アンソニー・ヴァン・ダイクは、美術史上最も成功した肖像画家の1人です。
彼が描き出した、イギリス国王チャールズ1世の宮廷の華麗なイメージは、同時代にはかり知れないほどの影響をおよぼしたばかりでなく、以後200年にわたるイギリス肖像画の方向を決定した。
ヴァン・ダイクは驚くほど早熟で、ルーベンスの影響を強く受けていますが、本質的には独学で大成した画家です。
1621年にはイタリアに行き、ジェノヴァの貴族の肖像画を描いて名をはせ、6年後にはアントワープに戻ると絵の注文が殺到して、イザベラ大公夫人の宮廷画家に任命されました。
1632年には、イギリス国王チャールズ1世の首席宮廷画家に任命されます。
このように成功はしても、ヴァン・ダイクは歴史画家になる希望を実現することはできなかった。
年譜
- 1599年 アントワープに生まれる
- 1609年 ヘンドリック・ヴァン・バーレンの弟子になる
- 1618年 アントワープの画家組合に登録。ルーベンスのもとで仕事を始める
- 1620~21年 最初のイギリス訪問
- 1621年 イタリア旅行、ジェノヴァに滞在
- 1627年 アントワープに戻る
- 1632年 イギリスに居を構える
- 1635年 「チャールズ1世の三面像」を描く
- 1640年 メアリー・ルースヴァンと結婚
- 1641年 娘誕生。 ロンドンで死亡
「ヴァン・ダイク」の幼少期
アントワープの生まれ
アンソニー・ヴァン・ダイクは、フランス・ヴァン・ダイクと、その2度目の妻マリア・カイペルスとのあいだの代7子として1599年3月22日に、アントワープに生まれました。
両親はごく普通の中産階級の出身で、父は服地商人、母は刺繍家でした。
絵の勉強
絵の勉強は幼いときから始め、10歳のときには、人物画で成功をおさめたヘンドリック・ヴァン・バーレンの弟子になっています。
しかし、ヴァン・ダイクは並はずれて早熟だったため、師は若い弟子にほとんど影響を及ぼさなかったようです。
ヴァン・ダイクはなかなかの野心家で、1615年ころには師のもとを去って2人の若い助手を雇い、アントワープにアトリエをかまえた。
したがって、正式に親方として登録されるまでは作品を売ってはならないという画家組合の規則を破っていたわけです。
ルーベンスの影響
ヴァン・ダイクが若いころのアントワープの美術界は、何と言ってもルーベンスの天下でした。
ルーベンスの才能に迫ることが、野心に満ちた若い画家の挑戦すべき目標だったことは間違いなく、ルーベンスがアントワープにいたからこそ、ヴァン・ダイクは独立を急ぎ、名声を確立しようとしたのでしょう。
また、彼が貴族的な物腰を身につけ、洗練されたイメージを人に印象づけようとしたことも、画家としてのみならず外交官、宮廷人として成功していたルーベンスを見習った結果です。
「荊冠のキリスト」1620年
ヴァン・ダイクはこの主題で、よく似た2点の作品をほぼ同じ時期に制作した。
ベルリンにあった作品は、第二次世界大戦中に失われた。
あるパトロンが絵に強い印象を受けて、レプリカを依頼したことは間違いない。
がっしりとした筋肉を示す人物は、ルーベンスが若きヴァン・ダイクに与えた圧倒的な影響を示している。
若くして獲得した成功と名声
聖ルカ組合の親方として登録
1618年2月11日に、ヴァン・ダイクはアントワープの聖ルカ組合に親方として登録されました。
この年に初めて、ヴァン・ダイクはルーベンスと直接交わるようになります。
ルーベンスは、ジェノヴァのパトロンのために古代ローマの執政管デキウス・ムスの生涯を表す連作タピスリーをデザインしていました。
彼は、ヴァン・ダイクに手本をもとに実物大の下絵を描かせたようで、ヴァン・ダイクは巨匠の仕事ぶりを見る絶好の機会を得る。
2年後、21歳のときヴァン・ダイクはアントワープのイエスズ教会の天井画(現在は失われている)という大きな依頼でルーベンスの筆頭助手となったことが記されています。
これは、ヴァン・ダイクの画家としての成功を約束することになります。。
ルーベンスのすすめ
ヴァン・ダイクの並はずれた豊かな才能と野心をまのあたりにしながらも、ルーベンスには若い弟子に脅威を感じたような形跡はまるでない。
しかし、自分がさほど関心を示さなかった肖像画を専門とすることをヴァン・ダイクにすすめたのはルーベンスその人だったと言われています。
実際、ルーベンスが、ヴァン・ダイクを支援したことは間違いなく、公然と弟子の才能を賞賛して、彼自身ヴァン・ダイクの作品の9点を所有した。
「エジプトへの逃避途上の休息」 1630年
ヴァン・ダイクの最も慈しみに満ちた宗教画の1つで、長期にわたるイタリア滞在とイギリス時代に、はさまれた第二期アントワープ時代の傑作の1つである。
ヴァン・ダイクは女性の美しさに特に敏感で、激しい不思議な表情の聖母マリアの頭部は、ヴァン・ダイクの作品中最も魅力あるものである。
アントワープでの名声
1620年には、ヴァン・ダイクのアントワープでの名声は確固としたものになっていました。
この7月、イギリスの宮廷に大きな影響をもっていたアランデル伯爵夫人が、イタリアへ向かう途中アントワープに立ち寄り、ルーベンスに肖像画を描かせた。
「第二代アランデル伯トマス・ハワードとその夫人アラシーア」
当時最大のパトロンで収集家の1人であり、イギリスで彼をしのぐ人物はチャールズ1世のみであった。
このヴァン・ダイク作の肖像画には、トマス・ハワードとその妻のアラシーアが描かれている。
このとき伯爵夫人に同行した秘書のフランチェスコ・ヴェルチェリーニは、ロンドンのアランデル伯爵に夫人の絵の進み具合について手紙を送り、そのなかでヴァン・ダイクについて書き添えています。
「ヴァン・ダイクはまだルーベンス氏のもとにおりますが、その作品は師に劣らぬ評判を受けております。彼は21歳の若者で、たいそう裕福な両親がこの町に住んでいます。 したがってここを去らせるのは難しいでしょう。 なんといっても彼はルーベンスに次ぐ成功を望んでいるのですから」と。
難しいと言いながらも、この手紙からは、是が非でもヴァン・ダイクに仕事をさせるよう伯爵にすすめるようすがうかがわれる。
ヴァン・ダイクの方は、イギリスを訪れる気になり、1620年11月までに、ロンドンに到着し、そこに3か月滞在することになります。
イギリス滞在
短いイギリス滞在は、ヴァン・ダイクには重要なものとなった。
それは、イギリスの代表的な収集家2人とつながりができたからです。
一人はアランデル伯その人で、もう一人は、アランデル伯爵のライバルで豊かな財力をもつバッキンガム公でした。
このときヴァン・ダイクは、アランデル伯爵の肖像、バッキンガム公には歴史画を描いて2人の注文に応えた。
さらに、特にヴェネツィア派の巨匠たちの作品を数多く所蔵する、彼らの豊富な絵画コレクションに接することができました。
ヴァン・ダイクはヴェネツィア派の巨匠たちを特に高く評価していましたが、アランデル伯はティッティアーノの作品を36点所有し、バッキンガム公のコレクションには、ヴェロネーゼの作品があった。
2人の作品は、アントワープでも何点かは見ることができたが、2人のコレクションに接したことによってイタリア絵画への憧憬を強め、この翌年イタリアへ旅立つ決心を固めたことは、疑う余地もありません。
イタリア時代
イタリア・ジェノヴァへ
1621年10月3日にイタリアへ向けて出発。
最初に訪れたのは優雅な町として知られるジェノヴァでした。
イタリアをまわったとき、ジェノヴァに強い印象を受けたという師ルーベンスのすすめに従ったのかもしれません。
ヴァン・ダイクが貴族の肖像画家としての道を歩み始めたのは、まさしくこの町でした。
ルーベンスのジェノヴァ時代の肖像画をまのあたりにして、独自のスタイルを劇的に開花させ、洗練を極めた比類ない肖像画の創作を開始するようになった。
その一例が「侯爵夫人エレーナ・グリマンディーの肖像」です。
「侯爵夫人エレーナ・グリマンディの肖像」1623~24年
エレーナ・グリマンディ侯爵夫人を精妙に扱っているのと対照的に、従者は自由に描かれていて、この肖像画に視覚的な面白さを加えている。
下から見上げるような構図は、侯爵夫人の威厳を感じさせるためである。
長期のイタリア滞在
ヴァン・ダイクには、貴族のパトロンたちの壮麗な館での生活は心地よかった。
17世紀の伝記作者ベローリは、イタリアに着いたヴァン・ダイクを「その物腰は、平民というよりは貴族のそれに近かった。 貴族たちに取り囲まれたルーベンスの工房での習慣が身についていたからである。 それに生まれついての立派な容姿、名声にたいする野心、高価な服に加えて、帽子には羽飾りを差し、胸には金の鎖をたらして、召し使いも連れていた」と書いています。
もっとも、仲間の画家たちにはこの貴族的な物腰が不評でした。
ベローリによると、ローマ在住のフランドルの画家たちには、新たにここへやってくる仲間を迎え入れる会を催す習慣がありましたが、ヴァン・ダイクはこれを断って、彼らの気分をすっかり害してしますたそうです。
意外なことに、ヴァン・ダイクはルーベンスとは異なり、イタリアを広く見物してまわることはなかった。
行くところを選び、あらかじめ見たいものを決めてから旅行しています。
彼のノートには、ティッティアーノ、ヴェロネーゼら有名なヴェネツィア派の巨匠たちの作品や、生活風景のスケッチが描きとめられている。
彼は、大半をジェノヴァで過ごし、肖像画の依頼を受けた。
イタリア滞在はかなり長期間に及んび、1627年の半ばには姉のコルネリアが亡くなったこともあってアントワープに帰っています。
それ以後の6年間は、ヴァン・ダイクの生涯で最も実り多い時期で、教会からの注文が続き、肖像画としての依頼も殺到する。
イギリスでの評判
1630年5月までに、未亡人となっていたイザベラ大公夫人の宮廷画家に任命され、イザベラとその側近たちの数多くの肖像画を制作しました。
ここでは華やかなイタリア時代の肖像画を、制作質実なブリュッセルの宮廷に合うようにスタイルを変えている。
神話を題材とした「リナルドとアルミダ」のような作品もてがけ、この作品は1629年にはチャールズ1世の手に渡っています。
ヴェネツィア派の巨匠たちを彷彿させる「リナルドとアルミダ」に、イギリスの人々はうっとりとしたに違いありません。
イギリスの収集家たちが好んだのはなんといってもイタリア絵画であったから、この絵がロンドンで評判になったことは疑いないと思います。
おそらくこのこも、チャールズ1世が1632年にヴァン・ダイクを、イギリスに招くことを決めた一因になったに違いありません。
チャールズ1世の画家
歴代最高の人気肖像画家
国王の招請があったからとはいえ、すでにアントワープで華々しい成功をおさめ、基盤を確立していたヴァン・ダイクがなぜロンドンに移る気になったのかは、はっきりしていません。
しかし、ヴァン・ダイクが宮廷生活を好んでいたことは確かです。
ルーベンスはチャールズ1世のことを、「世界の君主のうち最高の絵画愛好家」と評しています。
王はホワイトホール・バンケティング・ハウスの天井画をルーベンスに依頼しました。
「ニコラス・ラニア」 1628年
ニコラス・ラニアはチャールズ1世の音楽の教師であり、同時に、ヨーロッパ大陸で絵画の買い付けをする国王の代理人でもあった。
彼自身もアマチュア画家として豊かな才能を持っていた。
ヴァン・ダイクがアントワープでこの肖像画を描いたのは1630年のことであり、彼が2年後にロンドンに移り住む決心をしたのは、ラニアの影響によると思われる。
また、その国王は、ヴァン・ダイクを優遇しました。
ヴァン・ダイクが住んだブラックフライアーズの家は国王が経費を負担し、エルタムの別荘まで与えられ、1年に200ポンドの手当てが支給された。
1632年7月5日には、ナイトの称号を授与され、その翌年には贈り物として時価110ポンドの金の鎖を授けられています。
ヴァン・ダイクの家には、当時の最高の客人が訪れ、彼らは国王の例にならってヴァン・ダイクの仕事ぶりを観察し、画家と一緒に時を過ごすのを好んだという。
彼の家では、「召し使い、音楽家、歌手、道化を雇い、彼はこうした者たちと一緒になって、肖像画を描いてもらうために毎日やってくる貴族たちをもてなした」。
これらに応じるためにヴァン・ダイクは熱心に仕事をしました。
国王やその家臣たちは要求の厳しいパトロンであり、ヴァン・ダイクはイギリスに滞在した9年間に王家の人々の大きな肖像画を30点描いています。
家の外には、王家の人たちが川を渡って行き来しやすいように桟橋が作られました。
貴族たちからの注文もひっきりなしに続き、この時期に制作された肖像画は途方もない数にのぼる。
嫉妬深い愛人
ヴァン・ダイクが女性にもてたことは確かです。
背は高くなかったが、スタイルが良く、「ブロンドの髪に色白の肌」をしていたとベローリは伝えている。
肖像画のモデルとなった女性たちとのあいだに、とにかく噂が絶えませんでした。
マリア・テレーザという名の隠し子までいて、この娘のことは遺言で認知している。
「マーガレット・レモン」 1636年~38年
ヴァン・ダイクのイギリス時代の愛人マーガレット・レモンは美人の誉れ高い女性だったが、気性が激しく、かんしゃく持ちで、嫉妬を爆発させる性質だった。
愛人と認められていたのは気性の激しいマーガレット・レモンでした。
彼女のことを銅版画家のホラーは「危険な女」とか「嫉妬の権化」と評している。
彼女はロンドンの社交界の貴婦人たちが、帽子をかぶらずに肖像画のモデルになっているものなら、すさまじい騒ぎを引きおこしました。
嫉妬を爆発させ、2度と絵筆をとれないようにヴァン・ダイクの親指を食いちぎろうとさえしたといいます。
届かぬ夢
成功はしても、ヴァン・ダイクはロンドンに居を据える気はありませんでした。
1634年3月に家族に会いにアントワープに戻った折に、「ステーンの館」の近くに土地を買っています。
この城館は翌年ルーベンスが別邸として購入している。
1640年にルーベンスが亡くなると、再度故郷の町に戻っていますが、これがフランドル最高の画家の地位を手に入れるための帰郷であったことは間違いありません。
もう一つの目標であるルーベンスのような歴史画家としての成功を手にして、チャールズ1世からの大規模な注文を受けることを望んでいたのです。
だが、グリニッジやパリと、多くの計画は中止となり、交渉はいうまくいかなかった。
晩年
ヴァン・ダイクの最晩年で明るい出来事といえば、1640年初めに、王妃の女官の一人、メアリー・ルースヴァンと結婚したこと。
しかし、結婚は長くは続かず、1641年12月9日にヴァン・ダイクの死亡により終わりを迎えます。
絶えない仕事疲労が原因だったようです。
生後8か月の娘ジャスティ二アーナはヴァン・ダイクの死んだ当日に洗礼を受けます。
「メアリー・ルースヴァン」
1632年にイギリスに移ったヴァン・ダイクは、残る生涯をそこで過ごした。
しかし、本拠をイギリスに据え、1640年にイギリス人女性と結婚したからとはいえ、決してイギリスに定住するつもりがあったわけではなく、大陸とのつながりを絶つことはなかった。
ロイヤルスタイルの確立
ヴェネツィア派の影響
最初のアントワープ時代に制作されたヴァン・ダイクの初期の肖像画は、オランダとフランドルの伝統的なスタイルを守っていました。
肖像画のモデルは、何もない黒い背景を背に堅い感じのポーズをとり、鑑賞者の方を向いて立つ。
しかし、1620年前後になると、ヴェネツィア派、特にティッティアーノの影響を受けて、人物をより複雑な設定のなかに配置するようになり、背景の一部を建築物にしたり、風景にしたりするようになりました。
「ラベル殿、フィリップ・ル・ロワの肖像」 1630年
この絵はヴァン・ダイク」の第2期アントワープ時代の肖像画のなかで、最も壮麗なものである。
フィリップ・ル・ロワはこの絵のモデルになったとき34歳で、ネーデルランド総督フェルナント大公の顧問官をしていた。
背が高く、優雅で堂々とした感じは、つややなグレイフンド犬によって強調されており、このような気品のある男性に犬を配した選択の確かさが示されている。
モデルの固い感じで真正面を向くという伝統的なフランドルの肖像画に、ヴァン・ダイクはモデルの顔をさりげなく横に向けたり、手や足に動きを加えたりしています。
これは、やはりヴェネツィア派の影響といえる。
モデルの地位を強調
ジェノヴァ時代の堂々とした肖像画には、パトロンの邸宅の豪壮な周囲の風景がひときわ巧みに取り入れられ、こうした肖像画の建築的な背景は、まず、確固とした構成を生むために用いられているのであり、「ロメリー二家の人々」にみられるように、壁龕(へきがん・ニッチ)と柱のある背景は人物のがっしりした骨組みを形成している。
さらに、この点が最も重要で、建築物はモデルの威厳と地位を強調するために使われています。
「ロメリー二家の人々」 1626~27年
ジェノヴァ時代の有名な集団肖像画で、ヴァン・ダイクはモデルたちをことさら仰々しい背景に配した。
そのため、小さな子供さえもが、各自の威厳を自覚しているように見える。
低い視点
「エレーナ・グリマンディの肖像」でいえば、画面右の縦に構図の入った柱は、侯爵夫人のすらっとした体型と立ち姿を強調するために使われ、身をかがめる従者の姿勢と祭立った対照をなしています。
しかし、視点を低くとることで、モデルの立つ場の高さを強調され、肖像画の人物が、鑑賞する者と遠方の風景の両方を圧倒するように見える。
ヴァン・ダイクの、モデルと背景とを融合させる能力と、ややモデルにおもねった雰囲気を生み出す能力は、成功には欠くことのできない要素でした。
イタリアの影響
華麗なイタリア様式
ヴァン・ダイクがイギリスに到着したころ、宮廷でもてはやされていた肖像画家は、アランデル伯が呼び寄せたダニエル・マイテンスを代表とするオランダやフランドルの肖像画でした。
そこに登場したヴァン・ダイクの華麗なイタリア様式は、当時の人々の目をみはらせたに違いありません。
ヴァン・ダイクが国王の画家に任命されてほどなく、マイテンスは表舞台から姿を消しています。
「王妃ヘンリエッタ・マリアと王妃付き小人サー・ジェフリー・ハドスン」 1633年
17世紀のヨーロッパ宮廷では、娯楽に興を添えるために小人を置くことが一般的であった。
ハドスンが国王と王妃の目にとまったのは、彼を雇っていたバッキンガム公釈夫人が国王夫妻のために催した晩餐の席で、パイのなかから現れ出たからだった。
当時彼の背丈は約46㎝だったといわれているが、その後122㎝くらいまでになったという。
ヴァン・ダイクの演出
イギリスに活躍の場を移してのち、ヴァン・ダイクの肖像画のスタイルは大きく変化します。
集団肖像画の「ペンプローク家の人々」や一連の国王の肖像画のような何点かよく知られた作品を別にすれば、イギリス時代の肖像画の背景は華やかさが減り、より簡素になった。
「第4代ペンプローク伯爵フィリップ・ハーバード家の人々」1634~35年 ペンプローク伯爵コレクション
・ヴェネツィア派の手法
ヴァン・ダイクは背景に建造物を置き人物を構成することに特に優れていた。
これは、大規模な宗教画を構成するとき、しばしば画面手前に複雑な「舞台セット」を配したヴェネツィア派のティッティアーノとヴェロネーゼに学んだ手法だった。
それに似た方法で、ヴァン・ダイクはモデルをとりまく環境を描き出し、人物をさまざまに配する方法を確立した。
・巧妙な演出
ヴァン・ダイクの「演出」が最も攻を奏しているのは、「第4代ペンプローク伯爵フィリップ・ハーバード家の人々」のような集団肖像画である。
ここでは、画面手前の横に伸びた、緩い階段の壇にモデルたちを配している。
壮大な設定は、この一族のステイタスを強調し、垂直線と水平線とのコントラストは構図に安定性を与えている。
階段に段差があるため、モデルを幾通りにも配することが可能となり、彼らを異なる高さに立たせることによって、カンバスの表面を横切るリズミカルな、上がったり、下がったりする動きを生み出しているのである。
ヴァン・ダイクは人物たちを、その視線と身振りとを優美に交錯させることによって結びつけている。
画面左手の人物たちの、優雅な曲線を描く腕の動きは、背景の建物のいかめしさを和らげる役割もはたしている。
建築的な「小道具」は1本の柱だけというようなことのしばしばあり、背景はたれさがった布で分断されることもあった。
こうした変化は、ヴァン・ダイクがモデルの家に出向いて仕事をしたのではなく、アトリエで仕事をしたことによると思われます。
彼はさらに、細部やモデルの衣装の風合いにいっそう注意を向けるようになり、これをみごとな腕で描き出しました。
ルーベンスとの違い
ルーベンスと異なり、ヴァン・ダイクは面と線によって絵を描きました。
したがって人物が占める空間は、比較的奥行きが浅い。
そのため、人物は絵の全面に近寄っているように見えます。
その動きや仕草は、画面を横切り、優美な線的なリズムが生みだされ、人物が奥に退くことはまずなくて、画面に対して斜めにポーズをとる。
一方、ルーベンスは確固たるフォルムを得ることに腐心しました。
彫刻に大きな関心を寄せたことによって、彼は人物を真に三次元的に表すことを考えたのでした。
これに比べると、ヴァン・ダイクの人物は存在感が希薄で、色面を組み合わせることによって描かれているように見えます。
名画「チャールズ1世の3面像」
ローマ教皇の仲介
ヴァン・ダイクがこのみごとな肖像画を描いたのは、チャールズ1世の大理石胸像の制作を依頼されたイタリア人彫刻家ベルニーニがその手本とするためでした。
胸像の制作を依頼したのは王妃のヘンリエッタ・マリアで、ベルニーニの最大のパトロンの1人、ローマ教皇ウルバヌス8世が仲介をしています。
ローマ教皇仲介したのは、教皇にチャールズ1世の力でイギリスをカトリック教会に復帰させるという外交的な腹づもりがあったからでしょう。
ベルニーニに送られた肖像画
肖像画は1637年夏から描き始められ、翌年にはローマのベルニーニに送られている。
胸像はローマで一般に公開されてから、1637年4月に厳重な護衛をつけてイギリスに送られ、3か月後に、国王と王妃の前に提出されました。
「チャールズ1世の三面像」1635年
・特養的な風貌
ヴァン・ダイクはチャールズ1世の頭部をひじょうに注意深くデリケートに描いた。
重そうなまぶた、大きな鼻、細い髪の捉え方は完璧である。
・微妙な色合い
この肖像画の色はひじょうに美しい。
特に、国王が身につける3つの異なる衣装の対比にそれが明らかでsる。
・肖像画の発見
ヴァン・ダイクの肖像画は1802年までベルニーニの子孫が保有していたが、1822年に、ジョージ4世がクリスティーズで1000ギニーで買いとり、王室コレクションに戻った。
胸像は素晴らしい出来栄えで、熱狂的に迎え入れられました。
ヴァン・ダイクにとっての注文は大切なものでした。
と、いうのはローマにいる重要な美術愛好家や収集家が、この肖像画を見るであろうとわかっていたからです。
彼はこの仕事に明らかに骨を折っている。
彫刻家の参考にするという目的からすれば、不必要といえるほど描き込んでおり仕上げの度が高い。
これは、パトロンたちの関心をひこうとしたからです。
ベルニーニは、憂愁の影を宿した国王の風貌に打たれたといわれており、国王の表情は不吉な未来を予告するようだとも言ってと言います。
まとめ
ヴァン・ダイクは国際的な、華やかな成功をおさめ、師ルーベンスの教えを自分の作品に取り入れることによって、最大限に発揮させることに成功しました。
また、ヴェネツィア派の巨匠たちの技法を取り入れ、新しい構図の神話画や宗教画、肖像画を描き出しています。
ヴァンダイクの前半は、ルーベンスの技法そのものでしたが、後半はティッティアーノとヴェロネーゼの技法に近づいている。
イタリア、フランドル、そしてイギリスで彼が完成させた貴族の肖像画のスタイルは、ヨーロッパ中の宮廷画家の手本となりました。
これまでの歴史の中で、後にヴァン・ダイクを超えるほどの洗練された、素晴らしい肖像画家は現れていません。