17世紀最大の肖像画家の1人であるフランス・ハルスは、
1580年代初期にアントワープに生まれました。
彼は生後まもなく家族とともに北部のハーレムに移り、同地で一生を送りました。
ハールレムにおけるハルスは、土地の人々の肖像画を描くことのみにほぼ専念します。
同時代の偉大な画家ヴァン・ダイクとは異なり、ハルスは旅を好まず、
イタリアの巨匠たちの傑作にも関心を示さなかったようです。
ハルスの独特のスタイルは、ほとんどほかの要素とかかわりなく形成され、
実際に彼は、絵を独学で学んで、完全な地方性を特色とするハルスの作品は、
オランダ絵画に新時代を開き、オランダ派が独立して発展するきっかけとなりました。
ハルスは画家としての成功は得たものの、生涯を通じての暮らしは貧しかったといいます。
いくつか知られる事実によれば、家庭内の危機が続いていたことも明らかで、
彼は1666年に80余歳で世を去る。
ハルスの幼少時代
フランス・ハルスは、メッヘレン出身の織物職人、フランショワ・ハルスを父に、
アントワープ出身のアドリアーンチェン・ファン・へールテンレイクを母に、
1582年ないし83年ころにアントワープで生まれました。
父親がいつごろからアントワープに住み、いつ結婚したかは定かではないが、
夫婦は長くアントワープには留まらなかった。
というのも、ハルス一家は1591年までには、オランダの大都市の1つ、ハールレムに移住しているからです。
1591年3月19日には弟のディルクがハールレムで洗礼を受けています。
ディルクものちに画家となり、おもに快活な風俗画で知られる。
一家がハールレムに移住したのは、プロテスタントの都市であるアントワープは
スペイン軍の侵略に陥落した1585年か、その直後のことだったと思われます。
スペインはアントワープにカトリックを復興させ、
プロテスタント信者に4年間のうちに身辺を整理して退去するよう命じました。
1585年にフランショワは、自分はカトリック信者だと述べているが、これは単に急場しのぎで言ったのでしょう。
一家が北方に移住した理由には、当時の多くの人々と同じように、宗教の問題もあったと思います。
北部諸州の正式な宗派は改革派教会だったが、そこでは他の宗派も許容される寛容さがありました。
しかし、フランショワが北方に赴いた本当の理由は、おそらく経済的なものと思われます。
そしてスペイン軍が侵略してくると、オランダはスケルゲ川の河口の封鎖し、
アントワープの交易を事実不可能にした。
そしてスペイン軍が侵略してくると、600人以上の織物職人が、
大規模な繊維産業のあるハールレムへ家族とともに移住しました
ハルス一家もそのなかにいたことはほぼ確実です。
知られていない修行時代
ハルスがハールレムで過ごしたはじめのころのことは謎につつまれています。
マニエリストの画家カレル・ファン・マンデルの伝記を書いた、とある伝記作者は、
ファン・マンデルの弟子の一覧表に「フランス・ハルス、肖像画家」と記している。
しかしファン・マンデル自身は、フランス・ハルス教えたとは述べておらず、
1604年に出版した彼の「画家の書」のなかでも別に3人の弟子のことに触れているだけです。
おそらくファン・マンデルは、ハルスとの交流を認めたくなかったのでしょう。
確かに、この2人は芸術的にも共通点はほとんど見られず、
ハルスは歴史画に興味を示さなかったために、ファン・マンデルの気にいらなかったのでしょう。
仮にハルスがファン・マンデルの弟子であっても、ファン・マンデルがアムステルダムに移ったとされる1604年までには、
両人の関係は終わりを告げていたはずです。
ハルスについて記載のある記録として最初のものは、1610年、ハールレムの画家ギルド、
聖ルカ画家組合の組合員になったときのものです。
おそらくこの年、ハルスは最初の結婚をしたと考えられる。
妻のアネッチェ・ハルマンスドホテルは2人の子をもうけ、長男のハルメンは1611年9月2日に洗礼を受けている。
しかし、結婚生活は長く続かなかった。
1615年にアネッチェが亡くなったからです。
アネッチェは貧民の共同墓地に埋葬されました。
ハルスが経済的に困窮していたことを示す最初の徴候であり、それは生涯彼を悩ませます。
現存するハルスの作品で最も初期のものは1610年ごろのもので、
そのころ彼は30歳前後になっていたと考えられる。
初期の作品の多くが失われているということもあるが、現存するわずかな作品から推測すると、
ハルスが芸術的な円熟期を迎えたのは比較的遅かったといえる。
初めて大作の注文を受けたのは、1616年になってからで、
それは集団肖像画「聖ゲオルギウス市警備隊士官の宴会」だった。
市警備隊の隊員
当時ハーレルレムには2つの市警備隊がありました。
軍隊組織とはいうものの、その機能はもっぱら社交で、ぜいたくな宴会を開くことで有名でした。
1621年には、宴会を3,4日以上続けてはならないと規制する法案が可決されたほどです。
隊員はふつう支配階級か資産家に限られていたので、
ハルスが聖ゲオルギウス市警備隊の隊員であったのは異例のことでした。
彼は、1639年作の聖ゲオルギウス市警備隊の肖像画に自分の似顔を描き込んでします。
自分が隊員になったことによって、ハルスは聖ゲオルギウス市警備隊の理念に大きな共感を覚え、
彼らの陽気な宴会や同志愛を並はずれた洞察力と技巧で表現することができた。
1617年、ハルスは再婚します。
2度目の妻、リスべート・レイニールスは気性が激しい農婦で、
少なくとも8人の子供をもうけ、そのうちの3人は画家となった。
こうして家族がしだいに増えていったことが、
ハルスの尽きるとこのない経済的困窮の一因と考えられます。
ハルスは肖像画家として間違いなく成功をおさめていたにもかかわらず、
いつも借金を背負い、一銭でも多く稼ぐために、ときには画業に加えて、
絵の取引をしたり修復作業も手がけた。
1616年には、最初の結婚でもうけた2人の子供の後見人に対しする養育費の支払いを怠ったかどで、
裁判所から召喚をうけました。
折よくハルスはアントワープに小旅行に出ていたため、
母親が代わりに料金を支払いに応じたのです。
1630年代には家主と靴屋から告訴され、
1654年にはパン代を払えなかったので地元のパン屋に家財を押収されました。
といっても、ハルスが出せたのは哀れなほどわずかしかなく、
3台のベッド、いくつかの枕、シーツ類、オーク材の食器棚とテーブル、
それにファン・マンデルの作品1点を含む5枚の絵だけでした。
画家の頑固な意志
しかし、ハルスが困窮状態に陥ったのは、
彼自身の反抗心と自立心が多少とも原因であったと思われる事実もある。
1636年、ハルスは深刻な窮乏に瀕しながらも、
「痩せた警備隊」と題するアムステルダム市警備隊の肖像画という
儲けの多い仕事の最後の仕上げを断ってしまった。
というのも、ハルスはハールレムを離れて小旅行をするのが億劫だったため、
警備隊が彼のもとに来ることを拒否すると仕事を投げ出し、
肖像画の完成は別の画家の手にゆだねられることになったのです。
ハルスの家系は、確かに血の気が多かった。
1608年には、兄のヨーストが市警備隊を侮辱したり、
投石で通行人に怪我をさせた罪で罰金を科せられたことがあり、
1640年代には、娘のサラが私生児を産んだため、、
ハルス夫婦は彼女を感化院に送り、その放縦な素行を改めさせようとしている。
ハルス自身は酒が好きだったらしい。
17世紀の伝記作者アルノルト・ハウブラーゲンは、
ハルスが「毎晩、酔っぱらっていた」と記しているが、
彼がアルコール中毒で妻を虐待したという一般的なイメージは、
おおかたは根拠のないものだった。
1630年代は、ハルスの最盛期でした。
この時期は、肖像画や家族群像画の依頼が絶えず、
市警備隊の大作も3点受注した。
ハルスのモデルのなかには、社会的地位が最も高い人々、
市会議員や商人や学者も含まれていました。
1649年ごろには、著名なフランスの学者、ルネ・デカルトの肖像画を描いています。
また、ハルスの工房の活動も順調だったが、弟子を助手に使った形跡はなく、
ハルス独特のスタイルを模倣できるものはほとんどなかったようです。
とはいえ、ハルスの弟子のなかには、弟のディルクや優秀な風俗画のアドリアーン・ブラエルといった、
のちのオランダ画家を代表する画家もいました。
才能に恵まれたユーディト・レイステルもハルスの影響を受けており、
彼女はハルスの弟子だったのかもしれない。
だが、この2人の画家の仲が決裂していたことは明らかで、
レイステルは、彼女の工房から逃げた徒弟を受けいれたとして1635年にハルスを告訴している。
ハルスの経済的困窮
ハルスの成功は生涯続いたが、1640年以後、肖像画の注文がやや減少する。
これは、ヴァン・ダイクの描く、より優雅な様式の肖像画がネーデルランドで人気を得はじめことによる。
とはいえ、ハルスは晩年に、老齢のすごみを表現した「ハールレム養老院の女性理事たち」などの
肖像画の最高傑作を生み出します。
しかし、ハルスの困窮状態は続いていて、1661年には聖ルカ組合がハルスの組合費を免除し、
62年には、ハルスから市議会に生活補助願いが提出されている。
翌年、ハルスは年額200フルデンの生活補助を受けることになり、
さらに、64年には、泥灰を荷車3台分支給されました。
2年後の1666年8月29日に没したとき、ハルスは80歳を過ぎていました。
彼の遺体はハールレムのシント・バーフ聖堂に埋葬された。
画家としての華麗さ
ハルスは、オランダ絵画の黄金時代における最初の巨匠であったばありでなく、
時代や流派を問わず最も独創的で特色のある肖像画家の1人でした。
現存するほぼ300点前後の作品のおとんどは肖像画であり、
肖像画以外の作品(風俗画やごくまれに宗教画)も、肖像画といえるような特徴をもっています。
ハルスが顔の表情にひかれていたのは明らかで、彼の作品には、スペイン支配から自由を勝ち取り、
オランダをヨーロッパ屈指の繁栄に導いた、活気にあふれた男女の人間性がみごとにとらえられています。
ハルスの肖像画を比類ないものとしている特徴は、
同時代のハールレムの校長テオドール・スレフェリウスが1648年に書かれている。
著書は、ハルスのことを熱狂的に記した一節のなかで、
「彼独自の特徴な絵画手法によって、事実上彼は何者をもしのいた。
作品は強力さと生気にあふれているので、
ハルスは絵筆で自然そのものに挑戦しているかのようである」と記しています。
スレフェリウスもハルスに肖像画を依頼しているが、彼はハルスの絵画におけるおもだった特徴を2つ挙げている。
1つは、ハルス独自の筆遣い、つまり「描写の手法」であり、もう1つは、性格描写にみられる「力強さと生命感」である。
力のこもった筆遣い
ハルスにとって、この2つの特色は切り離せないものです。
彼の肖像画にみられる「力強さと生命感」はきびきびとした力強い筆遣いによるものであり、
モデルを生き生きとした魅力的な姿で表現する。
ハルス以前のネーデルラントの肖像画は、仕上げに重点をおいて描かれ、
細心の筆さばきを駆使して、艶やかな画面に仕立てられていました。
それとは対照的に、ハルスの筆さばきはあくまでも自由で、粗く、素早く、
不連続であることにその傾向は、魅力的な肖像画「笑う少年」中どのくつろいだ作品に強くみられる。
この絵は、少年の顏を粗い筆遣いで描いており、その奔放さは、筆の跡が1つ1つ見分けられるほどであり、
それ特に眼の部分にはっきりみられる。
この作品が、筆のおもむくまま「即興的に」描かれたような印象をあたえるのは、
ハルスがそれまでの画家とは異なり、顔の彩色にあたってもいちいち色を調合せず、
対照的な色をそのまま並べて描いたためでした。
一見するとハルスは気ままに描いているように見えるが、筆遣いはきわめて正確であり、
色調と色彩を抽象的にくみあわせているのではない。
モデルの姿かたちを驚くほど正確に絵筆で描出するが、これはじっくりと相手を観察した結果です。
ハルスの自由奔放な手法
ハルスは、かなり単純な方法でこうした効果を達成しました。
ハルスが描いたとされるデッサン画は残っていません。
おそらく、下準備なしにじかにキャンバスに描いたのでしょう。
ハルスの肖像画では、光は常に左側から射しており、しかも単一の光源です。
この手法を用いて、ハルスは一定の光のもとでのさまざまな顔の造作を
深奥から直感的にとらえることを学んでいきました。
この基本的課題をマスターしたおかげで、個々のモデルの違いを細部にわたって詳しく観察し、
自信あふれる絵筆をわずかに加えるころによって、画面に仕上げることができるようになっていきました。
生き生きとした筆遣いが、モデルに独特の活力と生命感をもたらしたのです。
われわれは、モデルの固定した不安のイメージではなく、個々の移りゆくつかの間の表情をその絵に見ることができる。
ハルスの描く肖像画は、構図も比較的単純で、モデルの背後に完全な背景を描いたヴァン・ダイクとは異なり、
彼はモデルを無装飾な背景の前に配しました。
ハルスの興味の中心はもっぱらモデルの表情にありました。
おそらく同じ理由から、ハルスの肖像画は、肩から上の肖像か、上半身像が多数を占めています。
集団肖像画を除けば、全身像は1点しか描かれていない。
ハルスの制作態度が生気にあふれていたことは、モデルのありきたりのポーズを改め、
よりくだけたポーズをとらせたところにもみられる。
ハルスが気に入っていたポーズは、椅子に座ったモデルが、片腕を椅子の背にかけ、
突然、こちらに気づいたというように振り向いているところでした。
振り向くポーズは必ずしも新しいものではなく、ルネッサンス以降の肖像画ではごく普通でした。
しかしハルスは、モデルに体を強くひねらせることによって、
そのモチーフをいっそう直接的に訴えかけるものとしたのです。
ハルスのお気に入りのもう1つの構図は、モデルが腰に手をあて、
画面のなかから片肘が手前に突き出ているように見せるポーズポーズであり、
ハルスはこの手法を用いて、「聖ゲオㇽクギウス市警備隊士官の宴会」など、
初期の市警備隊肖像画において特にすばらしい画面効果をあげている。
画面のなかでは、何人かが手を腰に当て、突然、宴会を邪魔されたかのように、こちらを振り向いています。
技巧の多様性
もちろんハルスも、モデルや注文に応じて様式を変えて描くことはありました。
たとえば「笑う騎士」の大胆で自信に満ちたモデルは、
豪華な刺繍の袖を誇示したがっていることは明らかであり、
このみごとな装飾は、モデルの裕福さと趣味をはっきりと表しています。
そこでハルスは、細かい端正な絵筆で刺繍を描き、複雑な細部をとらえ、みごとなスケッチを表現している。
軸とは対照的に、無地の軸口と腰帯は比較的自由に描かれています。
ハルスはまた、「イザベラ・コイマンスの肖像」でも、筆致を変えて同様にみごとな画面効果をあげています。
モデルの顔は入念に混ぜ合わされた絵筆で描いて、なめらかで健康的な顔色を表現し、
宝石類や衣服はあくまでも粗い筆遣いで描いている。
黒の美しさ
「風景のなかの家族」では、ハルスは全体的により抑えた技法で仕上げています。
1640年代のオランダでは、服装が地味になり、黒の衣服が富裕階級の「きまり」となっていた。
ハルスは、立派な地位をもつ家族、とりわけその老人たちを描き、彼らの謹厳さと思慮深さを尊重しました。
同時に、黒衣という単純な広がりのなかでさえ、
いかにハルスが色調を微妙に変化させて感興を呼ぼうとしたかが、画面からはっきりわかる。
ファン・ゴッホを艱難させ、「フランス・ハルスは27色以上の黒をもっている」と言わせたのは、
このような作品であったかもしれません。
しかし、ハルスの最も偉大な才能は、それぞれ異なる人物として、
最も特徴ある表情でとらえられているように思われます。
この独自の才能は、市警備隊を描いた大作においてきわめて明確に現れている。
こうした集団肖像画の依頼を受けると、画家は1つの大問題に直面せざるを得なかった。
大勢の人物が目立たないようにしなければならないので、学校の記念写真のような、
人物が全員正面を見ている単調な配列も避けなくてはならなかったのです。
ハルスはみごとにこれらの問題を解決しています。
たとえば「聖ゲオルギウス市警備隊士官の宴会」では、人物の顔の向きを少しずつ変えることによって、
みごとな変化を作り出している。
だが、真に多様なのは、各人に与えられた完璧なまでの性格描写であり、
テーブルを囲んだ人々には、用心深くせんさく好きそうな初老の士官から、
自信に満ちた若い小尉や上座に座る愉快でユーモラスな隊長にいたる、
ずらりと並んだ人物の性格と表情見ることができる。
あるがままを描く
ハルスは、もっぱらオランダに住んで活動したオランダ画家の第一世代に属しているが、
このことが彼の芸術において重要な意味をもっている。
前世代のオランダ画家たちはイタリアにインスピレーションを求めたが、
ハルスは、歴史的主題や理想的な人間の美しさを強調するイタリア美術にまったく関心がなかった。
彼は日常生活に題材を求め、身のまわりにいるオランダ人の肖像画を描きました。
ハルスがモデルを実物以上に描いたり、理想化して表現したようすはない。
これまでに知られている限りにおいて、ハルスがモデルの特徴に変更を加えたり「改良」したりして、
美の一般的規準に合わせようとしたことはなかった。
各人のあらゆる特質をあるがままに描き、あくまでも個々人の姿を正確にとれえたものと思われます。
そのためわれわれもまた、ハルスによって描かれた人物を生身の人間としてとらえることができるのです。
ファン・ゴッホは、ハルスの絵にみられるこの特徴に感動して、アントワープから弟のテオに手紙を送り、
「僕の頭は、いつもレンブラントとハルスのことで占められている。
彼らの数多くの作品を見るからではなく、この地の人々のなかに、
当時のことを思い出せるさまざまな典型を見るからだ」とハルスを賛美した。
ハルスの不朽の名声
ファン・ゴッホが手紙を書いた1880年には、ハルスの名声は絶頂期にあった。
ハルスは死後、長いあいだ忘れ去られてきたが、
やがてマネをはじめとするフランスのアヴァンギャルドに大きな影響を与えました。
マネはハルスの筆遣いを賛美し、ハルスの描く上流階級の肖像画は、
その生気と品格によって人気を博し、彼は特にアメリカの収集家に好まれた。
このため、ハルスの数多くの傑作がアメリカに渡っている。
1870年頃から1920年頃まで、疑いもなくハルスは最も人気のある巨匠の1人でした。
しかしその後、名声はやや下降した。
どうしてもレンブラントと比較されたからでしょう。
レンブラントと肩を並べられるのは、ほんの一握りの世界的な巨匠のみです。
とはいえ、オランダ第二の偉大な肖像画家であることは、なかなかの名誉といわねばならない。
名画の構成「庭園の夫婦」
この喜びにあふれた肖像画のモデルは、
おそらく貿易商人の探検家のイサーク・アブラハムスゾーン・マッサと
彼の最初の妻ベアトリクス・ファン・デル・ラーンだろう。
マッサの肖像画をハルスに2回描いてもらっているが、
それらの作品のもつ特徴と、この作品の人物の特徴はよく似ている。
この絵は、おそらく1622年4月25日の夫婦の結婚を記念して描かれたものでしょう。
これが2人の結婚を祝う肖像画であることは、女性が当時の流行にならって、
人差し指にはめた指輪をしっかり見せていることからも確実にいえる。
この肖像画には、うちとけた雰囲気を描写するハルスの天才ぶりがことのほかよく現れています。
夫婦はたったいま、芝生の上で集う仲間たちの輪から離れて、
人目につかない木陰で、2人だけの時を楽しんでいるように見える。
女性のはにかんだほほ笑みと愛情のこもったしぐさが、この魅力ある作品のうちとけた雰囲気を強めています。
ハルスの熟達した技が奥ゆかしく発揮された作品だ。
まとめ
ハルスは、ほとんど肖像画のみを描いた画家と言っていい。
ハルスの肖像画に描かれるモデルは、人生を謳歌しているという印象を与えます。
笑顔や笑いを、ハルスほど真実味をもって表現した画家はほかにいません。
ハルスが描き出す安定した社会の充実感は、ヨーロッパ文明が1つの全盛期を迎えたことを
控えめに示しています。
17世紀においてハルスはベラスケス、ヴァン・ダイク、レンブラントと並び称される画家ですが、
彼の描く肖像画は今でも私たちに、当時の庶民の姿を生き生きと伝えてくれています。