アンニーバレ・カラッチは、16世紀イタリア絵画の復興に大きな役割を果たしたカラッチ一族のなかでも、いちばんの才能に恵まれた画家でした。
アンニーバレは、当時広く行われていた人工的な技巧に対抗して、兄と従兄の3人で故郷ボローニャにアカデミー(画塾)を設立しました。
その生徒のなかから次世代を担う有名な画家が生まれ、彼らの教育は実を結んでいた。
カラッチは35歳のとき、ボローニャを離れてローマに行き、生涯の大作に着手します。
ファルネーゼ宮殿のギャラリーに描いたその壮麗なフレスコ装飾画によって、彼はミケランジェロやラファエロの後継者と称されるようになる。
思いやりの深いカラッチは人々に好かれ、ひたすら芸術に打ち込んだが、メランコリックなところがあり、晩年の5年間は鬱病に悩まされた。
幼少時代
イタリア美術の長い歴史で、著名な画家の一族は数多いが、ボローニャのカラッチ一族は、芸術的には片田舎だった故郷ボローニャを17世紀イタリア絵画の中核となる都市に変えてしまった。
アンニーバレには兄のゴスティアーノと、従兄にあたるルドヴィコ・カラッチがいました。
3人は年齢が5歳くらいしか違わなかったため、初期から一緒に仕事をしていたが、やがてアンニーバレが一族の天才として頭角を現します。
アンニーバレ・カラッチは1560年、ボローニャに生まれ。
兄のゴスティアーノとは、3歳違いでした。
2人の生家はひじょうに貧しかった。(父は仕立屋だった)
従兄のルドヴィコ(1555年生まれ)は、肉屋の息子だった。
初期のアンニーバレについてはほとんど知られていないが、
1670年代に2人の伝記作者によって書かれた2冊の伝記がわれわれのおもな情報源となっている。
それによると、アンニーバレが最初に受けた教育については記述が食い違っている。
カマロ・マルヴァジーアによれば、アンニーバレは父の店で仕立屋の仕事を学んだといい、
ジョヴァンニ・ピエトロ・ベローリによれば金細工の技を学んだことになっている。
いずれにせよ、その後、従兄ルドヴィコに絵の手ほどきを受けたという点では、
両者ともに一致しています。
しかし、アンニーバレの初期の作品にみられるスタイルからは、おそらくある時期、
ボローニャの画家バルトロメオ・バッサロッティ(1529年~92年)の工房で修業をしたことが推定される。
役に立つ技術
アンニーバレは終生、素描家として驚異的な技術を示すこととなった。
まだ幼かったころからそうした才能を示していたことを物語る逸話をベローリが伝えている。
「父のアントニオが、旅先のクレモナからボローニャに帰る途中、ささやかな持ち金を農夫の一群に盗まれるという災難にあった。
父のかたわらにいたアンニーバレは、暴漢の顔かたちを迫真的に、正確にズケッチしたため、だれが見ても一目で見当がつき、盗まれた金はたやすく取り戻すことができた」という。
1580年ごろ、アンニーバレはおそらくルドヴィコの工房の助手(あるいは副共同経営者)として働き、ボローニャのパラッツォ・ファーヴァで、フレスコ画の神話連作に3人で取り組む。
1584年までには、3人のカラッチは一緒に一緒に仕事をしていた。
この時期の作品は(現在でも)3人のうちだれの手によるものかを見分けることは難しい。
マルヴァジーアが記すところによると、ボローニャのパラッツォ・マニャー二のフレスコ画連作について、だれがどの部分を受け持っているのかと聞かれたとき、彼らは、「カラッチ一族が制作したのです。我々3人で仕上げたのです」と答えたという。
カラッチ一族は共同で絵画制作にあたっただけでなく、共同でアカデミー(画塾)も設立しました。
最初はアカデミア・デイ・デシデロシ(名声と技能習得を欲する人たちのアカデミー)という名だったが、のちにアカデミア・デリ・インカミナーティ(進歩派のアカデミー)変更された。
カラッチたちの目的は、衰退しつつあるイタリア絵画を復活させることにあった。
より堅実な、自然主義的な芸術を目指したアンニーバレたちは、実物を写生することを基本とした(彼らが反発した画家たちは、自然ではなく、ほかの絵画をよりどころにした)、このこのアカデミーで学んだ芸術家たちは、素描(特に人物画)に専心することから多くのものを得、明確でしっかりした素描力は、ボローニャ派の1つの特徴となった。
ドメニキーノ(アンニーバレお気に入りの弟子)とグイド・レー二の2人は、カラッチのアカデミーから巣立った最も著名な画家でした。
アンニーバレは、自らの技術を磨くため、絶えず素描に取りくむだけでなく、少し前の巨匠たちにつても研究を重ねていた。
1580年代のある時期(1585年ころ)、アンニーバレは、アゴスティーノとともにパルマに出て、そこで見たコレッジオの絵画に深い感動を覚えた。
コレッジオは1520年代から30年代をパルマで送り、制作していた。
その1,2年後、アンニーバレはヴェネツィアに出て、ティツィアーノの作品に触れ、またティントレットとヴェロネーゼに出会った。
この2人は当時のヴェネツィア派の巨匠でした。
さらに、アンニーバレはもう1人の著名な画家、ヤコポ・パッサーノとも面識を得た。
パッサーノは、日常生活の鋭い観察者で、明らかにアンニーバレの憧れたとおりの人物だった。
アンニーバレの日付のある最初の作品は、1583年の「聖者のいる磔刑」で、ボローニャのサンタ・マリア・デラ・カリタ聖堂にある。
つづく12年間に、アンニーバレは壮麗な祭壇画をいくつか制作し、権威ある画家として地位を築きあげた。
しかし、1595年、彼は35歳のとき、人生の大きな転換期が訪れます。
その年、アンニーバレはローマに赴き、オドアルド・ファルネーゼ枢機卿の宮殿の装飾画にとりかかります。
アンニーバレ・カラッチは、その大事業に初めて真の意味で全力を注ぎ、本領を発揮しりことになった。
アンニーバレはそのままローマで暮らし、再びボローニャの土地を踏むことはありませんでした。
フェルネーゼ宮殿
オドアルド・ファルネーゼは1591年、18歳のときに枢機卿となった。
ファルネーゼ家は、イタリアの美術史上最大のパトロンおよび収集家に数えられる。
ファルネーゼ宮殿は、ローマの建造物のなかでもきわめて堂々とした建物で(設計にたずさわった者のなかにはミケランジェロもいた)、オドアルドは、壮麗な外観に劣らぬ屋内装飾を望んだ。
特に彼は、大伯父のアレッサンドロ・ファルネーゼ枢機卿から受け継いだすばらしい古典彫刻のコレクション(現在はナポリの考古学博物館に収蔵されている)を飾るにふさわしい場所を必要としていた。
アンニーバレは、オドアルド枢機卿が書斎として使っていたカメリーノと呼ばれる小部屋を装飾することをまず依頼され、ヘラクレス伝説を中心とする場面を描く。
そして1597年にはギャラリーへと移り、アンニーバレの名声と切っても切れない作品を残した。
装飾画の主題は、聖職者のためのものとしては驚くべき選択に思える。
というのは、神々の愛を表しており、ベローリの言葉を借りるなら「天上の愛に支配された人間の愛」が描かれているのである。
おそらく、以前ファルネーゼ枢機卿の家庭教師をしていた高名な好古家フルヴィオ・オルシー二が、込み入った学問的な「全体構成」を担当したのでしょう。
ギャラリーの丸天井画が描かれたのは、1597年から1600年にかけて制作された。
アンニーバレは、1597年にローマに来て仕事に加わったアゴスティーノから多少助力を得たものの、
絵画の構想や制作の大半は自分で行っている。
しかし1600年、アンニーバレとアゴスティーノは口論の末、兄弟の行き来を断ってしまいます。
2人の性格は正反対で、アンニーバレは仕事に没頭し、まったく外見にこだわらなかったが、アゴスティーノは気取って品をつくり、取り巻き連中を欲しがったり、アンニーバレのほうはそうした取り巻きをできるだけ避けようとした。
ベローリによれば、「絵具で汚れたままの身なり」をしているアンニーバレが、ある日、「伊達男を引き連れて通りを歩く」アゴスティーノを見かけて呼び寄せ、「いいかい、アゴスティーノ。自分が仕立て屋の息子だということを忘れるんじゃないぞ」と言ったことが、いさかいの発端となったという。
その後まもなく、アゴスティーノはローマを離れてパルマに行き、2年後に没します。
ルドヴィコは、ボローニャにとどまり、いまや独力でアカデミーを運営していた。
丸天井の装飾画が完成したのち、増え続ける注文に対応するため、アンニーバレは自分の工房を拡張することにする。
ギャラリーの壁画のフレスコ画には、かなりの数の助手を使った。
そのなかには、1602年にローマに出てきたドメニキーノもいた。
アンニーバレは、自分の作品に対してと同様に、弟子たちに対しても時間を費やしました。
ベローリによれば、「アンニーバレは、言葉で教えるのではなく、
手本や実例をあげて説明し、親切を尽くすあまり、自分の制作をほったらかすこともしばしばあり、
彼は無言のまま、弟子のあいだを歩き、彼らが手にしていた筆を取っては筆遣いの実例を示した。
さらにまた、弟子とともに町を歩き、聖堂を訪れて、良い絵画とは、また悪い絵画とはどんなものか見てまわった。
弟子に対しては「このように描くべきだ、このように描いてはならん」と教えた。
当時のイタリアで最も著名な画家の一人、カヴァリエ―レ・ダルビーノがアンニーバレに自分の絵をけなさえたことを耳にし、決闘を申し込んだ。
機転をきかせたアンニーバレは、絵筆を取り上げるや、「私こそ、君に挑戦する!」といった」。
ファルネーゼ宮殿ギャラリーで完成させた人物描写の力強い堂々としたスタイルは、アンニーバレがミケランジェロやラファエロ、古典彫刻を研究したことを示しているが、フレスコ画にみなぎる活気は、完全に独自のものである。
アンニーバレは制作にあたって労力を惜しまなず費やし、何百枚もの素描を重ねました。
画面全体に弾むような新鮮さを保持しながら、細部まで完全に描写していく技術は、まさに驚異的であった。
ギャラリーの装飾画はたちどころに傑作と認められ、その後200年間にわたって、ミケランジェロのシスティーナ礼拝堂天井画や、ラファエロのヴァチカン宮殿フレスコ画とならび、世界最高の絵画と評される。
アンニーバレは長時間心血を注いでこの仕事に打ち込んだが、報酬は少なかった。
仕事の手当てはもらっていたが、当時の習慣としては、作品の完成時に依頼主が画家に大金を払うことはなかった。
ベローリによれば、「ファルネーゼ枢機卿お気に入りのスペイン人の廷巨、ドン・ファン・デ・カストロがよこしまな口出しをし、報酬はたったの金貨500スクートで十分と枢機卿に信じ込ませ、その金を皿にのせてアンニーバレの部屋に運んだ」という。
アンニーバレは富や財産を蔑視していた。
「これほどまでに尽くした相手がまるで感謝の意も示さないには「呆然として声も出ない」思いだった」。
ベローリは、アンニーバレの人柄の良さとつきあいの誠実さを数多く伝えているだけに、ファルネーゼ枢機卿の貪欲さはなんともなげかわしい。
アンニーバレは、ほかにも数多くの重要な作品をローマで仕上げました。
祭壇画家としても多くの重要な依頼を受けた(1601年には、サンタ・マリア・デル・ポポロ聖堂のチェラージ礼拝堂の祭壇画をカラヴァッジョと同時に依頼されて制作した)が、後期の作品として最も優れ、かつ独創的なのは風景画でした。
1604年ころ、アンニーバレは弟子とともに、パラッツォ・アルドブランディー二の礼拝堂のために、聖書に取材した風景画の連作します。
その1つに「エジプトの逃亡」があるが、この絵は完全にアンニーバレ1人の手になるものでした。
こうした絵画において彼は、「理想風景画」として知られる様式をつくり上げる。
それは、崇高で、様式的で、荘厳な風景で、謹厳な神話や宗教画にふさわしいものである。
のしかかる憂鬱
アンニーバレは成功をおさめてはいあが、ファルネーゼ宮殿ギャラリーに注いだ労力が報われず、悲惨な結末を迎えたことで極度の鬱状態になっていた。
ベローリの話では、「アンニーバレは卒中で倒れ、しばらくのあいだ言葉が不自由になり、知的活動が妨げられた」。
ときおり回復することもあったようだが、晩年の5年間はまったく筆を持つことができず、彼の工房で制作した作品のほとんどは、アンニーバレのデッサンをもとに助手たちが描いたものだった。
ベローリによると、「アンニーバレはナポリに行き、つとめて楽しみ、気分を明るくしようとした」。
だがまもなくローマに帰ることを決め、「暑い季節のさなか帰路を急いだ。一般的に言えばそれは危険な行動でした。
1609年7月15日、ローマに戻ってまもなく、アンニーバレは熱病に侵されて死亡した。
ベローリによれば、悪いことに、熱病に「恋愛疾患」が重なったという。
享年、49歳だった。
遺̪̪志に従ってアンニーバレは、パンテオンに埋葬された。
そこには、彼が英雄として敬愛したラファエロが永遠の眠りについていました。
ベローリは、深い悲しみにおおわれた葬儀を「あたかも、再びラファエロが棺の横たわっているかのようだった」と記しており、2つの「偉大な魂が昇天し、神の前で1つになるように」との願いを表明している。
多様をきわめた芸術
アンニーバレの芸術は驚くべき多様性を示しました。
彼は、偉大な伝統をもつイタリアのフレスコ画においてはミケランジェロとラファエロの後継者であったが、それとは正反対の卑近な風俗画やユーモラスな素描にも秀でていた。
自らの芸術に全霊を注いだアンニーバレだつたが、晩年の5年間は、実際には絵筆を握ることはなかったようです。
また死後2世紀のあいだは、ヨーロッパ絵画の時代を画する人物と見なされていたが、その後は極端に評価が下がり、ひらめきのない剽窃家(ひょうせつか)とさえ言われるようになる。
アンニーバレの作品は驚くほど幅が広く、彼ほど多様な分野にわたって独創性を発揮し、重要な貢献
をした画家は少ない。
アンニーバレは、モニュメンタルな絵画において中心的な存在の1人である。
フレスコ画に再び活力を与えたのはアンニーバレであり、栄えある17世紀の多数の装飾画の模範となったのは彼の作品でした。
また「理想風景画」を生み出し、それは多くの画家の採用するところとなった。
そのなかでも特に著名な画家は、フランス人のクロード・ロランと二コラ・プッサンでした。
またアンニーバレは、現代的な意味におけるカリカチュア(風刺画)の創始者としても知られる。
つまり、人物の特徴が、ゆがめられたり誇張されたりして描かれ、コミカルな効果を生む絵のことです。
しかし、17、18世紀にアンニーバレが絶大な名声を博したのは、才能の多様さによるのではなく、じっは1つの側面、というより1つの作品、ローマのファルネーゼ宮殿ギャラリーの装飾画のためである。
これはきわめて大きな影響力をもった作品であり、さまざまな姿の英雄が壮大に描かれているために、
ヨーロッパ中の画家がこれにならって描いたし、絵を仕上げる手稿の模範ともなった。
アンニーバレは、ギャラリー壁画の制作にあたって、何百枚もの素描を描いた。
こうした入念な準備作業は、ロマン主義時代になって画家の感情がそのまま表現されるようになるまでは、最高傑作を目指す作品にはなくてはならない段階であると認められてきた。
こうした意味でアンニーバレは、同時代の偉大な画家カラヴァッジョに比べて、ずっと深く長期にわたる影響を及ぼしました。
なぜなら、フレスコ画はイタリアでは伝統的に画家の心意気を試す最高の試金石とみなされてきたが、カラヴァッジョはそれに手を染めなかったからです。
ファルネーゼ宮殿装飾の素描
ファルネーゼ宮殿ギャラリーのために描かれた素描は、いくつかのタイプに分類できる。
まず、アンニーバレは、装飾画の全体構図をおおざっぱに決め、続いてそれぞれの場面の習作を描く。
次に個々の人物の図案に移り、まずポーズを決めるために簡単な素描をし、その後、裸体モデルを使って詳細な習作を描く。
そしてようやく全部の場面の最終的な素描を完成し、実物大の下絵を壁に写す。
伝記を書いたベローリは、アンニーバレが浮き彫り(レリーフ)の模型もつくったと記しているが、現在は1点も残っていない。
ギャラリーのための素描のなかで、最も賞賛をあつめているのは、堂々とした裸体の習作です。
この分野でアンニーバレは、ミケランジェロやラファエロの後継者と呼ぶにふさわしいが、彼の素描には独特の肉感的なところが見られる。
これらはたちまち高い評価を得て、収集家が争って求めるところとなった。
アンニーバレは、ルネッサンスの巨匠から着想をえたばかりでなく、古代ローマの彫刻からも発想を得ていました。
「アンニーバレは、古代ローマ人の大いなる知識に圧倒されていた」とベローリは伝え、さらに、アンニーバレがどれほど深く古典彫刻を研究したかを示すエピソードを紹介している。
「ある日、兄のアゴスティーノは何人かの仲間とともに、古代人の彫刻において示した知識の深さをたたえていた。
ラオコーン像をほめそやすアゴスティーノは、弟が何も言わずほとんど自分の話を無視しているのに気づいて腹を立て、あの彫刻の価値がわからないのではないかと決めつけて、弟をなじった。
そして話を続け、仲間の関心をひきつけていた。
するとアンニーバレがくるりと向きを変え、木炭を手にして壁画にラオコーン像を描きはじめる。
まるで目の前に像があって、それを見て描いたのかのように、正確な絵だった」。
あぜんとする兄(彼は自分が詩人のつもりでいた)に向かってアンニーバレが捨てぜりふを放った。
「詩人は言葉で描き、画家は作品で語る」と。
アンニーバレは根をつめる仕事の気晴らしに、創意をこらしたユーモラスな絵を描いいている。
現在、そうしたカリカチュアはほとんど残っていないが、初期の資料によって、アンニーバレがこのタイプの絵画を生み出したことが十分立証されています。
たとえば、ベローリは「アンニーバレが、言葉のしゃれや名言にたけているだけでなく、滑稽な絵を描くのも巧みで、それらはたいていはカリカチュアとも呼ばれる素描が生まれ、われわれは、持ち前の欠点をもとに姿を変えられた人物を見て、そのいかにも滑稽でそっくりな描写に笑わせられるのである」。
弟子たちもこの影響を受けおり、なかでもドメニキーノはこの分野でも達者な腕前で知られる。
アンニーバレの素描
カラッチ一族は3人とも熱心な素描家でした。
天気作家のマルヴァージアによれば、3人は食事中も「片手にパン、片手にチョークか木炭を持っていた」という。
またマルヴァージアは、以前の所有者が次のように描き添えたスケッチを見たと記している。
「アゴスティーノ・カラッチがこのスケッチでフライパンを拭こうとしたので、あわててとりあげた」。
素描は保存されにくいものだが、アンニーバレの作品は今も多数が残り(ウィンザー城王室図書館にほど200点の素晴らしい素描が収蔵されている)、アンニーバレがいかに偉大な素描家であるかを示している。
作品は主題と手法の変化に富み、また、彼は裸体モデルを正統な手法で描くことにも卓越していた。
ここに掲げたポリュフェモスの習作では、複雑なポーズを楽々と描いている。
アンニーバレはまた、軽い主題にも平凡さを示しました。
彼にとっては、どんなものでも観察に値し、些末すぎるとか、低劣すぎるということはなかった。
庶民性
しかし、初期のアンニーバレの作品中、最も目立つのは、アゴスティーノやルドヴィコとともに制作した宗教画でもフレスコによる神話画でもない。
日常生活の情景を描写した、格式ばらない絵画でした。
かつてボローニャの画家たちが同じような種類の絵を描いていた(著名なバルトロメオ・パッサロッティがアンニーバレに教えたということもありうる)が、アンニーバレはこの種の絵画に生き生きとした現実味をとり入れ、「肉屋の店」では前例のない大作に仕上げています。
アンニーバレの自然への傾倒は、風景画にも表れ、そこでも活力と新鮮さを感じさせる手法が特徴的です。
アンニーバレは、自分の近辺に影響を与えたのみならず、17世紀の一流画家の多くに恩恵をもたらした。
ジャン・ロレンツォ・ベルニーニは17世紀最高の彫刻家(おそらく17世紀最高の風刺画家ともいえる)で、アンニーバレを崇拝し、「巨大にして偉大な頭脳」と形容しているが、ローマのボルゲーゼ美術館にある彼の作品「ダヴィデ像」は、フェルネーゼ宮殿ギャラリーのポリュフェモスの姿を模したものでした。
ルーベンスとプッサンは、フランドルとフランスの17世紀最大の画家であるがアンニーバレの作品におおいに感銘を受けた。
ルーベンスはおもにフェルネーゼ宮殿ギャラリーの装飾画に、プッサンは、晩年に描かれた集中力を示す小品に感銘を受けました。
フェルネーゼ宮殿ギャラリーには、荘厳さのうちにも軽やかな精神が満ち満ちているが、「主よ、どこへ行かれるのか」のような作品は、ギリシャ悲劇のもつ精神を思わせる明快させ描き出されている。
このような重厚さにプッサンは注目したのであり、それは堂々とした「エジプトへの逃避」にもみてとれる。
下降する評価
アンニーバレの作品の密度と多様性は、プッサンとルーベンスといった、気質のまったく異なる画家にも同じように影響を与えたがベルニーニも高く評価して、こう述べている「アンニーバレは、ラファエロの優雅なデッサン技術、ミケランジェロの解剖学の知識、コレッジオの崇高さ、ティッツィアーノの色彩、あたかも料理人がさまざまな素材を混ぜ合わすかのようなジュリオ・ロマーノとマンティーニャの創意工夫を1つに融合したようなものだ」と。
この言葉は、アンニーバレの総合力を賞賛しようとしたものであるが、同時に、のちのアンニーバレの失態を招く批判の種も宿している。
アンニーバレに「折衷派」(せっちゅうは)のレッテルを貼るのが流行したが、それはあちこちから意識的に借用しているという意味です。
ところが、ほとばしる感情を尊ぶロマン主義の発展とともに、「折衷派」という言葉は非難めいた響きを帯びるようになった。
「折衷主義」を批判する批評家が見落としているのは、画家はすべて過去の絵画に負うものであり、
アンニーバレは(すべての偉大な画家と同様に)参考作品をもとにも、アンニーバレは、彼の弟子たちの失敗の責任も背負いこんでいる。
彼らのなかには確かに退屈で亜流にすぎないものもいた(著名な画家は事実上すべて、そうした弟子をかかえている)。
17世紀のボローニャの画家は、ヴィクトリア時代の批評家ジョン・ラスキンの非難の標的にされ、1847年には、彼らには「何一つ見るべきところはない」と書かれてしまった。
アンニーバレと弟子たちが、こうした誤った見方から解放されるまでにはかなりの年月を要した。
事実、ラスキンにこき下ろされて以来、ようやく100年を経て、初めて英語による学術的再評価の書としてデニス・マーンの画家たちの復権に尽くし、アンニーバレは非独創的で型にはまっているという見解を打ち壊し、「芸術理論をけいべつしていたアンニーバレは、事実には美術史上例のない飽くなき実験主義者だった」と指摘しました。
1956年、ボローニャで開かれたカラッチ3兄弟の大展覧会は、彼らの運勢が復活するもととなる画期的出来事でした。
以来、アンニーバレはイタリア絵画の巨匠にふさわしい地位を取り戻している。
名画の構成「バッコスとアリアドネの勝利」
「バッコスとアリアドネの勝利」は、ファルネーゼ宮殿ギャラリー天井の中央を飾る歓喜にあふれた情景である。
全体の計画は、古代に情熱をかたむけたオドアルド・ファルネ―ゼの依頼によるものだが、おそらく高名な学者フルヴィオ・オルシー二が案をつくったものと思われる。
陽気な絵は、愛の普遍的な力をたたえており、バッコスとアリアドネの物語は官能の愛の勝利を象徴している。
アリアドネは人間の恋人に捨てられるが、酒神バッコスに助けられ、慰められて2人は結婚する。
アンニーバレは、力強い人物描写を基礎にした安定した構図と、なめらかに波打つリズムによる躍動との調和を実現させている。
画面から発する高揚感からは、制作段階での入念な作業の苦労はうかがえない。
まとめ
アンニーバレ・カラッチの作品の大半は、格調高い宗教画かもしくは神話画であるが、
初期の頃は、日常の生活場面えお描写したこともあった。
この種の絵の特徴は、生き生きとしたユーモラスにあふれている。
より伝統的な主題においては、アンニーバレはフレスコ画と油絵のいずれかにおいても卓越した腕前を示した。
彼が手がけたファルネーゼ宮殿ギャラリーの装飾画は、17世紀かがにおける重要作品の1つであり、
壮麗な全体構図のまとまりのなかで、それぞれの場面が、それ自体1つの輝かしい作品となっている。
規模はそれほど大きくないが、アンニーバレは感動的な宗教画もいくつか制作しており、特に後半生に描かれたものが多い。
感動的な題材が明快で精緻な技法で扱われており、美しい抑制のきいた身振りは、古典に傾倒する二コラ・プッサンらの画家にインスピレーションを与えている。