「ブリューゲル」農民の画家

ピーテル・ブリューゲルは16世紀ネーデルランド最大の画家で、熟達した素描家、版画家でもあります。

ブリューゲルは、農村の暮らしを見事に表現したために、「農民ブリューゲル」として広く名をしられていました。

しかし、ブリューゲルの生涯に関する数少ない資料によると、学識豊かな教養人だったようです。

略歴

  • 1525年頃 おそらくブレダに生まれる
  • 1545年頃 アントワープでピーテル・クック・ファン・アールストに弟子入りする
  • 1551年 アントワープ画家組合の親方として登録される
  • 1552-53年 イタリアに旅行。 おそらくローマの細密画家ジュリオ・クローヴィオとともに制作
  • 1555年 アントワープのヒエロニムス・コックのために版画の下絵を描く
  • 1559年 「ネーデルラントのことわざ」を制作
  • 1562年 アムステルダムを訪れる
  • 1563年 ピーテル・クックの娘マイケンと結婚し、ブリュッセルに居住
  • 1564年 長男ピーテル誕生
  • 1565年 「月暦図」シリーズを描く
  • 1568年 次男ヤン誕生
  • 1569年 ブリュッセルで死去

 

「ブリューゲル」の謎につつまれた生涯

ブリューゲルに関して、両親が誰で、どのように育てられ、どんな教育を受けたのか、まったく書簡や日記も現存せず、彼の考えを書き取った資料もありません。

ブリューゲルがいつ、どこで生まれたのかさえ不明なのですが、ある程度の根拠ある推測は成り立っています。

1551年に画家組合に親方として登録されていることから、通常の修行期間を送ったと仮定すれば逆算して1525年から1530年のあいだに生まれたと考えていいでしょう。

そして、イタリアのある著述家が1567年に「ピエトロ・ブリューゲル・ディ・ブレダ」と彼に言及しているところから、大半の学者は、当時ブラバント公国にあったブレダを彼の出生地としています。

ブリューゲルに関する早い時期の最も重要な情報源となっているのは、フランドルの画家カレル・ファン・マンデルがその著「画家の書」(1604年刊行)のなかで書いた簡単な伝記だけです。

ファン・マンデルの語るところでは、ブリューゲルはピーテル・クック・ファン・アールスト(1502-50年)の弟子として画家修業を始めたとあります。

師は、アントワープで一流の画家の一人で、絵よりもむしろ、出版活動で名を知られていました。

彼が1545年に世に出した、有名なセバスチアーノ・セルリオの建築書の通訳は、イタリア・ルネサンスの建築理念を北方ヨーロッパに広めるのにとりわけ大いな役割を果たしました。

 

「ブリューゲル」イタリアを旅行する

ブリューゲルの旅の行程はおもに、この時期に描いたデッサンと絵から知ることができます。

一定期間、ローマの細密画家ジュリオ・クローヴィオの工房に滞在したと思われます。

おそらく風景画の専門家として彼との共作し、さらに南のナポリ、レッジオ・カラブリア、シチリアに赴き、1553年にアントワープに帰っています。

皮肉なことに、ブリューゲルはこの長旅でイタリアではなく、みごとな眺めのアルプス越えの体験からインスピレーションをえることとなります。

壮大な景観がブリューゲルの想像力をかきたて、ファン・マンデルはその成果を次のように、しばしば引用されるくだりで記しています。

「彼はアルプスを越えたおりに、すべての山々や岩をのみこみ、帰郷してからそれをキャンバスや板の上に吐き出したと言われる。それほど自然を忠実に、あれこれの作品に再現することができたのである。」

 

「ヒエロニムス・ボス」に影響を受ける

この才能を大きく開花させたのは、版画家、印刷業者、出版者だったヒエロニムス・コックで、1555年からブリューゲルを雇い入れ。この若い画家の下絵による12枚の大判風景版画のシリーズを出版しました。

コック自身の好みは最新流行のイタリア様式であり、彼はブリューゲルを自分のロマ二スト画家スタッフに加える意図で南へ送り出したと考えられます。

実際にはブリューゲルの才能は別の方向に発揮され、1550年の末に、ヒエロニムス・ボスの象徴的な幻想画を見直す気運が起こりました。

ボスは1516年に没していますが、その模倣作品は死後も着実に売れ続け、ブリューゲルの雇い主を使って、この儲かる市場に手を出そうとしたようです。

ボスの影響は、ブリューゲルの絵画作品の何点かにも見て取ることができますが、コックの仕事をしていた時期に限られており、1563年にブリューゲルがブリュッセルに移って以後は、主題と形式の両面で、この種の作品への関心は目に見えて弱まっていきました。

 

「ブリューゲル」と「マイケン」の結婚

1562年、ブリューゲルはアムステルダムを訪れて市の門の素描を制作し、翌年には新妻マイケンとブリュッセルに家を構えます。

妻の人となりについては、ほとんどわかっていませんが、かつての師ピーテル・クックの娘で、当時19歳くらいでした。

ファン・マンデルによると、ブリューゲルは「彼女が幼いころ、よく腕に抱いてあやした」と言っています。

マンデルが記すところではまた、ブリュッセルへの移転は義母マイケン・フェルフルスト・ベッセメルスの強い勧めによるもので、彼女は、ブリューゲルの女性ときっぱり別れることを望んだからだと言います。

ブリュッセルは新たな挑戦の場と機会をもたらし、晩年の6年間、ブリューゲルはそこで最も重要なパトロンたちを獲得し、数々の最高傑作を生み出しました。

アントワープが富み栄えた商業都市だったのにくらべ、この新たな土地は政治の中心地で、貴族的な雰囲気に満ちていました。

神聖ローマ皇帝カール5世は、1555年の退位式の場に歴代ブラバント公の宮殿を選んでいたし、息子のスペイン王フェリペ2世は引き続き同市に行政の基盤を置きました。

 

「ブリューゲル」の画風の変化

ブリュッセルでとうとう、イタリア的な傾向がブリューゲルの芸術に入りこみます。

これはラファエロの有名なタピスリーの下絵という手本のためだったかもしれませんが、彼はそれをブリュッセルで見た可能性があると考えられます。

盛期ルネサンスの最高作に数えられる、ラファエロの手によるこれらのデザインは、ブリュッセルに贈られてローマのシスティーナ礼拝堂のためのタピスリーに織られたのが、それはフランドルの画家たちに多大な影響を及ぼしました。

 

アントワープでコックの仕事をしていたころは、姿を消していた風景画への情熱も取り戻し、1565年は最大の制作依頼を受けました。

裕福な銀行家二クラース・ヨンゲリンクが1年12ヶ月を描写する連作を注文したのでした。

うち5点だけが現存しており、素早い筆跡と薄い絵具の塗りから、ブリューゲルが急いで制作したことがわかるが、これは彼の傑作に数えられます。

なかでも「雪のなかの狩人」は空間の広がりをみごとに感じさせ、低地帯の雪景色を描く際にのちのちまで手本とされました。

 

 

「ブリューゲル」の晩年

晩年は、ブリューゲルはことわざの世界に立ちもどり、それらをおおいなる悲劇にたいするモニュメンタルな情景として描き表しました。

社会は利害のからむ党派が、狂信と自己満足と私欲でめくらになっていました。

まさに、盲人が盲人を導いていたのです。

多くの芸術家が死後しばしばオーラにつつまれるように、ブリューゲルが1569年9月に世を去ってのち、その名声は高まり、3年後、グランヴェル枢機卿が暴動の最中に失った彼の絵を取り戻そうとしたとき、それはすぐに途方もない高値がついていたと言います。

画家仲間のあいだでも絶大な尊敬を得ており、ヤン・ブリューゲルが両親の墓碑を飾る絵を選ぶに際して、結局ルーベンスの作品に白羽の矢を立てました。

ルーベンスはブリューゲルの最大の信奉者の1人であり、その精神の継承者になりました。

 

 

「ブリューゲル」世の習いを描く

ブリューゲルの偉大さは現在では広く知られわたっているので、生存中に至高の地位が認められなかったのが信じられないほどです。

一般大衆からからは大きな人気を得ていましたが、当時の専門家の多くがブリューゲルの絵を時代遅れとみなしていました。

その理由は、過去50年間にわたって同郷の画家たちがイタリアからネーデルラントに持ち込んだ革新に、ブリューゲルがいっこうに関心を示さなかったからでした。

1世紀以上も前からブリューゲルの素朴な聖書に出てくるテーマを現実生活の情景として描き始めており、そこでは日常の物事を象徴的に用いることによって出来事の真の意味が強調されました。

ブリューゲルも同じような物語風の手法を好み描きますが、彼の場合は人文主義的な素養に裏打ちされていて、宗教的テーマよりも世俗の事柄をことさらに描き、来世における因果応報よりはむしろ現世の人間の愚行を際立たせました。

ブリューゲルの初期の作品表現のほとんどが、先人から受け継いだものでした。

ボスからは、奇怪な生き物という遺産を相続しましたが、それはもともと写本や教会のグロテスクな絵や彫刻に由来しています。

現代人の目には、これらは幻想の産物と映りますが、当時の人々にとっては華麗な象形文字と同様、文字どおり読解可能なものでした。

 

「ブリューゲル」のインスピレーションの源泉

ブリューゲルはしだいに、印刷術の発明以来広く広まった通俗文学という太い地下水脈からインスピレーションをくみ上げるようになりました。

なかでも多く読まれたことわざと道徳的な寓話集で、それらは新旧の聖書や古典文学から題材を得ており、俗人のバイブルとして大きな役割を果たしました。

これらの寓話集のなかで特にもてはやされたのが、ゼバスティアン・ブラントの「愚者の船」で、1494年に初版が刊行されたこの書は、ブリューゲルの時代にあってもなお人気が高く、数多くの木版挿絵が施されていたために、当時の画家たちに多大な影響を与えました。

ブラントの成功によって同種のものが数多く世にでましたが、オランダの著名な人文学者エラスムスの「格言集」がとりわけ有名です。

ブリューゲルはこのような書物から豊かな作物を刈り取って、「ネーデルラントのことわざ」のような作品で、人間の愚かさの実例を色鮮やかにあばき出しています。

また「イカロスの墜落」、「盲人の寓話」といった神話と聖書を題材にした作品にも、それが見られます。

ブリューゲルの大作の大部分がオーク材の板に描かれ、サイズ(陶砂)とジェッソ(石膏を膠で溶いたもの)の地塗りという面倒な準備をして描かれています。

16世紀からしだいにキャンバスが板に取って代わり、テンペラ(顔料を卵黄で練った絵具)に替えて油絵の具が使われ始めました。

ブリューゲルが活躍したのはこの過渡期にあたり、彼の絵の大半は板に油彩ですが、キャンバスにテンペラを用いるものもあります。

キャンバス地のものはわずかしか残ってなく、「盲人の寓話」や「人間嫌い」などの晩年の作品が優れた作例といえます。

 

変化した画風

1563年にブリュッセルに移ると、ブリューゲルの作品に新たな表現力が備わり、初期の小さく特徴のはっきりしない人物群に代わって、体のがっちりした個性あふれる農民たちが登場するようになります。

実物のモデルを使った一連の素描は、農民、兵士、商人などのみごとな線と力強い線とボリューム表現の面でこれまでにない説得力を感じさせます。

チョークとペンとインクで念入りに仕上げられており、その細部からしてアトリエで仕上げられたようにみえます。

 

農村への遠出

ブリューゲルの晩年の作品には、人物習作が大きな役割を果たしています。

名作「農民の踊り」には、自然主義と世俗信仰のみごとな融合がみられ、一見すると、絵はあたりさわりのない祭り騒ぎの忠実な描写と思えますが、実のところは、人間の罪業と信仰軽視という古くからのテーマの再現なのです。

右側の教会と聖堂はなおざりにされ、中央の踊り手は知らずわらの十字架を踏みつけていて、象徴的表現のほとんどが悪徳をさし示すのが難しく読み取れます。

教訓話を自然主義的に表現した点で、この絵はのちの世代のオランダ風俗画の先例となっています。

 

名画「ネーデルラントのことわざ」

ことわざはブリューゲルの時代の主題として人気があり、ブリューゲル自身の作品にもよく登場するテーマです。

この絵ほど率直な例はなく、ここでは、村人総出で百を超すさまざまなことわざや、格言を身振りで演じています。

これらのことわざは2種類に別けられ、「人の愚かな振る舞い」を表すものと、「人間の罪深さ」を表現するものす。

光の入った籠を日なたに運ぶ男は前者の例で、亭主に青いマントをかぶせる女は不貞行為を象徴し、後者の代表例といえます。

ブリューゲルは同時代のフランス・ホールベンヒの版画を手本にした可能性があり、その版画には「これは一般の青いマントと呼ばれているが、世の愚行と名のついたほうがいいだろう」という文字が刻まれています。

この刻文はブリューゲルの作品にもあてはまるもので、それが本質的に、人の暮らしの情けないな光景をさらした教訓話だからです。

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