ミレイ「優秀なイギリス人画家」

ジョン・エヴァレット・ミレイは、ヴィクトリア朝時代に大成功をおさめた人物です。

彼の早熟な才能は両親の深い愛情によって育まれました。

そしてロイヤル・アカデミー史上最年少で入学したときから、

彼は輝く星として注目を集めます。

20代で一時苦境に立つが、まもなく順調な道のりを歩み始め、

のちにはロイヤル・アカデミーの会長に就任し、当時最も裕福な画家となる。

 

 

ミレイの幼少時代

ジョン・エヴァレット・ミレイは1829年6月8日、サウサンプトンに生まれた。

そこでは母方の一家が馬具製造販売を行い成功していたという。

少年時代には、一時期ジャージー島に住んでいたがミレイは体が弱かったため、

母親は彼を学校へやらず、自分で勉強を教えました。

幼いころから優れた画才を示したミレイは、周囲の賞賛を浴びながら育ち、

彼の才能を確信した両親は優秀な息子に絵の勉強をさせて

画家になる機会を与えるため、ロンドンへ転居しました。

この両親の判断は間違っていなかった。

ミレイはヘンリー・サスが主催する美術アカデ三ーに1年在学したのち、

1840年にはロイヤル・アカデミー・スクールの予備学生となります。

11歳のミレイは、ロイヤル・アカデミー始まって以来歳年少の学生だった。

 

 

アカデミーの新星

長い巻き毛と短いズボンがトレードマークで「チャイルド」と呼ばれたミレイは、

またたく間にアカデミーの銀賞、絵画で金賞を獲得している。

また1846年には、弱冠16歳でロイヤル・アカデミーの年次展に入選した。

そのころミレイは、彼より少し年上の学生ウィリアム・ホフマン・ハントと親しくなる。

ミレイはハントをガウワー・ストリートにある自宅に招待して両親と引き合わせたり、

温室を改造したアトリエを見せたりしました。

ミレイは芸術に対するハントの革新的な考えに共鳴し、

その影響でジョン・ラスキンの「近代絵画論」を読んだ。

2人にとってラスキンが主張する「芸術は自然に忠実でなければならない」は絵を制作するうえでのモットーとなりました。

1847年、彼らはもう1人の学生と親交を深めるようになります。

一風変わった画家であり、詩人でもあったダンテ・ガブリエル・ロセッティです。

ハントとロセッティはアトリエを共有し、3人は互いに画壇への不満や、

アカデミーの創始者サー・ジョシュア・レノルズが100年前も前に確立した教育法に対する不満を述べ合った。

ロセッティの提唱で、彼らは、芸術を蘇らせるために秘密のグループを組織することを決心します。

こうして4人のメンバーを加えて「ラファエル前派(PRB)」が誕生しました。

ラファエル前派は、芸術に道徳性を反映し、主として文学作品をもとにした主題を描くという共通の理念によって結ばれていた。

彼らはまた、自然に直接学ぶことを重んじた。

ミレイがこの革新的なスタイルで描いた最初の作品が、1849年にアカデミーで展示された「ロレンツォとイザベラ」で彼はサインのほかにPRBという謎のイニシャルを書き加えています。

この作品は好評を得、150ポンドに新しい背広1着を付け加えてもらうことで売れが、

1850年に出品した「両親の家のキリスト」には痛烈な批判が浴びせられます。

幸いこの作品は、展示会が始まる前に売約済みになっていたが、いずれにせよ、

ミレイは敵意に満ちた批判にもたじろぐようすを見せなかった。

愛する家族やラファエル前派の仲間に支えられて、

翌年もラファエル前派の様式で描いた3点の作品を発表する。

再びマスコミはラファエル前派に攻撃の矢を向けたが、

今回はジョン・ラスキンが「タイムズ」紙上で擁護の論陣を張った。

当時22歳のラスキンは、イギリスで最も影響力のある批評家でした。

手紙が届いた日の午後、ラスキンは若く魅力的な妻ユーファーミア(通称エフィ)を伴ってミレイの自宅を訪ねた。

運命的な三角関係の始まりである。

 

 

ラスキン夫妻との休暇

画家を自分の弟子として扱うことが好きだったラスキンは、

その場でミレイを自分たち夫婦のスイス旅行に誘った。

ミレイは、1852年後の展覧会向けの作品の制作に専念するため、この誘いを断りました。

しかし翌年には、エフィが「除隊」のモデルとしてポーズをとる。

このきわめてロマンティックな作品は、アカデミーでもたいへんな人気を呼び、

見物人を立ち止まらせないために、絵の前に警官が立ったほどでした。

このころは、ミレイもラスキン夫婦のスコットランド旅行の誘いに応ずるほど親しくなっていた。

ミレイとラスキン夫婦は、トロサクス渓谷のブリゴタークで4ヶ月近くを過ごし、

ミレイは雨が降らないかぎりラスキンの肖像画の制作にいそしんだ。

雨が激しくて外出できない日には、ラスキンとミレイは羽根つくに典じ、エフィはそばでそれを見ていた。

ミレイはラスキンを「ハーン・ヒルの闘鶏(シャモ)」と自分を「ジャージー島の彗星」と呼んだ。

ミレイはエフィと一緒にいるのが楽しかった。

エフィはピアノを弾いたり、朗読して聞かせてくれ、ミレイの「オウムの冠毛」のような巻き毛を散髪してくれることもあった。

ミレイのスケッチブックがエフィで埋まっていることからもわかるように、彼は常にエフィを写生していた。

休暇が終わるころには、2人は深く愛し合うようになっていました。

ラスキン夫婦が10月に引きあげたちきも、肖像画はまだ仕上がっていなかったが、数日後、ミレイも仕事を切り上げて自宅に戻る。

翌11月、ミレイはおもに「除隊」が評価されて、ロイヤル・アカデミーの準会員に選ばれました。

彼は24歳にして、アカデミー史上2番目に若い準会員となった。

このニュースは、ロセッティにとってはラファエル前派の終わりを意味した。

こうしてミレイとロセッティの関係にひびが入ったが、ミレイはその後もホルマン・ハントとは親しい関係を保ち続ける。

ミレイは、ラファエル前派よりもアカデミーとのつながりを急速に深めていった。

魅力に富んだミレイは、アカデミーでも多くの友人を獲得した。

ハントはのちに、ミレイは自分の荷物を他人に持たせてしまうような種類の人間だったと書いている。

彼はまた、ひじょうにハンサムだったが、「ペーパーナイフのように細かった」。

身長は183㎝あったが、体重はわずか57㎏だった。

1854年4月、エフィはラスキンのものとを去り、実家に戻る。

彼女は満たされることのなかった不幸な結婚生活に終止符をうち、婚姻無効の訴訟を起こします。

つらい、スキャンダラスな審問ののち、婚姻は正式に無効となったが、当時、婚姻無効は離婚よりも悪いとされていたので、人々はたちまちラスキンの側についた。

ヴィクトリア女王はエフィの行動に遺憾の意を示し、エフィは社交界の保守的グループか排斥されることになった。

しかしこうした状況にもかかわらず、ラスキンはその後もミレイに、肖像画を完成するよう要求している。

その肖像画はラスキンの父親が350ポンドで購入しました。

 

 

家庭的な画家

エフィとミレイは1855年に結婚し、一時はスコットランドに居を構えたが、アトリエはロンドンのランガム・プレイスにあった。

子供は8人授かったが、最初の子が生まれたのは1856年のことで、ミレイはその喜びをハントへの手紙にこう記している。

「一筆お知らせいたします。ラファエル前派のメンバーがもう1人この世に誕生しました」。

この時期ミレイは、死ぬべき人間の運命を主題とする夢想的でメランコリックな作品を何点か描いている。

最も有名なのは「落葉」でだろう。

だが彼の予想を大きく裏切って、これらの作品に対する画商やコレクターの評判は以前の作品に比べて低かった。

決定的な危機が訪れたのは1857年のことだった。

この年に発表した「浅瀬を渡るサー・イザンブラズウィッカー」で大好評を得る。

大衆の好みを知識して描かれたこの作品は、1000ギニーで大画商アーネスト・ガンバ―トの手に渡った。

1862年、ロンドンに戻ることにしたミレイ一家は、サウス・ケンジントンのクロムウェル・プライス7番地に居を構えました。

このころミレイは、以前のラファエル前派風の作品を再び試みたが、たいした賞賛得られなかった。

その後は一貫して「売れ筋の絵」を描くようになり、画家の黄金時代(芸術にとってではない)における、最も裕福で丁重に扱われる人間となります。

1863年、ミレイはロイヤル・アカデミーの正会員に選ばれ、不動の名声を獲得し、

家長として、ロイヤル・アカデミー会員としてのミレイは、新聞記事にもあるとおり、

「まさしく真のイギリス人」だった。

彼が読むのは、「パンチ」、日刊紙、当時の小説、

なかでも彼が挿絵を描いた作家の作品にほぼ限られていた。

また、公的な生活の場はロンドン、私的な場はスコットランドというように区別し、

毎年秋になると家族とともに長い休暇をとり、猟小屋を借りてはライチョウ猟、シカ狩り、サケ釣りなどを楽しんだ。

数多くの作品を毎年順調に描き続け、そのすべてがよく売れた。

なかにはイギリス中の人々に愛されるようになった作品もある。

とりわけ有名なのは、自分の幼い孫をモデルにした「シャボン玉」である。

この作品はピアーズセッケンの広告に使われたため、ミレイはひどく気分を害します。

いまや大成功をおさめた彼は、肖像画家としても超売れっ子となり、モデルとなった人のリストは、

あたかもヴィクトリア時代の著名人一覧のようでした。

テニスン、リリー・ラングトリー、アーサー・サリヴァン、ヘンリー・アーヴィング、ディズレイリ、グラッド・ストーンらが名を連ね、

1870年には、臨終の床にあった作家のディゲンズの迫真的な肖像画が描かれた。

1880年代に入ると、ミレイは少なくとも3万ポンドの年収を得るようになっていました。

この莫大な収入によって、彼はケンジントンのパレス・ゲイトに長辺12mもある広いアトリエのあるルネサンス様式の壮麗な邸館を建てる。

1881年にはスコットランドのパース州にあるバーナム・ホールを借り、そこで猟をしたり、流涼としたスコットランド風景をスケッチしたりした。

さらに1885年には、画家としては初めて准男爵に叙せられた。

ミドルセックス州ケンジントン・パレス・ゲイトおよびジャージー島サントワン准男爵というタイトルである。

4年後には国立肖像画美術館の設立に強力している。

 

 

アカデミーの会長

ミレイはいまやイギリスで最も人気のある流行画家となります。

同僚にも人気があり、1896年にロイヤル・アカデミーの会長に推薦されると、

体調はすぐれなかったが、彼はこれを受諾したが、スピーチの際のしゃがれ声は不吉な未来を予感させていました。

ハントは祝いの手紙に、「PRB(ラファエル前派)から1文字上がって、

PRA(ロイヤル・アカデミー会長)になりましたね」と記している。

それから数ヶ月後、ミレイは妻と4人の子供たちが見守るなか、喉頭ガンで亡くなりました。

8月20日、葬儀が厳かに執り行わたあと、アカデミーの要請で遺体は、

セント・ポール大聖堂に葬られた。

死の数日前、ミレイのもとにヴィクトリア女王から「なにかできることはないか」という伝言が届いた。

もはや話すことができなくなっていたミレイは、石版に「妻に謁見を許してやってほしい」と書くと

翌日、迎えの馬車が到着し、エフィはウィンザー城へ送り届けられ、女王の謁見を賜った。

そのエフィも翌年12月に亡くなりました。

 

技巧の冴えを求めて

ミレイは神童と騒がれた少年時代から、ロイヤル・アカデミーの会長となった晩年にいたるまで、

ほとんど変わらず成功者としての道を歩み続けました。

天賦の才に恵まれてはいたが、同時に大変な努力を重ね、いくつかのジャンルで優れた力を発揮し、

といわけ肖像画、歴史画、挿絵には卓越した才能を示した。

長い画家生活のあいだに、時流に合わせて絵のスタイルを変えたため、美術界を騒然とさせている。

しかし、すべての絵に共通するのは、プロとしての自尊心を示すひじょうに高度な技巧です。

ミレイは晩年、次のように記しているが、それはまさに真実でだった。

「正直に言って、私は意識的にカンバスに不要な筆を加えたことは決してない。これまで常に誠実であったし、一生懸命働いてきた」。

 

細部へのこだわり

ラファエル前派のミレイは、天性の才能を自然への熱狂的な忠誠心に結び付け、形のはっきりした、

細部描写の細かな作品を描いてて、制作にあたっては、骨の折れる作業を時間をかけて繰り返した。

彼は細密な素描を前もって制作し、そののち、実物をじかに見ながら各部を油彩で描きました。

そのため、友人らと田舎で夏の数ヶ月間をすごして、絵の背景となる風景を仕上げたあと、

今度は冬中かかってアトリエを使い人物を描くというようなこともしばしばあった。

ミレイの日記には、「今日は一日中小屋にこもってツタを描いた」「引き続き、ホタルブクロのくきと葉を描いた」など、厳密な写実を忍耐強く行ったことを示す記述が数多く見受けられる。

ミレイは自然の描写ばかりでなく、小道具にもひじょうに気を遣い、

「オフィーリア」にぴったりの衣装を見つけた喜びを次のように記している。

「今日、婦人用のすばらしいアンティーク・ドレスを買った。全体が花模様で銀の縫い取りがしてある。僕はこれを「オフィーリア」用に使おうと考えている。

値段を言えば、相当いいものと思うだろうが、古くて汚いのに4ポンドもしたのだ!」。

彼はまた、背景として設定した場所まで衣装を持ち出すこともあった。

それは、正しい外光のもとで描くためでした。

ミレイは細部を描く際、ひじょうに小さな筆を用いています。

色が混じるのを防ぐため、絵の具を完全に拭き取ることのできる陶器のパレットを使うことが多かった。

画材の扱いにたけていたため、作品の保存状態はどれもすこぶる良かった。

1881年、ミレイは30年あまり前に描いた数点の作品を眺め、「すべての作品にひび割れや退色はまったく見られず、外観は完全に昔のままです。

このような状態にある自分の作品を目にできることに誇りと喜びを感じます」と満足を表している。

1850年代に入ると、ミレイの絵のスタイルは変化し始めます。

彼は「両親の家のキリスト」のような議論を呼びやすい主題を避けるようになり、以前よりも自由で、

色を塗るのにより細部にこだわらない方法をとるようになる。

ラファエル前派のころにはじっくり時間をかけて描いていたが、家族をかかえるようになったいま、「5スリング硬貨より小さな部分」にまる1日をかけるわけはいかないと考えるようになったからでした。

相変わらず歴史的な主題をとり上げたが、その内容はロマンティックだったり、センチメンタルだったり、あるいは愛国心に訴えたりするようなものが増えていきました。

 

人気を呼んだ作品

大衆のニーズに応えるという点で、ミレイは画期的な成功をおさめました。

彼の絵画の複製画や版画は、今日におけるベストエラーのポップスのレコードのように、飛ぶように売れたのです。

なかでも、子供を描いた絵は大変な人気を集めました。

ミレイはそれに、「ローリーの少年時代」や「ロンドン塔の王子たち」のように史実を盛り込むことが多かった。

彼はたいへんな子供好きで、子供の魅力を嫌味なく表現できる希有の才能に恵まれていた。

ミレイは絵画のほかに、本の挿絵も数多く手がけ、その方面でも高い評価を受けている。

聖書の挿絵が特に有名だが、そのほかにもテニスンの詩集や、アントニー・トロロプをはじめとするさまざまな作家の人気小説の挿絵を担当した。

トロロプの小説の挿絵はすばらしいもので、作家自身、続編の登場人物の描写にあたり、この挿絵の影響を受けたことを告白しているほどであったという。

ミレイは実物に銅版を彫ることはしなかったので、

これは白黒の素描をもとに専門の職人の手にゆだねられた。

 

 

ミレイの流麗な筆遣い

ミレイが挿絵画家として活躍したのは、おもに1850年半ばから1870年にかけてであり、

その後はもっぱら絵画に集中しています。

このころは、一見したところ、自在で苦もなく描いたようなスタイルを確立していたので、

なめらかで質感のある画面は、描かれているものがなんであれ独自の美しさをもっていました。

初期のころに比べると素描の数がずっと少なくなり、感興を大切にするためにいきなりカンバスに描くことが多くなります。

ミレイは、「ときとして絵に苦労の跡が見えることがあるが、そうした形跡を発見するとすべて塗り消してしまう」と記している。

まさにミレイのその器用さが、さまざまな批判を招いている。

彼は生存中にも、大衆の好みに迎合して才能を無駄使いしていると批判されたし、20世紀になってからも、「金のために芸術的良心を犠牲にした若き天才」と言われることが多かった。

しかし今日、偏見を捨てて見ると、ミレイの後期の作品は、利己的な目的ではなく心から楽しんで描かれたということがわかるだろう。

1878年、ミレイの作品がパリで展示されたとき、一大センセーションを巻き起こした。

フランスの美術評論家たちはイギリス人の多くが見落としていたものをそこで見た。

画面の真の美しい処理の仕方においてミレイに匹敵する画家は、イギリスは言うにおよばず、ヨーロッパ全体を見渡しても見当たらなかったのです。

 

 

名画の構成「オフィーリア」

ヴィクトリア時代の画家にとって、シェイクスピアの戯曲は多くの題材を提供した。

なかでもオフィーリアの悲劇が好まれたが、ミレイほどの独創性と信念をもってこの主題にのぞんだ画家はほかに見当たらない。

ミレイは背景として適当な場所を見つけるのに大変な苦労をしたが、最終的にはサリー州ユーエル付近の場所を選んだ。

ミレイは1851年6月から背景の制作にとりかかり、風や襲いかかる白鳥やハエの大群などと闘いながら、

10月にその作業を終了した。

オフィーリアの姿はロンドンで描かれた。

オフィーリアのモデルとなったのは、のちにロセッティと結婚したエリザベスだ。

正確な描写を重んじたミレイは、湯がたっぷり入ったバスタブを用意し、

そのなかでポーズをとるよう注文した。

バスタブの下にはランプがあり、これで湯を暖めていたのだが、

あるとき、ランプの火が消えて、エリザベスはひどい風邪をひいた。

エリザベスの父親は怒ってミレイを訴えると言い出したが、

ミレイは治療代を払うことでなんとか穏便に済ませることができた。

 

まとめ

ミレイが成功したのは、彼の絵のロマンティックで感傷的な主題が大衆の心をとらえたためだった。

ミレイの初期の作品は細部へのこだわりをみせているが、のちにはこの写真とみまごうばかりの手法から脱却し、自由に筆を操る最高の画家となった。

初期作品から、技巧や色彩においても彼の作品は人目をひくほど鮮やかで美しいことで有名であり、

自然描写の素晴らしさは他を圧倒していた。

現在でも彼の「オフィーリア」や「ロンドン塔の王子たち」はイギリスで最も人気がある作品となっている。

現在の写実画家たちは彼から多くのことを学んでいる。

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画家活動をしています。西洋絵画を専門としていますが、東洋美術や歴史、文化が大好きです。 現在は、独学で絵を学ぶ人と、絵画コレクター、絵画と芸術を愛する人のためのブログを書いています。 頑張ってブログ更新していますので、「友達はスフィンクス」をよろしくお願いします。