「レンブラント」オランダの天才

レンブラントは早くから名声を博したものの、のちには悲劇と財政破綻にみまわれました。

ですが、逆境にあっても制作意欲が衰えることはなく、かつてない傑作を生み出します。

レンブラントが美術史における至高の画家の一人と広く認められたのは、ようやく19世紀に入ってからでした。

略歴

1606年 レイデンに生まれる

1620年 レイデン大学に入学

1624-25年 ピーテル・ラストマンのもとで修行。 レイデンにアトリエを構える

1631年 アムステルダムに移る

1632年 「トゥルプ博士の解剖学講義」を描く

1634年 サスキア・ファン・ウェイエンブルフと結婚

1641年 息子ティトゥス誕生

1642年 サスキア死亡 「夜警」描く

1645年 ヘンドリッキエ・ストッフェルスが所帯に入る

1654年 娘コルネリア誕生

1656年 破産状態となる

1663年 へんドリッキエ死亡

1668年 ティトゥスの死

1669年 アムステルダムで死去

 

レイデンの少年「レンブラント」

レンブラント・ファン・レインは1606年7月15日にレイデンに生まれました。

父のハルメンスは製粉業者で、母のコルネリアはパン屋の娘でした。

レンブラントの一家は中流の下とはいえ、かなり豊な暮らしをしていたようせす。

レンブラントは母が産んだ9人の子のうち8番目の男児でした。

レンブラントの子供時代についてはほとんど何も知られていませんが、彼が兄弟の中でいちばん聡明だったと推測してさしつかえないと思われます。

というのも、兄たちの職人修行に出されたのに対して、彼だけ7歳のころレイデンのラテン語が学校に入学しているからです。

レンブラントは14歳でレイデン大学で学んでいたが、自分の才能は学問よりも芸術に向いていると両親に説き伏せ、3年間腕のいい画家ヤコーブ・ファン・スワーネルブルフのもとで修行します。

 

「レンブラント」の新しい師

この時期のレンブラントの作品は1点も残っていませんが、彼が大変な才能を示したため、父親は息子にさらにアムステルダムに送り、スワーネンブルフよりもはるかに有名な画家ピーテル・ラストマンに学ばせようと決心したといわれています。

ですがレンブラントは彼のもとにわずか半年で工房をあとにしましたが、ラストマンの影響は大きかったようです。

その後二人の画家にも学んでいますが、各工房を短期間で離れ、1625年に画家として一本立ちします。

このころ1歳年下のリューフェンスと親交を結び、アトリエを共有し共同制作をしていました。

両者の作品は、よく似ていてアムステルダム国立美術館所蔵の子供の肖像画には「リューフェンス作、レンブラント加筆」と署名されています。

 

1628年2月14日、レンブラントは弱冠21歳で最初の弟子ヘラルト・ダウをかかえ、その年にユトレヒトからやって来た法律家のアールナウト・ファン・ブヘルムがノートに「このレイデンの粉屋の息子は大したもんだ」と書きつけています。

 

肖像画家「レンブラント」

アムステルダムに移って間もない時期、レンブラントは成功を確保するために非常に精力的に仕事に打ち込みました。

現存作の50点ほど(ほぼ全点が肖像画)が1632年か33年のものと認められています。

これはけた外れの数で、この時期の作で最も有名なのが「トゥルプ博士の解剖学講義」であり、他のいかなる絵にもまして彼のライバルたちから抜きんでていたことを示します。

こうした集団肖像画はオランダで、きわめて人気がありましたが、まったく同じ服装をした集団を、表現して描くのはなまやさしい仕事ではなかったといえます。

しかし、レンブラントはグループを見事に配置しており、彼の独像的な想像力と類まれな絵画技量をはっきりと見せています。

 

「レンブラント」の結婚

1634年、レンブラントは28歳でサスキア・ファン・ウェイレンブルフと結婚します。

画商ファン・ウェイレンブルフの21歳になる姪で、レンブラントより高い階級の生まれで両親の遺産のおかげでかなり裕福でした。

夫婦はしばらく画商の家に寄宿したあと、高級街のニューウェ・ドーレンストラートに家を借ります。

レンブラントは妻を大切にしていたことが、絵とデッサンえお見ればよくわかります。

不運にも、彼らの幸福の結婚は相次ぐ子供の死によって痛手を受け、1635年から40年のあいだに、サスキアは息子1人と娘2人を産みましたが、いずれも2か月もしないうちに死んでしまいます。

サスキアは体力がなく、重なる試練のためにひどく体が弱ってしまいました。

これら家庭の不幸に加えて、画家の懐具合も1630年代の後半より豊かになることはなかったのです。

レンブラントは大金を手に入れたけれども、絵画、素描、版画をはじめ、武器や甲冑、メダル、古い衣装など、気に入った小物や小道具として役立つ物をことごとく買いあさったです。

 

「レンブラント」のかげりを見せた運命

1640年代に、レンブラントは歴史は方向転換し、肖像画の類を捨て去り宗教画が仕事のなかで大きな位置を占めるようになります。

1640年母が、続いて1642年にサスキアが死んだことが彼をひどく悲しませ、おそらく宗教に慰めを見出したと考えられます。

サスキアが死ぬ前年に、息子ティトゥスが誕生し、4人の子のうち彼だけが成人しました。

女中のヘンドリッキエはレンブラントより20歳ほども年下で、1663年に死ぬまで彼と一緒にくらしいました。

レンブラントが描いた彼女の肖像は、サスキアの絵と同様、優しく愛情にみちています。

しかし、サスキアの遺言の一条項に彼が再婚するなら彼女の遺産のうちの夫の取り分が没収されるため、ヘンドリッキエと正式に結婚することはできませんでした。

もはや肖像画で大金を稼げなくなったレンブラントは、贅沢な屋敷をきりまわす費用に事欠き、1650年の初めには財政がひどくて、借金を返すためにさらに借金をするありさまとなります。

コレクションを次々に売り出し、1656年には家の名義を息子ティトゥスに移して、彼は破産宣告をうけました。

レンブラントのコレクションは、1657年と58年の2度の競売にかけられ、58年には家も売却されたが、ヘンドリッキエとティトゥスが共同経営者となって会社を設立し、レンブラントを名目上の被雇用者とします。

こうして彼は制作で得られる利益をなんとか確保できたのでした。

 

「レンブラント」の晩年

レンブラントはローゼンフラフト街の借家で質素な暮らしを送っていました。

彼の存在が忘れ去られたわけではけっしてなく、転居はレンブラントの再出発をする気持ちを起こさせ、新たな活力をもたらします。

1661年には、1630年代初期以来のどの年よりも多くの絵を描きましたが、レンブラントの晩年は個人的な悲しみにつつまれたといえます。

ヘンドリッキエが1663年にしに、愛する息子ティトゥスも1668年に彼女のあとを追います。

ティトゥスはその年に結婚していて、残された妻が1669年3月にレンブラントの孫娘ティティアを産みました。

レンブラントは最後の日々を、ヘンドリッキエとのあいだに生まれた娘コルネリアと老いた女中とともに生活し、作品の方は手法に自由さが増し、表現にますます深みが加わっていき、彼の晩年作品は美術がこれまで生んだ最高傑作の中に数えられる名作です。

レンブラントは、1669年10月4日に63歳で世を去り、遺体は4日にヘンドリッキエとティトゥスのかたわらに葬られました。

娘のコルネリアが翌年、画家のコルネリウス・ソイトホフと結婚し、生まれた2人の子供はレンブラントとヘンドリッキエと名付けました。

 

共感のこもるまなざし

フランドル絵画の影響

画家として、彼は細密な画風から出発しました。

それは過去のフランドル絵画の伝説から受け継いだものの一部であり、究極的にはヤン・ファン・アイクが創始した油彩画の新時報に由来するものでした。

初期作品は透明感とツヤをいかした格式ばった絵においてさえ、彼の筆さばきは重苦しさと無縁と言えます。

さらに自在に操る筆は、しばしば絵の具えを厚塗りして絵筆の軸を使ってこすりつけさえしています。

1640年代には入って自分が納得いく絵を描き始めると、画風がいっそう大まかになり、描写するよりもそれを暗示する方向に転換しています。

1650~60年代にはインパスト(絵の具の厚塗り)が彼の絵の特徴となりました。

「レンブラント」の再評価

レンブラントに対するこの見方は、18世紀のあいだも一貫して優秀でした。

多くの賞賛者があり、たいていどの批評家も明暗法に精通している点では比類がないと認めていたにもかかわらず、彼は一般には低俗の画家だと思われていたのです。

彼の評価に決定的な変化が起こったのは、ロマン主義の時代で1851年にドラクロワが、レンブラントはいつの日かラファエロより偉大な画家とみなされるだろうと意見を表明しています。

 

「レンブラント」の傑作「夜警」

レンブラントの最も有名な絵で「夜警」は、バロック的な複雑さを持つ傑作です。

「夜警」が」完成したのは1642年で、妻サスキアが死んだ年でした。

18世紀末から、なぜか誤って「夜警」と呼ばれてきましたが、もともとは「パニング・コック隊長の市警備隊」であって、真昼に出動する騎士団が主題です。

1640年にこの絵の制作を依頼したクロフェニールス隊のような市警備隊は、16世紀に結成され、独立戦争のあいだオランダ諸都市をスペイン軍の攻撃から守ったとされています。

レンブラントの時代、彼らの役割を儀式化し自警の必要はとっくになくなっていましたが、彼は警備隊が出動するさまを描くことによって、前例のない活力あふれる画面を生み出しました。

絵は1715年までアムステルダムのクロフェニールスドゥーレン(マスケット銃兵会館)にあり、それから市庁舎に移されました。

 

まとめ

現在フェルメールが世界的に人気がありますが、本国のオランダでは国民の80%以上がレンブラントのファンです。

レンブラントは、オランダを代表する画家としての地位は不動と言っていい。

このオランダの天才は、独自で油彩の可能性を追求したことで有名でした。

かつての大画家ティッティアーノ、ルーベンス、カラヴァッジョなどの技法を取り入れ、オランダの伝統表現を活かし、さらなる表現の域に達しています。

その魔術的な画家のパレットに使われていた絵の具の数は、わずか7~9色しかなく、研究者たちを驚かせています。

レンブラントの技法は複雑で、技法を解明するのは難しいとされています。

油絵の具をナイフで削って彫刻した後などもあり、画家ではルオーとレンブラントぐらいしかこのような特殊な事は誰もしていません。

現在の画家たちはレンブラントの表面的な部分しか見ていませんが、レンブラントを知るにはその「絵の具」から学ぶことが注目されています。

オランダ人はそのことを、よく知っているということですね。

・「ハルス」陽気な肖像画家

・バロックのデッサン

・「ホイッスラー」異国のアメリカ人

・「スーラ」静かな実験主義者

・「聖母マリア」の処女受胎思想

・「ゴヤ」マドリードの聾者

・人は価値ある絵にお金を払う!!!

・「ヴァン・ダイク」華麗なる肖像画家

・「ヤン・ファン・エイク」画家たちの王

・「ロイスダール」オランダ風景画の巨匠

・「フェルメール」デルフトのスフィンクス

ABOUTこの記事をかいた人

画家活動をしています。西洋絵画を専門としていますが、東洋美術や歴史、文化が大好きです。 現在は、独学で絵を学ぶ人と、絵画コレクター、絵画と芸術を愛する人のためのブログを書いています。 頑張ってブログ更新していますので、「友達はスフィンクス」をよろしくお願いします。