返しをしたので、2人の関係は途絶える。

レイランドと手を切れたことが痛手だとすれば、このあとすぐ、ホイッスラーはさらに大きな痛手に見舞われます。

1877年7月、大評論家ジョン・ラスキンが、ホイッスラーの作品「黒と金のノクターン」を酷評し、「鑑賞者の面前に絵の具の壺をぶちまけている」と言って画家を糾弾した。

ホイッスラーは戦いを挑まずにはおられず、名誉毀損でラスキンを訴えた。

裁判が始まったのは1年後で、勝利の判決を得たものの、結局は新たに痛手を1つ増やしただけでした。

裁判の費用のためにひどい負債を負い、また裁判のあいだ中、ホイッスラーの評判はがた落ちでした。

借金に苦しめられているあいだも、ホイッスラーの暮らしぶりは贅沢だった。

1878年には、チェルシーのタイト通りに「ホワイト・ハウス」を建て、建築家のウィリアム・ゴドウィンとその妻ベアトリクスと親しくなる。

新住所には、請求書と督促状が山のように寄せられる。

八百屋にだけでも600ポンドの借金があり、八百屋は「ノクターン」で借金を棒引きするのを拒絶しました。

そんな状態でもホイッスラーは動ずるようすも見せなかったが、それでも1879年5月には、ついに運命の時がきて、負債額4500ポンドで破産の申請を行います。

家財と家の処分が行われる日の2日前に、最後の朝食会を催し、モードのあとを追ってヴェネツィアに出発した。

それに続く数か月の苦しい、海外暮らしの日々は、モードだけが頼りでした。

ヴェネツィアではエッチングに専念し、

1880年にロンドンに戻ってから開いたその作品展は、地に堕ちた名声の回復に役立った。

肖像画の注文も増え始め、第2回エッチング展には、皇太子夫妻も来観しました。

ようやく画家として認められ、尊敬されるようになってくると、周りには数少ない信棒者が集まり、ホイッスラーは自分のことを「先生」(マスター)と呼ばせる。

信棒者のなかで特に注目すべき人物は、作家で才人のオスカー・ワイルドでした。

2人は冗談を言い合って楽しみ、その多くは雑誌に掲載された。

 

恋におちたホイッスラー

1886年、モードがフランスに出かけて留守の間に、ホイッスラーは、ベアトリクス・ゴドウィン(彼はトリクシーと呼んだ)と頻繁に会うようになります。

彼女は夫と協議離婚をしていたが、ゴドウィンはまもなく亡くなり、トリクシーは毎日のようにホイッスラーのアトリエにやってくるようになった。

モードがウィリアム・ストッタードという若い信奉者のためにモードとの関係が切れ、ホイッスラーは、1888年8月11日にトリクシーと結婚する。

ホイッスラーが恋をしたのは、おそらくこれが初めてでした。

結婚でホイッスラーは性格が丸くなったようです。

ひと悶着を起こすこともないではなかったが、新たな名誉を授けられ、成功をおさめもした。

1891年3月、グラスゴー協会が1000ギニーで彼の「トマス・カーライルの肖像」を買い上げられ、

これは画壇に大きな衝撃を与えた。

このあとすぐに、今度はフランス政府が、リュクサンブール美術館に納入する目的で「母の肖像」を購入し、ホイッスラーはレジオン・ドヌール勲章を授けられた。

翌年には、数多くのホイッスラー作品を集めた回顧展が開催され、ようやく彼は収集家の注目を集めるようになる。

ホイッスラーとトリクシーはパリに移って、ホイッスラー流の細心な装飾をほどこした家に住みます。

1894年1月、ジョージア7・デュ・モーリエ作「トリルビー」の第1回連載分がアメリカで発表される。

この小説はたちまちベストセラーとなったが、そのなかに、1850年代のパリでデュ・モーリエの仲間だった人々の、すぐそれとわかる肖像が紹介されていて、ホイッスラーの姿は、「怠隋な見習い、ボヘミア王」として描かれていた。

ホイッスラーは怒って、名誉毀損で訴えようとしたが、まわりに説得されて裁判ざたにはしなかった。

この年の末、トリクシーが病気になり、2人はロンドンに戻ったが、病気はガンであると判明したので、

妻の病気のために、自分の人生が「長い不安と恐怖」に変わったとホイッスラーは書いている。

仕事に打ち込もうとしても、妻の死への恐れから、自分自身の創造力まで疑わしいものに思い始め、

このもモヤモヤを解消しようとして、つまらないもめごとに夢中になったりした。

結局トリクシーは、2人がハムステッド・ヒースに引っ越したあと、1896年5月に亡くなります。

ホイッスラーは悲しみに打ちひしがれたが、少しずつ立ち直っていった。

このころ、ホイッスラーは循環器系の病気を患い、1900年の冬には健康回復のため北アフリカに出かけます。

病気は「イギリス絵画の真っ只中に住んでいるのが原因だ」と言っていた。

その後、フランスの家を売り、チェルシーのチェイン・ウォークに借りた家に閉じこもるようになったが、1903年に、肺炎と心臓病にかかって死亡しました。

葬儀には、ごく少人数の友人や親戚に混じって、すでに初老の婦人となっていたジョーの姿が見られた。

 

ハーモニーを求めて

ホイッスラーは、人間的には派手で、攻撃的だったが、画家としてみればその正反対であり、

キャンバス上では繊細で、控え目で、神経がこまやかでした。

創造力の幅は狭かったかもしれないが、それでも、

19世紀の最も独創的で、最もショッキングな画家の1人でした。

 

型破りな絵の勉強

ペテルブルクの帝国アカデミーで受けた授業を別にすると、ホイッスラーが画家になるために受けた正規の教育というのは、

スケッチを描く能力が兵隊には不可欠だとされいたウェスト・ポイントの陸軍士官学校と、地区作成のためのエッチングを習ったワシントンの沿岸測量所だけでした。

パリに着いたころには、独立心と自分の技法に対する自信をすでにもっていて、これが生涯を通して、周囲を驚嘆させると同時に、いら立たせることにもなった。

ホイッスラーはどうやら、たまにしか顔を出さないグレールのアトリエでよりも、友人となったフランスの画家仲間から、多くのものを学んだようです。

彼はが画家として生活をはじめた当初から、イギリス官学派の画家が得意にしていた精緻な風俗画に反発した。

そうした風俗画は物語性をもっているか、あからさまな教訓を垂れるもので、逸話的部分を多用し、視覚を幻惑する三次元的奥行き感を生みだすものだった。

ホイッスラーは、遠近法を使ったトリックを弄したり、だれもが知っている事物や場所をよく似せて描くことには関心がなかった。

彼が問題にしていたのは、キャンバスの表面に見えるもの、色彩のハーモニー、光と影の戯れ、それに、画面上の形態のつくり出す図柄だけでした。

ホイッスラーは、現在「抽象画」と言われる種類の絵に向かって進んでいたのです。

作品の背後に隠れた純粋に美的な意図を強調するために、ホイッスラーは画題に音楽用語を使うことが多い。

そのため、川の情景は「ノクターン」になり、肖像画、特に女性を描いた肖像画は「シンフォニー」あるいは「ハーモニー」と名づけられ、黒と金色が中心の肖像画は「アレンジメント」と命名された。

肖像画に題名をるけるときは、ほとんどいつでも、対象から名前をおるよりも、色彩構成をもとにして決めました。

絵画と音楽を関連づけようとした画家はホイッスラーだけではないが、彼は音楽用語からとった画題が他人を惑わすさまを多少楽しみながら、画題を自分の芸術観の宣言として利用した。

「音楽が音の詩であるように、絵は視覚の詩であり、テーマは、音や色彩のハーモニーとはなんの関係もない」と彼は述べている。

言い換えれば

美術はまず第一に視覚体験であり、文学やモラルの問題と混同されるべきではない。

ホイッスラーによれば、「作品の制作過程をたどれるような痕跡がすっかり消えるまでは、絵は本当に完成したとはいえない。

完成した絵とは、画家の頭のなかに構成された最初のビジョンを完璧に再現したものである」ということになる。

こうした徹底的な完璧さを求めるあまり、ホイッスラーの制作方法はきわめて骨の折れるものとなり、作品を仕上げるまでに時間がかかることから、彼は絵で生活してゆくことにしばしば絶望していた。

 

肖像画制作の苦痛

肖像画の制作にはとりわけ苦労した。

パレットとキャンバスを用意し、モデルのポーズを決め、小道具や衣装のひだの配置を考えるだけでひと苦労だった。

チョークでキャンバス上に人物の頭と足先の位置を書き入れてから、柄の長さが50㎝から1mもある絵筆を取り出し、キャンバスから少し離れて、やおら筆を振るう。

1時間もすると、肖像画の大雑把な輪郭が現れ始め、それからようやく、細部を埋める丹念な、しばしば際限のない作業がはじまる。

作業が進行するにつれて、使用する絵筆は短いものになり、タッチも軽やかになるが、キャンバスに筆をおく時間間隔はしだいに長くなっていきました。

モデルにはいっさい容赦しないホイッスラーだったが、苦労に苦労を重ねた1日の努力をすっかり無駄にして、彼らの不満を買うこともめずらしいことではなかったようです。

ホイッスラーが手がけた肖像画は数百点にのぼるが、実際に完成した作品はごく少なかったと言われている。

これは1つには、人体、特に男性の脚をデッサンする才にそれほど恵まれていなかったためで、いくぶん抽象的な構図のモチーフとして人体を用いるという、肖像画についての野心的な考えをもっていたものの、それがうまくいかなかったせいでもあった。

しかし、母親を描いた有名な「アレンジメント」では簡潔、簡潔な線と色彩と顔の表情のうちに、図柄と心理がみごとに溶け合っている。

「ノクターン」の場合は、制作自体は肖像画の場合に劣らず苦労の多いものだったにせよ、困難を感じることは少なかった。

川と町の夜景やたそがれどきの景観であれば、波止場や倉庫、船や橋、人間の姿さえも、簡単な色の斑点で代用することができた。

こうすることによって、それらを純粋に絵画的なデザインの一部として配置することが可能となった。

ホイッスラー自身は「ノクターン:灰色と金ーチェルシーの雪」について、「黒の人物の過去や現在や未来に私は何の関心もない。

そこに黒が欲しかったから黒を置いたまでだ。私が関心しているのは、灰色と金色の組み合わせが絵の基本であるということだけである」と語っています。

「ノクターン」に取りかかる時は、絵の具を注意深く混ぜ合わせ、ときには絵を描くのにかかる時間よりも、求める色を得るために絵の具を混ぜ合わせる時間のほうが長いこともあり、絵の具を薄めすぎて、キャンバスを流れ落ちてしまうこともあった。

「ソース」が垂れ落ちないように、キャンバスには吸収力の強いものを使い、ヴェールがかったような色彩の効果を生み出した。

そうすることで、形状が前に出るようにも、うしろに引っ込むようにもすることができた。

晩年近くになると、小ぶりの風景画や海景画の連作を描いたが、それまでのやり方と違って、制作は素早く、現場で完成させました。

木製パネルに描くこともあり、絵の具の扱いが力強く柔軟になっただけではなく、明るく、光り輝く色彩を使うようにもなる。

自然のなかから生み出された、これらの小さな作品では、ホイッスラーは現代の抽象画を予感させる段階に近づいている。

 

 

「白のシンフォニーNo.1:白い女」

ホイッスラーが「白の女」にとりかかったのは、パリに住んでいた1861年のことで、

モデルの愛人のジョアンナ・ヘファナンですが、絵の中心テーマは白色の微妙な変化でした。

ロイヤル・アカデミーでは拒否されたが、1862年ロンドンで初めて公開され、翌年の落選者展に展示されて論議を呼んだ。

ロンドンでは、出版されてまもないウィルキー・コリンズの小説「白い服の女」の挿絵と考えられ、パリでは、純潔を失った悲しみと解釈されました。

しかしホイッスラーは、そうした特定の解釈を嫌い、オリジナルの画題の前に「白いシンフォニーNo1」という添え書きを加えて、「シンフォニー」という音楽をテーマにした連作の最初の作品であることを明示した。

「白のシンフォニーNo2」は1864年に、「白いシンフォニーNo3」(3人の女のスケッチ)は1867年に制作された。

 

まとめ

ホイッスラーの作品の多くは、細部にはさいして関心をはらわず、スケッチをするような感じで描かれているように見えます。

そのため、未完成のような印象を与えることが多い。

ホイッスラーの技法のそうした側面を、当時の批評家は猛烈に攻撃しました。

ホイッスラーは表面の仕上げなどにまったく関心がなく、伝統的な価値意外のものを探求していたことが批評家たちにはわからなかったのです。

ホイッスラーは絵の細部を考慮しないで、繊細な色彩のハーモニーと、幅広い形状のバランスに注目するように仕向けました。

こうした美的観点を強調したことによって、彼の作品は抽象芸術の発展に大きく貢献することになったのです。

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taesun

画家活動をしています。西洋絵画を専門としていますが、東洋美術や歴史、文化が大好きです。 現在は、独学で絵を学ぶ人と、絵画コレクター、絵画と芸術を愛する人のためのブログを書いています。 頑張ってブログ更新していますので、「友達はスフィンクス」をよろしくお願いします。