「ミケランジェロ」 ルネサンスの英雄

ミケランジェロは美術史上、最も偉大な芸術家の1人に数えられる。

彼の華々しい業績には、絵画、彫刻、建築、さらには詩まで含まれています。

誇り高いフィレンツェ市民であった彼は、最初からその英雄的な才能によって家門の地位を高めることが運命づけられていた。

ロレンツィオ・デ・メディチの宮廷の一員迎えられたいという彼の大望は、まもなく実現されて、ミケランジェロの名声はまたたく間に広がり、ついには名高いローマのシスティーナ礼拝堂の天井画を描いて、さらにその名声は高まりました。

フィレンツェ人のミケランジェロは、長い生涯の大半をローマで、諸教皇のための制作に明け暮れます。

彼は創造力と多彩な技量によって、「神のごとき」と呼ばれ崇拝され89歳で亡くなり、葬儀はフィレンツェで盛大に行われた。

 

「ミケランジェロ」の幼少時代

ミケランジェロ・ディ・ブオナローティ・シモーニは、1475年3月6日、トスカーナ地方のアレッツォ近郊の町カプレーゼで生まれた。

彼の家族はフィレンツェの市民であり、父のロドヴィコ・ブオナローティは、ミケランジェロの誕生の数週間後、カプレーゼの行政官としての任期を終えてフィレンツェに戻りました。

フィレンツェに着くとまもなく、ブオナローティ家では、セッティニャーノから数キロメートル離れた同家の農園に住む乳母のもとに赤ん坊を預けた。

この環境がミケランジェロに決定的な影響を与えたと思われる。

セッティニャーノ付近には石切リ場が多かった。

そのうえ乳母の父も夫も石工で、ミケランジェロはのちに「私は乳母の乳といっしょに、彫刻をつくるのに使う鉄槌やノミも吸い取ったのだ」と、よく冗談を言っていました。

彼は子供のころから芸術的な野望にかられていて、13歳の少年の時、気の進まなかった父を説得して文法学校をやめて、当時フィレンツェで最も成功していた画家の1人ドメニコ・ギルランダイオの弟子になりました。

ミケランジェロの素晴らしい才能はまもなく現れ、1年ほどですでに彼は、師をひるませるような素晴らしいペン素描をえがいています。

 

ロレンツィオ・デ・メディチが認めた才能

1489年、ミケランジェロは、ギルランダイオの工房の何人かの優れた画家たちと一緒に、メディチ家の庭園にあったロレンツィオ・デ・メディチの新しい彫刻家のための学校で修行することを許された。

ここでは、イタリアで最も見事な古代彫刻のコレクションが木立のなかに点在していました。

ミケランジェロは年老いた彫刻家ベルトルトの注意深い監督のもとで、こうした古代の傑作を模倣し、研鑽を積んでいった。

このミケランジェロの優れた技量と集中力は、まもなく学園の学生仲間のあいだに嫉妬心を引き起こします。

彼の伝記作家であり友人でもあるジョルジョ・ヴァザーリは、弱い者いじめ若い彫刻家ピエトロ・トリジャーノがどのようにミケランジェロの顔面を殴り、彼の鼻を打ち砕いたかを伝えています。

ミケランジェロはこの事件と顔に受けた損傷に強い衝撃を受け、肉体的にも心理的にもこのことが「一生涯、彼に傷痕を残した」と思われるとヴァザーリは記している。

ミケランジェロの技量はいまや、当時フィレンツェの事実上の支配者であったロレンツィオ・デ・メディチ(豪華王)の特別な注目をひくものとなっていました。

彼は、ミケランジェロが制作する彫刻に強い印象を受け、メディチ家邸内で生活するようミケランジェロを招いたのです。

 

運命の転換

ミケランジェロはメディチ家邸内で恵まれた2年間を過ごし、見事な大理石の浮き彫り彫刻「ケンタウロスの戦い」を制作した。

しかしロレンツィオが1492年に亡くなると、ミケランジェロの運勢は下がり坂になり、家に戻って父とともに生活するようになります。

ロレンツィオの後継者ピエトロ・デ・メディチは、芸術家たちには好意的でしたが、芸術にはほとんど関心をもっていませんでした。

実際ピエロがミケランジェロに依頼した唯一の作品といえば、1494年1月に大雪が降ったときの子供っぽい思いつきで作らせた雪の塑像だけでした。

退屈を慰めるために、ミケランジェロはサント・スピリト聖堂の解剖死体から解剖画を詳細に研究することにその才能を注いだ。

これは木彫の十字架を彫ることの見返りとして、副修道院長が彼に与えた奇妙な特権でした。

ピエロの無計画な統治のもとで、フィレンツェは政治的にしだいに不安定となり、生臭い低俗の説教師たちが多く聴衆を集めた。

特にサボナローラというカリスマ的なドミニコ会士が不穏な影響力をもっており、フィレンツェの堕落を告発し、罪深き都市の破滅が差し迫っていると予言していた。

フランスのシャルル8世のイタリア侵略が不安な火をつけ、ミケランジェロは、耳のなかで鳴り響くサボナローラの言葉によって仕事をやめ、1494年10月、ヴェネツィアに逃れます。

これが数ある彼の逃亡の最初のものになる。

一時ヴェネツィアで過ごしたのちミケランジェロはボローニャに赴き、そこで1年間滞在して、1495年に短期間フィレンツェに戻り「眠れるキューピッド」の等身大の像を制作しました。

この作品は、メディチ家のある者が「古代の作品としても通用するだろう」と言ったほど素晴らしいものでした。

その後このキューピッド像は、ミケランジェロの知らないうちに、ローマで古代彫刻として売られたそうです。

 

「ミケランジェロ」のローマ訪問

1496年、一躍ミケランジェロを有名のにしたこの名高い「眠れるキューピッド」事件がきっかけとなり、彼はローマへ招請された。

ここで彼は銀行家ヤコポ・ガッリのための大理石の「バッカス」を、そしてフランス人の枢機卿ジャン・ピエール・ド・ラグロラのために現在サンピエトロ聖堂にある有名な「ピエタ」を制作しました。

「ピエタ」の目をみはるほどの美しさと独創性は、ミケランジェロの不朽の名声をもたらし、まもなくイタリアの彫刻家の第一人者として知られるようになります。

1501年には、彼は英雄としてフィレンツェへ帰ることができ、彼は堂々たる「ダビデ」像を彫刻して、さらに名声を高めることとなった。

子の像はパラッツォ・デラ・シニョーリア(市庁舎)の前に置かれ、共和国の自由と勇気と美徳の象徴となりました。

「ダビデ」 1501~1504年

1501年、ミケランジェロは、重要な公的作品の依頼を引き受けるためにフィレンツェに戻ってきた。

町に到着すると、大聖堂造営委員会の事務所に打ち捨てられていた大理石の塊が彼に与えられた。

40年ほど前に、別の彫刻家がそれで彫像を作り始めたが、失敗して放置されたままになっていた。

当時、フィレンツェの市当局は、ミケランジェロが共和国市民の勇気と不屈の精神を象徴するダビデの記念碑的な彫像を作ることを期待していた。

石の塊は丈高で幅がなく、かなりひび割れていた。

それにもかかわらず、ミケランジェロはこうした障害を乗り越え、驚くほど解剖学的に正確な人物像を彫りあげた。

旧約聖書のこの若い英雄は投石器を肩にして、かれから起こることへの期待と挑戦に緊張したポーズで立っている。

この伝説的な彫刻家はしだいにその力を強めていきます。

教皇アレクサンデル6世の死後まもなく、ミケランジェロは新教皇ユリウス2世に仕えるため再びローマに招請されました。

ユリウス2世はミケランジェロが仕えた7人の教皇の最初の教皇で、2人のかかわりあいは波乱に満ちたものとなります。

 

サン・ピエトロ大聖堂の設計

同じころ教皇ユリウス2世は、ローマのサン・ピエトロ大聖堂の全面改築という雄大な計画を考えており、お気に入りの建築家ブラマンテに設計を一任していた。

ミケランジェロは、壮大な構想を実現させようと希望に燃えてローマに戻ったが、教皇は彼に会おうともしません。

ミケランジェロは怒り、新しいサン・ピエトロ大聖堂の定礎式の日にわざわざローマを去ってフィレンツェへ帰ってしまいます。

教皇はミケランジェロと同じく激怒したが、使者を送り、「是が非でも」戻るようにと命じたことで、結局ミケランジェロは命令に従い、自ら首に縄を巻きつけて教皇のところへ行きました。

「ピエタ」 1497~1500年

ミケランジェロはローマでフランス人枢機卿のために、みごとなサン・ピエトロ大聖堂の「ピエタ」を制作した。

これが公開されると、当時の人々はその並外れた美しさ(衣類のひだの隅々までみごとに彫刻され、磨き上げられていた)に深い感銘を受けた。

しかし、聖母が若く見えすぎるという文句を言うものがいないわけではなかった。

それに対してミケランジェロは「真に美しい女性は、年をとらないということを、みなさんご存じないのか?!」と言い放った。

実にミケランジェロらしいセリフです。

ちょうどボローニャを征服したばかりで寛大な気分になっていたユリウス2世は、ミケランジェロにブロンズの巨大な教皇像を依頼してこれに報いたと言います。(像はのちに破壊された)

ミケランジェロはまだ墓碑を完成させることを夢見ていたが、ユリウス2世はシスティーナ礼拝堂の天井画を新しく装飾しようと決心していました。

ブラマンテが、ミケランジェロには「そういう仕事に対する能力が欠けているのではないか」、という言葉に刺激されたためか、結局ミケランジェロはこの依頼を受け入れました。

「アダムの創造」 1511年

システィーナ礼拝堂に、ミケランジェロは「創世期」から9つの場面を描いたが、そのうち最も有名なものが「アダムの創造」である。

ここでは、アダムの生気のない体が、優しい指先の触れ合いによって神の精霊で充たされようとしている。

この力強いイメージは、神が指を触れることによって弱々しい肉体に力と勇気を回復したという、ラテン語の讃美歌「ヴェ二・クレアトール・スピリトゥス」(精霊の聖歌)から連想したものかもしれない。

しかし彼はつねに、絵画は自分の仕事でないと言っており、彼の描いたフレスコ画の最初の部分にカビの斑点が現れ始めたとき、再び依頼を放棄しようとしましたが、4年間にわたる激しい制作作業の末、1512年に天井画はついに完成した。

彼の作品が除幕されたとき、その印象は人々に畏敬の念をおこさせ、人々は何キロメートルにおよぶ旅をして、この「天使の業」を見に訪れました。

ユリウス2世は1513年、墓の完成のために必要な資金を残して亡くなります。

「システィーナ礼拝堂」

ミケランジェロによれば、教皇ははっきりとした神学的な助言は行ったものの、天井画の構想はミケランジェロに考えさせたという。

キリスト教の時代を予知していた旧約聖書の巫女やヘブライの預言者たちは、キリストの祖先たちのリュネット(半円形)やスバンドレル(三角壁)とともに点在している。

四隅のスパンドレルは旧約聖書の英雄を表しており、ヴォールドの9つの場面には「ノアの物語」と「天地創造」が描かれている。

後継者の教皇たちは、ミケランジェロが彼ら自身の栄光のために働くことを熱望し、別の依頼をしてはミケランジェロを悩ませた。

その後1527年、ローマは神聖ローマ皇帝カール5世の軍によって攻略された。

皇帝軍は主としてプロテスタントからなり、教皇権を打ち崩そうとしていた。

殺人と略奪の大混乱が続き、教皇クレメンス7世はサンタンジェロ城に幽閉された。

メディチ家は再びフィレンツェから追放され、共和国政府はミケランジェロをフィレンツェの築城責任者に任じますが、1529年9月、反逆を恐れて、ミケランジェロは賢明にもヴェネツィアに逃れます。

その後ローマで権力を回復した教皇クレメンス7世は結局、ミケランジェロの赦免状を書き、フィレンツェのサン・ロレンツィ聖堂でメディチ家の礼拝堂の仕事を続けるように命じた。

ミケランジェロはメディチ家の礼拝堂の廟堂を完成させたが、父の死の3年後の1534年、アレッサンドロ・デ・メディチの専制的な支配下にあるフィレンツェを去り、2度と戻ることはありませんでした。

ミケランジェロはローマを訪れたが、そこでは教皇クレメンス7世がシスティーナ礼拝堂の祭壇壁画を装飾するという壮大な計画を考えていました。

クレメンス7世はミケランジェロがこのこの絵画にとりかかる前に亡くなったが、彼の後継者パウルス3世はミケランジェロにこの仕事を継続させました。

「最後の審判」は1536年から1541年に描かれ、ミケランジェロ自身の精神的な苦悩を表した恐ろしいビジョンで貫かれています。

・「ミケランジェロ」天地創造

 

新たな友人たち

ミケランジェロは常に実践的なカトリック教徒であり、きわめて敬虔な人間でした。

後半生には信仰は彼にとってきわめて重要なものとなっていました。

これは、ぺスカラ侯爵未亡人ヴィットリア・コロンナ(彼が特殊なかかわりをもっていた唯一の女性)への大きな愛情と憧憬の結果であったとも考えられます。

「ヴィットリア・コロンナを描いたミケランジェロの素描」

ルネサンス期の傑出した女性であるヴィットリア・コロンナは、当時の一流の詩人や哲学者たちと交際していた。

彼女の生涯はヴィテルボの修道院では詩作と教会の改革に専念し、ローマではミケランジェロと知り合うこととなった。

ミケランジェロは、節度ある生活を送っていましたが、家庭生活は荒れており、どの召し使いも長く画、我慢できませんでした。

彼は「瓶に閉じ込められた魔人のように」1人でいることを好み、死を擬視していた。

1544年と45年の2度にわたって死を覚悟するほどの病気にかかった。

明らかに教皇たちの過大な制作依頼が、彼の体力を弱めていたのです。

「青年裸体像」

預言者や巫女たちのすぐ上に座っている「裸体像」は、それぞれが独自の役割を担っているように見えるが「天使」を表しているのかもしれない。

彼らは花輪やドングリの実「ユリウス2世の一族デラ・ロヴェーレ家の紋章の意巨」を周囲に配して、青銅のメダイヨンを支えている。

教皇パウルス3世はミケランジェロをサン・ピエトロ大聖堂建造主任にし、その後3代の教皇のもとで、聖堂の仕事は生涯続くこととなる。

彼は昔のライバル、ブラマンテの設計の単純さに戻そうとしたが、サン・ピエトロ大聖堂は彼の存命中には完成せず、結局彼の思うような設計とはなりませんでした。

晩年になって、ようやくミケランジェロは自分のために制作する時間をもてるようになり、フィレンツェ大聖堂の「ピエタ」のようなこの時期の彫刻には、強い精神性と優しさが表れています。

「ドゥオモのピエタ」

ミケランジェロは70代のときに自分の墓のためにこの「ピエタ」を彫刻した。

大理石にひびが入ったために未完成のまま放置されたが、ミケランジェロは弟子が作り直すことに同意した。

キリストの体を支えているニコデモの姿は、ミケランジェロの感動的な自刻像である。

教皇ユリウス2世は、この彫刻家の非凡な才能が早々にこの世から奪われてしまわぬよう、ミケランジェロの命を永えられるためなら自分自身の命や血の一部を喜んで差し出すだろうと常々言っていた。

彼はまたミケランジェロの遺体を作品と同じように永久なものとするために、彼の死後、防腐処理することを望んでいた。

結局、ミケランジェロはユリウス2世よりも長く生き、1564年2月18日に88歳で亡くなり、盛大な葬儀が行われました。

 

英雄的ビジョン

生前はもとより、その後何世紀にもわたって、ミケランジェロの芸術としての業績は、畏敬の念をもって尊重されてきました。

ジョルジョ・ヴァザーリが記したように、「恵み深い天の支配者は1人の芸術家をこの世に送り出すことをお決めになった。彼はあらゆる技術のそれぞれにおいて秀で、彼の作品のみが、絵画的意匠における完璧さとはなんであるかを(浮き彫り効果を得るための輪郭線や明暗の使用による正確なデッサンで)しめしてくれるのであり、また彫刻においては、いかに正しい判断力で制作するかを、そして建築においては、心地よく確実で、健全で見て楽しく、均整がとれ、豪華に装飾された建築物をいかに創作するかを示してくれるものである」というのも、ミケランジェロは「ただ単に1つの芸術だけでなく、絵画、彫刻、建築すべてにおいて最高だった」からです。

まず第一に、ミケランジェロは巧みな人物像、特に男性の裸体によって才能を示した。

ルネサンスの考え方によれば、人間はすべてのものの基準であり宇宙の中心と考えられていました。

しかし、ミケランジェロはもっともらしい風景のなかに人物を描く事に興味を持たなかったし、肖像画にも興味を示さなかった。

理想化された姿で描かれた人物像のみが、彼の雄大な構想の表現にふさわしい高貴な伝達手段でした。

「預言者ヨナ」

預言者ヨナはシスティーナ礼拝堂祭壇の上の高い位置を与えられている。

キリストが墓から復活したように、魚の腹のなかから現れてキリストの復活を予示しているためである。

ミケランジェロは、人物を極端に短縮したポーズが特に気にいっていた。

人間の体についてのミケランジェロの造詣は、画家マザッチオと彫刻家ドナテロの力強い作品の影響を受けています。

しかし、彼の最も重要なインスピレーションの源泉は、ロレンツィオ・デ・メディチの宮殿で彼が初めて目にした古代彫刻だった。

ミケランジェロの時代の芸術家たちは古代彫刻の「生命感」を認識した最初の人たちでした。

古代の著述家、大プリニウスによって言及されていた「ラオコーン」や「ベルべデーレのトルソ」といった優れた手本の数々が、地中から掘り出されていた。

ここにはヴァザーリのいう「生き生きとした肉体の魅力と活気に満ち」、ごく自然で、優美で、動きに富んだポーズの人物像がありました。

ミケランジェロの最も初期の作品の1つは、戦闘場面を描いたローマの石棺にインスピレーションを得ており、すさまじい戦闘に巻き込まれた男たちの一団を表現しています。

さまざまなポーズで身をよじる、これらのがっしりした筋骨たくましい裸体像は、ミケランジェロの堂々たる様式の基本となっている。

 

「ミケランジェロ」の感情表現

「最後の審判」のような晩年の作品んでは、人体はあらゆる人間の感情を表現するための道具となっています。

身をよじり苦悶する人物は、ミケランジェロ芸術のきわめて個人的な側面を表している。

ほかの多くの作品と同じく、そうした人物たちは苦悩によって、そして多くの解説者たちが気づいているように、苦悩に満ちた挫折感によって特徴づけられています。

「最後の審判」 1536~1541年

この巨大なフレスコ画「最後の審判」は、システィーナ礼拝堂の祭壇画を飾るものとして、教皇パウルス3世に依頼されたものである。

ミケランジェロは助手の助けを借りずに1人でこの絵を描く事を決意した。

足場から落ちて大けがをしたときも、医師の手助けさえ拒絶したのである。

この畏敬念の念を起こさせる画面構成は、ラテン語の讃美歌「神の怒り」と、ミケランジェロが暗記していたダンテの「地獄編」から大きなインスピレーションを得ていた。

このフレスコ画が公開されるとすぐ、人物の裸体についての論争が巻き起こった。

結局、すべての人物に腰布をつけることが決められた。

この仕事は、ミケランジェロの死後まもなく、「腰布の画家」とあだ名された何人かの画家たちによって行われた。

ここには人間の動きやポーズの真の百科全書が提示されているのであり、そのすべてがミケランジェロの芸術の畏敬の念を起こさせるような力(当時の人々はそれを恐ろしさと呼んだ)の証となっている。

ミケランジェロは人体のメカニズムをきわめてよく理解していたので、思いのままに人体を操ることができました。

彼は、モデルを用いて多くのデッサンを描き、生涯にわたって死体の解剖を続け、こまごまとした筋肉や腱や小さな血管の位置をすべて知っていいたばかりか、驚くべきことに、彼は1つのポーズを2度と繰り返して用いることは決してありませんでした。

彼の制作の2つの主要な分野はフレスコ画と大理石彫刻であったが、いずれの場合も人物や人体各部の位置や関連を練った予備的なデッサンに基づいていた。

彼のデッサンを見ると、彼は彫刻するときと同じく、描くときも当然のごとく三次元的に物を把握していたことが分かります。

明暗が明快に用いられ、浮き彫りのような奥行きを構図に与え、質感を変えている(彫刻においてもミケランジェロは、人物の肌の表面はきわめて滑らかにする一方、乱れた髪や大理石の一部を荒削りのまま仕上げずにおくという対比を好んだ)。

これと同じようにミケランジェロは、絵を描くときは筆を用いて人物を明暗でモデリングし、鮮明な浮き彫りとし、色彩は単なる強い輪郭線の中を埋めるだけに使用されました。

「絵画は浮き彫りに近づけば近づくほど良いものとなり、浮き彫りは絵画に近づけば近づくほど悪くなる」と彼は手紙の中で書き記し、そしてその態度は、彼の友人である商人のアーニョロ・ドー二のために制作した「トンド・ドー二(聖家族)」で立証されています。

この作品はテンペラ画で、顔料を混ぜる媒体として卵を用いられていて、色彩は生硬で鮮明です。

「トンド・ドー二」 1503~1504年

この世家族の群像は、ミケランジェロの絵画様式の堅固で彫刻的な特徴を示している。

フィレンツェでは、聖母子を描く場合、トンド(丸形の画面)がよくつかわれていた。

 

ねじれたポーズ

「トンド・ドー二」は、ミケランジェロが色彩の表現力に富んだ使い方よりも、構図の線的なリズムや人物像のコントラポスト(ねじれたポーズ)、にいっそうの興味をもっていたことをはっきりと示している。

ミケランジェロが絵の具それ自体、言いかえれば色彩それ自体に美的な喜びを感じなかったことは明らかで、また、レオナルド・ダ・ヴィンチの複雑な人物群像を賞賛していたものの、彼の霧のかかったようなスフマート技法を習得する暇はありませんでした。

まったく同様なことがシスティーナ礼拝堂の天井画についてもいえる。

「瀕死の奴隷」

ミケランジェロは長い経歴を通して、英雄的な男性像の裸体は彼の絵画や彫刻のおもな主題であった。

彼は人物像を、神の作品を模するものと考えていた。

レオナルドと同じように、ミケランジェロは解剖学に精通し、「人間の足はいかなる靴よりも高貴であり、人間の皮膚はその上にまとう羊の皮より高貴であるということを理解しないのはまったく野蛮な人間である」と記している。

そこには人物像は淡く色付けされた彫刻のように見え、背景やひだの色彩は肉体の色調と調和しています。

ミケランジェロは、ギルランダイオの工房にいた時代にフレスコ画の手法を学んでいて、少なくても2層の漆喰(水で消石灰を砂に混ぜ合わせたもの)が壁面や天井画に使われており、この上から仕上げの漆喰が、画家が1日に描くことのできる分量ずつ、壁面を区分え塗られたのです。

「目覚める奴隷」

ミケランジェロによる4体の未完成の奴隷像は、もともとはユリウス2世の墓のための作品であった。

この人物は石のなかから逃れ出ようともがいているようだ。

仕事はこのように部分ごとに仕上げられていき、絵は漆喰がまだ乾かないうちに描かれ、水に溶いた顔料は漆喰のなかまでしみ込んで乾燥するとともに固着する。

ブオン・フレスコと呼ばれるこの手法は、フレスコの表面がはがれ落ちることがほとんどなく、フレスコ・セッコ(乾燥した漆喰の上に描くというもう1つの手法)があとで加えられた場合よりも色彩ははるかに鮮明でした。

イタリア・ルネサンスの画家たちは、ブオン・フレスコはフレスコ・セッコよりも難しく優れた手法であると考られていた。

というのは、画家が迷うことなく大胆に素早く描かなければならなかったためで、これは、猛スピードかつ大規模なスケールで制作することを好んだミケランジェロにはうってつけの手法でした。

 

石からの解放

ミケランジェロは、絵画を軽視していたわけではなかったが、常に自分は彫刻家と考えていた。

彫刻は「素材を取り去っていく芸術」であると彼は述べています。

大理石の塊の前方から後方へ刻むことによって、彼は囚われた魂のなかからそこに存在している「イメージ」を開放していると信じていた。

この「イメージ」はすでに芸術家の心のなかにある理念であり、ミケランジェロはにとっては、その理念が十二分に実現されたとき、仕事は完成されるのでした。

ミケランジェロの建築もまた彫刻的な性格を基本としていた。

サン・ロレンツィオ聖堂のファサードやメディチ家廟堂といった彼の初期の仕事においては、彫刻はこうした建設デザインにとって不可欠な部分となっていました。

ラウレンティアーナ図書館の階段も彫刻的な特徴をもつものと考えられます。

また、サン・ピエトロ大聖堂の壮麗なドームといったのちの純粋な建築的な仕事でも、ヴォリューム、量塊そして建築の表面に現れる明暗の効果などに対する彫刻家としての姿勢が現れている。

彼は初期ルネサンスのデザインの調和と安定性を打ち壊して、感情の表出に関心を注いで解剖学的人体をあえてゆがめたように、彼は建築の諸要素をそのもともとの用法から離れて表現豊かに用いたのです。

 

まとめ

ミケランジェロはレオナルド・ダ・ヴィンチと並ぶ史上最高の芸術家です。

フィレンツェルネサンスが生んだ奇跡の英雄と称えられ、「神のごとき芸術家」を崇められてきました。

それほどに芸術家としては、レオナルド・ダ・ヴィンチ以上の名声があり、当時彼は、彫刻、絵画、建築の手本になり、マニエリズム表現の原動力になっています。

彼が生きている時がルネサンスの絶頂期で、ミケランジェロは多くの巨大プロジェクトを任されました。

バロック時代まで引き継がれたサン・ピエトロ大聖堂の建築イメージは、後の天才彫刻家ベルニーニに引き継がれ、その壮麗な芸術を現在の我々に見せてくれます。

ミケランジェロのサンピエトロ聖堂の建築基礎には、古代ローマの巨大浴場をそのまま利用して古代の建造物を保護し、融合させています。

ミケランジェロの天才的な創造性は、まだまだ我々の知らない部分にまで及んでいると言えるでしょう。

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ABOUTこの記事をかいた人

画家活動をしています。西洋絵画を専門としていますが、東洋美術や歴史、文化が大好きです。 現在は、独学で絵を学ぶ人と、絵画コレクター、絵画と芸術を愛する人のためのブログを書いています。 頑張ってブログ更新していますので、「友達はスフィンクス」をよろしくお願いします。