ヤーコプ・ファン・ロイスダールは、17世紀後半の優れた風景画家でした。
オランダのハールレムで働く画家の一族に生まれ、叔父のサロモン・ファン・ロイスダールは一世代前の画家たちの中でも最も才能のある風景画家です。
ロイスダールは、叔父の静香で控え目な画風を離れ、もっとドラマチックで華麗な絵を描くようになった。
ロイスダールは、生涯ののほとんどをアムステルダムで過ごし、エキゾチックな山岳風景を描きました。
アムステルダムで外科医をしていたとも言われていますが、確かなことはわかっていません。
略歴
- 1628年 ハールレムで生まれる
- 1646年 署名と制作年の入った最初の作品を制作
- 1648年 ハールレムの聖ルカ組合に入会
- 1650年 クラーク・ベルヘムとオランダ・ドイツ国境地方を旅行
- 1656年 アムステルダムに移る
- 1657年 プロテスタント教会で洗礼を受ける
- 1667年 遺書を作成
- 1670年 ダムの近くのスウェールツの店に引っ越す
- 1681年 いとこのヤーコプ・サロモン死亡
- 1682年 アムステルダムで死亡、ハールレムのシント・バーフ聖堂に埋葬
「ロイスダール」の幼少期
芸術家の一族
ヤーコプ・ファン・ロイスダールは、イサーク・ファン・ロイスダールとその2人目の妻マイケン・コルネリアスの息子として、1628年または29年ころ、ハーレムで生まれました。
誕生の記録はありませんが、1661年の法文書の中で年齢が32歳と書いています。
ヤーコプ・ファン・ロイスダールの幼いころの環境が、彼の画家になろうという決断をさせたことは間違いありません。

第一に、彼は芸術家の一族で父親は額縁作りと画商をしていた二流の画家で、タピピスリーの下絵のデザインをしていました。
もっと重要なのは、叔父のサロモン・ファン・ロイスダールは、17世紀初めの最も豊かな才能をもつ風景画家の1人であり、ハーレムの画家ギルド聖ルカ組合の長老だった。
オランダ風景画派の町
ヤーコプは生涯を通して叔父と近い関係を保ち、彼の初期の教育の多くはサロモンが与えたものと思われます。
さらに、ハーレムの町はオランダの風景画派の生まれた土地で、17世紀初頭以前には風景画はほとんど存在しませんでした。

少数の画家が単独に風景を描いているだけで、彼らの多くはフランドルからの移住者だったようです。
しかし、ヤーコプが生まれる20年くらい前から、一群の優れた画家たちがオランダ独特の風景画を作り出し、これがたちまち成功をおさめたのです。
ヤーコプの叔父はこのグループの主要なメンバーで、ほかにエサイヤス・ファン・デ・フェルデやヤン・ファン・ホイエンといった画家もいました。
「ロイスダール」の芸術的なつながり
少年時代の経験
これらの3人の画家たちは、生涯のいずれかの時期にハールレムに住むか、またはここで仕事をしていた。
なので、ヤーコプは少年時代に当時の最も大きな影響力をもつ画家たちと接していることになります。
父親はヤン・ファン・ホイエンと特に強いつながりを持っていました。

というのも、ホイエンは1634年、イサークの家で絵を描いたため、ハーレムのギルドから3ギルダーの罰金を科せられています。
彼はハールレムに滞在していたものの、画家組合のメンバーではなかったので、この町で仕事をすることを禁じられていた。
優秀な若者
ヤーコプ・ファン・ロイスダールの生涯について詳しいことはほとんどわかってなく、少年のころの教育がどのように行われたかははっきりしません。

最初は叔父の教育を受けただろうと考えられますが、2人の画風は異なり日付けの入った最も古い作品は、18歳にしかならない1646年のものですが、未熟さのかけらも見られません。
1648年には、ハールレムで独立して仕事ができるようになりました。
彼は画家組合のメンバーとしては異例の若さだったようですが、明らかに秀でた芸術的才能のため、特別に許可されたのです。
医師「ロイスダール」
混乱させる記述
ロイスダールの生涯がよくわからないことに加えて、特にある1点がますます我々を混乱させます。
それは、彼が医師の仕事もしていた可能性を示すいくつかの資料があることです。
画家で分筆家のアルノルト・ハウブラーケンは1721年に出版されたロイスダールの伝記のなかで、ロイスダールは若い時に医学の勉強を始め、「アムステルダムで何回か外科手術を行って、広く評判を得た」と述べているのです。
このような話は、ロイスダールの画家としての作品の多さ(700点に及ぶ)と折り合いをつけることが難しく、ハウブラーケンが同名の別の医師と混同している可能性もあります。

「エグモント城の廃墟のある風景」 1650年
この絵を描いた時期ロイスダールの関心は、細長い形態と堅ろうなマッスにあった。
廃墟を描きながら、彼は人間の仕事の永続性について何かを語ったのかもしれない。
対称を正確に描き表すことに、彼が興味を示していなかったことは確かで、この丘は想像上のものである。
しかし、ブラーケンの主張を裏付けるような事実はいくつか見られ、1720年にドルドヒトのオークションの販売カタログには、「きわめて独創的な滝のある風景画、ヤーコプ・ロイスダール医師画」という絵が記載されています。
また、ヤコブス・ロイスダールという名前がアムステルダムの医師名簿にあり、1676年(彼は40代後半)にフランス北西部のカーンの大学で医学の学位を受けたと記されている。
この文章にはいくつかの点でいっそう謎を深めています。
ロイスダールがカーンに行ったという証拠がほかにはいっさいないだけでなく、名簿のその名前はなぜか消されているのです!
真実が明らかになることは、おそらくないでしょう。

ロイスダールの旅
ハールレムでの修行時代に、ロイスダールはきわめてよく旅をしていますが、それほど遠くまで出かけたことはありません。
彼は明らかに絵になりそうな場所を好み、エグモント・アーン・ゼーの美しい教会の廃墟や、アウデルケルクのポルトガル系ユダヤ人の墓地などを訪れています。
1650年代にはもっと大胆になり、ドイツとの国境に近いオランダ東部地方まで足を伸ばして、友人で協力者であるクラース・ベルヘムは、しばしばロイスダールの画中人物として登場している。

「エグモンド・アーン・ゼーの海岸」 1675年
これはロイスダール最晩年の作である。
海岸の情景をおおう静けさを破るものはうねる波だけだ。
人物はヘラルト・バッテムが描いた。
彼は人物を小さく抑えて描くことによって、この絵のもつ雰囲気を高めている。
ロイスダールは1656年ころまでハールレムで暮らし、もっぱら仕事と家族のために身を捧げ、ごく若いときから父親に経済的な支援をしていたようです。(父親はいつもお金に困っていた)
1656年ころ、ロイスダールはアムステルダムに移り、残る生涯をずっとそこで過ごすことになります。
病と活動
アムステルダムのプロテスタント教会の記録のなかにある1657年6月14日付けの文書には、ロイスダールの受洗の意志が記されています。
最初、彼は市の中央広場ダムに近いジルベレ・トロンペットと呼ばれる家に住んでいました。
10年後、ロイスダールのいとこのヤーコブ・サロモンもアムステルダムに引っ越してきます。
この時代の多くのオランダ人画家たちと同じように、ロイスダールも主として公開の市場で仕事をしていたに違いありません。
したがって、彼のパトロンについての情報はほとんど残っていない。
確認されている唯一のパトロンは、裕福なアムステルダム市長、ゾイドポルスプルーク卿コルネリス・デ・フラーフだけでした。
肖像画家とマス・デ・ケイセルと協力して、ロイスダールはスースト・デイクの別荘にやってきたデ・フラーフとその家族の絵を描いています。

「2つの水車と閉じた水門」 1650年代前期
この水車は明らかにロイスダールのお気に入りのテーマで、再三これを描いている。
これは、オーフェルエイセル地方シングラーフェンの荘園にあり、ロイスダールの弟子のホッペマもこれを描いている。
水車をモチーフにしたロイスダールの作品の特徴は、泡立ち流れる水の描き方のみごとさにあり、彼がスカンディナビアの滝の絵を描くとき、この技巧はさらにドラマティックに使われる。
1667年5月、ロイスダールは2通の遺書を作成している。
遺書には自分のことを「病身であるが、身体的、精神的能力はもつ独身者」と書いています。
実際には、ロイスダールはこの後さらに15年生き、そのあいだに、彼の独創的でインスピレーションにあふれた作品を何点か制作している。
1670年ころ、彼はダムの南側にある、書籍・美術商ヒエロニムス・スウィールツはロイスダールのエッチングを多数刊行しています。
「ロイスダール」の同名のいとこの死
1681年、ロイスダールのいとこが発狂して、ハールレムの救貧院に収容され、その年の終わりに死亡しました。
長年この二人は混同されていたのです。
彼らは同じ名前だっただけでなく、年もほとんど同じだったため、ロイスダール自身が貧困のうちに死んだと信じられていました。

ですが、ロイスダールは生涯の終わりまで、その作品によって十分な収入を得ていました。
彼自身は1682年3月10日ころ、アムステルダムで没しています。
遺体はハールレムに運ばれ、壮大なゴシック建築のシント・バーフ聖堂に埋葬されました。
叙情画家「ロイスダール」
忘れがたい印象
1807年、フランスの画家であり批評家のジャン・ジョセフ・タヤソンはロイスダールについて書いています。
「同国のほかの画家には、彼が描き出すほど人の心を動かす詩情を見いだすことはできないだろう」
ゲーテもロイスダールの絵にこれと同じ叙情性を認め、「詩人としてのロイスダール」というエッセイを書きました。
謎めいた「ユダヤ人墓地」が彼の心を動かす1つの要因となった。

「滝」 1660年
滝はロイスダールが得意とした主題である。
実際に行ったことはなかったものの、彼はスカンディナビアの急流を特に好んだ。
1656年ころアムステルダムに移ったのち、1660年代を通してこれらの絵を描いた。
ロイスダールのカンディナビアの風景画のなかには、素朴な流涼としたものもあるが、ここには泡立つ水にもかかわらず、静かな雰囲気が感じられる。
ロイスダールの風景画がこれほど独特で忘れがたいのは、この叙情性にあり、現実のものであれ想像上のものであれ、ただ単に特定場所を描いたというだけのものではありません。
ロイスダールは特定の、天候や光線の条件下にある風景が醸し出す雰囲気をとらえ、一種のムードを作り出しています。
ロイスダールより前の世代のオランダの画家たちは、自分のまわりの土地を正確に描くことに一生懸命でした。
ドラマチックな表現
新しい共和国で生まれた国民の誇りにインスピレーションを得た、エサイアス・ファン・デ・フェルデやヤン・ファン・ホイエンなどの画家は、故国特有の風の特徴に注意を向けました。

「漂白場のあるハールレムの風景」 1670~75年
ロイスダールは画歴の終わり近くになってパノラマ風の眺望に興味をもつようになり、これと同じ主題で数点絵を描いた。
亜麻布の漂白はハールレムの繁栄の基盤となった産業の1つであり、したがってこの絵はロイスダールの市民としての誇りの表現と見ることができる。
砂丘の近くの泉の水に浸された長い布が、野原に広がてさらされるところを描いている。
遠景の建物は、ロイスダールが埋葬されたシント・バーフ聖堂である。
彼らの風景画は必ずしも特定の場所を描いたものではなく、野外で描かれることもほとんどなかったが、彼らの目的は、オランダの田舎の典型的な特徴を再現することでした。
このため、彼らの風景画は本質的にもの静かで、ドラマチックなところに欠けていました。

ロイスダールは先人の画家たちの伝統をドラマチックに打ち破り、ごく初期の作品ですら、叔父のサロモン・ファン・ロイスダールの影響はほとんど受けていません。
ロイスダールは何よりもまず、さまざまな主題を描き、まったく新しいタイプの主題を取り上げることも多く、先人たちと同様、ロイスダールも砂漠や海岸の風景など、この土地の典型的な風景を描き、同時に丘や岩の斜面、泡立つ滝など、オランダ人が身近に見る風景とは関係ないものを描いています。
創造的な姿勢
さまざまな構図のアレンジ
さらに、ロイスダールの風景に対す姿勢は、より自由で創意に満ちている。
彼の風景画はつねに観察にもとづいたものではあったのですが、実際に見た風景の特徴をアレンジし直して、さまざまな構図を次々に作り出しています。
なによりも重要なのは、ロイスダールが風景のなかの絵画的な要素を意図的に強調したことです。
色彩豊かな華やかな光線の効果、構図中に強いアクセントを置くことによって、なんの変哲もない平凡な風景を誇張し、ドラマチックなものにすることができました。

ロイスダールをきわめて高く評価したジョン・カンスタブルは、特に彼の作品のこの点を指摘しています。
彼はロイスダールの海景の一つについて、次ように記しています。
「主題はオランダの河口で、その風景の中に壮麗なものは何一つない。それにもかかわらず、嵐をはらんだ空、船の群れ、荒れる海あどがこの絵を、かつて描かれた絵のうちで最も印象深いものの一つとしているのだ」
エキゾティックな表現
画家になったばかりのロイスダールは先人たちの伝統により忠実に従っていました。
最も初期の絵は、主として砂漠風景、海岸風景、樹木の生えた小さな土地の風景など、前景や中景にある、特に何の変哲もないものに焦点が当てられています。

「オークの巨木」 1652年
この絵はロイスダールが署名し、日付けを入れており、古い資料によると、かつては画中の人物を描いたロイスダールの友人のクラース・ベルヘムの署名を入っていたという(現在は見えない)。
この種の合作はオランダでは珍しくはなく、特に「点景」(細部にちょっとした活気を与える小さな人物)についてはよく行われた。
たとえば「オークの巨木」では、注意の集まる焦点となるのはごつごつした形の木で、一部に斑点のように日光が当たってハイライトになっています。
岩の多いエキゾチックな風景や滝を描くようになったのもこの時期で、国境地方への旅などによってヒントを得たこうした作品は、最も人気の高いものでした。
新しい眺望を求めて
強調された美的雰囲気
ロイスダールの創造の才は、自分の目をひいた丘の高さや建物の大きさを誇張して描き、風景をドラマチックな美的雰囲気を絶えず強調しています。
ヴェストファーレン地方のベントハイム城の絵で特にそれが明らかで、12枚以上が現存しています。
城が建っている丘は実際には低いにもかかわらず、ロイスダールはこれを大きな急傾斜の山として描き、それが雲の盛り上がった空とともに、この城にほとんどおとぎ話のような外観を与えている。
ロイスダールは地形的正確さに大きな関心はなく、自分の見たものを創作のための基礎として用いています。

「ベルトハイム城」 1653年
1650年代の前期、ロイスダールは国境地方を訪ねた。
丘と森の連なる景観は、ハールレム周辺の平らな田園地帯に比べて、心の高鳴りを感じさせる変化だったに違いない。
パノラマ風の眺望
1660年代から1670年代の初めにかけて、ロイスダールは「城と廃墟と教会のあるひろがりのある風景」やハールレムと漂白場を描いたさまざまな風景のような、大型のパノラマ風の眺望を描いてさらにレパートリーを広げていきます。
ロイスダールは必ず高い視点を用い、シルエットになった教会の塔、きらめく水面、明るい光のあたる麦畑といった、構図上の強いアクセントを加えて、これからの平坦な土地の広がりに活気を添えました。
また、大きく広がる雲行きのあやしい空を入れて、風景に広々とした感じを与えています。

「城の廃墟と教会のある風景」 1665~70年
ロイスダールの最も壮大な広がりのある風景画の1つである。
彼は同様のパノラマ的眺望を示した作品を数点描いている。
これらはハールレムの風景と呼ばれることもあるが、それは正しくなく、この風景はおそらくは主として想像によりものである。
左手前の人物はアドリアーン・ファン・デ・フェルデが描いたものと考えれれる。
ナショナル・ギャラリーにはこの絵の小型バージョンがあり、ロイスダールの習作と思われる。
光と影の対比
ロイスダールの風景画の叙情性は、主として繊細な光と影の使い方からくるものでしょう。
彼は、光や天候条件を正確に観察し、すべての作品に今までにないような輝きを与えている。
対照的な光と影の使い方は、ときとともにますますドラマティックなものになっていき、壮麗な「日光の照射」のような作品でその頂点に達します。

「日光の照射」 1670年
この想像の風景は、古くからロイスダールの最も有名な作品の1つであり、19世紀の初め以来フランス語の題名(Le Coup de Soleil)で呼ばれている。
広がりと高さを感じさせる広大な風景画である。
日光が雲を突き抜けて射し、平らな河谷にアクセントをつけ、ドラマティックな感じを与えているのに役立っている。
この絵は1836年ころ、フランスのセーブル磁器のモチーフとして用いられた。
イギリスの偉大な風景画家カンスタブルは次のように書いています。
「風が吹き荒れることがなく、慌ただしく流れる大きな雲が、森の陰をも射し通す日光をほとんどさえぎってしまう、彼の祖国や我が国に特有のあの荘厳な日々をロイスダールは喜び、また、我々の目に喜ばしいものとした」
ロイスダールは風景画に独特の雰囲気を作り出すことに関心をもち、空と雲を描くことでこれを成し遂げました。
雲のない空は描いたことがなく、幅広い表現をし、特に得意としたのは暗い、のしかかるような空で、迫りくる嵐を描いてことが多い。
名作「ユダヤ人墓地」
「ユダヤ人墓地」はロイスダールの最も詩的で、独創的な作品です。

ロイスダールとしてはめずらしく、この絵は明らかに寓意的な意味を持ち、壊れた墓、教会の廃墟、枯れた木などはヴェニスタ(地上の営為のはかなさ)をほのめかす、彼独自のやり方で、この観念をシンボルによってのみでなく、暗い空、抑制された色調、密に茂った木の葉などがこの絵に荘厳な重苦しい気分を与えています。
同時にロイスダールは、よく知られた希望のシンボルである虹も描き込んでいる。
このバージョンは3点あり、下の絵は、嵐が過ぎ去ったような明るい光が差し込んでいます。

「ユダヤ人墓地」 1650年
このバージョンでは、光や色がいっそう加えられている。
虹もよりはっきりしていて、希望の復活が強調されている。
廃墟はエグモント修道院にもとづいている。
まとめ
ロイスダールのダイナミックな風景画は、後のイギリス絵画に大きな影響を与えるほどの物でした。
かつてない自然のドラマは、フランス人風景画家クロード・ロランと違う魅力を持っています。
オランダの気候による、大きな雲の風景は大地の広がりとパノラマ風景をさらに広く、天から見た地上は小さな世界にも見えます。
ロイスダールのロマンある世界は、何世紀も後の我々を絵画の世界に誘う。