「カラヴァッジョ」 驚くべきリアリズム

カラヴァッジョはローマで一本立ちしようと努力した結果、30代の前半までに広範な名声を勝ち取りました。

光と影の効果を駆使したその劇的な表現と厳格なリアリズムは、ヨーロッパ美術に新しい絵画言語をもたらしたといえます。

しかし、彼は画歴の全盛期にありながら、殺人を犯したためにローマから逃亡し、以後は安住することなく各地を転々とし、38歳で短い生涯をとじました。

年譜

  • 1571年 ロンバルディア地方のミラノに生まれる
  • 1592年 ローマに移る
  • 1592年 枢機卿デル・モンデ家に寄宿
  • 1599年 初めて公的な大作の制作依頼ーサン・ルイージ・デイ・フランチェージ聖堂コンタレッリ礼拝堂のための連作を受ける
  • 1600年 サンタ・マリア・デル・ポポロ聖堂チェラージ礼拝堂のための制作。 警察の記念に名前が登録し始める
  • 1605年 愛人の娼婦をかばって公証人を傷つける
  • 1606年 テニスのゲーム相手を殺し、ナポリに逃亡
  • 1607年 マルタ島に戻る
  • 1610年 ポルト・エルコレで熱病のため死亡

 

「カラヴァッジョ」の幼少時代

ミケランジェロ・メリーンは1571年にフェルモ・ディ・ベルナンディーノ・メリージの息子として、おそらくミラノに生まれました。

そこからほど遠くないカラヴァッジョ村が一家の出身地であり、20年後に彼は、この村名を自分の名としました。

父はカラヴァッジョ侯爵フランチェスコ・スフォルツァの執事長でした。

1577年に世を去り、ミケランジェロは男2人(うち1人は1588年に死亡)と女1人の兄弟とともに、母親ルチーア・アラーリトの手で育てられました。

1584年、ミケランジェロは12歳でミラノの画家シモーネ・ベテルツィーノの工房に弟子入りします。

若いころの彼についてはほかに何もわからないが、ただ母親が1590年に死に、2年後にミケランジェロとその兄弟が一家の財産を分割相続したことが知られるのみです。

ミケランジェロはその金でローマに旅立つことが出来ました。

1599年まで、カラヴァッジョがこの聖都で活躍したことを記録するいかなる資料も残っていません。

しかし研究者の意見がおおむね一致するところでは、彼はある時点でカヴェリエーレ・ダルビーノに雇われたようです。

この師は当時一流のフレスコ画家で、教皇や教会の大規模な注文をこなしていました。

ですが、この将来有望な関係さえ、カラヴァッジョが病院に収容されたことで不意に終わりを迎えます。

(一説によると、馬に蹴られたため)

 

「カラヴァッジョ」の有力なパトロンとの出会い

しばらくしてカラヴァッジョは、枢機卿フランチェスコ・デル・モンテの注目するところとなります。

この枢機卿は裕福な見識ある聖職者で、絵画のコレクターであるとともに音楽を愛し、公的にはローマ美術アカデミーであるアカデミア・ディ・サン・ルカの重要な後援者でした。

枢機卿は教皇庁においてフィレンツェの勢力を代表し、ナヴィナ広場の近く、メディチ・パラッツォ・マダマに住んでいました。

カラヴァッジョは枢機卿の邸宅に雇い入れられ、部屋と食事と定期的な報酬を与えられ、それに報いて、若者像を数多く描きます。

カラヴァッジョの初期作品は、小さいものばかりで、生物画、風俗画が多く、宗教画は数が少なく、これらの絵を画商に市場で売ってもらうために描いていました。

 

「カラヴァッジョ」のチャンス

時代は対抗宗教改革のただなかにあって、ローマでは新しい教会の建設が相次ぎ、いずれの教会も礼拝堂の装飾や祭壇画を欲していました。

こうした仕事をしてこそ、芸術家は大金を手にし、名声が得られるのでした。

すでに20代の終わりにさしかかっていたカラヴァッジョは、この金の儲かる仕事に加わろうとやっきになっていたに違いありません。

その機会は、1599年に訪れ、サン・ルイージ・デイ・フランチェージ聖堂のコンタレッリ礼拝堂のために、2点の大作を依頼されます。

 

 

「カラヴァッジョ」の野心的な作品

知られるかぎり、カラヴァッジョはそれまで、これほど大きな画面に挑戦したことがなく、「聖マタイの教訓」のX線写真には、当初のためらいがちな線がはっきり見られます。

人物のちょうどよい大きさ、納得のいく構図を手探りして、一度描いたものに何度も修正の手を加えた末に、また最初からやり直さなければなりませんでした。

しかし、完成作は圧倒的な成功をおさめます。

彼の大敵であり、のちに「カラヴァッジョ伝」を書いた画家ジョバンニ・バリオーネでさえ、そのことを十分に認めています。

「この制作依頼はカラヴァッジョを有名にした」と書いた後、彼は意地悪くこう付け加えています。

「そして、出来上がった作品は、邪悪な人たちによって過ぎたるほどに賞賛された」

この2作がカラヴァッジョにとって成功への突破口となったのです。

 

「カラヴァッジョ」の悪いうわさ

2年後には彼の名は、ヨーロッパ中に知れ渡っていました。

ハールレム在住のオランダ美術史家カレル・ファン・マンデルは、1603年に次のように書き記しています。

「ミケランジェロ・ダ・カラヴァッジョという人物がいて、ローマで素晴らしい仕事をしている。」しかし、この画家の才能に関するニュースだけが、ファン・マンデルに届いたのではありません。

彼は、カラヴァッジョの悪名高い生きざまと、らんぼうについても知られていたのです。

「彼は常に絵の勉強をしているわけではなく、2週間の仕事ののち、長剣を腰に、お付の少年を従えて2か月のあいだ外に出かけ、テニスコートを継ぎから次へと渡り歩き、いつもケンカ腰で、人々と仲良くやっていけないのだ」

カラヴァッジョの絵に関するファン・マンデルの情報は不正確だったものの、外での行動についての言及は正しかったと言えます。

 

「カラヴァッジョ」の犯罪歴

初めて公的な大成功を勝ち得た1600年以後、カラヴァッジョの名がローマ警察の文書にひっきりなしに登場します。

その年の11月、彼はステッキで同僚を襲い、翌年二月には、兵士に対して剣を振り上げたことで裁判官の前に引き出されます。

1603年、ジョバンニ・バリオーネがカラヴァッジョとほかの人物たちを相手どって名誉棄損の訴訟を起こし、彼は短時間ながら投獄され「自宅にとどまりバリオーネをきずつけない」と警約をさせられて初めて釈放されました。

この条件を少しでも破れば、ガリー船の奴隷として送られることになっていました。

1604年4月彼は、熱いアーティチョークを盛った皿をレストランのウェーターの顔に投げつけ、さらに剣で脅した罪で訴えられた。

1605年に入ると、許可なく長剣と短剣を所持した罪で逮捕され、警官を侮辱して逮捕されます。

そのほかにも数多くあるが、カラヴァッジョの性格を彼の犯罪記録と乱暴な行為だけで判断してはならないでしょう。

 

死を招いたテニスの試合

枢機卿をはじめローマのパトロンたちや詩人までもが、カラヴァッジョの芸術を永遠にたたえているということです。

彼はひそかにレオナルドラファエロミケランジェロヴェネツィア派の巨匠たちを研究しており、そこには無視できない感性と優れた理解力が見られ、彼の私生活を十分に知りえていないだけなのです。

1606年5月28日、カラヴァッジョの激しい気性はとうとう大惨事を引き起こします。

テニスの試合で10スクードの賭金の支払いをしぶったために、彼と数人の友人はカンポ・マルゾのコートで、ラヌッチオ・トンマッゾーニなる男とその仲間を相手に、ひどいケンカ騒ぎをやらかしました。

カラヴァッジョは深手を負い、その仲間のキャプテン・ペトローニオという男も同様で、彼はのちに投獄されたが、カラヴァッジョの加えた暴行のため命を落としたのでした。

 

「カラヴァッジョ」ローマからの逃亡

カラヴァッジョはおそらく3日間、ジュスニアーニ伯爵の屋敷に身を隠し、それからひそかにローマを脱出し、二度とその地に戻ることはありませんでした。

以後の5か月間は、どこでどうしていたのか明らかではありません。

1606年10月までに彼は教皇の司法権の及ばないナポリに姿を現します。

1年たらずのうちに、祭壇画の大作を少なくとも3点完成させ、1607年7月にナポリを離れマルタ島に赴いたといいます。

マルタ島での滞在は、カラヴァッジョにとって実り多いものでした。

聖ヨハネ騎士団の団長をはじめとする数々の肖像画のほかに、最も大きな4作品である「洗礼者ヨハネの斬首」を手がけ、これは騎士団の守護聖人を描いたものでした。

1608年7月14日カラヴァッジョは、明らかに働きの報酬として騎士の称号を得て、さらにジョバンニ・ピエトロ・べローリの記すところでは、「騎士団長は彼の首に金鎖を巻き、2名のトルコ奴隷を贈ったほか、彼の作品への評価と感謝の印をいくつもうけた」といいます。

 

「カラヴァッジョ」の早すぎた死

しかし、カラヴァッジョは、身分の高い騎士といさかいを起こして獄につながれ、ある日夜陰にまぎれてなんとか脱出し、シチリア島に逃れました。

聖ヨハネ騎士団はその後、カラヴァッジョの名誉のいっさいを剥奪し、団から除名しました。

彼は、シラクーザ、メッシーナ、パレルモを転々とし、それぞれの町で手早くみごとな祭壇画を描いたのち、ナポリに戻ります。

その名声からして、手がけた作品に対して大金を請求し受けることができたが、彼は依然として逃亡者であり、今や教皇の司法権だけでなく聖ヨハネ騎士団の手からも逃げのびなければならなかったのです。

1610年の夏、カラヴァッジョは突然ナポリを去り、小さな船でポルト・エルコレに向かった。

そこは、ローマから北130キロほどに位置する港で、スペインの保護領でした。

不安にさいなまれながらの不幸な4年間の後に、ようやくローマの友やパトロンと再会できそうな見通しがついたのでした。

しかし、事態はそうはいきませんでした。

カラヴァッジョの旧敵であるパリオーネが、彼の最後の日々のようすをみごとに生き生きと伝えています。

ポルト・エルコレに上陸したあと、カラヴァッジョは「人違いで捕らえられ、2日間牢獄に入れられたのち釈放されると、彼の船は跡形もなく消えていた。これに怒り狂いながらも、彼は強烈な陽ざしのもと必死に海岸をさまよい、自分のものだった船の影を追い求めた。とうとうある場所でひどい熱病にかかり、病の床についた。そして神や人の助けもなく、数日後に息を引き取った。その生涯と同じように哀れな生涯であった」

カラヴァッジョが亡くなったのは1610年7月18日で、40歳にも満たない38歳で短い生涯を閉じました。

 

「カラヴァッジョ」のすさまじい想像力

自然のままに描く

カラヴァッジョの劇的で激烈な構図は、激しい気性、手に負えない生きざま、数々の犯罪歴に彩られた芸術で人間の情熱的な信頼、妥協のないリアリズムの結果です。

それらは、実在するかのような人間を登場させ、新約聖書の物語をできるだけ真に迫ったものにする試みでした。

このような人物像は、何世紀にも及ぶキリスト教美術において高められ、通常の人間より上位に位置づけられていた諸聖人の、型にはまった血の通わない立派なイメージとはまったく異なっていました。

 

「カラヴァッジョ」の有名な明暗法(キアロスクーロ)

場面全体を暗くし、集中的に強い光によって中心人物を浮かび上がらせる彼の方法キアロスクーロ。

カラヴァッジョの絵が残る聖堂や礼拝堂を訪れる観光客は、小さな位置に200リラ銀貨を投げ入れることによって、彼の作品を数分のあいだ電灯の強い光のもとで見ることができます。

ですが、これでは本来意図された効果が台無しなのです。

カラヴァッジョの生きた時代、おもに光源はランプか祭壇の前の小さな蝋燭で、そのおぼろな光のもとで、カラヴァッジョの描く人物たちは絵の暗い背景からだけでなく、周囲の闇のなかから浮かび上がったはずなのです。

彼らは見る者に、異常なほどの存在感と現実感を抱かせたことでしょう。

カラヴァッジョ芸術における光は、人物を照らしだして鑑賞者に示す、という光を超えた意味を持っています。

 

名作「エマオの晩餐」

「エマオの晩餐」はカラヴァッジョの傑作の1つで、現実感を創出する超人的な能力によって見るものを仰天させる作例において、この絵の右にでるものはない。

この絵に関する資料はすくなく、誰の求めで描いたのかは知らず、制作年も学者の意見が分かれているものの、現在の研究の多くは1600年から1601年ころの作品考えられています。

主題は、キリストが復活後に弟子たちのもとに出現する物語の1つで、聖書で、弟子たちのうち唯一名が示されているクレオパは、ここではおそらく左端の人物でしょう。

もう一人の弟子は貝殻を身につけており、これは大ヤコブの持ち物ですが、この絵では、一般的に巡礼者を暗示することにとどまっています。(二人の弟子はエルサレムの近くのエマオに旅する途中でキリストに出会うのですが、彼らはすぐにはその人ときずかなかった)

鋭い観察力で描かれた、後方に立つ人物は宿屋の主人です。

「彼らの目が開かれ、それがイエスであることがわかった」 ルカによる福音書 第23章31節

・「ホイッスラー」異国のアメリカ人

・「フラ・アンジェリコ」ドミニコ会の修道士

・「カラヴァッジョ展」を見て感じたこと

・「聖母マリア」の処女受胎思想

・「ゴヤ」マドリードの聾者

・「ティエポロ」 偉大な伝統に育まれた画家

・「クラナッハ」 多忙で恵まれたドイツの巨匠

・「ロセッティ」情熱的なヴィクトリアン

・ルーベンス 「レオキッポスの娘たちの掠奪」

・「ヴァン・ダイク」華麗なる肖像画家

・「ヤン・ファン・エイク」画家たちの王

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taesun

画家活動をしています。西洋絵画を専門としていますが、東洋美術や歴史、文化が大好きです。 現在は、独学で絵を学ぶ人と、絵画コレクター、絵画と芸術を愛する人のためのブログを書いています。 頑張ってブログ更新していますので、「友達はスフィンクス」をよろしくお願いします。