「ティントレット」一匹狼の巨匠

ヤコポ・ティントレットは、ティッティアーノ亡きあとのヴェネツィア最大の画家でした。

島の共和国に生まれ、めったにそこを離れることなく、自分の家族と芸術以外にほとんど関心を示さなかった。

対抗宗教改革にわきかえった時代風潮に強く影響されて、きわめて個性的で主観的な考えを作品に具現化しようとつとめ、公式的なバランスと写実描写というルネサンスのものさしにしばられることを拒んだ。

ティントレットは卓越した素描家であり、動きある人体に魅せられ、ダイナミックで演劇的な身振りやポーズのデッサンを数多く描きました。

激しく形をゆがめた人物表現と、夢のように美しく独創的な色彩と光の効果は、彼の作品のほとんどに、人を厳格へと誘うような雰囲気をもたらしています。

当時の批評家は彼の速筆と、「未完成」のように見える画面を批判したが、今日そのスタイルは個性豊かなものとして評価されている。

 

ティントレットの生い立ち

ヤコポ・ロブスティは1518年の秋、ヴェネツィアに生まれた。

父は染物屋(イタリア語でティントーレ)を営んでいたことから、少年は「ティントレット」と呼ばれるようになりました。

ヤコポはこの島国に終生とどまることになり、ヴェネツィア領から外に出たのはただ一度きりでした。

若々しい自画像 

1548年ころの自画像で、いくぶん尊大に挑むような雰囲気と決断力が感じられる。

こういう気質が、ティントレットを独創的で畏敬すべき画家にしたのである。

この染物屋の息子は早くから絵の才能を示し、生家の壁を素描で埋め尽くしたといわれる。父親は十代の息子を、当時ヴェネツィアの芸術活動の中心だったティッティアーノの工房に送り込んだが、巨匠のもとで徒弟期間はきわめて短く、ひょっとするとわずか数日間だったかもしれない。

言い伝えによれば、この年長の画家は若者の才に嫉妬し、またその強情さに手を焼いたという。

事実はどうであれ、ティントレットはまもなく画家として生計を立て始めた。

1540年代初めのある時期、彼はダルマチア(現在のユーゴスラビアのアドリア海沿岸地方)出身の画家スキアヴィーネとの共同制作に携わった。

2人はカッソーネ(花嫁道具を入れる長持ち)など家財品の装飾や、公共の建物の壁画を手がけた。

しかしそれ以前、21歳にしてすでにティントレットは親方として独立し、自分の工房を持っていました。

つづく5年間に、ヴェネツィア美術は大きくさま変わりし、晩年のミケランジェロの作品に代表されるように、中部イタリアのマニエリストたちの新しい様式が流行しはじめた。

ティッティアーノでさえ試練をくぐったのち、作風をがらりと変えている。

こうした背景のもと、ティントレットは研究と実験を繰り返し、自分なりの表現方法を手探りしていました。

 

新しい様式を目指して

1545年ころ、ティントレットは詩人アレティーノの求めで2点の絵を制作しました。

両方とも古代ギリシャの神話をテーマにしたものでした。

アレティーノはティントレットに礼状を書いたが、同時に画面に見られる速筆と奔放さを批判した。

この批判は彼の生涯を通して、そして死後もしばしば繰り返されることになる。

「奴隷を救う聖マルコ」 1548年

30歳のとき、ティントレットはこの驚くほど独創的な作品「奴隷を救う聖マルコ」によって、初めて評判を得た。

ティッティアーノの親友の1人だったアレティーノの、温和だがときとして人をこばかにするようなところのあった精神は、芸術に熱烈に打ち込むティントレットの激しさとは相いれなかった。

前世代のヴェネツィア画家たち(たとえばジョルジョーネ)の心をあれほどとらえたのどかな神話は、ティントレットの作品にはほとんど姿を見せず、彼の場合は宗教的な内容が優位を占めて、表現も苦悩に満ちて激烈です。

1548年に完成した1点の作品によって、ティントレットは評判を勝ち取った。

「奴隷を救う聖マルコ」は色鮮やかで人物をびっしり詰め込んだ画面は人々を驚かせ、ティッティアーノもこの技巧が勝ちすぎていると批判した。

だがそれは、まったく類例がないほど自由奔放な画家の出現を告げるものでした。

この絵によって、ティントレットはヴェネツィア第一流の画家に列せられ、以後、生涯を通してずっと、その作品は熱狂と嘲笑の双方をかきたてていく。

 

幸福な結婚

1550年、彼はファウスティーナ・デイ・ヴィスコヴィと結婚した。

彼女は夫にかなり持参金をもとらしただけでなく、美しく聡明な女性で、金銭の運用にも抜け目がなかったといわれる。

あらゆる話から幸福な結婚でったようで、生まれた4人の子供も画家になりました。

息子の1人ドメニコは助手をつとめ、父の死後はあまり熱心ではないながらも、ティントレット工房を引き続き運営している。

また非凡な娘マリエッタは少年の扮装をして、総督の公邸で大作にかかっていた父の手助けをしたという。

恵まれた結婚で身を落ち着けたティントレットは、1日の大半をアトリエでの制作に費やしました。

ヴァザーリが記すところでは、「彼は華やかさとはほど遠い暮らしぶりだった。忍耐と気苦労を重ねながら、芸術の研究と実践に没頭していたからである・・・・・。召使のほかはアトリエにめったに人を通さず、芸術家はもちろん友人であれ例外ではなく、制作中の自分の姿をほかの画家たちに決して見せようとはしなかった」。

「聖マルコの遺体の運搬」 1562~66年

ティントレットはこの場面を、嵐の直前という情景に設定した。

それでもこの時期、何人かの芸術家仲間と親しく交わり、画家のパオロ・ヴェロネーゼやヤコポ・バッサーノ、彫刻家のアレッサンドロ・ヴィットリアなどの友人がいた。

1550年代の末ごろ、彼は自分の教区にあるマドンナ・デロルト聖堂のために荘厳な「聖母マリアの奉献」を描きました。

この絵は現在もそこに飾られています。

 

議論の的

このときすでに、ティントレットは問題の人物と見なされていました。

ヴァザーリが「人好きがして愛想がよい」と評した性格ゆえで、1556年に刊行されたヴェネツィア旅行案内書のなかで、著者はティントレットを、共和国を代表する画家の1人としながらも、彼の速筆と清明さを欠くスタイルを批判している。

翌年、学者のルドヴィコ・ドルチェは著書「絵画対話」において、ティッティアーノの彩色法に比べてティントレットのそれは好ましくないとしています。

「スザンナと長老たち」 1557年ころ

聖書を題材にしたティントレットの1点であり、入浴中を2人の長老によってのぞき見され、辱めを受けたスザンナの物語を描いている。

ティントレットはこれに対して「最も優れた色彩は、リアルト(ヴェネツィアの商業中心地区)に行けば見ることができるが、デッサンの技術は才能の小箱のなかにしかない」と指摘した。

1564年、ティントレットは彼最大の個人によるプロジェクトに着手します。

スクオーラ・ディ・サン・ロッコ(サン・ロッコ同信会館)の内部全面の装飾を、この同信会は新しい本部建物を完成させたばかりで、その守護聖人を主題にした天井画の制作依頼のためにコンペティションを行うと発表した。

ヴェネツィア一流の画家たちに、選考用のスケッチの提出が求められ、ティントレットは天井の正確な寸法を探り出し、スケッチではなく完成した絵そのものを、選考の前日にひそかに会館に持ち込んだ。

そして、びっくりした同信会のメンバーたちに、この絵は聖人に捧げるのだから、会の規則さらして受け取りは拒否できないはずだと告げたと言います。

 

ティッティアーノの死

1575年、ペストがヴェネツィアを襲って、2年間で約5万人の命が犠牲になり、老ティッティアーノもその1人でした。

ティントレットはティッティアーノの「荊冠のキリスト」を寄贈され、また故人の遺品のなかからスケッチを数点購入している。

2人の初期のいさかいが、最後には尊敬の念に変わった証拠でした。

そうするうちに、聖ロクス(悪疫から人々を守る聖人)の聖遺骨が市内に掲げられ、その後まもなくしてペストは衰えます。

そのために聖人崇拝にはずみがついただけでなく、広く宗教熱が高まった。

ティントレットはちょうどスクオーラ・ディ・サン・ロッコ上階の大広間の装飾にとりかかっており、この仕事には5年を要している。

その最中の1577年に、彼は同信会の理事たちに同意し、100ドゥかートの年金と引き換えに開館全体の装飾を完成するための約定交わしている。

国の年金と違って、この金は遅帯することなくきちんと支払われた。

 

焼け落ちた傑作

不幸なことにこの年、パラッツォ・ドゥカーレをなめつくした火災のために、「レパントの海戦」を含むティントレットの大作の多くが焼け落ちてしまった。

荒廃した建物を装飾し直す仕事は、ヴェロネーゼとティントレットに任された。

1580年、ティントレットはめずらしく、ヴェネツィアを離れ、旅をします。

マントヴァ公の依頼で制作した絵を引き渡し展示するため、妻と家族を連れて同地を訪れたのでした。

ちょうどこのころ、弟が手紙で家族のこと、特に病気だった母親がもう亡くなったのかどうか問い合わせてきた。

ティントレットの返事は、現存する唯一の手紙で、言葉少なく冷淡ながらユーモア感覚が見てとれる。

彼はこう書いている「親愛なる弟よ、貴殿おたずねの件にまとめてお答えするなら、返事は、「杏」であります」。

1582年、ティントレットはスクオーラ・ディ・サン・ロッコの仕事の最終段階に着手した。

下の階の装飾であり、そこには、この世のものとは思われぬ晩年の画風の特徴が遺憾なく発揮されている。

4年後、この絵画群がついに完成しました。

個人の芸術作品の殿堂となった観のある同会館は、彼最大のモニュメントとしていまも建っています。

1588年にティントレットの友人の画家ヴェロネーゼが亡くなった。

再建なったパラッツォ・ドゥカーレの大会議室のための依頼された巨大な「天国」の制作に携わっていた途中の出来事でした。

制作はティントレットの手に移され、年老いた巨匠が絵を完成させたのにはまる4年かかり、弟子たちの手を多くわずらわせた。

現存する「天国」は単一のキャンバスに描かれた絵としては世界最大せあり、彼の最良の作に入らないかもしれないが、構成力と組織力の偉大な結実だといえる。

 

悲痛な打撃

1590年「天国」の感性からまもなくして、ティントレットの愛する娘マリエッタが34歳で世を去った。

老画家は悲しみに打ちひしがれ、以後はマドンナ・デロルト教会で信者仲間とのおしゃべりで時をすごすことが多くなり、名声ある工房を運営する仕事は息子のドメニコに任せた。

しかし、彼の芸術的な力が衰えたわけではなかった。

最後の作品は、ヴェネツィアで設計者パラーディオの死後に新しく完成されたサン・ジョルジョ・マジョーレ聖堂のために描いた傑作3点でした。

なかでも素晴らしいのは究極の表現というべき「最後の晩餐」で、神秘と幻想の雰囲気に満ち満ちている。

1593年のヴェネツィアの冬はことのほか厳しく、ティントレットは胃を患い、そのために体力が衰えた。

そのあと、眠れず物も食べられない15日間を苦しみぬき、とうとう1594年5月31日に自宅パラッツォ・デル・カンメロで息を引き取った。

 

一匹オオカミの巨匠

言い伝えによると、ティントレットはアトリエの壁に「ミケランジェロの素描と、ティッティアーノの色彩」というスローガンを書きつけていたらしいが、その意味を解する時には、ティントレットに先立つ世代のこの2人の巨匠が彼にとって様式や技法の到達すべき手本といより、出発点にほかならなかった点に注意しなければならない。

また、ティントレットは断固とした一匹オオカミであり続け、いかなる影響や技法上の教訓にも優先させて、独自の高度に主観的な世界観を自己の芸術のなかに表現することに関心を払った。

ティッティアーノやミケランジェロと違って、ティントレットは人文主義の学問的雰囲気に富んだルネサンスの所産であるというより、対抗宗教改革の精神が燃え盛った宗教的熱狂が生んだ人間でした。

先人たちとは異なる特徴のいくつかを、彼は初めて大成功を博した作品「奴隷を救う聖マルコ」のなかに見てとることができる。

これでは、ジョルジョーネ的世界と初期のティッティアーノ作品に特有の静けさが打ち捨てられ、より騒然とした画面が、不意に起こった奇跡の激しさを伝える。

天上から劇的に介入してくる聖人の姿が驚くべき短縮法で描かれ、この人物のもたらすエネルギーが、大混乱をきたしてねじ曲がった構図全体にみなぎっています。

ティントレットがここで表現したかったのは、奇跡によって引き起こされた混乱でした。

その混沌のなかに、彼の精神的なものが日常生活に及ぼす力を見ている。

 

ティントレットの制作工程

ティントレットの古い伝記の1つに、彼の制作工程に関する記述が見られる。

画家は蝋で人物たちを形どり、それを小さな木製の舞台の上に配置した。

それから、暗くした部屋のなかで、さまざまなアングルに置いた蝋燭の光で舞台を照らしだし、縮小された場面を何枚もデッサンした。

こうして、人物配置の全体の効果をつかみ、思いがけない証明を巧みに用いて統一感を生み出したのでした。

「銀河の起源」 1580年

この絵はおそらく、神聖ローマ皇帝ルドルフ2世のために描かれたもので、ギリシャ神話のなかの物語を色鮮やかに再現している。

ゼウスの子ヘラクレスは人間の母に見捨てられたが、彼の守護女神アテナが赤子に乳を飲ませるようゼウスの妻ヘラを説得した。

そのために、ティントレットが線で表現したように、ヘラの乳が天空にほとばしり、銀河が形づくられた。

あきらかに、ティントレットは「自然さ」というものに興味がなかった。

彼は作品にあっては、ミケランジェロ流の堂々とした筋骨たくましい人物が激しい感情に身もだえたポーズをとり、自然の限界を逸脱してまで引き伸ばされ、ねじ曲げられている。

同様にティッティアーノゆずりの豊かな色彩が明と暗の激しいコントラストとなって渦巻、まるで場面全体が別世界の摩訶不思議な光によって解体されているようです。

こうした動きと光の誇張だけが、衝撃的な効果をもたらしたのではなかった。

経験を積むにつれて、ティントレットの構図はますます複雑になり、主要場面を、見る者に対して斜めに配置したり、前景と背景のあいだに鋭く意外なコントラストを持たせたりしました。

キャンバスの片隅の小さな部分が細かく描き込まれ、あかあかと光を当てられているのに、残りの部分は闇に沈むといった具合です。

最初は小さな舞台の上に蝋人形を配して育まれた世界が、もはや現実の3次元の劇場では上演可能なものとなっていました。

代わりに、それは無限の奥行きをもつ神秘的な空間のなかでえんじられるドラマとなったのです。

「聖ゲオルギウスと竜」 1560年

よく知られた画題だが、ティントレットの処理には通常と異なる特徴がいくつかある。

前景に大きく王女を表し、聖ゲオルギウスを中景に配した点である。

王女は逃げながら膝をついた格好に見え、逃亡と祈りの姿勢が組み合わされているが、通常はどちらか一方の姿勢をとる。

竜の餌食の1人を無傷の死体で示したり、神の幻影を空に描いている点もめずらしい。

この絵は聖ゲオルギウスに特別な愛着を持つパトロンの私的な求めに応じて制作されたものと思われる。

しかし、この誇張され自然に反したドラマという性格にもかかわらず、ティントレットはほぼ全作品のなかに、この世の日常に見られる無数の細部を詰め込むことにこだわりました。

何人かの批評家にとってはこのことが、恐ろしくゆがんだ人体表現にもましてショッキングでした。

ある者はサン・トロヴァーソ聖堂の彼の「最後の晩餐」を「ありふれた宴会におとしめている」と批判した。

「最後の晩餐」 1592~94年

ティントレットはこの主題を何度も手がけているが、死の年に完成したこの傑作は、それまでのすべての作をはるかにしのいでいる。

ここでの光の処理は劇的であると同時に繊細で、亡霊のゆな天使たちが神秘的な恍惚感を醸しだす。

大きな斜めのテーブルが、画面の超自然な部分と、右のより世俗的な部分には、美しい静物や動物が入念に描かれている。

だが、それはティントレットの才能の魅力の一面なのであって、彼はパン籠、木のテーブル、女性の編んだ髪、十字架の釘と材木、あるいは燃える蝋燭から垂れる蝋を丹念に描いている。

彼にとって、それらは聖人や天使の伝統的な神々しい姿に劣らず大切なものだった。

通常の事物の実現性のなかに、神の神秘を見いだしているのです。

 

独特の筆使い

ティントレットは制作にあたって工房の助手たちの力をおおいに借りたが、最高傑作、特にスクオーラ・ディ・サン・ロッコの作品群が彼自身の手になることは疑いようがない。

ティッティアーノが創始した自由な筆遣いが、ティントレットにあっては本質的な意味をもった。

彼に批判的な者たちは、その作品を筆が走りすぎて未完成だとこきおろした。

ヴァザーリは「彼の鉛筆の線は判断しようのないほど荒っぽい」と述べている。

しかし、この「未完成な」特色がティントレットの作品に、より洗練された画面では失われてしまうような新鮮味をもたらしています。

筆触が見えることで、見る者は画家自身と、彼が描く出来事の神秘さをより身近に感じるのです。

ティントレットの晩年の作品においては、こうした傾向が極端な形をとる。

筆致は無造作で素早く、色彩は何条もの光に分解され、人物の姿態は以前にもまして引き伸ばされアクロバティックでした。

そのうち何点かは、暗部とハイライト部を交錯させて構成されており、ほとんどモノクローム作品に近い。

好きな色はなにかと聞かれて、ティントレットは「黒と白だ。一方は陰をつけることでフォルムに力強さを与え、他方は光によってフォルムを軽やかにするから」と答えたといわれる。

ティントレットは献身と激情の芸術家でした。

優れた肖像画家で、大画面の装飾にも秀でていたけれども、何よりも宗教劇を幻想的に表現した画家でした。

精神という真実を追い求めるあまり、形の規範に反し、自然な描写と仕上げにおけるあらゆる概念を打ち破り、人体をゆがめ醜くすることもいとわなかった。

その技法において、彼は次の世紀の美術を予感させる。

それは、動きのある人体に魅せられたバロックの芸術家たちであり、目に見える自在な筆致を擁護したレンブラントなどの画家たちです。

しかし、ティントレットは彼の生きた時代にあっては、革新者として孤高の存在だったのです。

 

 

名画「磔刑」

この巨大な磔刑は1565年、ティントレットが初めてスクオーラ・ディ・サン・ロッコの装飾に取りつくんだ際に描かれた。

彼の野心的な大傑作であり、動きに満ちていながら凝縮した効果をみせている。

前景には、木材、道具、ロープ、作業をする人間、騎馬の人物たちが入念に描かれる。

みごとに表現された群像は、いずれも当面の自分の仕事に没頭しているが、十字架の基点で交差する2本の対各線が彼らのあいだに統一感をもたらす。

十字架は、画面中唯一の垂直線と水平線で構成される。

その足もとでは、キリストの弟子たちが嘆き悲しんでおり、画面全体をおおう悲劇に気づいているのは彼らのみです。

磔にされたキリストが、輝くばかりの威厳で突き立っている。

 

まとめ

マニエリズムの時代を生きたヴェネツィアの巨匠ティントレット。

彼は、後のバロックの画家たちに大きな影響を与えている。

特にレンブラントヴァン・ダイクなどの画家たちは、それぞれ、そのタッチや色彩に影響を受けています。

ミケランジェロとティッティアーノを研究していたティントレットとヴェロネーゼは互いに親友であり、お互いにその絵画論に夢中になっていたのでしょう。

彼ら2人は歴代の画家たちの中でもスケールがいちばん大きく、世界最大の油彩画を描いています。

彼らはルネサンス時代にフレスコ画レベルの仕事を、キャンバスで油彩画を用いて描いた最初の画家でした。

ヴェネツィア派の絵画は後のバロック時代に、ヨーロッパ中の最高のコレクションとなっている。

・「フラ・アンジェリコ」ドミニコ会の修道士

・「ゴヤ」マドリードの聾者

・「クラナッハ」 多忙で恵まれたドイツの巨匠

・「ボッティチェリ」フィレンツェの偉大な画家

・「ロセッティ」情熱的なヴィクトリアン

・ルーベンス 「レオキッポスの娘たちの掠奪」

・「ヴァン・ダイク」華麗なる肖像画家

ABOUTこの記事をかいた人

画家活動をしています。西洋絵画を専門としていますが、東洋美術や歴史、文化が大好きです。 現在は、独学で絵を学ぶ人と、絵画コレクター、絵画と芸術を愛する人のためのブログを書いています。 頑張ってブログ更新していますので、「友達はスフィンクス」をよろしくお願いします。