「ボッティチェリ」フィレンツェの偉大な画家

サンドロ・ボッティチェリはルネサンスを代表する芸術家の1人であり、生涯のほとんどを生地フィレンツェで過ごした。

全盛期には、フィレンツェでとびきり注文の多い画家となり、繁盛する工房を運営しました。

1度だけフィレンツェを離れて重要な旅をしていて、それは彼がローマのシスティーナ礼拝堂を飾る芸術家の1人に選ばれたためでした。

これは当時の画家にとって、最高に栄誉ある仕事だった。

サボナローラの影響で、晩年の作品はこれまでいなく感情起状の激しいものとなり、そのためボッティチェリの絵は人気を失います。

数世紀にわたってほとんど忘れられたものの、ようやく19世紀の末に「再発見」され、イタリア・ルネサンス最大の芸術家の1人として認められたのです。

 

ボッティチェリの幼少時代

アレッサンドロ・ディ・マリアーノ・ディ・ヴァン二・フィリペーピ(ボッティチェリ)は1445年、フィレンツェの皮なめし職人マリアーノ・フィリペーピの末子としてとして生まれました。

フィレンツェ人は驚くほど愛称を好み、アレッサンドロの長兄ジョバンニは「イル・ボッティチェロ」(小さなタルを意味する)と呼ばれた。

おそらく彼が丸々と太っていたからでしょう。

アレッサンドロ(通称はサンドロ)は1470年以前のいつごろかこの愛称を肩代わりし、ついにそれが一家の姓となった。

マリアーノ・フィリペーピは身分の低い職人で、フィレンツェのオンニサンティ(諸聖人)聖堂管区で暮らしていました。

皮なめし職人や織工たちが住む貧しい労働者段級の地区でしたが、北ヨーロッパ全域で引っ張りだこだったようです。

ボッティチェリ自身、成功後もこの地区を去らず、父親が1464年に購入したヴィア・ヌオヴァの家で兄弟たちと一緒に暮らしたと言います。

 

織物の地区に住む

こうしたフィレンツェの織物区域の家並みのなかに、ボッティチェリも1470年ころに工房を設けた。

これに関して面白い逸話が残っています。

16世紀の伝記作者ジョルジョ・ヴァザーリの物語るところでは、ボッティチェリの工房の隣家には8台の大きな機械が据えられており、ひどい騒音と振動に悩まされて彼は仕事が手につかなかった。

隣人にもっと遠慮してくれと頼んだが、聞き入れられず、やけになった彼は「荷馬車がいっぱいになるほどの」巨大な石を、両家を隔てる外壁の上に微妙なバランスで置いた。

石はわずかの振動でも倒れて、織物屋の家屋を破壊しかねなかった。

この思いつきで、ボッティチェリは争いに勝ったというのです。

ボッティチェリの若いころについて確かなことはほとんど知られていまいが、13歳で金細工師の徒弟になったという話は真実らしく思われる。

しかし、まもなくして画家になろうと決心し、1461年ころ、父親は彼をフィリッポ・リッピの工房に入れた。

リッピはフィレンツェの高名な画家で、そのころフィレンツェ近郊のブラート大聖堂で壁画の制作にあたっていました。

リッピは優雅な宗教画と優しい表情の聖母像を得意としていたが、尼僧のルクレツィア・ブーティとの恋愛沙汰でも評判でした。

2人の関係から生まれた息子フィリピーノ・リッピは、父が1469年に死んだのち、逆にボッティチェリの弟子となった。

ボッティチェリが独立したのはこのころで、1470年に記録に残る最初の注文を受けています。

(その前に、年代は不明だが少しのあいだヴェロッキオの工房にいました。

そこで、幼いレオナルド・ダ・ヴィンチとともに仕事をしています)。

それは「堅忍」像を描く仕事であり、商業組合が自分たちの会堂のために依頼した7つの美徳像の1点でした。

注文はもともと画家のピエロ・デル・ポライウォーロに寄せられ、彼はすでに寓意像の何点かを完成していた。

だが「堅忍」だけは、メディチ家とつながりのある有力なパトロンのはからいによってボッティチェリに任されました。

 

高まるボッティチェリの評判

1472年までに、ボッティチェリは芸術家の同業団体である聖ルカ組合の一員となっています。

そして1473年の暮れには、彼の評判がピサまでとどいていたらしく、そこの大聖堂のフレスコ画を描くように招かれた。

この計画は頓挫したが、フィレンツェに戻った彼は次々と傑作を生み、名声を確固たるものにした。

1475年ころにサンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂のために描いた板絵「東方三博士の礼拝」もその一つで、銀行家のツァノービ・デル・マラの依頼でした。

また、ロレンツォ・デ・メディチの富裕ないとこ、ロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコ・デ・メディチの庇護も勝ち得た。

1478年ごろ制作された「プリマヴェーラ(春)」は彼のためにえがかれたものでしょう。

メディチ家との関係はちょうど良い時期にさしかかっていて、1478年の政変が、結果としてボッティチェリに脚光を浴びさせたのです。

「豪華王」ロレンツォに率いられたフィレンツェは、商業と政治の両面で国際的な中心都市として栄えました。

だが、市の内部にあっては党派争いが絶えず、ライバルの一族たちがひそかに権力の座を狙っていました。

その年の4月26日、大聖堂での盛式ミサの最中に、ライバルのパッツォ家に雇われた暗殺陰謀団がロレンツォとジュリアーノ・デ・メディチ兄弟を襲った。

教皇シクストゥス4世の承認を得てのことでした。

ジュリアーノは殺されたがロレンツォは難を逃れ、パッツィ家は援軍を募ろうしたものの果たせなかった。

陰謀者たちは捕らえられて、パラッツォ・ヴェッキオ(フィレンツェ政庁舎)の窓からつるされた。

この事件で、ボッティチェリは思わぬ恩恵を受けます。

死者たちの像を描くよう求められ、これがきっかけで全ての画家の夢見る仕事が舞い込み、教皇のために絵を描くべくローマに招かれたのでした。

 

教皇に求められての制作

教皇シクスティス4世(彼はパッツィ家の陰謀に加担した件は思慮分別のある判断によって不問に付された)は当時の画家たちを集め、ヴァチカン宮殿に新しく県立されたシスティーナ礼拝堂を歴代教皇の肖像とモーゼならびキリストの生涯の壁画で飾らせようとしていた。

ボッティチェリは1481年の夏ローマに到着し、礼拝堂で3点のフレスコ画を制作してかなりの報酬を得ています。

ボッティチェリが留守のあいだに父が死に、彼はわずか1年ローマにいただけでフィレンツェの家に戻った。

フィレンツェに戻ったボッティチェリは、今や全盛を極め、宗教画と世俗画、のぼり旗、嫁入り道具の櫃(長持ち)、肖像画、と注文が殺到した。

彼の描く聖母子像はとりわけ人気があり、自分の工房は言うに及ばず、多くの模倣者の手でおびただしい数の模写が作られました。

彼はこのとき3人の助手をかかえていたが、工房が手いっぱいになるだけの仕事があり、当時のフィレンツェで、ボッティチェリが本気で張り合うライバルは皆無といってよかった。

レオナルド・ダ・ヴィンチはミラノに去り、ポライヴォーロ兄弟はローマで仕事をしていた。

また、ヴェロッキオはヴェネツィアで「コレオー二オ将軍騎馬像」の世作にかかっていたからです。

1490年代に、フィレンツェの隆盛にかげりが見え始めます。

激情家のサン・マルコ修道院ジロラモ・サボナローラがすでに激しい口調で説教をたれ、市の崩壊は間近だと予言していた。

1492年に豪華王ロレンツォが世を去り、息子のピエロが市政を引き継いだものの、平凡な人柄とすぐにあらわとなります。

フランスのシャルル8世がイタリアに侵入し、1494年の秋に南に兵を進めると、ピエロは逃亡を余儀なくされた。

サボナローラにとっては、シャルル8世は侵略は図らずも自分が予言した神の報いと解釈できたのであり、シャルルがフィレンツェを囲んで陣を構えると、和解をすすめて市を崩壊から救うためにサボナローラが派遣されました。

この大役を果たすや、彼は救世主とあがめられ、フィレンツェに神政政治をうちたてます。

ボッティチェリはフィレンツェの外を何も知らないに等しく、これら一連の出来事に心を動かされないはずはなかった。

彼はサボナローラの説教の熱烈な信棒者だと評判になり、確かに彼の作品はこの時期に様式が一変しています。

感情表現がひどくあらわになり、宗教的苦悩に似た雰囲気を帯びるようになった。

 

晩年のボッティチェリ

ボッティチェリの長兄ジョバンニが1493年に死に、1497年には長年の保護者だったロレンツォ・ティ・ピエルフランチェスコが政治的理由でフィレンツェを去らねばならなくなった。

ボッティチェリはロレンツォに依頼されて、ダンテの「神曲」を飾る挿絵の制作に取り組んでいたが、この連作は完成をみず、以後メディチ家からの注文も亡くなります。

サボナローラの狂信的な独裁は長くは続かなかった。

1498年、すでにフィレンツェ内に多くの敵をつくっていた彼は、教皇アレクサンデル6世によって破門され、ついにはフィレンツェの政府により裁判にかけられ、1498年5月23日に処刑されました。

サボナローラの死後、「ピアニョー二」(泣き虫派)と呼ばれた彼の追随者たちは、会合も秘密にしなければならなかった。

ボッティチェリの兄シモーネがピアニョー二の一員で、その日記には、彼がボッティチェリの工房を秘密の会合場所に使っていたと書かれています。

これが真実なのかどうか、さらに、ボッティチェリ自身がピアニョー二派だったのかは明らかでない。

つづく10年間、ボッティチェリ本人の運命はさらにいっそうかげりを見せた。

1502年はとりわけひどい年でした。

マントヴァ公妃イザベラ・ゴンザーガが宮廷画家を求めており、フィレンツェのほかの一流画家たちは「忙しすぎる」からボッティチェリが推薦されたが、イザベラは気にいらなかった。

1503年から、1505年にかけて、聖ルカ組合の会費を払えない状態であったものの、まだ仕事はしていたようで、1505年の10月になんとかこれを支払った。

彼にはもはや20年前ほどの注文はこなかったが、1504年にはまだ重要人物とみなされていて、ミケランジェロの「ダビデ像」設置委員会に名を連ねていました。

しかし、これは名誉職にすぎず、フィレンツェの美術界はすでに、レオナルドとミケランジェロの進歩的な考え方のほうに興味を抱いていたのです。

ボッティチェリは古代への新しいアプローチに共感できず、1481から82年にかけてローマに滞在したときも、不思議なほど周囲環境に影響を受けていません。

彼が古代の文物からくみとったのは、神話世界だけでした。

透視図法と人体解剖に熟達していたけれども、レオナルドがもつ写実性に共有することはできませんでした。

実際、晩年の作品では、古臭い中世的な画風に後退してしまいます。

ヴァザーリは晩年のボッティチェリについて「老いぼれ役立たず、まっすぐ立つこともできずに松葉杖の助けを借りた」と述べています。

そして1510年5月に65歳で世を去るころには、時代遅れで顧みられない存在になっていました。

一家の住まいの近く、オンニサンティ聖堂の墓地に埋葬されたとき、彼の名声は遺体とともに埋もれてしまった。

ボッティチェリが「再発見」されたのはようやく19世紀のことで、ラファエル前派の画家たちが彼のなかに精神の血緑性を見出したのでした。

 

神話画の名手

当時の基準に照らせば、ボッティチェリは多才で作品点数の多い画家でした。

同時代の画家のほとんどがそうであったように、ボッティチェリの作品も大半は宗教画だったが、彼は同時に肖像画、寓意画、そして神話と文学をテーマに下絵を描きました。

彼の作品目録によると、現存するものだけでも150点(工房はもっと多い)を数え、15世紀の画家としては例外的に多い数字といえる。

作品の大部分は板絵だが、彼はフレスコ画にも熟達しており、当時としてはめずらしくデッサンを独立した美術作品の域に到達させました。

 

繁盛した工房

ボッティチェは数多い作品のなかでたった1点「神秘の降誕」にしか署名と制作年を記しておらず、史料で確かめられる絵もほかの画家に比べると少ない。

その結果、作品の制作時期をめぐって、学者のあいだでしばしば大論争が展開されています。

彼の繁盛した(それと外部の模倣者)がオリジナル作品をもとに、おびただしい数の模写を生み出した。

ボッティチェリ本人がどれだけ制作に携わるかは、間違いなく注文の重要度によったと思います。

彼がデザインした聖母子像はたいへんな人気で、人々は「つるしの服を買うように」工房から買い求めたようです。

ボッティチェリの生涯についてはほとんど知られておらず、絵に関しても議論が多いのですが、全盛期にはフィレンツェでとびきりもてはやされた画家だったことは確かです。

1481年までにかなりの名声を得ていたはずで、その年ローマに招かれてシスティーナ礼拝堂の装飾にひと役買っている。

翌年フィレンツェに戻ると、レオナルド・ダ・ヴィンチはミラノに去っており、彼を邪魔する者はいませんでした。

ボッティチェリの顧客は数が多いうえに多彩で、フィレンツェ最高の名家、市の権力者、それに名高い教会もいくつか含まれていました。

ボッティチェリの作品でいちばん注目すべきは「神話画」であり、古代以来、神話の場面を大きなスケールで描いた最初の画家でした。

それまでは、こうした主題は重要視されず、たいていは家具装飾に用いられてきました。

特にカッソーネと呼ばれる、結婚の贈り物としてや嫁入り道具を入れるのに使われた長持ちを飾る絵として人気があった。

ボッティチェリ自身、カッソーネの板絵を描いたし、彼の「マルスとヴィーナス」も、もとは家具の一部だったかもしれません。

(おそらく寝台の頭板であったと思われる)。

最も有名な「プリマヴェーラ(春)」と「ヴィーナスの誕生」は、これらの絵に比べてはるかにスケールが大きい。

前者は横300㎝以上あり、後者のそれに近い大作です。

ボッティチェリの神話画は、彼の宗教画の鑑賞者とは異なる種類の人々を対象として描かれたものです。

祭壇画は公的な作品であり、一般大衆にも即座に内容が理解できたはずで、より規模の小さい宗教画は個人の家に飾られたのでしょうが、それでもすべて伝統的なキリスト教の図式にのっとっていました。

ところが、神話画は高尚な文学趣味をもつパトロンがひそかに楽しむためのものでした。

したがって絵の象徴的な意味がわかりにくくてもよかったのです。

パトロンの方が絵に込めたい内容を正確にボッティチェリに告げたであろうし、また、一般にゆきわたったキリスト教的な考え方とは違って、神話の表象には固定した思考パターンがないので、批評家や歴史家たちが絵の意味をさまざまに解釈しています。

 

ダンテの本の挿絵

さまざまな主題によって、模写する「内容」は大きく異なるが、ボッティチェリは宗教画であれ神話画であれ表現形式には明確な区別を見せていません。

古代の題材を再現したにしても、彼は当時の何人かの画家とは違って、古代のフォルムをそのまま借用したりはしませんでした。

実際、よく指摘されることで、彼の描く多神教の女神たちは聖母と同じ型でできていて、どちらも憂いを含み甘美で、類まれない優雅さを見せています。

この優雅さは師のフィリッポ・リッピから受け継いだ特徴で、ボッティチェリは線に対する感覚を磨いて新たな表現段階に達し、線を自分の様式のいちばんの特徴にした。

線のみごとさは円熟期のすべての作品にあらわだが、とりわけダンテの「神曲」を飾る挿絵に最も純粋な形で見られる。

この時代、多くの識者はまだ木版印刷本より写本を重んじていて、ボッティチェリの挿絵は彼の最大のパトロンであるロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコ・デ・メディチの豪華なその手稿本のためのものであった。

ロレンツォは「プリマヴェーラ」と「ヴィーナスの誕生」の制作を依頼したと目される人物で、「神曲」の素描挿絵は現在3つの美術館に分蔵されているが、もともとは各見聞きが1ページ大の素描と、それと向き合う本文の一部となっていました。

素描の何点かは未完成であり、色彩されているものもあるが、大半は精妙かつ優雅な、ペンとインクのデッサンです。

当時としては、唯一無二と言っていい。

 

忘れられた天才

極端に線を重んじる画風のため、ボッティチェリの作品はしだいに時代遅れとみなされ、彼は晩年の10年間には忘れられた存在に近かった。

だが、16世紀の伝記作者ジョルジョ・ヴァザーリが主張するように、彼がサン・マルコ修道院長ジロラモ・サボナローラの影響下に筆を捨てたというのはあたらず、レオナルド・ダ・ヴィンチが1500年にフィレンツェに戻ってからは、ボッティチェリは時代に取り残されたと思えます。

彼は人体の科学的な深求や、レオナルドの作品の立体的な表現に関心がなかった。

晩年の傑作「神秘の降誕」は、イタリア、特にフィレンツェの画家たちが15世紀を通して成し遂げた描写の面での進歩に、彼が驚くほど無関心だったことを突如に示していて、聖母の姿をまわりの礼拝する羊飼いたちより一段と大きく描くという、古くさい技巧さえ用いているのです。

ボッティチェリの名声は、何世紀ものあいだほぼ完全に失墜していた。

ヴァザーリの「美術家列伝」に伝記が記されたし、彼の最大の絵はシスティーナ礼拝堂にあったのだから、まったく忘れ去られたわけではない。

しかし、、今日でもそうだが、当時も、礼拝堂を訪れる人たちはミケランジェロの天井画に注目するが、壁のフレスコ画にはさほど注意を払わなかったと思います。

ようやく19世紀の後半に、ボッティチェリの天才が再評価されるようになり、当時一流の批評家であるジョン・ラスキンとウォルター・ペイターは「まだ比較的知られていない画家であるが」とボッティチェリに言及している。

そのとき以来、ボッティチェリの評判は再び急速に高まったのですが、ルネサンスの画家で現在このように注目される人は少なく、フィレンツェのウフィツィ美術館は世界最大のイタリア絵画コレクションを誇っているが、きら星のようにある傑作の数々と競合しても、同館でいちばん人が集まるのは常に「プリマヴェーラ(春)」「ヴィーナスの誕生」を飾る部屋だ。

 

まとめ

ルネサンスが生んだ線の画家ボッティチェリの作品は、世界の名画の中でも特に人気がある。

「プリマヴェーラ(春)」、「ヴィーナスの誕生」はレオナルドのモナ・リザと肩を並べる名作中の名作で、その絵を一目見るために何時間も長蛇の列を並んでいます。

ボッティチェリの作品は、古代神話の神をルネサンスの理想美で表現し、まったく新しい表現を付け加えています。

その理想美は、彼のデッサンと色彩によって、永遠に忘れることができない神秘的で崇高なイメージで描かれています。

人間と自然の本質を理想化して描かれた画面は、時を越えても神の世界を我々に見せてくれる人類の宝となりました。

その永遠の美は、ボッティチェリが信じた線の美だったのでしょう。

自分の芸術性を完全に信じていた彼は、現在ライバルたちの作品を退かせる個性と美しさがあります。

ボッティチェリは、自分の絵画の勝利を自覚していたのではないかとさえ思えてきます。

・「ホイッスラー」異国のアメリカ人

・「フラ・アンジェリコ」ドミニコ会の修道士

・「スーラ」静かな実験主義者

・「聖母マリア」の処女受胎思想

・最初の一歩から始まるアートの世界

・チャレンジし続ければ必ず結果を出せる!!!

・「クラナッハ」 多忙で恵まれたドイツの巨匠

・ルノワールの傑作「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」

・カミーユ・コロー「モントフォンティーヌの思い出」を描いた詩的風景画家

・「エル・グレコ」異教に生きた天才

・「ミケランジェロ」ルネサンスの英雄

ABOUTこの記事をかいた人

画家活動をしています。西洋絵画を専門としていますが、東洋美術や歴史、文化が大好きです。 現在は、独学で絵を学ぶ人と、絵画コレクター、絵画と芸術を愛する人のためのブログを書いています。 頑張ってブログ更新していますので、「友達はスフィンクス」をよろしくお願いします。