「ロセッティ」情熱的なヴィクトリアン

イタリアの作家で政治亡命者の息子として生まれたダンテ・ゲイブリエル・ロセッティは、詩人としてばかりでなく画家としての天分にも恵まれていた。

他人を圧倒するカリスマ的な性格をもち、20歳の時イギリス美術の改革を目指して結成した「ラファエル前派」の中心的存在となります。

ロセッティが好んだ主題は美しい女性で、最後の20年間は、女性以外ほとんど描いていません。

ハンサムで、魅力にあふれ、社会的にも認められて、おおいに人をひきつけたが、愛する女性との関係は常に緊張をはらんでいた。

結婚後2年もしないうちに妻が死に、その後は友人ウィリアム・モリスの妻を偶像視して愛情を傾けます。

晩年は麻薬とアルコールと闘い、ある日突然53歳で亡くなりました。

略歴

1828年 ロンドンに誕生

1845年 ロイヤル・アカデミー・スクールに入学

1848年 「ラファエル前派」結成

1854年 美術評論家ジョン・ラスキンと知り合う

1856年 ウィリアム・モリスとエドワード・バーン・ジョーンズを知る

1860年 リジー・シッダルと結婚

1862年 リジー没。 チェルシーのチューダー・ハウスに転居

1870年 亡き妻の思い出に「ベアタ・ベアトリカ」完成

1877年 「アスタルテ・シリアカ」制作

1881年 卒中で倒れる

1882年 バーチントン・オン・シーで没

 

「ロセッティ」の幼少時代

ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティは1828年5月12日にロンドンで生まれ、ヴィクトリア朝時代のイギリスにおける傑出した家庭で育てられました。

父親のガブリエーレ・パスクアーレ・ジュゼッペ・ロセッティは、祖国イタリアで革命的秘密結社に関係したかどで死刑の判決を受け、イタリアを脱出した詩人であり学者でした。

ガブリエーレは1824年にイギリスに腰を落ち着け、それから2年後、同じ亡命者イタリア人の父親とイギリス人の母親をもつ娘で、家庭教師や教員をしていたフランセス・メアリー・ラヴィニア・ポリドリーと結婚した。

ダンテ・ゲイブリエルは4人の子供のうちの第2子で、兄弟は皆、知的な天分に恵まれていました。

19歳の自画像」 1847年

「ラファエル前派」を結成する1年前の1847年の自画像。

その髪、思索的な目、情熱的な態度によって、ロセッティは若いときからすでに目立つ存在であった。

子供たちは、イタリア語と英語を話せるように育てられ、一番年上のマリアはイタリア語の権威となり、次女のクリスティーナは当時最も優れた詩人の1人として名声を得た。

弟のウィリアム・マイケルは美術評論家となっている。

父ガブリエーレはイタリア語を教えて生計を立てていましたが、1813年にロンドン大学キングズ・カレッジのイタリア語教授になりました。

給料は安く、生活もごくつつましいものでしたが、父親が教授の地位にあったおかげで、息子たちは授業料免除か一般よりは安く、キングズ・カレッジ・スクールで学ぶことが出来ました。

 

義務的なことを嫌う生徒

「ダンテ・ゲイブリエルは子供時代、大変に絵を描く事が好きで、常に、画家になるだろうと思われていた」と弟のマイケルが後に語っている。

ダンテ・ゲイブリエルは14歳でキングズ・カレッジ・スクールを終えると、ロイヤル・アカデミー・スクールに入るための予備校のように考えられていたサス・アート・スクールに入学し、1845年にロイヤル・アカデミー・スクールに進みました。

通常より3年間も「サス」に通ったのは、古代彫刻の素描を重んじた学校の方針に従うことを嫌ったのと、勤勉な生徒ではなかったためでした。

彼自身の言葉を借りれば「何かが義務として自分に課せられたとたん、やる気がなくなってしまう。やらなければならないというのは、私にはできない」のだった。

学生時代のロセッティは目立つ存在でした。

青みがかった灰色の目と、垂らした赤褐色の髪をもつずば抜けた美男子で、他人を引き寄せる磁石のような個性を備え、どんな場でも必ず中心人物になってしまうような青年だったからです。

弟の回想によれば「知的な才能を別にすると、彼は最も本質的な性格というのは支配的ということだったと思う。彼は命令的で、激烈で、ときに怒り狂ったように情熱的だった。しかし、怒りは突発的で一時的な衝動で、むっつりしたり、恨みをいだいたりすることは決してなかった」。

 

画家への手紙

ロイヤル・アカデミーでも「サス」のときと同じように、学校の決まりきった勉強が嫌いだったようで、1848年3月には、敬愛する画家フォード・マックス・ブラウン(当時26歳)に手紙を書き、弟子にしてくれるように頼んだ。

ブラウンは、ロセッティを非公式の弟子として受け入れることに同意したが、彼は正式にはそのときもまだロイヤル・アカデミーの学生でした。

・ヴィクトリア朝時代の室内

この水彩画のロセッティの亡くなる年にえがかれたもので、骨董品や珍品に取り囲まれたチューダー・ハウス内の画家と、友人で法律顧問をしていたセオドア・ワッツ・ダントンを示している。

これをえがいたのはロセッティの助手をしていたH・T・ダンである。

ロセッティはブラウンの絵の真剣さや文学性に強い印象を受けますが、自分が反発していた伝統的なアカデミーの技法と同じことをブラウンが教えるのに失望して、修行を辞めてしまいました。

20歳の誕生日を迎えようとする頃、ロセッティはまだ、画家になるか、文学に進むかで迷っていた。

優れた詩人で批評家のリー・ハントに詩を送ってみると、ハントは詩をほめてくれたが、詩人で身を立てるのは画家で身を立てるよりも困難だという大事な指摘を忘れませんでした。

「画家をしながら詩を書いてゆくなら、金持ちになれるかもしれない」とハントは書いています。

「七塔の調べ」 1857年

このメランコリックで、憂いに沈む水彩画の主題がなんであるかは、はっきりしない。

楽器を弾く女性のモデルはエリザベス・シッダルである。

シッダルの病弱さを示そうとしたものかもしれない。

彼女が喉元に巡礼の貝殻をつけているのは、その生涯をかけて巡礼、または健康を求める旅を暗示する。

アイデアはあふれるばかりにもっていたが、ロセッティは画家として重要な作品はまだ制作していませんでした。

しかし、ロイヤル・アカデミーの同級生ウィリアム・ホルマン・ハントとジョン・エヴァレット・ミレイとの友情が深まるにつれ、画家への道が開けていきます。

 

ラファエル前派

生気のない美術界の因習は16世紀のラファエロに由来すると考え、これに対する反発を表明するために、彼らは人たちを「ラファエル前派」と呼ぶことにした。

この3人に、ロセティの弟ともう3人の友人を加えた7人で、1848年に秘密のグループ「ラファエル前派」を結成します。

ロセティの最初の代表作「聖母マリアの少女時代」はラファエル前派の頭文字「PRB」を付して展示された最初の作品となりました。

「聖母マリアの少女時代」 1849年

ロセッティの最初の重要な油彩画で、高い評判を得た作品である。

母親と妹をモデルにした作品で、ポーズと表情が感動的なまでに簡潔であるところが大きな魅力である。

また象徴的な事物も数多く盛り込まれている。

ロセッティはソネットにそれらを説明している。

たとえば、天使のそばの花瓶に挿されたユリは無垢を表している。

この絵の評判はよく、バースの侯爵夫人が80ギニーで買い上げた。

でも翌年、大きな失望を味わうことになります。

PRBの意味が世間で知られると、マスコミはロセティとその仲間を手ひどく攻撃した。

そしてラファエロの名を汚したふとどき者として非難しました。

(この時代ラファエロは全世界最高の画家と考えられていたのです)

ロセティはこの批判で、二度と作品を公に発表しないと誓い、それを破ることはめったになかった。

「受胎告知」 1850年

ロセッティは当初、この絵と対になる、聖母の死を表す作品を計画したが、結局それには着手しなかった。

それはこの作品が縦長であることからも説明される。

つまり、2点で二連画(ディプティカ)にして、ほぼ正方形にするつもりだった。

白を基調にして、青、赤、黄色の三原色にほぼ色彩を限定している点が注目される。

ロセッティは、マリアと天使の姿を描くのに、母親と妹のクリスティーナを含む数人のモデルを使った。

そして、1850年代には、彼は油彩画をほとんど描かず、小型の水彩画ばかり制作しました。

ラファエル前派はしだいに分裂し始めた。

ロセッティは当時、ハントとアトリエを共有していましたが、ブラックフライアーズ橋の近くのチャタム・プレイス14番地に自分用の部屋を見つけました。

「ベアトリーチェの一周忌」 1853年

ロセッティは自身の名前の由来となった詩人ダンテを尊敬しており、ダンテの作品は彼の最高傑作の何点かにインスタレーションを与えている。

ここには、最愛の人ベアトリーチェの一周忌に、天使を描いていたダンテのところへ友人たちがやってきたようすが描かれている。

作品の展示はしなかったが、水彩画の売れ行きはよく、1854年には高名な美術評論家ジョン・ラスキンと知り合い、親しく付き合うようになった。

ラスキンは50年代のロセッティに大きな影響を与えた新しい友人の1人です。

 

リジーとの出逢い

1850年にロセッティは、やがて妻となるエリザベス(リジー)・シッダルと出会う。

ロセッティの想像力を駆り立て、絵を創作するうえでインスピレーションの泉となった美しい女性たち(目を覚めるような美女を意味する{スタナー}とロセッティは呼んだ)の最初の1人です。

赤い髪のリジーがレスター・スクエアの婦人帽子店で働いているのを「発見した」のは、ロセッティの友人で画家のウォルター・デヴェレルでした。

「ベアタ・ベアトリクス」 1864~70年

この絵は、1862年に亡くなった妻の思いとして描かれた。

この絵で、ロセッティはリジーへの愛を、ベアトリーチェに対するダンテの理想化された愛になぞらえて表している。

ベアトリーチェの死はダンテを打ちのめした。

鳥は死を伝える使者であり、眠りを誘うケシの花をくわえている。

リジーはハンサムで魅力的なデヴェレルに恋していたのかもしれないが、テヴェレルは1854年に26歳で亡くなった。

彼の死後、リジーはひじょうに病弱になったのちに、ロセッティと互いに深く惹かれ合うようになります。

第三者的にみれば、1860年に結婚するまでの数年間、2人は「道義に背く生活」をしているように見えるでしょうが、2人の関係はどのような基準に照らしてみても異例で、ときには緊張したものでした。

リジーに強く心を奪われれば奪われるほど、ロセッティはリジーを偶像視すべきものであれ、触れてはならぬ「理想の恋人」と見るようになったのです。

ヴィクトリア朝時代の男の多くがそうであったように、ロセッティも女性を天使と娼婦の2種類に分けていた。

リジーと性的な関係を深めれば、祭り上げた台座から彼女を転落させることになってしまうのです。

 

実生活のための愛人

そこで、ロセッティは別の女性に性的なはけ口を求めた。

彼が最も長期間にわたって関係をもったのはセアラ・コックス(のちにファニー・コーンフォースいう名で知られるようになる)で、この女性に初めて出会ったのは1858年ころのことでした。

一説によると、ロセッティは彼女とストランドで偶然知り合ったとされ、彼女は、歯でナッツの殻を割り、明らかにそれとわかる殻をロセッティに投げつけて気を引いたといいます。

肉づきがよく、健康で、下世話な話題に通じ、病弱なリジーとは正反対の女でした。

2人の関係は、ロセッティがリジーと結婚したあと、一時きれたが、その後、再び会うようになり、彼の亡くなるころまで続いた。

1856年ロセッティはオックスフォードの2人の学生と友人となります。

ウィリアム・モリスとエドワード・バーン・ジョーンズです。

翌年ロセッティはこの2人や他の学生たちとともに、オックスフォード大学クラブ討論室の壁にアーサー王伝説の情景を描きます。

結婚してちょうど1年後の1861年5月にリジーは娘を生んだが、死産でした。

その翌年の春にはリジー自身も亡くなり、ロセッティは悲しみのあまり完成したばかりの詩集をリジーと一緒に埋葬してしまうほどでした。(詩集は1869年に掘り出して、1870年に出版した)。

 

チェルシーへの転居

1862年10月、妻に先立たれたロセッティは、ブラックフライアーズからチェルシーのチェイン・ウォークにある大きなチューダー・ハウスに転居した。

ここで、ロセッティはの生活にファニー・コーンフォースが、モデルとして、愛人として、そして家政婦として再び姿を見せます。

彼女を描いた絵は、天使のようなリジーの絵と比べると、より官能的で、また、よく売れました。

ロセッティは画商に対しては、しっかりしたビジネスマンであり、1860年代の年収は3000ポンドにのぼっています。

ロセッティは、肉感的なもう1人の女性、アレクサ・ワイルディングを街で見かけてモデルにした時も、1年分の家賃を楽に支払ってやることが可能でした。

アレクサは、ロセッティの最も優れた作品の多くにモデルになっている。

しかし、ロセッティ晩年の作品に登場する顔は、モリスの妻だったジェーンであることが圧倒的に多い。

ロセッティがジェーンに出会ったのは、彼女がモリスと結婚する2年前の1857年で、リジーと同じように、ジェーンは背が高く、息をのむように魅力的で、これもまたリジーと同じく病気がちでした。

ファニー・コーンフォースがロセッティの肉体的欲望を満足させるのに対して、ジェーンは理想的で、神秘的な愛を満たした。

ロセッティは豊かになって助手を雇えるほどになっていたが、1872年にはすっかり健康をそこねていました。

慢性的な不眠症を解消するために、以前から多量の酒と麻薬を常用していたのが原因でした。

いったん回復はしても、以後亡くなるまでの10年間はアルコールと麻痺によって体はひどく蝕まれ、手が震えて仕事ができないことの多かった。

青年時代の美貌は見る影も亡くなり、太って、くまのできた目は鉛中毒の患者を思わせるほどでした。

それでも、依然として周囲を圧倒し、会話の名手であることに変わりはありませんでした。

 

晩年

晩年の数年は、病身で、気力も衰え、年齢以上にやつれて、友人のマドックス・ブラウンや母と妹のクリスティーナを訪ねるとき以外は外出することもなくなった。

そして1881年12月病身だったころにさらに卒中に見舞われ、左の手足が麻痺し、1882年2月には、ケント州マーギットに近いバーチントン・オン・シーで療養につとめました。

ロセッティは4月9日に53歳で亡くなりました。

復活祭の日曜日でした。

・海辺の墓

ロセッティはケント州のバーチントン・オン・シーでの療養中に、53歳で亡くなり、同地の教会墓地に埋葬された。

フォード・マックス・ブラウンがデザインした墓石には、「画家として生き、詩人として生きてたたえられし」という故人を雄弁に語る墓碑銘が刻まれている。

彼はハイゲート墓地のリジーの横に埋葬しないように遺言しており(おそらく、妻の墓を汚すという罪の意識の聖でしょう)、そのため、バーチントンの教会墓地に埋葬されました。

 

ロマンティックな夢の世界

個性の強さと、当時の因習を無視したことによって、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティは19世紀の最も個性的な画家の1人となりました。

ラファエル前派の一員だったときも、彼の態度や技法は、理論的には同じ理想を追求した仲間の画家のそれとははっきり異なっていた。

ロセッティは、息をするのと同じように楽々と絵を描くことのできたミレイのような天性のクラフツマンでかなく、かといって、インスタレーションによるというより一心に制作したホルマン・ハントの忍耐力を備えていたわけでもなかった。

技術の完全な習得を怠った若いロセッティは、頭の中にメロディーがよぎることはあっても、まだ音階をマスターしていない音楽家と同じでした。

 

欠点をもつ傑作

最初期の重要な2点の作品「聖母マリアの少女時代」と「受胎告知」では、聖母マリアが腰をおろしているベッドの傾き加減と天使の足元の位置関係に弱点が見られます。

しかしそれでも、作品のもつ精神性が技術の欠点を圧倒しているのは、ロセッティならではと言えます。

大胆な、全体に白っぽい構成や、絶妙な聖母の表情は、清純さをいちだんと高めている。

「青い私室」 1857年

この色彩豊かな水彩画は、多くの点でロセッティの典型的な作品と言える。

中世的設定、音楽的なテーマ、そして物憂げな美女などにそれが見られる。

絵のモデルとして友人や家族を使う点はラファエル前派の画家の共通した特徴ですが、仲間の画家と違って、ロセッティは細部を細かく描写することには決して興味を示しませんでした。

「受胎告知」のプレーンな白の壁や床に考古学的な考証を行ったり、それを再構成すること、または、わずか数㎝四方を色付けするのにまえる1日を費やす必用はなかった。

ロセッティは背景を複雑にするのを避ける傾向があり、それは風景を嫌っていたのが原因でした。

特にミレイが細部まで注意深く描いた作品が嫌いでした。

作品のなかで水彩画が大きな部分を占めていた点でも、ロセッティはラファエル前派の他の画家と大きく異なっています。

水彩は1850年代のロセッティお気に入りのメディウムであり、これを独自の手法に発展させて、おもに中世騎士物語を主題とする作品に使っている。

水彩画は、18世紀末から19世紀初めにかけてイギリスで最も発達した画材です。

ロセッティの技法は、透明感のある色彩のウォッシュを用いて、色彩素描のような効果を出す古典的な手法とは大きく違っていました。

ロセッティは絵具を筆跡が見えるほど厚く塗り「聖ゲオルギウスとサブら姫の結婚式」の例に見られるように、紋章を散りばめた衣装を描くのに格好の、きらきらとした宝石のような効果をうみだしています。

「聖ゲオルギウスとサブラ姫の結婚式」 1857年

この鮮やかな水彩画は、装飾的な形や模様に対するロセッティの好みを示す例である。

結婚というテーマは、彼にとって身近なものだった。ロセッティ自身も、友人のモリスやバーン・ジョーンズ同様、当時結婚を考えていたからである。

背景にある白いベッドは、結婚という愛の形を最も暗示している。

政ゲオルギウスが竜を退治した勲章として与えるために、サブラ姫は自分の髪を切っている。

 

例のない技法

ロセッティは他の画家とは違って、水彩と油彩を区別して用いたり、自分によりふさわしいメディウムで技術を発揮しようとはしませんでした。

彼の水彩画が、しばしば厚塗りで豊かなテクスチャーを示している(絵の具をほとんど乾燥させてから塗るためで、紙にこすりつけたり、削り取ることもよくあった)のに対して、油絵は微妙な繊細さを表していることもまれではない。

ロセッティの友人ウィリアム・ベル・スコットは、ロセッティが「聖母マリアの少女時代」を制作するようすを見ており、彼は「水彩と同じように薄く塗るために、油彩画に水彩用の筆を使っている」と書き残しています。

こうした技法上の特異性のために、ロセッティの油彩は大ざっぱに見えたり未完成であるかに見えるが、苦心のあとを残さない滑らかな平面に仕上げた他の画家の作品に見られない、内側からあふれ出る輝きをもっています。

「パオロとフランチェスカ・ダ・リミニ」 1855年

怠隋ではあったが、ロセッティは、必用なときには手早かった。

この水彩画は、フランス旅行中に金を使い果たしたリジー・シッダルを助けるために制作された。

「ロセッティは夜も昼も働いて、1週間で仕上げた」とマックス・ブラウンは書いている。

ロセッティは優れた挿絵画家でもあり、妹の詩集につけた挿絵は、ロセッティの最も魅力的な作品の1つです。

画歴の最後の20年間(亡くなる4年前の1878年にロセッティは制作活動を中止した)、ロセッティは、そのほとんどを美しい官能的な女性の絵の制作に費やした。

「プロセルピーナ」 1877年

この絵は、ロセッティが女性の体のさまざまな部分を、いかに注意深くえがいているかを示す最高の例である。

友人のセオドア・ワッツ・ダントンは、「ロセッティにとって、目は顔のなかの精神的な部分を、口は感覚的な部分を表す」と語っている。

手もまた、きわめて表情豊かに表されている。

しばらくのあいだはファニー・コーンフォースがお気に入りのモデルでしたが、それ以後はジェーン・モリスでした。

くっきりした唇、憂いを秘めた目、波打つ巻き毛によって、ロセッティの描くジェーンは、「ファム・ファンタール」(宿命の女)の一典型となりました。

 

神々しいばかりの美しいフォルム

こうしたえにはしばしばイタリア語やラテン語の画題がついており、神話や文学との関係を思わせるかもしれないが、物語性はない。

ロセッティの友人であり弟子でもあったエドワード・バーン・ジョーンズが絵画に対する自分の考えを述べた言葉は、そのままロセッティ晩年の作品に当てはめることが出来ます。

「私はえというものは美しいロマンティックな夢だと思う。過去にも未来にも存在しないそんな夢。かつて輝いたどんな光よりも美しい光のなかの、誰1人として輪郭を示せず、思い出すことのできない、ただ熱望するだけの地にある夢。そして絵は神々しいばかりに美しいフォルムだと思う」。

ロセッティ晩年の作品は質が一定していない。

1つには健康を害していたし、助手を雇っていたという事情もある。

しかし彼の最高の作は、19世紀の最も印象深い、不滅のイメージを伝えています。

それは大きな影響力をもち、憂いを秘め、もの思いに沈む「ファム・ファンタール」の数多くの後裔を生み出して、1890年代の「デカダン」趣味に大きな役割を果たしました。

 

まとめ

ロセッティは独創的な思想と絵画表現で、イギリス絵画に新たな世界を切り開いた画家です。

今日「ラファエル前派」の再評価が高まり、ロセッティが世界で注目されています。

誰もがアカデミーの教えに従ってきたのに対して、ロセッティは文学の世界、特に中世の世界を表現することで、自分の理想美を絵画化することに成功しました人です。

誰もが知る有名なストーリーに、独自の創造性を組み合わせ、今までにない明るい色彩で魅力的な女性像を描き続けました。

その神秘的な女性像は、見る人を画面の中に引き込む魅力がり、ロセッティの個性的な画風は、現代の我々の絵画に大きな影響を与えています。

・「ハルス」陽気な肖像画家

・「ホイッスラー」異国のアメリカ人

・「スーラ」静かな実験主義者

・最初の一歩から始まるアートの世界

・「ボナール」波乱を知らぬボヘミアン

・人は価値ある絵にお金を払う!!!

・「フェルメール」デルフトのスフィンクス

・ダリの傑作「レダ・アトミカ」

・「ヴァン・ダイク」華麗なる肖像画家

ABOUTこの記事をかいた人

画家活動をしています。西洋絵画を専門としていますが、東洋美術や歴史、文化が大好きです。 現在は、独学で絵を学ぶ人と、絵画コレクター、絵画と芸術を愛する人のためのブログを書いています。 頑張ってブログ更新していますので、「友達はスフィンクス」をよろしくお願いします。