「エル・グレコ」 異郷に生きた天才

エル・グレコは、ベラスケスやゴヤと並び称されるスペイン3大画家の一人です。

けれどもこの画家は、本名をドメニコ・テオトコプーロスといい、地中海のクレタ島で生まれたギリシャ人でした。

イタリアで10年修業を積んだあと、スペインの都トレドに移住したのは30代後半になってからのこと。

そして画家としての才能を開花させたのは、ギリシャでもイタリアでもなく、このトレドだったのです。

略歴

1541年 ギリシャのクレタ島の港町感ディアで税関史の家に次男として生まれる。

1566年 マエストロの称号を得る。

1568年 ヴェネツィアに到着。

1570年 ローマに赴く。

1576年 スペインに赴く。

1577年 このころトレドに到着。トレド大聖堂から「聖衣剥奪」を制作。

1578年 ヘロニマ・デ・ラス・クエパスとの間に息子をもうける。

1579年 「聖衣剥奪」完成。

1580年 フェリペ二世から「聖マウリティウスの殉教」の制作依頼を受ける。

1586年 サント・トメ教会と「オルガス伯の埋葬」の契約を結び2年後に完成する。

1608年 サント・ドミニコ・エル・アンティークォ修道院の聖堂に、一族の墓所を借りる。

1614年 4月7日死亡

 

スペイン・カトリックの総本山

マドリードから南へ約70キロ。

スペインの古都トレドの北の入口ピサグラ新門をくぐると、迷路のような入り組んだ石畳の道が続いています。

丘の上の城壁都市トレドは中世の姿そのままで、鳴り渡るカトリック教会の鐘の音は何世紀も変わることのなくトレドの街に響いています。

遠く400年以上も昔、一人のギリシャ人画家がこの音色に引かれるように、このトレドの街にやってきました。

画家の名は『エル・グレコ』スペイン3大巨匠の一人として知られる画家は、ギリシャから来た異郷人でありながら、光と影に彩られたこの街を愛した人でした。

 

「エル・グレコ」トレドでの華やかなデビュー

1577年、36歳のこのがかは、トレド大聖堂とサント・ドミニコ・エル・アンティーグォ修道院の祭壇画再作の依頼を受けて、初めてトレドを訪れます。

神聖ローマ帝国カール五世の時代には王都として繁栄したトレド。

その子フェリーペ二世により王都はマドリードへ移されたのちも、学問と宗教の中心としての活気を保っていました。

祖国ギリシャ、そしてイタリアで修行を積んだ青年画家は、このカトリックのひざもとで自分の才能を試そうとしていたのでした。

スペイン語もままならない青年が、この修道院のために描いた最初の作品「聖三位一体」はドラマチックな構成と、鮮やかな色彩で土地の人々を魅了します。

この作品に多くのカトリック信者たちが涙ながらに祈りをささげる姿は、やがて噂になり聞きつけた教会はこぞって作品を依頼しはじめたそうです。

そして人々は画家をギリシャ人(エル・グレコ)という愛称で呼び、その愛称は国境を越え、長い時を越えスペインを代表する巨匠の名前として知れ渡ったのです。

 

「エル・グレコ」イタリアでの修行

1541年クレタ島に生まれたがかは、25歳でマエストロ(画家組合の親方)となりイコン(聖像画)がかとして一人立ちしていました。

「生涯、絵画を描くことによって神に仕えよう」

宗教画への情熱が、青年の目を芸術の都イタリアへと向けさせたのです。

1568年、念願のヴェネツィアにやって来た27歳のエル・グレコは、イタリア絵画の巨匠ティッティアーノの画塾に弟子入りします。

ティッティアーノ

そこで鮮やかね色彩と図像学を習得すると、2年後にはローマへ旅立ち枢機卿アレッサンドロ・ファルネーゼ邸にいを構えそこで、芸術家や知識人、美術収集家たちとの交流を深めていきました。

 

「エル・グレコ」イタリアからスペインへ

時にローマ・カトリック界にも、宗教改革の波が押し寄せてきます。

プロテスタントに対抗しつつ、教養の再確認が進められる中、巨匠ミケランジェロの傑作「最後の審判」の裸体表現まで不謹慎だと批判され始めます。

ミケランジェロ、最後の審判)

その裸体に腰布を描き加えてほしいと依頼されたエル・グレコは「すべて描き直すのであれば、貞節かつ上品に、しかも絵画的にこれに劣らない作品を描いてみせましょう。」と自信たっぷりに返答したいいます。

自分は神に仕える画家だという自負と、理想を現実化しようという心に秘めた情熱が吐かせた言葉でした。

そんな画家のもとに一つの便りが届きます。

スペイン国王フェリペ二世の提案で、エル・エスコリアルの修道院の大規模な造営が始まって、国内外の芸術家が招かれていたということでした。

画家はフェルネーゼ邸で出会った友人、スペインのトレド大聖堂司祭の息子ルイス・デ・カスティーリャから、母国トレドのサント・ドミンゴ・エル・アンティーグォ修道院の祭壇画の制作を依頼されます。

野心に燃えるエル・グレコの心はすでにスペインへと飛び立っていました。

 

「エル・グレコ」芸術家としての野心と誇り

トレドの最初の仕事「聖三位一体」の成功に続き制作された「聖母被昇天」「聖衣剥奪」などの作品も、人々に高い評価で迎えられます。

・画面を二分割して、地上の風景、天井の世界を共存させた大胆な構成

・聖人たちの高貴な表情

・ビザンティンのイコンを思わせるキリストとマリアの顔立ち

純粋に神を崇拝するエル・グレコの作品は見る者の心に自然な感動を呼び起こしていきます。

フェリペ二世はエル・エスコリアル宮殿のために「聖マウリティウスの殉教」を依頼しましたが二年後完成を見た王は、気に入らずほかの画家の絵と入れ替えてしまいます。

ヨーロッパ最高の権力者の保護を得ることに失敗したエル・グレコでしたが、以前より増してトレドでの評価は高まるばかりでした。

そして47歳の画家が完成させた「オルガヌス伯の埋葬」によって、ついにエル・グレコはトレド最高の宗教画家としての名声を確立します。

 

「エル・グレコ」独自の道を突き進む画家

最高の芸術家を自認する画家にとって、贅沢な暮らしは当然のことでしたが、芸術家を崇拝するイタリアと違い画家は単なる職人としかみなさないこの辺境の地トレドの人々は、その贅沢ぶりを半分あきれた顔で眺めていました。

パトロンがつける作品の値段にも不満を言い、毎日のように裁判をする異郷人画家。

そのうえ神を讃美するあまり、描かれた作品はどんどん神秘性を増し一般の人々は理解できないレベルになり、ついには教会からの注文は次第に減っていきます。

60歳を過ぎた頃には、画家の手元に多額の負債が積み重なって友人たちから、借金を繰り返して毎日をしのぐしかなくなっていた晩年の画家に、追い打ちをかけるように病魔が遅います。

長い病床生活を余儀なくされた画家は、以前の名声を取り戻すこともなく、1614年4月7日73年の生涯をトレドで閉じました。

自分の墓所も借りられないほど困窮していた画家は、生前サント・ドミニゴ・アンティーグォ修道院内の聖堂の祭壇装飾を無償で制作することを条件に、かろうじて永遠の休息地を得たのでした。

後年スペインでも理解されず、長い間忘れ去られていたエル・グレコの芸術は、没後300年を経た20世紀初頭に異郷人でありながらスペインの最も優れた画家に一人としてよみがえりました。

そして街全体が画家の美術館ともいえる古都トレドは、当時のままの姿で画家の偉業を今に伝えています。

 

まとめ

エル・グレコはティッティアーノから絵を学び、師の影響から独自の画風を生み出しました。

その画風は美術界の中でも独創的であり、自由奔放で独自の精神世界を今までにない方法で表現しています。

多くの人達が、その自由な表現に驚き純粋に絵の中の信仰に共感したのでしょう。

現在でもそのマニエリズムの絵画は、我々にグレコ絵画の神秘性を感じさせる。

・「フラ・アンジェリコ」ドミニコ会の修道士

・「スーラ」静かな実験主義者

・「聖母マリア」の処女受胎思想

・「ゴヤ」マドリードの聾者

・圧倒的な美の世界を創造しよう!!!

・エル・グレコ 「オリーブの園での祈り」

・「ロセッティ」情熱的なヴィクトリアン

・ルーベンス「レオキッポスの娘たちの掠奪」

・「ドラクロワ」サロンの虎

ABOUTこの記事をかいた人

画家活動をしています。西洋絵画を専門としていますが、東洋美術や歴史、文化が大好きです。 現在は、独学で絵を学ぶ人と、絵画コレクター、絵画と芸術を愛する人のためのブログを書いています。 頑張ってブログ更新していますので、「友達はスフィンクス」をよろしくお願いします。