18世紀フランスが生んだ最高の装飾画家フランソワ・ブーシェは、1703年、パリに生まれました。
ブーシェは、ルモワールのもとで短期間画業を修めたのち、銅版画の彫師となり、
1723年にローマ賞を得て、3年間のイタリア留学を許され、ヴェネツィア、パルマ、ローマに学びます。
パリに戻ると同時に、絵画彫刻アカデミーの会員に推挙され、目ざましい活躍し始めると多彩な才能を示し、タピスリー、舞台装置、陶磁器デザインまで、幅広い注文に対して、さりげない優雅さと陽気なエロティシズムあふれる作品で応じました。
当時権勢をふるったポンパドール夫人がパトロンとなったおかげで、ブーシェは画家としてフランス最高の栄誉を獲得する。
それはフランス革命よりわずか20年ほど前のことである。
ブーシェの幼少期
フランソワ・ブーシェは1703年9月、パリ11区のラ・ヴルリ通りに生まれました。
父二コラは平凡な画家で、意巨図案家でもあったが、銅版画や画材を売って生計を立てていたようです。。
フランソワは父の経営する店の上階の住居で育ち、幼いころから家業に携わっていたと思われる。
このこと自体が、フランソワにとって幅広い美術の基礎訓練となった。
というのも、父二コラは版画や絵画のほかに本の挿絵や室内装飾の図案も手がけていたからだ。
フランソワは父の多才さを受け継ぎ、それを十二分に活用しました。
しかし父は、息子の教育をもっと腕のよい画家の手にゆだねる必要があると感じていて
フランソワが17歳のときにフランソワ・モルワーヌのアトリエに弟子入りさせる。
これはたいへん幸先のよいことでした。
というのも、ルモワーヌは新進気鋭の人気画家であり、バロックの装飾的要素をいっそう推し進めようとしているところだった。
それはロココ様式にまで発展するが、のちにこの十代の弟子こそがその先端をいくことになるからである。
生来口の軽いブーシェは、あとになって「ルモワーヌはお粗末な先生だ」と述べています。
事実、かれがルモワーヌのアトリエにいたのはほんの数ヶ月にすぐぎなかったからです。
しかしその間に、ブーシェはルモワーヌの画家の最も重要な特徴をいくつも吸収することができた。
ことに、神話の物語性よりむしろ装飾性を、そして肌の暖かみと色調を好んで強調する画法を学びます。
ブーシェはルモワーヌのアトリエを出るとすぐに仕事の口を見つけ、ジャン・フランソワ・カールのアトリエに入る。
カールはブーシェの友人の父親にあたり、彼の経営する版画工房は繁盛していた。
若いブーシェはすぐ、さまざまな仕事を手がけ、本の口絵、紋章の項飾、社交用のカードなどの図案を制作しました。
この経験もまた、たいへん貴重なものとなった。
ブーシェはカールのアトリエの仕事を通じて、最初の重要な制作依頼を受けます。
アントワーヌ・ヴァトーの友人であるジャン・ド・ジュリアンは、ブーシェの技能にひじょうに感銘を受け、ヴァトーの最も有名なデッサン125点の彫版を手伝うよに頼んだ。
ブーシェは、カールとジュリアンヌのために働く一方で、絵を描くことをおろそかにしませんでした。
1723年、ブーシェはだれもが憧れるローマ賞を受賞し、ローマのフランスアカデミーに留学する栄冠を手にする。
遅れた出発
結果的には、ブーシェは1722年までイタリアへ旅立たなかった。
出発が遅れたのは、資金不足のためと考えられます。
当時、アカデミーは必ずしも常に旅費を支給できる状態ではなく、私的パトロンを探す必要があったのです。
あるいは単にブーシェが出発する気にならなかっただけかもしれない。
というのも、彼はパリでの生活をおおいに楽しんでいたし、かなりの評判をとっていたからだ。
それでもやはりイタリア研修は、野心ある芸術家の将来にとって、当時もまだ絶対に必要な条件だった。
そこでブーシェは、2人の甥とカルル・ヴァン・ローと連れ立って南へ向かった。
イタリア滞在中のことについてはあまり知られておらず、それに関する本人の発言も軽蔑に満ちている。
のちにブーシェは、イタリアへ行ったのも純粋に絵の勉強をするというより、むしろ単なる好奇心からだと語っているほどだ。
たとえそうだとしても、いくつかの例証によれば、ブーシェはローマの「穴蔵のような小部屋」に住みながらも、フランチェスコ・アルバー二やピエトロ・ダ・コルナートの作品を高く評価するようになった。
またヴェネツィアを訪れた際には、偉大な装飾画家ティエポロと接触したことも確からしい。
ブーシェは1731年ころはパリに戻り、絵画彫刻アカデミーへの入会許可を得ようと制作に励む。
そして3年もたたないういに「リナルドとアルミダ」が入会資格作品として認められ、志を遂げました。
この絵によってはっきりと彼の将来の展望が開けたといえる。
アカデミー会員になるには、このような古典を扱う必要があったのだが、ブーシェは題材にうわべだけの尊敬をはらい、それにかこつけてじつは女性の裸体を公然と賛美した。
すでにこの頃ブーシェは、本命のモデルを見つけていて1733年に、17歳のマリー・ジャンヌ・ブゾーとパリで結婚します。
若い魅力的な妻は、ブーシェがヴィーナスやディアナやレダを描く際、そうした人間の姿をした魅力的な妖精や女神の原型となった。
だが皮肉なことに、妻を描いた作品の中でも最も魅力的なのは、衣服をきちんとまとってソファーに座る、家庭的な親しみと、機智に富んだ表情の彼女を描いたものでした。
妻に対するブーシェの誠実は長続きせず、いままでどおり場当たり的な浮気を始めた。
しかしその背信行為は長引くことなく、深刻にもならず、結婚生活はおびやかされませんでした。
その最大の理由は、マリー・ジャンヌ自身が情事を楽しんでいたからです。
夫婦のあいだには娘2人と息子1人がり、いつも仲むつまじかった。
ただし、のちにブーシェは、妻の浪費癖が家計の負担になっていることに気づいた。
マリー・ジャンヌは自分でも絵を描き、夫の作品のミニチュアをかなり上手に制作したようです。
一方、画家としてのフランソワ・ブーシェの地位はますます堅固なものになりつつあった。
1735年ポンパドール夫人との交際が始まるずっと以前にブーシェは、王室からの最初の制作依頼を受け、ルイ15世の貞淑な妻、マリー・レクザンスカのために「美徳」というパネル画を制作した。
装飾の仕事
その前年、ブーシェはボーヴェーにあるタピスリー製作所のために図案制作を始め、ジャン・パティスト・ウードリー指導のもとで仕事をした。
ブーシェは生涯を通じて応用美術の仕事に携わったが、これはその一面であった。
1737年からはパリのオペラ座でも仕事をした。
常に演劇に熱中し、舞台背景面を描いたり、衣裳のデザインに精力的にとり組んだ。
このころはまた、長い中断のあと再開させたサロンが定期的に開催されるようになった時期でもあった。
ブーシェのおもな出品者は四季を描いた一連の田園風景で、これが世間の絶賛を浴び、つぎつぎに制作依頼がくるようになります。
ルモワーヌは、過労の妻の死にうちひしがれ、2ヶ月前に自殺していました。
その後の20年間はブーシェにとって、成功に次ぐ成功を手にした時期でした。
彼の作品は絵画であれ、タピスリーであれ、室内装飾であれ、常に貴族や王族の需要があった。
王家のパトロンのなかで、ずば抜けた影響力をもっていたのがポンパドール夫人でした。
彼女は1745年にルイ15世の公式の寵姫の座につくや、自分の手がける多くの美術計画にブーシェを起用し始めます。
ポンパドール夫人のためにブーシェが行った仕事のうち最も輝かしいのは、ベルヴューの彼女の館の装飾であると思われるが、残念なことにそれは現存していない。
彼はポンパドール夫人の私室をシノワズリー(中国風装飾様式)でデザインし、寝室には神話からの陽気な場面をとり入れ、礼拝堂のためには、ふだんめったに描かない宗教画のパネルさえ制作した。
こうしてブーシェの才能は十二分に試されたのだった。
ポンパドール夫人がルイ15世を楽しませようと小劇場を建てたとき、ブーシェは劇場内の絵を制作するよう依頼されます。
またポンパドール夫人は、陶磁器製造業が復興されたことに興味を持ち、ブーシェに磁器製人形のための素描の注文もした。
この著名なパトロンのためにブーシェが制作した作品のなかで最も注目すべき現存作品は、一連の肖像画の傑作でした。
なかでも彼の芸術がその精緻さの頂点に達したのは、ポンパドール夫人がたくさんの花にかこまれ、脇に書物と楽譜を置いて優美にポーズをとる絵である。
こうした肖像は必ずしも熱狂的に受け入れられたわけではなかったようです。
1757年のサロンでは、絵のなかで彼女のベッド横に描かれた書類が政府関係の書類と解釈され、このことから、国家を動かしているのはポンパドール夫人ではないかと疑惑と抗議の嵐が巻き起ったりもした。
スウェーデン人のパトロン
ブーシェは宮廷のためだけに奉仕したわけではありませんでした。
他の多くのパトロンたちのなかで特に著名な人物が、スウェーデン大使のテッシン伯爵です。
テッシン伯がブーシェ夫人に惹かれたことも一役かっていると言われる。
事実、テッシン伯がブーシェ夫人に気前よく送った贈り物は、彼が購入する絵よりずっと高価なこともしばしばだった。
だがブーシェはこれを気にとめるふうもなく、伯爵のための「ヴィーナスの勝利」に、ヴィーナスとしてマリー・ジャンヌの裸身を描き入れさえしました。
ブーシェは長年の念願がかない、1752年にルーブル宮殿内のアトリエの使用を認められます。
いまや彼は生涯の絶頂期にあり、意のままに高い制作料を要求し、しかも大量の仕事をこなすための弟子を使わざるを得なくなりました。
ブーシェの気に入りの弟子たちは、概して期待外れに終わった。
彼の息子は建築家として仕込まれた才能を現わさず、2人の娘婿、ボードワンとデエも若くして亡くなり、真の才能を発揮するにはいたらなかったのです。
ブーシェの作品の精神は、別の弟子、ジャン・オレノ・フラゴナールの作品に受け継がれる。
しかし、ブーシェのアトリエに籍を置いたことのある最も有名な画家は、まったく別の画風の先駆者となるダヴィッドである。
彼はブーシェの達録にあたり、若いころほんの短期間ブーシェに訓練を受けたのち、ヴィアンのアトリエで、簡素な古典にもとづいた理想を体系化し始めた。
こうした状況の変化は、ブーシェの生存中にはっきりと現れていました。
早くも1744年には、あまりにも過剰な甘美さや技巧に対する批判の声があがったのです。
ディドロに率いられた批評家たちは、年とともにあからさまにブーシェ批判の声を強め、1765年、ついにディドロはブーシェに痛烈な攻撃を加えるにいたった。
ブーシェの視力の衰え
ブーシェはディドロに対してうまく応酬することができなかった。
というのも、1750年代半ばからは視力の衰えが始まっていたからです。
こうした事実にもかかわらず、ブーシェの作品は公には引き続き高く評価されていました。
1755年にはウードリーのあとを継いでゴブラン製作所の所長となり、その翌年には王立陶磁器製作所の所長フェルコネから、セーブル移転後の事業に新風を吹き込んでほしいとの依頼を受けた。
ポンパドール夫人が亡くなってからも、ブーシェの経歴に翳りが見えることはなく、1765年、彼女の弟であるマリニー侯爵の推挙によって、ブーシェはカルル・ヴァン・ロー亡き後の宮廷画家の地位に就いた。
同時に、空席だったアカデミー院長の座も獲得する。
しかし実際には、あまりの忙しさと体力の衰えのために、こうした名誉ある職をまともに務めることができず、ほとんどの職務をコシャンという名の助手に委任するしかなかった。
1766年には、旧友の1人が絵を購入するにあたり助言をすすめ、ブーシェは無謀にもオランダへ旅行した。
これが二度目の外国旅行であったが、この旅行が、心身への大きな負担となり、弱っていた身体はさらに衰え、おそらく死期を早めたものと思われる。
彼は1770年5月、ルーブル宮殿内のアトリエで死亡した。
官能の巨匠
フランス革命以後、ブーシェの人気は失墜したが、それはある意味では、時代とともに生きた画家が当然支払わなければならない代償だった。
ブーシェはルイ15世とその取り巻きの人生と深く結びついて考えられていたため、彼の真の評価は、アンシャン・レジームの浮ついた調子がデカダンではなく、単に風変わりなだけだと評価できるだけの時間が経過して初めて可能になったといえる。
彼の再評価は1862年にゴンクール兄弟によってもたらされる。
しかし、そのころには、作品がもともと飾られていた建物はほとんど消え失せていたし、絵画作品も四散して、個人コレクションにおさまっていました。
彼の作品がもともとあった場所というのは、王宮がヴェルサイユから移転するのにともなってパリ周辺に急速に建ち始めた貴族の新しい邸宅でした。
そのころ、人々の趣味は荘重なバロック様式を離れ、もっと親しみやすい、装飾的なものに移っていた。
ブーシェの絵のほとんど全部が、特定の場所(パネルの上部やドアの上部)のために描かれたものであり、建物や家具と調和するよう意図されていました。
このような装飾的な機能を果たすために、主題とその取り扱いはおのずと限定され、
浴室には、真面目な教訓的作品より、湯あみする女神を描いた派手な絵のほうが似つかわしいかったのです。
そういうわけで、もとの場所に残っている作品をみれば、ブーシェの本質をより容易に正しく理解することができる。
その数は少ないが、たとえば、英国ヨークシャー州のアダム低内にあるニュービー・ホールには、1760年代に直接ゴブラン制作所に依頼した「神々の愛人たち」の連作が保存されているが、画廊の味気ない羅列のなかで見るよりも、こちらのほうが彼の作品の印象をより正確に伝えている。
ブーシェの装飾的な画風には、さまざまな源流がある。
書記の影響を受けたルモワーヌやヴァトー、それにイタリア人画家に加えて、とりわけアブラハム・ブルーマールトなどのオランダの画家から影響を受けています。
ブーシェはイタリア滞在中にブルーマールトの作品をいくつか購入し、1735年のエッチング連作に利用している。
ブルーマールトから得たものは、生き生きした躍動感であり、乱雑さの装飾感覚だろう。
異国趣味
ブーシェの成長をもたらしたものとして、応用美術との広範なつながり、特にタピスリーや演劇との結びつきは無視できない。
ボーヴェーのゴブラン製作所のための仕事は、中断をはさみながらも生涯のほとんどを通じて行われ、ブーシェは彼特有の陽気なアプローチ方法でこれをこなしました。
ブーシェは伝統的画法の重苦しさを打ち破り、明るく柔らかな陰影を採用し、ことにピンクとブルーを多用している。
ブーシェのゴブラン制作所の主たる任務は、原画の制作であった。
たとえば、1742年のサロンでは、中国の生活風景をカンバスに描いた油絵の習作8点を出品している。
一見するとこれらの作品は、中国で布教したイエズス会士アティレのスケッチにもとづいているように思われるが、実際にはブーシェが想像した異国の情景が基本になっている。
この風景画のうち6点がタピスリーの原画として採用された。
それがブーシェによるタピスリーのシノワズリー連作の第一作となり、あまりの評判に、
ルイ15世はその一組を中国(清)の乾隆帝に献呈したほどだった。
ブーシェはさまざまな表現手段を用い、そのなかで、しばしば手段の交換を行っていた。
舞台装置のデザインがタピスリー用の再利用されたものもあるし、同様に、タピスリーの原画が油絵に仕上げられたものもある。
大作「日の出」をX線で透視してみると、当初はグリザイユ(単色画)として制作されたことがわかるが、その対になっている「日没」は普通の油彩画として描かれている。
グリザイユとして描かれたということは、もともと「日の出」はタピスリーの実物大下図であったが、ポンパドール夫人が「日没」の制作を依頼した際、「日の出」を油彩画に変更させたと考えられる。
古典の幻想
ブーシェの演劇関係の作品はほとんど存在しないが、きわめて重要な意味をもっていたと思われます。
ことにそれは、ブーシェのほとんどの作品が、奥行きの浅い、舞台の書き割りのような構図になっている理由を説明してくれる。
たいていの場合、動きは絵の前面にとどまり、背後には入っていかない。
神話を題材にした作品では、ディアナの属性を示す持物が画面の端にはっきりと描かれている。
そのため作品はいっそう人工的な感じがします。
舞台装置のデザインが数点残っている「イッサ」の例にみられるように、主題がなんであっても、奔放な想像力がまず間違いなく発揮されている。
この戯曲は、オウディウスの作品の模倣したロマンティックな寓話で、アポロ神は人間の恋人を誘惑するために羊飼いに姿を変えるという筋立てだった。
ブーシェの作品には古典作品に対するさりげない扱いが随所に見受けられる。
装飾の流行は、ブーシェにとって有利にはたらいた。
宗教画や歴史画をあまり手がけなかったのは、そうした主題に対し彼が一種の居心地の悪さを感じていたことを示している。
このような、真剣な精神性の欠如がディドロのブーシェ批判の核心でした。
ただし、「ブーシェはまったく自然を観察していない」というディドロの有名な非難は、必ずしも正確ではありません。
スケッチやデッサンの作品が多数存在するということは、最終的に仕上がった作品がいかに人工的であるにしても、ブーシェが細心の注意力をもって勤勉に自然を研究していたことの現れです。
デッサンをサロンで売却したのはブーシェが最初でした。
茶や黒のチョークやパステルで描いた多くの女性像がつぎつぎに売れていったのです。
自然に対するブーシェの真の態度が最も鮮明に現れているのは、繊細な風景画デッサンでした。
ほとんどはボーヴェリー周辺のピカルディ―の田園スケッチ、あるいはウードリーと一緒に歩いたシャラントンの景色であり、画家はアトリエに戻ってから、そうした絵に古典のモチーフを加えて、純粋な自然探索をうっとりするような独自の幻想世界に変貌させたのである。
名画の構成「マドモアゼル・オミュルフィ」
この自然で美しいヌードは、単に「横たわる少女」と呼ばれることもあるが、ブーシェが絶頂期の1752年に描いたものです。
柔らかな、女性的な官能性はブーシェのすべての作品に共通するものだが、ここではそれが濃厚な香水のように空中を漂い、透明な少女の肌は触れることができるかのようで見事だ。
ブーシェは横たわる女性のヌードをいくつも描いており、この絵と同じ絵柄の作品もいくつかある。
少女のポーズはまったくあけっぴろげであるが、構図には細心の注意がはらわれており、画面を横切るゆるい斜めの線が、この作品の夢みるような性格を強めている。
まとめ
先輩のルーベンス、後輩のルノワールと同じように、ブーシェもまた官能の快楽に奉仕する絵を描いた。
彼は官能的で健康と活力のみなぎる、美しくしかもたいていはヌードの女性を沢山描いて、当時の男女を大いに喜ばせました。
ブーシェはギリシャ・ローマの神話を題材にしながら、まったく伝統にはとらわれずに自由に君臨し、精神的なというより現世的な愛は、ブーシェの絵画の永遠のテーマでもあった。
また、ブーシェは当代随一の装飾画家であり、後の時代で彼を凌ぐ画家はいない。