マザッチオは豊かな町カステル・サン・ジョバンニのごく普通の家庭に生まれました。
ブランカッチ礼拝堂の一連のフレスコ画制作という偉業により、彼は「ルネサンスの始祖」という敬称得る。
だが、彼は同地で26歳という短い生涯を終え、その画歴は慌ただしく幕を閉じたのです。
前半生
マザッチオは1401年12月21日、聖トマスの祝日に生まれました。
彼は聖人の名をとってトンマーゾと名付けられたが、のちには、おそらく人の良いがぞんざいで無頓着な性格のために、マザッチオ(「だらしない」という意味がふくまれていた)と呼ばれるようになります。
16世紀の伝記作家ヴァザーリが、これにひと役買っています。
彼の著書「美術家列伝」でややロマンティックに表しているが、いかにもそれらしい性格描写を行って、マザッチオについて「彼はたいへんなうっかりもので、風変わりであった。
そして全身全霊で芸術に打ち込み、自分自身のことや、まして他人のことにはほおんど注意を払わなかった。
また世俗的なことや財産、そして自分の身なりにも時間をさこうとはしなかった」と記されている。
マザッチオは、その前半生をフィレンツェから50kmほど離れた豊かな町カステル・サン・ジョヴァンニ(現在のサン・ジョヴァンニ・ヴェルダルノ)で過ごした。
父セル・ジョヴァンニはわずか20歳、母のモンナ・ヤコパはやっと19歳でしたが、セル・ジョヴァンニはすでに公証人となっていました。
マザッチオは、利発さをこの父親から受け継いだのでしょう。
マザッチオの祖父モーネ・ダンドゥレヴィッチオは弟のロレンツィとともに家具づくりを仕事としており、一族に職人的な才能があったことは明らかでした。
彼はカッソーネと呼ばれる婚礼用の櫃をつくることを専門としていました。
これによって、一族の姓はデイ・カッサイとなった。
だが祖父や父親には、マザッチオの並外れた才能を予期させるものは何もありませんでした。
マザッチオの父は、早くも1406年に死亡し、妻のモンナ・ヤコポには何も残さなかった。
しかし若い未亡人はまもなく悲しみを乗り越え、情緒的、経済的な救いを別のところに見いだした。
彼女は同じサン・ジョバンニ・ヴェルダルノの生まれで、彼女と家族を養うだけの資力をもつテデスコ・デル。フェオという、2人の妻に先立たれた初老の薬剤師と再婚。
しかし結婚して11年後、彼もまた死亡し、残されたマザッチオの母親は再び未亡人となってしまいます。
「マザッチオ」フィレンツェで画家となる
マザッチオについてさらにわかかっているのは、1422年にはフィレンツェに住んでいたこと。
ここで彼はピアッツァ・サンティッシモ・アヌンツィアータ近くの貸家で、母や弟と暮らしていたことが知られています。
フィレンツェの転居は、1417年に母親の2度目の夫が死んでまもなくのことと思われる。
繁栄する都市の明晰な指導者たちは、芸術的にも経済的にもより刺激的な環境を提供していました。
1422年、マザッチオはフィレンツェ医師薬剤師組合(そこに芸術家も含まれた)に加入しているから、そのときまでに、彼はフィレンツェで独立した画家となっていたはずです。
マザッチオは絵画の初歩的な技術をマゾリーノ・ダ・パニカーレから学んだと思われる。
この画家はマザッチオと同郷で、終生彼の友となり、共同制作者となった。
あるいはまた、この町で繁盛する工房をもつ当時人気のフィレンツェ画家、ビッチ・ディ・ロレンツォに弟子入りしたことも考えられる。
しかし、マザッチオの初期の修行や、どのようにして彼の才能が現れたかは、確かなことは何もわかっていません。
彼はまたたくまに芸術的な円熟の域に達したと思われ、彼の仕事には最初から明らかな個性が示されている。
インスピレーションのおもな源泉として同時代の画家たちに目を向けるより、マザッチオはむしろ古代彫刻やジョットの芸術に目を向けました。
1世紀前に制作されたジョットのモニュメンタルで壮大なフレスコ画を、彼は近くサンタ・クローチェ聖堂で見ることができたのでしょう。
マザッチオはそれらに、自分自身の作品と非常に似通った、整然とした簡潔さと謹厳さを見いだしたのです。
当時、フィレンツェでのマザッチオにとってはるかに重要であったのは、建築家フィリッポ・ブルネレスキと彫刻家ドナテロとの交際でした。
若い画家は、大聖堂の上に誇らしくそびえるブルネレスキのクーポラ(丸屋根)にインスピレーションをあたえられたであろうし、遠近法の研究の最新の状況について彼と話したにちがいない。
ピアッツァ・デル・ドゥオモのドナテルロの工房に入り込んで、マザッチオが彫刻の解剖学的構成や浮き彫りの複雑な空間をまなんだことは疑いありません。
ジョットやブルネレスキ、ドナテルロの教えをたちまち習得し、マザッチオは初期の作品においてすでに、彼の短い経験を通して支配していた問題と取り組んでいました。
つまり、実在の人物を自然光のもと、実際の空間にどのように表すかということでした。
制作年代は確かではないが、彼の最初の有名な作品は、1422年4月23日の日付けのあるカッシアのサン・ジョヴェナーレ聖堂のために描かれた三連祭壇画です。
この祭壇画で、マザッチオは連続する空間に配置されたより実在感のある聖母と聖人たちを表した。
このころの作品1つ(残念なことに1600年ごろ破壊された)がマザッチオの同時代人の人々の話題になる。
それは、1422年4月にサンタ・マリア・デル・カルミネ聖堂の献堂式が行われたときの、マントを着、頭巾をかぶったフィレンツェ市民の行列えお描写した「祭礼」でした。
マザッチオは、この絵の商人や政府の要人だけでなく、彼の友人マゾリーノ、ドナテロ、、ブルネレスキの肖像を、それぞれはっきり識別できるように描き込んだのです。
何人かの16世紀の画家がこのフレスコ画をデッサンしており、この作品がマザッチオの名声を確立し、彼に制作の依頼をもたらしたことは確かだ。
行列の人物の1人は、アントニオ・ブランカッチと思われ、彼はマザッチオと、しばしばその共同作業者であったマゾリーノに、カルミネ聖堂内の私的な礼拝堂を聖ペテロの生涯の情景で装飾するように依頼した人物でした。
この年9月に彼がハンガリーへ旅立つ以前、そして1427年8月フィレンツェへ戻ってからも、マザッチオに助手を依頼したと思われる。
その間にもマザッチオの仕事に対する賞賛は広まっていった。
1426年、彼はピサの公証人ジュリアーノ・ディ・コリーヌ・デッリ・スカシルに推挙される。
コリーヌはピサのカルミネ聖堂に新たな建立する礼拝堂の祭壇画を希望していました。
マザッチオは依頼を受け、1426年2月19日、仕事にとりかかった。
繁忙期
おおかたの説によると、マザッチオはまじめな人間で、生涯態度は謹厳でした。
妻子はなかったが、短い生涯における業績から判断すると、仕事以外にさく時間はなかったでしょう。
1426年10月、彼は、ピサの祭壇画が完成するまではこれ以上仕事を引き受けないという証書をセル・コリーノに提出しなければならなかった。
祭壇画は1426年12月には完成し、マザッチオはクリスマスの翌日、最終支払い金を手に入れて、ピサを後にしました。
フィレンツェに帰ると、友人のブルネレスキが、遠近法を正確に構成する独創的な機械的方法を完成していた。
2人は詳細にそれを研究し、マザッチオは次の注文の建築的な背景を描くのにこの方法を用いた。
それは1427年、サンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂のために描かれた「三位一体」のフレスコ画でした。
彼はおそらくブルネレスキの指導のもとに仕事をしたと思われる。
背景の格間を施したバレル・ヴォールト(半円筒形アーチで架構した天井)が、目の錯覚をおこさせるような効果をみごとに発揮しており、当時の人々を心底驚かせたに違いない。
後世のヴァザーリは、それを「最も美しいもの…遠近法によって描かれ、ひじょうにうまく後退しているので、画面が引っ込んでいるように見える・・・」といっている。
1427年の夏、マゾリーノがハンガリーから戻った。
そして再びマザッチオと一緒にブランカッチ礼拝堂のフレスコ画に着手した。
しかし、しばらくするとマゾリーノはローマに呼ばれ、マザッチオは仕事を続けるために1人残され、一連の物語りの絵を制作し、それは後世のあらゆる画家に影響を与えることとなった。
ブランカッチ礼拝堂に学んで、ヴァザーリが言う「すばらしく上達し、有名になった」芸術家たちには、ボッティチェリ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ペルジーノ、ミケランジェロ、ラファエロといったルネサンスの巨匠が含まれている。
特にミケランジェロは、その礼拝堂で苦しい思いをしたにもかかわらずマザッチオを崇拝していた。
そこは、ピエトロ・ドリジャーノが憤激と嫉妬からミケランジェロの顔を素手で殴り、彼の鼻を折った場所でした。
1428年の夏にマザッチオはローマに呼ばれ、そこでサン・クレメンテ聖堂のブランダ・カスティリオーネ枢機卿の礼拝堂のためのフレスコ画制作で、マゾリーノに力を貸したと考えられる。
しかし、ローマに到着してまもなく、彼は悲惨にも亡くなり、わずか26歳の輝かしい経歴に終止符を打った。
マザッチオの死はあまりにも突然で、毒殺されたという噂が流れたほどでした。
このニュースがフィレンツェに届くと、彼の旧友のブルネレスキは悲しみに打ちひかれ、衝撃を受けて「マザッチオの死は大いなる損失である」と言った。
モニュメンタルなビジョン
「マザッチオには、絵画の新しいスタイルをつくり出したいという名誉が与えられるだろう。彼以前に描かれたものは明らかにすべてぎこちないといえるのに対し、彼は生き生きとして写実的で自然な作品をつくりだした」
と伝記作家のヴァザーリは語っています。
実際にマザッチオは、ヴァザーリが当時最新の絵画スタイルと考えたものに最も近いところにいた画家とされている。
そのスタイルは、古代の作品や自然の研究にもとづいたものであり、ミケランジェロにいたって頂点に達した。
はかり知れない影響力
マザッチオの革命は、26歳という早すぎる死によって彼の仕事が悲劇的な終結を迎える前の、ほんの数年になされたものであり、まさに驚異的なことでした。
この短い時間に彼が描いたものは、同時代の人々に大きな影響を与え、15世紀の画家で彼の影響から逃れることのできた者はほとんどいなかった。
彼の偉大な業績は、論理的で、現実的に空間を占める人間のフォルムを表示する方法を生み出したことであり、あらゆるものが科学と自然の法則に従っている。
この画家の3大革命は、空間と人体構造と光の扱い方でした。
彼はジョットの作品、特にその大きく直截に表された人物と、空間に対する感覚を崇拝していました。
しかし、ジョットの態度が直感的で、科学的なものでなかったのに対し、マザッチオはあらゆる問題を合理的に解決する方法を求めたのです。
遠近法の習得
ブルネレスキからは、どのようにしたら2次元でそれらしい奥行の後退感をつくり出せるのかを学びました。
ブルネレスキ自身の実績は、ある特別の像を写す磨いた銀板を使うことから始められたと思われる。
そしてその線を、像を写す銀板の上でなぞる。
これによって彼は、ある特別の地点から眺めた、空間における物体の相対的な大きさや位置を導きだす方法を学んだのです。
そして遠近法を編みだし、彼とマザッチオはそれを詳細に検討しました。
この方法を用いた最初の絵画は、マザッチオによるサンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂の「三位一体」のフレスコ画で、そこにはいまだに漆喰の表面に刻まれた遠近法の線を見ることができる。
観察力
人体構造を描く助けとして、マザッチオは、大きな人物全体が重たげなひだで覆われているジョットを越えて、彫刻家ドナテロへ視線を向けなければならなかった。
彼はドナテロへの力強い写実主義を崇拝していました。
その写実主義は正確な観察と古典彫刻の研究、おもに石棺の側面彫刻の結果得られたものでした。
マザッチオ自身の観察力もまた並外れており、遠近法によって人体や建築物を描き表すことをすぐさま習得しました。
マザッチオの同時代の人々は彼の腕に唖然としたに違いない。
ブランカッチ礼拝堂のフレスコ画に表された複雑な人物群のなかで、マザッチオは意図的にあらゆる角度から人体や頭部を描いて、巧妙な技術を示しています。
彼の描く頭部はすべて、ひじょうに個別化して描かれており、「ほとんど肖像画と思えるほどである」、眉やまつげを描き込むなど、表情の細部にいたるまで細心の注意が払われている。
彼はまた、もっぱら裸体または半裸の人物像を描いた最初の画家で「楽園追放」のアダムとイヴで、彼は人間の身体に肉体的、心理的な強い感情を示すことを研究しました。
そそして「聖ペテロの殉教と洗礼者ヨハネの斬首」を表したピサの祭壇画の下部の小画面で、働く人体をいかにもそれらしく伝えるになった。
彼のもう一つの偉大な革新は、空間を限定し人物に重みを与える一助として、一定の光源を用いることにより、絵のなかの事物は強い影をつくり出した。
そのため、彼のフォルムはおのずとより彫刻的になっていきました。
こうしたことが初期のマザッチオにすべて一緒に起こったのです。
変えの最初の作品とされるサン・ジョヴェナーレ聖堂の「三連祭壇画」ですでに彼は、同時代のシエナ派、またはジョンテーレ・ダ・ファヴリアーノやその信棒者の国際ゴシック様式が示した装飾的で2次元的な手法から遠ざかり、人物の重みや堅固さを伝える画法へと向かっていった。
そしてついに、「三位一体」のフレスコ画では、聖母子や聖者たちを人間の寄進者よりも大きく描くという従来の習慣を放棄している。
マザッチオの現代性
マザッチオの描く人物像に最も顕著な点は、それらがきわめて「現代的」に見えることです。
作品が受けた、時の経過による傷みを無視すれば、彼の人物像は、容易に今日と関連づけることのできる実在性と緊迫感を備えている。
彼の描く人物の多くは、単に理想化された類型というのではなく、実在のモデルを観察したことが見てとれる。
この現代性は、フレスコ画に特に顕著で、媒体こそ彼に最も適しており、彼の特質が最も良く発揮されている。
純粋なフレスコ画
マザッチオの壁画装飾は、純正なフレスコでなされていたが、それは彼のモニュメンタルな作風と、しだいに奔放になっていった筆遣いに適していました。
普通、湿った漆喰の仕上げ層を塗るのに先立って、壁にフリーハンドで下絵が描かれるが、彼のフレスコ画では肖像画的な頭部を表すために、さらに細部が描き加えられたはずです。
こうした頭部、人体構造やひだの複雑な部分を描くには長い時間がかる。
かれは1日に頭部を1つだけ、多くても3つしか描かず、通常は風景や建物の背景を終えて頭部を描いた。
カルトンの使用
マザッチオは、フレスコ画の手法にもまた革新をもたらしました。
「三位一体」のフレスコ画に、彼がカルトン(壁に貼り付けてその輪郭に針で穴をあけ、下の漆喰に転写する原寸大の素描)を使用あことは明らかです。
この手法は、16世紀の初期には一般的になっていたが「三位一体」はこうした手法がとられた最初の例であったに違いない。
彼はまた木炭の粉をつけた水球糸、または、ほかの光学的な道具を使用したと思われる。
それらは、彼の作品に見られる遠近法や人体構造を完全にするためのものでした。
マザッチオがもっと長生きし、ローマの刺激に満ちた芸術的雰囲気を吸収することができたらば、いったい何をつくり出しただろう。
だが、彼はそのままで絵画史の進路を変えるに十分なことを成し遂げたのです。
名画「三位一体」
マザッチオの「三位一体」の正確な制作時期は知られていないが、おそらく死の間近に描かれたものと思われる。
穀物商のレンツィ家がこの作品の支払いをしたと考えられており、ひざまずいている寄進者はロレンツォ・レンツィと彼の妻だろう。
このフレスコ画はサンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂の最初に描かれた場所にある。現在では初期ルネサンスの重要な傑作と考えられるが、1861年に再発見されるまで、16世紀につくられた祭壇のうしろに隠されていた。
そして石棺と骸骨の描かれた下部は、1925年にこの絵が洗浄されるまで見えていませんでした。
この絵のモニュメンタルな存在感は、1つにはその巧みな遠近法の使い方です。
おそらくブルネレスキがこれに力を貸したに違いない。
まとめ
マザッチオはゴシック美術からルネサンス美術に移行していくために大きな役割をしました。
奇跡のようなその才能は、これまでの暗い決まった絵画ではなく、光を元に遠近感と鮮やかな色彩で構成された空間美術に発展させた画家でした。
写実的な人物画は人間の心理まで描き込まれており、ルネサンスの巨匠たちに大きな影響を与えています。
惜しくも26歳という若さで世を去りますが、彼が描いた純粋な壁画はとても若い画家の手によるものとは思えない素晴らしい世界です。
ルネッサンスの始祖と崇められ尊敬されてきた巨匠。
絵画の本質はマザッチオからすべてを学ぶことができる。
・「ピエロ・デラ・フランチェスカ」 サンセポルクロの高名な息子
・人物画を得意とした巨匠たち(ティッティアーノ、ベラスケス、グルーズ、ルブラン)