「フリードリヒ」憂鬱なロマン主義者

ドイツ・ロマン主義絵画を代表するカスパール・ダヴィッド・フリードリヒは、一生を風景画に捧げた。

彼は創造した神秘的で魅力的な画面はきわめて深い精神性をたたえいている。

フリードリヒは、まじめで陰鬱な性格で、近寄りがたい容貌をしていたが、子供のような純真さがそれを救っていた。

内省的で信心深いフリードリヒは、愛するドイツの片田舎で孤独な時を過ごすことが多かったが、44歳のとき、若く優しい女性と結婚したことで、思いがけない家庭の幸せが訪れる。

 

幼少時代

カスパール・ダヴィッド・フリードリヒは1774年9月5日、バルト海沿岸の小さな町グライフスヴァルトで誕生しました。

蝋燭と石鹸の製造業を営む父のアドルフ・ゴットリープ・フリードリヒは、かなり成功した実業家だったが、さらに注目するべきは、厳格なプロテスタントだったことです。

当時のドイツ北部の典型的な中流階級だった一家には、カスパール・ダヴィッドのほかに9人の兄弟姉妹がいて、全員がスパルタ式ともいえる厳しいしつけを受けていました。

そうした体験は、のちまでフリードリヒに影響を及ぼします。

後年、彼の家やアトリエを訪れた人々は、その質素さについて語っています。

フリードリヒは生来、内省的で憂鬱症だったようです。

幼いころ相次いで悲劇的な死に直面したことによって、その度合いはいっそう強められた。

まだ7歳だった1781年に母を亡くし、1782年と1791年にそれぞれ2人の姉妹を亡くしている。

しかし、最も深く心に傷を負ったのは弟の死でした。

兄弟でスケート遊びをしているときに事故が起き、弟は兄を助けようとして溺死したのです。

フリードリヒは悲しみに加えて自責の念にかられ、死を見つめることを義務とすら感じるようになりました。

そのことを彼はのちにこう表現しています。

「一日を永遠に生きるためには、何度も死に身をまかさねばならない」。

宗教と死に囚われたフリードリヒは、風景を描くことに没頭するようになり、それがやがて彼を時代の寵児とした。

このような方向へ歩むきっかけとなったのは、地元の詩人L・T・コーゼガンテンの思想の影響が考えられる。

コーゼガンテンは、トマス・グレイなどのイギリス自然派詩人に傾倒する詩人であったと同時に、牧師でもあり、自ら「キリストの聖書」と呼んだ自然を観賞することに、宗教的霊感を見いだしていた。

 

フリードリヒの画趣に富んだ風景画

フリードリヒが最初に絵を学んだのは、コーゼガルテンの友人であるヨハン・ゴットフリート・クヴィストルプのもとでした。

クヴィストㇽプは若いフリードリヒの詩情あふれる感性を育てたようではあるが、一方では現実的な配慮から、風景画を専門に描くことをすすめたのかもしれません。

当時は自然をテーマにした詩が流行していた時代であり、人々の関心は田舎風景に集中していました。

特に古代や中世を連想させるような画趣に富んだ風景画は人気が高かった。

フリードリヒはこうした風景をよく知っていました。

というより、北ドイツのポンメルン地方で、まさにそうした風景に囲まれて暮らしていたのです。

あたりには有史以前の遺跡が数多く点在し、特にバルト海沿岸近くのリューゲン島にある巨大なドルメン群(新石器時代の遺跡)は「巨人の墓地」として知られていた。

グライスヴァルトから数キロメートルのところにある中世のエルデナ修道院の廃墟も、フリードリヒにインスピレーションを与えたものの1つでした。

20歳のときフリードリヒは故郷を離れ、絵画を学ぶためにデンマークの首都コペンハーゲンにやってきた。

コペンハーゲンには北ヨーロッパで最も著名な美術アカデミーがあり、そこで彼は当時流行の厳格な新古典様式に触れます。

他の生徒たちと同様、人物像を描く練習かたはじめたが、教師の1人、イェンス・ユールがしばしば地元の風景を情緒たっぷりに感傷を交えて描くことにおおいに感化されました。

しかし、コペンハーゲンでの厳格な伝統的な教育になじまず、後年には「すべての訓練指導は人間の精神性を抹殺する」とまで記している。

ベルリンに短期間滞在したのち、1798年、ドレスデンに移ったフリードリヒは、生涯そこを拠点として生活することになります。

ザクセン国王の首都ドレスデンは、過去の巨匠たちの優れたコレクションを有する、ドイツの芸術の中心地の1つであり、多くの芸術家や知識人が住んでいた。

フリードリヒは、故郷ポンメルンにいる親類訪問と、風景画の題材を求めての北部・中部地方の旅行以外は、ドレスデンを離れることはなかった。

ドレスデンに移った当初、生活は厳しかった。

隠遁に近い暮らしを送っていたが、そのころに書かれた手紙からは、当時の生活がそれでもまだ比較的幸せだったことがうかがえる。

ドレスデンで名が売れるようになるまでは、さまざまな仕事をして生計を立てていました。

絵の先生や、ときには旅行者のガイドをつとめていました。

やがて、故郷の荒れ地を描いた作品で少しずつ名を知られるようになる。

ドレスデンへの移住は、フリードリヒの人生に重大な影響を及ぼすこととなります。

当時ドレスデンは「ドレスデン・ロマン派」として知られる作家や批評家のグループの活動の拠点となりつつあったからです。

彼らは徹底した合理性にもとづく古典主義に異議を唱え、人間体験のエキゾチックな非合理的で神秘的な面を探求した。

グループの代表格だった批評家のフリードリヒ・シュレーゲルは、この「近代の」ダイナミックな精神性を「ロマン派」と呼んだ最初の人物です。

フリードリヒは主要メンバーとの接触はあまりなかったが、グループの人々との交流によってその思想をいち早く吸収した。

 

フリードリヒの自殺未遂

フリードリヒは1800年ころから、ドレスデン・ロマン派の説く神秘的でドラマチックな主題を絵のテーマにし始めました。

しかし、こうした絵の変化をもたらした背景には、個人的理由もあったと考えられます。

1803年頃、彼は重度の内省と憂鬱の徴候に見舞われ、のどを切って自殺を図ったと伝えられる。

いずれにせよ、この時期以後、フリードリヒは孤独な奇人扱いされるようになるが、心の傷を負う事件があっにもかかわらず、この時期からフリードリヒは画家としての名声を得つつあった。

以後10年間に、彼はドイツ中にその名を広め、プロイセン王家やワイマール公爵といった有力者たちをパトロンにもつようになった。

1805年、大きな転機が訪れました。

ワイマールで毎年開催される絵画コンクールに出品したセピア画(茶系の絵の具を用いた単色画)が2点とも1位に入選します。

主催者は「ワイマール美術愛好家連盟」となっていたが、実質的には詩人ゲーテと、その友人で画家のハインリヒ・マイヤーでした。

当時ゲーテは、ドイツにおける最も著名な詩人であり、代表的文化人でした。

彼は画壇の水準を高める目的で、毎年絵画コンクールをワイマールで開いていた。

本来ゲーテは古典主義芸術を愛好していたので、このコンクールで風景画が入選したのは異例のことでした。

フリードリヒは有名になるにつれ自信をつけたのか、やがてセピア画からさらに高度な技術を必用とする油彩画に移っていく。

この転身の成果が最も鮮やかな形で表れたのが、数々の議論を呼んだ「山上の十字架」です。

1808年に完成したこの作品には、山とその頂上に立つ十字架がシルエットで描かれている。

当時の人々はフリードリヒが祭壇画として「景色」を選んだことに驚いたが、彼はこの絵のために特別な額縁をデザインし、その絵の主題を強調するための宗教的な象徴をあしらった。

フリードリヒはこの作品で多くの非難を浴びたが、話題の中心になったことが彼にとってはむしろ幸いしたようでした。

1810年に「オークの森の僧院」とその村となる「海辺の僧侶」を発表すると、名声はますます高まった。

両作品はプロイセンの皇太子に買い上げられ、フリードリヒはベルリン・アカデミーの会員に選出されました。

フリードリヒが過激で風変わりな画家として成功をおさめた背景には、当時のロマン主義の流行が大きく作用している。

1806年以後、ナポレオンに支配されるようになったドイツでは、ロマン主義はいわば「ゲルマン人らしさ」を強調するための愛国的手段であり、文化の結集点でした。

ロマン主義の純粋な精神性、自然賛美、力強さは、フランス美術の「人為的な姿勢」とは対極をなしており、北方の野人フリードリヒはまさにその格好のシンボルでした。

しかし、フリードリヒの名声を高めたロマン主義運動は、逆に彼の衰勢を促すこととなる。

 

幸福な結婚

しかし彼の人気は急激に衰えたのではなく、ゆっくりと下降線を描いていった。

最初のころは絵もよく売れ、1816年にはドレスデン・アカデミーの会員に選出されて、わずかながらも助成金支給されていました。

1818年に結婚するにあたっても、彼は十分やっていけると自信をもっていた。

フリードリヒの生活様式が、おとなしくて控えめな伴侶を得たことで微妙に変化したことは、多くの友人が指摘している。

当時彼は44歳、妻のカロリーネは彼より20歳以上若かった。

当時の手紙からは、新しく訪れた幸せの気配が感じられる。

「妻をめとるというのは実に奇妙な体験です。食は進むし、酒もいけるし、ぐっすり眠れて、笑いが絶えず、ひやかし合い、時間の浪費も多くなりました」と彼は記しています。

子供好きだったフリードリヒは、娘2人と息子1人の誕生をたいへん喜んだ。

子供が生まれてから、彼の絵には家庭の情景や日常の出来事が多く登場するようになった。

このころ、フリードリヒは若い世代の画家たちとの交流をもつようになる。

なかでもいちばん長く交際が続いたのは、1818年にドレスデンに移ってきたノルウェーの画家ヨハン・クリスティアン・ダールです。

2人は1823年からエルベ川の川岸にある家に同居し始めます。

ダールは若い世代のリーダー的存在であり、1824年にアカデミーから風景画の教授として迎えられたのも、フリードリヒではなくダールの方でした。

しかし彼らの親交は依然として続いた。

だが、フリードリヒが妻とダールの関係を疑い、2人のあいだが険悪になった時期もあった。

この疑いはまったく根拠がないもので、おそらくフリードリヒが晩年健康をそこね、苦しんだせいでしょう。

1825年、フリードリヒは脳卒中に襲われます。

その後何度も発作があったが、1835年には最悪の発作に見舞われ、以後ほとんど何をすることもできなくなってしまった。

しかしこの10年は、画家として非常に実りの多い時期でした。

新しい色彩感覚が生まれ、「ドレスデンの大猟場」や「人生の諸階段」といった、人の心に訴える優れた作品の多くがこの時期に描かれた。

美術についての考え方を書き記したのもほとんどがこの時期です。

その多くは、同時代の人々の空虚な自然主義や古典主義を批判したものだが、なかには美術に対する自分の精神的アプローチについて述べた積極的発言も見られる。

最も頻繁に引用されるのは、次の言葉です。

「肉体の限界を閉じよ。そうすればまず最初に精神の眼で自分の絵を見ることができるだろう。そうして次には、暗闇で見たものを白日のもとに表現するのだ。そうすれば、その作品は外側から人々の内奥に向かって作用することだろう」。

1840年にフリードリヒが世を去ったとき、彼はほとんど忘れ去られた存在となっていました。

そして19世紀末、象徴主義が流行したことをきっかけに、再びその名が世に知られるようになったのです。

 

内なる闇の芸術

フリードリヒは、ある画家に向かって、絵を描くときには「肉体の眼を閉じて」心の闇のなかで見たものを表現せよ、と助言したという。

フリードリヒのアトリエのようすからして、彼自身もこの方法を実践していました。

ゲオㇽルク・ゲルスティングの絵にあるように、フリードリヒは瞑想中に気が散らないよう、アトリエには必要最小限のものしか置かなかった。

友人カールスの記録によれば、フリードリヒは絵のイメージが「ありありと心のなかに浮かぶ」まで、カンバスを前にじっと立ってという。

そしてイメージが浮かぶと、真っ白なカバンに細い線でデッサンし、そのまま一気に絵の具を塗っていった。

しかし、フリードリヒがすべてを想像のみで描いたというのは少々大げさな話で、岩や木などの対象については明らかにスケッチを参考にしていたことがわかっている。

だが、構図に関しては瞑想に頼って決定していたようである。

デッサンが数多く残っているにもかかわらず、構図のスケッチは全くといってよいほど見当たらないからだ。

フリードリヒの作品は、頭のなかのイメージに頼っているため、いっそう空想的性格を強めている。

とはいえ、それは彼自身の独創ではなかった。

その方法はいわゆる「理想的」風景画を描いた同時代の画家たちと変りません。

ただ、違っていたのは、ほとんど催眠術のような強力な集中力を使ってイメージをつくろ上げたという点です。

頭のなかにできたイメージは決して消えることがなかった。

フリードリヒは初期のころから、対比を特徴とした作品を描いています。

中心となるイメージ、たとえば木などを、ぼにやりとした背景からシルエットで浮き上がらせました。

また彼は、情感を呼ぶような風景、月光、夕日、海、浜辺、雪景色、教会の墓地、荒野、森の急流、渓谷などを題材として選んでいる。

人々は不思議な印象をもつフリードリヒの作品に感銘を受け、そこに隠された意味を探ろうとした。

 

宗教的象徴

フリードリヒは風景画を通してしばしば宗教的思想を表現した。

例えば祭壇画「山上の十字架」の場合、岩は堅固な信仰を、常緑樹であるモミの木は人間の永遠の希望を象徴している。

しかし、彼は自分の作品が自然描写として解釈されてもかまわないと考えていたようです。

ある自作の風景画について彼は次のように記している。

「石だらけの海岸にひときわ高く立っている十字架としか見ない人もいるだろう」。

絵の細部を描くときは、北部および中部ドイツをもの像何度も旅行して描いたスケッチを自由に翻案した。

おおざっぱに言って、そうしたスケッチは、特定の構図を想定して描いたのではなく、そのもの自体に興味をひかれたために描かれたように思われる。

スケッチの大半は、1つの対象物、ないしは小さな一群であり、景色全体を描いたものはきわめて少ない。

彼はまた、たとえば北ボヘミア地方の岩やモミの木と、ポンメルン地方のドルメンやオークの木とを無頓着に同一画面に描くことがあった。

彼にとっては、最大の効果を生み出すことが何よりの関心事だったのでしょう。

 

フリードリヒが苦手とした人物像

フリードリヒは風景画に人物を描く段になるといつも気が重くなり、初期のころにはしばしば友人のケルスティングが代わりに人物を描いた。

のちにフリードリヒは、必ずといっていいほど人物を後ろ姿で描くようになった。

フリードリヒが油彩画を描き始めたのは、もともとデッサンの色彩に彩色に水彩やセピアを使用していたため、油彩の場合も同様に、小さな筆を使って非常に薄くぬる方法をとった。

セピア画の場合、彼は「点描」を多用し、質感と躍動感を表現したが、初期の油彩画でも同様の技法を用い、太陽の輝きや月のほのかな光などを伝えようとしました。

何年かするうちにフリードリヒは、しだいに使用する色彩の幅を広げ、筆の運びも大胆になっていきます。

1820年代には、友人のノルウェー人画家J・C・ダールの影響を受けるようになる。

ダールは風景を直接油絵具でスケッチするのを習慣としており、フリードリヒも、いくつかの作品でこの手法を試みました。

アトリエの窓から外を眺める妻を描いた魅力的な作品もそのうちの1点です。

フリードリヒは1824年以降この手法をやめたようにみえたものの、学んだことを忘れたわけではなかった。

晩年の油絵は、より鮮やかで深みのある色調を帯び、優れた色彩感覚を示し、「ドレスデンの大猟場」や「人生の諸段階」などの作品はそうした特徴をよく表しています。

これからの作品では、夕暮れの空間の紫、黄、紺碧が、広がりをもって柔らかく表現されている。

フリードリヒは終生、水彩やセピア画も描き続け、想像力を駆使した作品よりも地誌的風景図を描くときにこうした技法を用いたようです。

再びセピア画を主体に描きだしたのは1835年の脳卒中の発作以後のことであり、多くは死に関する瞑想をイメージとして表現したものでした。

 

名画「人生の諸段階」

フリードリヒがこの作品を描いたのは、おそらく1835年の、脳卒中の2度目の大発作が起きる直前のことでしょう。

ヴィークのウトキーク海岸は、グライフスヴァルト港に入港する船を見るために町の人々がよく訪れる場所でした。

画面に描かれた5人の人物はフリードリヒ本人とその家族であり、湾に向かって静かに進む5隻の船が彼らに呼応している。

神秘的な船の影や人物の不思議なしぐさから、この絵が単なる家族旅行の思い出を描いたものではないことがわかる。

この絵は人生の航路を比喩的に描いたものとこれまで解釈されてきました。

旅の終わりは「永遠の安息地」の「死」を意味している。

 

まとめ

フリードリヒはドイツロマン主義を代表する画家で、北方ヨーロッパ絵画に強い影響を与えました。

フリードリヒの作品は主に風景画であるが、その内容は人物の登場によりロマンを感じさせる作品として、人々に未知の世界を想像させることになった。

誰も想像できないその世界は、文学の流行した時代に現実味を与えることになり、後の象徴主義絵画に大きな影響を与えています。

フリードリヒの作品は思想重視の19世紀絵画を代表する作品となり、その内容は現代の我々にも「人間の人生」について語りかけている。

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ABOUTこの記事をかいた人

テソン

画家活動をしています。西洋絵画を専門としていますが、東洋美術や歴史、文化が大好きです。 現在は、独学で絵を学ぶ人と、絵画コレクター、絵画と芸術を愛する人のためのブログを書いています。 頑張ってブログ更新していますので、「友達はスフィンクス」をよろしくお願いします。