ヤン・ファン・エイクは、おそらくネーデルランド絵画史上、最も有名な人物です。
若いころのことはほとんど知られていないが、すでに1420年代には画家としてかなり名が知られており、ヨーロッパで最も華麗な宮廷の一つといわれたブルゴーニュ公フィリップ善良公の宮廷に仕えました。
傑出した画家であったファン・エイクは、また外交官でもあり、フィリップ公の外交使節として多くの旅に出でいます。
何世紀にもわたって、何人もの著述家たちはファン・エイクの熟練した技巧をたたえ、彼を「画家たちの王」と呼び、油彩の考案者と考えていた。
彼が描き出す輝くようなイメージの数々は、並はずれた現実感と自然主義的表現の細部という点で他に抜きんでており、細やかなものと巨大なものを組み合わせた彼の絵についてある美術史家は、「ファン・エイクの目は顕微鏡であると同時に、望遠鏡でもあった」と述べている。
年譜
- 1390年ころ マーセイクで生まれる
- 1422~24年 デン・ハークのヨハン・フォン・バイエルンの宮廷で画家として働く
- 1425年 ブルゴーニュ公フィリップ善良公の画家兼侍従に任命される
- 1426年 兄フーベルト死す
- 1427年 トゥールネーでロベルト・カンピンと知り合う
- 1428年 ポルトガル訪問
- 1432年 ゲントの祭壇画完成。 ブルージュで家をもつ
- 1433年ころ 結婚
- 1434年 「アルノルフィーニ夫婦像」制作。 ブリュージュ市庁舎の彫刻の仕事
- 1441年 ブリュージュで没
謎の人「ヤン・ファン・エイク」
ファン・エイクは、1441年に亡くなったが、わずか数年後に、当時の最も偉大な画家の1人として、アルプスの南北両側で賞賛を浴びるようになった。
彼はわずかのあいだに得た伝説的な地位(長い間「油彩画の考案者」と言われてきた)は、その後ある程度失われたものの、彼の名声は今日もなお衰えていません。
生前と変わらず、今もファン・エイクは初期ネーデルランド派の最も有名な画家でしょう。
このような名声と、これまで行われてきた熱心なファン・エイク研究にもかかわらず、画家としての彼の生涯についてはごく限られたことしかわかっていません。
彼が20代か30代の初めだったと思われる1422年の最初の記録以前に、どんなことをしていたのかは何一つ知られていない。
それ以後の生涯についてはたくさん記録が残っているものの、現存する彼の作品に関する記述はほとんどありません。
作品にの大部分は失われ、年記のある作品はすべて晩年の10年間に制作されたものです。
ファン・エイクは1390年ころ、マーストリヒトからマース川を25kmほど下ったところにある小さな町マーセイク(マースエイク)で生まれたと考えられ、彼の名は、この町の名前からとられたと言われている。
彼がどこで、あるいは誰のもとで画家としての修行をしたのかはわかっていません。
「泉の聖母」 1439年
この絵の明快な感じは、おそらくザイズ(19×12㎝)が小さいことによるものだろう。
ファン・エイクは、聖母の純潔と楽園のシンボルである「閉ざされた庭」という中世のテーマに立ち戻っている。
さらにそのほかの図像学細部が、この象徴主義を強化している。
聖母の後ろの華やかな垂れ幕は、赤と青の強いコントラストを示し、天上の女王としての聖母の聖座を表す。
生命の泉は天国と救済を、バラとスズランは純潔を象徴する。
しかし当時のギルド制度から考えて、聖ルカ画家ギルドに受け入れられるまでには、親方の仕事場で何年間か修行し、十分に腕を磨かなければならなかったに違いない。
1422年に初めて、ファン・エイクの名が記録に現れます。
当時彼はデン・ハークにいて、画家兼侍従としてホラント伯ヨハン・フォン・バイエルンに仕えていました。
宮廷画家として、彼はおそらくホラン伯の宮殿であるビンネンホーフの装飾や修復の仕事をしていたと思われるが、このような仕事は現在、何一つ残っていない。
新しい主人フィリップ善良公
1425年1月にホラント伯が亡くなると、ファン・エイクはすぐに有力なブルゴーニュ公フィリップ善良公のもとで新しい仕事の場を見つけ、1425年5月に画家兼侍従に任命されます。
公は領地の見回りのため広く各地を旅行し、ブリュージュ、ゲント、エダン、リールなど、あちこちに宮殿を所有していました。
新しい仕事についてすぐ、ファン・エイクは、当時リールにあった宮廷に召された。
宮廷の文書には、「ヤン・ファン・エイクの絵画技術の才について、公はすでに宮廷の人々から聞き知っており、また、公自らヤン・ファン・エイクという人物のなかにそれを認めた。 よってヤンは召し抱えられた」と書かれています。
「教会の聖母」 1425年
この優美な絵は、ファン・エイクのものとされる作品のうちで最も初期のものである。
建築の細部と光の見事な扱いによって、礼拝堂内部にそれまでのネーデルランド絵画には見られなかった空間の現実実感は与えられている。
ヤンは明らかに評判どおりの才能の持ち主で、それによってヨーロッパで最も華麗で、最も洗礼された宮廷に入ることになりました。
文書はさらに続く「彼の忠誠と誠実さに期待した公は、その職務に関して正規の栄誉、特権、自由、権利、報酬をうけた」。
当時、契約1年間のみで、その後は年々更新することができるとされたが、ファン・エイクは長年この宮廷に仕えた。
フィリップ公が財政建て直しのため、1426年12月に宮廷の人員削減を行った時も、ファン・エイクは引き続きそこにとどまっています。
画家兼外交官の「ヤン・ファン・エイク」
宮廷画家の職務は、現代の「美術」という言葉が意味するところよりもはるかに範囲の広いものでした。
ヤンは、公の要求することなら何でもこなすことを期待されました。
肖像画や公の住居の装飾を描くだけでなく、宮廷の衣装をデザインし、武芸競技会、儀式、祝典などの装飾も考案した。
盾文書を書き、旗を染め、彫刻の彩色を行い、さらには宴会のためのアントルメ(変わった工夫を凝らした料理)などの新趣向を考えることまで、彼の仕事とされた。
さらに、ファン・エイクは外交的手腕に優れていたので、その職務は画家としての仕事だけにとどまりませんでした。
これについて宮廷の文書には、「同じ公が、彼に命じたいくつかの場所を訪ねるある秘密の旅、その地名は明かされていない・・・・・」とある。
その後の10年間に、彼は数回このような秘密の任務に携わっています。
これらの旅を通して、彼は他の地域の町々の画家たちと知り合いになった。
なかでもフランドル地方は、重要な美術の中心地が互いにほど近い範囲に集まっていたため、その機会が多かったようです。
1427年10月18日には、彼は画家ギルドの仲間とともにトゥールネーで聖ルカの祭日を祝い、そこでワインの贈り物を受けています。
このとき彼は、トゥールネーの優れた画家ロベルト・カンピンとも会ったと思われる。
カンピンは、大胆で真に迫る彫刻的な様式によって、中世的画法をすでに脱していました。
花嫁の肖像
ファン・エイクが有産階級市民の町トゥールネーに行くこととなったのは、フィリップ善良公の結婚問題と関係があったのかもしれません。
フィリップ公はそれ以前に2回結婚していたが新しい花嫁を求めた。
最初はスペイン、次はポルトガルに新しい花嫁を求め、条件交渉するためスペインに送られたし使節団が、話し合いに失敗してトゥールネー経由で帰国しています。
ファン・エイクはこの使節団の一員に加わっていたかもしれません。
翌年の10月、ポルトガル国王ジョアン1世の長女イサベラとの結婚について話し合うためポルトガルに送られた使節団には、確かにファン・エイクが参加していた。
この船旅は長く、苦しいもので、悪天候のためイギリスで長いあいだ足止めされ、ヤンは1年以上国を離れていました。
この任務では、画家としての彼の役割が重要な意味をもった。
使節団は、「ブルゴーニュ公の侍従にして優れた画家であるヤン・ファン・エイク」が「本人を見て」描いたイザベラの顔の肖像画を持ち帰ったと、この任務の記録者は記しています。
これによって、フィリップ公は自分の求婚した花嫁の容貌を見ることができたのです。
しかし残念ながら、この作品は残っていません。
長い交渉がやっとまとまって、イザベラは1429年のクリスマスまでに無事ゼーラントのスロイスに到着し、婚礼の一行は1430年1月8日、ブリュージュに入った。
フーベルト・ファン・エイク
ヤンの兄フーベルトは謎につつまれ、彼についてはゲントの祭壇画を手がけたことを除いて、ほとんど何も知られていない。
1425年、彼はシント・バーフ大聖堂のための「ゲントの祭壇画」と同時に、聖救世主教会の祭壇のための絵を制作している。
「ゲントの祭壇画」の銘文には、兄弟のうちフーベルトのほうが偉大な画家だったと記されており、今日ヤンの作品と考えられて初期の無署名の作品については、どちらが作者であるかについて多くの議論が引き起こされた。
しかし、「ゲントの祭壇画」の一部を除いて、間違いなくフーベルトが描いたと考えられる作品は1つもない。
フィリップ公の結婚によってファン・エイクの生活は少し平穏になり、彼の最も大きな作品であるゲントのシント・バーフ大聖堂の巨大な祭壇画を完成する時間もできたのでしょう。
この絵は彼の兄フーベルトが描き始め、1426年に彼が死んだときにはまだ未完成であったと考えられる。
このような大規模な私的作品を制作するには、ファン・エイクは公の許可を得なければならなかったでしょう。
家庭人
このころ、ファン・エイクはマルガレーテという女性と結婚しました。
そして宮廷や諸外国の重要な建物があるブリュージュの北部地区に家を手に入れました。
彼は良き家庭人となっていて、少なくとも2人の子供が生まれ、ブルゴーニュ公はそのうちの1人の名付け親となってヤンに対する敬意を表した。
1430年代には、ファン・エイクはほかのパトロンたちのために絵を描く時間とチャンスを得て、強欲と高慢で悪名高い宰相ニコラ・ロランのためには、信仰心のあつい作品を描いています。
また1434年7月に市長がヤンの仕事場を訪ね、弟子たちの心づけを置いていったのは、この仕事に対する期待があったためでしょう。
「マルガレーテの肖像」 1433年
ファン・エイクが描いた、女性のみの肖像画で現存するのは、妻のマルガレーテを描いたこの絵だけである。
正確にな結婚の時期はわかっていないが、1433年頃と思われる。
2人はブルージュで暮らし、何人かの子供をもうけた。
しかし、ファン・エイクは依然としてフィリップ公の廷巨でした。
彼の俸給は生涯にわたる多額の年金となっており、公は彼の作品を高く評価していました。
1435年には、ファン・エイクの年金の支払いをしぶったリールの財務官に、フィリップ公が自ら注文をつけたこともあります。
そのようなことが原因となって、ファン・エイクが宮廷での勤めをやめてしまうのではないかという不安を、公は次のように記している。
「・・・・・・・・われわれは彼が専念することになるある重要な仕事を取り決めたいと考えている。われわれの好みに合う画家で、ほかに見いだすことはできない」。
1436年にもう一度「外国の地」へ秘密の旅に出たのを除いて、ファン・エイクはこれ以上ずっとブリュージュで暮らしました。
そして、フィリップ公の知遇を得てから16年後の1441年6月、ファン・エイクはこの世を去った。
宮廷で高い地位を得ていた彼は、古くから公家の墓地である聖ドナディアン教会に埋葬されました。
フィリップ公は残された妻に、「夫の奉職を考慮し、彼女とその子供たちが大切な人を失ったことを哀悼して」下賜金を賜り、ヤン・ファン・エイクの生涯とその作品に敬意を表したとされています。
宝石のような完璧さ
ヤン・ファン・エイクは当時からすでに高い評価を受け、伝統的にネーデルランド派絵画の創始者として広く知られている。
その名声は、主として彼が作品のなかに描き出した現実感を帯びたイメージと、歓喜に満ちた自然の細部描写や豊かな装飾的効果にもとづいています。
ファン・エイクの若いころのことはほとんど知られておらず、今日残っている絵は、すでに技量を十分に磨いた成熟期のものです。
ファン・エイクがブルゴーニュ公フィリップのもとで行った仕事は、多くが当座の装飾的な仕事であり、すでにずっと以前に失われてしまっている。
「ファン・デル・パーレの聖母」 1434~36年
教会監督ファン・デル・パーレは裕福な聖職者であり、この絵をブルージュの聖ドナティア教会に寄進した。
左手には聖ドナディアン、右手には聖ゲオルギウスが立ち、陽気な礼儀正しい身振りでファン・デル・パーレを聖母子に引き合わせている。
老人のはげ上がって、しわの寄った頭部の描写は徹底して写実的であり、ファン・エイクの細部に対する驚くべき注意力を示す数多い実例の1つである。
ファン・デル・パーレの眼鏡のレンズを通して見える、本の文字の行はゆがんでおり、聖ゲオルギウスの甲冑には室内の光景が光学的な正確さでこと細かに映っている。
これらすべてによって、この絵は並はずれた緻密さをもち、構想の壮大さと寸分の狂いもない細部の完全さを結びつけるファン・エイクの驚くべき能力を示す最も洗練された例と言えるだろう。
現在残っている作品は、宮廷に出入りした裕福な貴族たちのために描いたものです。
同時代の画家で、有産階級市民であるパトロンのために絵を制作したロベルト・カンピンは市井の女性を描いたが、ファン・エイクは自らのパトロンのために聖母像を描いています。
当時人気のあった室内の聖母像を描いても、ファン・エイクは聖母を玉座のようないちだんと高い椅子に座らせ、頭上には紋織物の天蓋、足の下には豪華なじゅうたんを置いた。
「ゲントの祭壇画」や「ファン・デル・パーレの聖母」などでも、天上の豊かさを示すため、宝石で飾り立てたローブや宝冠といった物質的なきらびやかさを描き込んでいます。
視覚的な現実感
当時は実物そっくりの肖像が求められるようになりつつあった時期であり、信仰は直接的で、宗教的教養を表す、明確で「現実感をもった」イメージが求められた時代でした。
ファン・エイクは鋭い観察力と、独特の現実感を帯びた表現を想像する恐るべき技法を十分に発揮してこれに応えた。
ファン・エイクはまわりの世界を観察しながらも、それを形態的正確さをもって再現しようと試みることはありませんでした。
そのかわりに、彼の知識を利用して、パトロンたちに身近なものと感じさせるような空間の風景や町や室内を描き出しました。
「ロランの聖母」の背景はマース川のようであるものの、どこの街とは特定できない。
「ロランの聖母」 1435年
聖母子の前で祈りを捧げる二コラ・ロランは、ブルゴーニュおよびブラバントの宰相だった。
3つのアーチはおそらく三位一体(父と子と精霊)を象徴するものと思われる。
その向こうにはみごとな風景が見え、ファン・エイクの卓越した空間と大気の描写が示されている。
1430年代になると、ファン・エイクは伝統と決別し、絵のなかの架空の空間において、前景のものが背景にあるものより高いところにあるように見える新しい高台型の構図を作りあげた。
この構図によって彼は、はるかかなたまでの眺望をもつ風景に対する関心、さらに発展させることが可能になり、彼は窓を通して、あるいは欄干越しに外を見て、室内と野外の関係を探ることも始めています。
また彼は、「ロランの聖母」のように、風景を見ている後ろ姿の人物を最初に描いた画家でしょう。
フィレンツェで考案された正確な化学的遠近法は、フランドルでは知られていなかったとはいえ、ファン・エイクは室内図を描くのに経験的な遠近法を研究しています。
人の心を動かさずにはおけない「アルノルフィーニ夫婦像」を描いたころには、額縁を越えて広がり鑑賞者もそのなかにとりこんでしまうような、前方に開放された現実の空間というまったく新しい効果を完全に作り出すことができるようになっていました。
「アルノルフィーニ夫婦像」 1434年
ジョヴァンニ・アルノルフィーニはイタリアのルッカ出身の商人で、1420年にブルージュに居を構えた。
妻のジョヴァンナ・チェナーミもルッカ出身でありる。
この肖像画が彼らの結婚の証拠として制作されたものであることはほぼ間違いない。
さまざまな象徴的な細部(例えば、犬は忠誠を表す)がこれをうらずけており、それにふさわしい厳粛な重々しさを備えている。
象徴主義も、ファン・エイクの宗教画や世俗的作品の重要な要素で、「アルノルフィーニ夫婦像」では、画面全体の自然な趣きを乱すことなく、多くの信仰の象徴を描き込こむことに心を砕いている。
一見すると、これらのシンボルは日常的なもののように見えます。
しかしファン・エイクは、おそらくこれらを伝統的な象徴主義に従って選んだのでしょう。
シャンデリアの、火のともるろうそくは神の存在を示し、犬は忠誠、窓から入る光線は神の顕現を表す。
透明の上塗り
ヴァザーリや初期の伝記作家たちは、油彩絵の具を発明したのはファン・エイクだと信じていました。
実際には、油彩絵の具はそれよりもずっと以前から知られていたのだが、使われる範囲はずっと限られていました。
ところがファン・エイクの時代には質の良いニスや溶き油や乾燥材が作られるようになり、ヤンはかつて例のない高度な技巧によって、その使用の可能性を探りました。
「聖バルバラ」 1437年
この精妙な油彩素描は、塔の前に座っている聖女を表している。
これを未完成の作品と考える専門家もいる。
ここに見られるその並外れた細部表現は、彩色されるものとして描かれた作品ではないことを暗示している。
彼は木の板にジェッソ(石膏)を平らに塗り、まず不透明な絵の具で絵を描き、その上に油をベースにした透明な色のついた上塗りを何層にも塗って、彼の作品に特徴的な明るく輝くような効果を出した。
ファン・エイクが見る者を納得させるような視覚の世界を再現することができるのは、彼の熟練した技巧によるものでした。
彼の描く人物像は自然な光によっえて際立たされ、ときには人物の足や天使の翼が絵よりも前方に突き出ているようなだまし絵的効果さえ作り出し、彼はまた、質感を正確に描くことを好んだ。
「枢機卿アルベルガッティ」の素描
この枢機卿アルベルティの銀尖筆素描は、ファン・エイクが下絵として描いたスケッチのうちで、現存している唯一のものである。
肖像には色彩についての細かいメモも記され、作品は忠実にそれに従って彩色されている。
ファン・エイクは肖像画の描法に対しても大きく貢献しました。
彼は身体的特徴を誇張するというゴシックの伝統を捨て、人物像を実物どおりに描いた。
顔を真正面と真横の中間に向けた4分の3正面の顔の角度が、従来の完全な横顔よりもはるかに自然であることに彼は気づいています。
顔を光のほうに向けると、こちらに見える側の顔面に落ちる影によって、顔の微細な部分を描くことができることも知っていました。
「枢機卿アルベルガッティの肖像」 1432年
1417年にボローニャで生まれ、この街の司教となった枢機卿アルベルガッティは、学識と敬虔さで有名であっただけでなく、その外交手腕でも広く知られていた。
数度にわたってローマ教皇から公的な任務を命じられて外国に赴き、1431年12月8日から11日にブルージュを訪れて、そのときファン・エイクがこの肖像画の下絵のデッサンを描いた。
彼はいつもながらの創意によって、最大の効果が得られる手の描き方を研究し、さらに新しい工夫(絵からの直接の反射光)の効果を実験した。
ファン・エイクは多くの作品で、適切なな銘句を入れることもかなり工夫を凝らしています。
それらは、絵そのもののなかに描き込まれている場合も多いし、額に描かれていることもあり、彼の作品に対する誇りと謙遜を反映して、「我能うる限り」という言葉がいくつかの作品に見られる。
名画「ゲントの祭壇画」
画派、時代を問わず、絵画史上最も高く評価される絵の1つである「ゲントの祭壇画」は、常にファン・エイクの名声の中心をなしてきました。
アルブレヒト・デューラーは1521年にこの絵を見に赴き、「驚嘆すべき絵」という彼の言葉は、何世紀にわたって画家や批評家たちのあいだで繰り返されてきました。
この祭壇画はきわめてドラマチックな歴史をもつが、幸運にも、おおむね無傷で今日まで残っています。
カルヴァン派の偶像破壊のが吹き荒れた1566年には、聖堂の塔のなかに隠されて、危うく破壊を免れた。
1781年には、神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世が裸体は不快だとしてアダムとイヴのパネルを取り外され、別のパネルは1794年にフランス軍に略奪され、1816年には教会の管理者がさらに別のパネルを売り払ってしまった。
1822年には聖堂の火災で、残っていたパネルが多少損傷を受けます。
祭壇画全体が再び1つにまとめられたのは、ようやく1920年になってからのことでした。
1934年には左下の「正義の審判者」のパネルが盗まれ、いまだに発見されていません。
現在見ることのできるパネルは、1943年から44年に制作されたコピーです。
人物の1人の容貌は、ベルギー王国レオポルド2世に似せて描き替えられた。
まとめ
15世紀の素晴らしい画家ヤン・ファン・エイクは、油絵の可能性を大きく世界に広めた大画家です。
彼の功績は数多く伝説となり、残された絵画は現在でも最も美しい画面を誇っています。
「画家たちの王」と言われているほどにその作品の質は、ずば抜けています。
現在フェルメールの作品が美しいと注目されていますが、それをはるかに超える美しさです。
また、細密的な描写や、独自で研究した遠近法もルネサンスのものとは違う独特の魅力があります。
彼が描いた、油彩画はのちのフランドル絵画の基本となり、その後継者たちはヤン・ファン・エイクの基本的技巧を守って制作しています。
特にルーベンスは、忠実に基本を守り、その絵画を大きく発展させています。
ヤン・ファン・エイクは、現在も多くの画家に影響を与え続けている「画家たちの王」だといえます。
・名画の特殊なグレーズ技法