人類史上最高の芸術家と称されるレオナルド・ダ・ヴィンチ。
彼は、生涯学問を追及し、芸術家としての驚くべき腕前のみならず、その英知ゆえに尊敬されました。
万能の天才の生涯とはどのような人生だったのでしょうか?
年譜
1452年 イタリアのヴィンチ村で誕生
1469年 ヴェロッキオの工房で弟子になる
1476年 男色の罪で告発される
1482年 ミラノに移る
1483年 「岩窟の聖母」の依頼を受ける
1493年 ミラノ公 ルドヴィコ・スフォルツァのための大騎馬像の粘土像を完成
1495年 「最後の晩餐」を描き始める
1499年 ミラノがフランスに侵略される レオナルドはヴェネツィアとフィレンツェへ向けて発つ
1502-3年 チーザレ・ボルジアの軍事技師となり、その後フィレンツェに戻る
1506年 ミラノに戻る
1512-13年 フランスがミラノから追い出される そのためローマに移る
1516-17年 フランスのアンポワーズで「隠棲」する
1519年 フランスで死亡
ヴィンチ村のレオナルド誕生
レオナルド・ダ・ヴィンチは、1452年4月15日にアルパーノ山の小さな町ヴィンチ村近くで生まれました。
繁栄するフィレンツェの公証人をしていたセル・ピエロ・ダ・ヴィンチの私生児であり、母カテリーナのことはほとんど知られていません。
少年レオナルドは義母によって育てられました。
少年レオナルドにかんしては何も知られていませんが、16世紀の芸術家で美術史家であったヴァザーリによれば、レオナルドの作品に感心した父が、当時指導的な芸術家である、友人アンドレア・デル・ヴェロッキオに、いくつかの作品を見せたところ、ヴェロッキオは大変に感心したといいます。
父は10代前半の息子を、忙しい活気のあるこの師匠の工房に入門させます。
ヴェロッキオの工房は、ほかの一流芸術家の工房と同じように、美術学校とデザイン・スタジオを一緒になったようなものでした。
レオナルドのような弟子たちは、まず床の掃除から始め、依頼された絵画の制作を手伝って、絵の具を混ぜるようになるまでの修行を積んでいきました。
彼は二十歳以前に、その段階に到達していました。
彼はヴェロッキオから「キリストの洗礼」の天使のうちの一人を描くことを任されます。
レオナルドが描いた天使は、彼が若くして天才であることを証明するかのように光り輝いていました。
レオナルドは修行を終えて、サン・ルカ画家組合の職人の一人として、一人前の画家として独立することを許されます。
「レオナルド・ダ・ヴィンチ」フィレンツェからミラノへ
レオナルドが自立した一人前の画家になりたてのころフィレンツェでは、豪華王と呼ばれたロレンツィオ・デ・メディチが絶大な権力を握っていました。
当時フィレンツェには、芸術家に気前のいいパトロンが多かったのですが、レオナルドはその恩恵をあまり受けていません。
ヴェロッキオの工房から独立してからフィレンツェに留まっていたあいだに、とりつかれたようにスケッチをしましたが、知られている限りでは、油彩はほとんど描かれていませんでした。
しかも、それらのうち最も重要な作品「三賢王の礼拝」は未完成のままでした。
このように、驚くほど彼の作品が少ない理由の1つは、レオナルドは確かに才能がありましたが、依頼された作品を引き渡さないという評判ができてしまったからと思われます。
彼は、ひとたび制作上の問題点を解決すると、すぐに新たな問題に取り組むのでした。
レオナルドの知的な探求は、きわめて広範囲にわたっていました。
彼は、メディチ家によるフィレンツェの横暴な政治をひどく嫌っていましたが、1470年代の終わりには、かなりの時間を使って、初歩的な機関銃を含む多くの殺人兵器を考案さいています。
彼はこの分野の才能によってミラノの残忍な大公で、メディチ家のライバルの一人であったルドヴィコ・スフォルツァにとりいり、職を得ようと考えていました。
1482年レオナルドはフィレンツェから北方の都市に仕事を求めて旅たちました。
「レオナルド・ダ・ヴィンチ」世界最大のスフォルツァ騎馬像制作
彼のミラノでの活躍は、ゆっくりはじまり、1483年にはサン・フランチェスコ・グランデ教会から依頼をうけました。
教会委員長は、レオナルドが作品の完成を渋ることを聞いていたらしく、7か月の締め切りを示した契約書を作りあげました。
でもその手間も無駄に終わります。
なにしろ、この「岩窟の聖母」が引き渡されるには、それから25年もかかったからです。
「岩窟の聖母」の仕事は始まっていましたが、レオナルドはすでに他の芸術作品について考えていたのです。
彼はルドヴィコ公が、山賊だった父親をたたえる巨大な騎馬像を計画していることを知り、その仕事を手に入れようと決心していました。
彼はミラノ公に熱心に自分を売り込み、自分は軍事についての発明家であり、技師として優れていると強調しました。
そして建築家、彫刻家、画家として務めることを申し出ます。
レオナルドは申し出が時機を得ていたため、1483年に彼は大騎馬像の仕事にかかることを許されました。
彼が計画した像は、とてつもなく大きいものでした。
高さ8メートルもあり、しかも後ろ足だけで立つ騎馬像を制作するという、不可能と思われる計画を思いついたのです。
そのような離れ業は、いまだかつて達成されることはなかったし、問題解決に多くの時間が必要でした。
1493年までに原寸大の粘土像が完成し、スフォルツァ家は像を鋳造するために90トン以上の青銅を用意することが必要でした。
青銅の用意ができるのをまっているあいだに、レオナルドはサンタ・マリア・デレ・グラーツェ教会の付属修道院の大壁画「最後の晩餐」にとりかかっていました。
「レオナルド・ダ・ヴィンチ」世界最高傑作『最後の晩餐』を描く
1495-98年3年の歳月をこの仕事についやしました。
昔からある壁画の手法はフレスコだったが、レオナルドはフレスコを使わず、もっと時間をかけて技術的に表現するため、普通は木のパネルに使う絵具を使用しました。
修道院の委員長は、半日ももの思いにふけって過ごすレオナルドの習慣に戸惑っていました。
しかし彼がそのことで不平を言うと、レオナルドは「天才というのは、ときにぜんぜん働いてないときに、最も多くのことを成し遂げるものである。というのも、その時に素晴らしいアイデアが浮かび、続いてそれを自らの手で表現する完璧な案を頭の中に形づくっているいるのだから」と説明しています
この作品の素晴らしさは議論の余地がなく、完成する前から修道院には完成する前から評判を聞きつけて巡礼者たちが集まってきたといいます。
ですが数年後に、湿りけの多い修道院の壁からはがれ始めます。
(たぶん、蝋、卵、膠、油などの材料を使った可能性がある)
レオナルドの実験的な技で描いたため、誰も正しい保存方法を知らなかったのです。
ですがこの「最後の晩餐」は大変傷んでいるにもかかわらず、世界中で最も崇められています。
キリストが弟子たちに「弟子の一人が自分を裏切るだろう」と告げた瞬間に、弟子たちが示した心理的動きを、先例のないほど微妙なところまで描きだしています。
「レオナルド・ダ・ヴィンチ」成功と称賛
42歳のレオナルドは誰からも尊敬されて、生涯の最高の時を迎えていました。
弟子たちを育成する学校を持ち、かつてないほど忙しかったのです。
レオナルドはこの時期「絵画論」を書いていました。
これはのちの数世紀にわたって芸術家に影響を与えました。
レオナルドのノートは、スケッチや、端正に左から右へ書かれた鏡文字の文章ですき間なく埋まっていました。
彼は鳥、植物、水、の動き、人体の構造、などのみるものすべてを学ぼうとし、考案された潜水艦、ヘリコブター、洗車、建設や土木工事の考案、都市計画の大規模な構想を打ち出します。
1499年ミラノは、フランス国王ルイ12世の軍門にくだります。
ルドヴィコとその宮廷の崩壊と共に、レオナルドにはミラノにとどまる理由がなくなってしまいまい、彼はここを去ることにします。
しかし彼はフランス軍の兵が入場し、自分の夢が崩壊するまでミラノにとどまり、これを見届けました。
酔っぱらった兵士たちの略奪が一週間続いたある日、フランス軍がレオナルドの巨大な粘土像を見つけ、それを射手の的当ての練習に使い破壊したのです。
レオナルドは東のベネチアへ旅立ちその後フィレンツェに戻りました。
「レオナルド・ダ・ヴィンチ」の晩年
1503年この時期はレオナルドの創作意欲の盛んな時期でした。
彼の作品で最も有名な「モナ・リザ」を描いて制作していたのもこのころでした。
しかしこのの時期のもう一つの大作は、前とはまた違った技術的な問題で、不幸な結果を招いてしまいます。
1504年にフィレンツェ政庁は60年ほど前のミラノとの会戦を讃美するために「アンギリアーニの戦い」の勇壮な合戦図を彼に依頼しました。
「最後の晩餐」と同じように、レオナルドは実験的な技法を用いたが、それが適切でないことはすぐにはっきりしてしまったのです。
フィレンツェの人々は彼の絵の修理をするか、報酬を返還するよう要求しました。
もちろんレオナルドは要求を無視し、フィエーゾレ近くの別荘で熱心に素描やスケッチをしていました。
そしてミラノのフランス総督シャルル・ダンボワーズからの丁重な招待によってようやく告訴から免れたのです。
ダンボワーズは何の権力も持っていませんでしたが、フィレンツェ市民にはこれ以上の敵は不要で、しぶしぶレオナルドを手放しました。
レオナルドはミラノで大いに歓迎され、解剖学が再びレオナルドの情熱の対象になったのでした。
彼は自分の作品が人類に対して永久に役立つと確信していたから、研究に没頭しました。
しかし、彼の生活は仕事がすべてではなく、1508年にレオナルドは、フランチェスコ・メルツィという一人の美男子の弟子をもち、自分の養子にさえします。
レオナルドは自分の人生が意志どおりになっていたら、余生をミラノで過ごしたでしょうが、1512年に、スイス、スペイン、ヴェネツィア、ローマ教皇の同盟ミラノからフランス人を追い出して、ルドヴィコ・スフォルツァの息子を侯爵にしました。
総督の宮廷でのレオナルドの快適な世界はふきとんでしまいました。
弟子のサライとメルツィを連れてローマに旅立ちます。
ローマでは、教皇から新しい依頼があるものと期待していましたが、過去の失敗が災いしてレオナルドはすでに過去の人になっていました。
そんなわけで、アンポワーズの荘園の館で尊敬されながら穏やかな生活を送るという、フランス新王フランソワ一世の提案を受け入れて、フランスへ向かいます。
年老いて、体も弱り、卒中のため少し麻痺した左手で、レオナルドは手稿に夢中になっていました。
彼はノートに次のように書いています。
「上手に昼間を過ごした日には幸せな眠りが来るように、上手に過ごした一生は幸せな死をもたらす」
67歳の誕生日の2,3週間後の、1519年5月2日、」レオナルド・ダ・ヴィンチは静かにこの世を去りました。
世界は、多分この世で最大の万能の天才を失ったのです。
技術から芸術へ
1550年に出版されたジョルジョ・ヴァザーリの「美術家列伝」のなかで、ヴァザーリは「レオナルドの名前と名声は決して消え去ることはないだろう」と書いた。
この主張は後世の人々によって証明されました。
レオナルドは、まさに彼が生きていたときから現在に至るまで、一度もその名声が揺れ動いたことのない数少ない芸術家の1人です。
同時代の人々は、彼の才能は神に等しいと考えていました。
そして彼の死後、数世紀にわたって、画家、詩人、哲学者たちは、彼を、人間の心と精神が達することができる頂点にある、輝かしい例とみなしてきた。
しかし、レオナルドの手になる芸術作品で現存するものは、世の中に知れ渡ったその輝かしい名声に比べるとかなり少なく思われる。
わずか12の絵画が、彼自身の手で描かれた作品として、広く一般に認められていて、そのうちのいくつかは未完成か損傷を受けている作品です。
レオナルドが手がけた作品は少なく、完成作はさらに少なかったが、彼は、偉大な芸術家だけに共通する、芸術家の意識と批評家の(さらに一般大衆)意識とをあわせもっていった。
そのため、かれの功績はまったくほかに例のないもので、レオナルドが完成させた数少ない絵画の素晴らしい出来栄えによって説明されるだけでなく、彼がもたらした芸術に対する姿勢の大革命によっても説明できます。
レオナルドは、天才として自らの手で芸術家の理想像を作りあげました。
彼以前の画家たちは、富や名声、地位を得はしたが、基本的には職人と見なされていたし、中世や初期ルネサンスの時代には、造形芸術は文学や音楽とは同じ知的水準にあるとは考えられていなかったのです。
まとめ
絵画を芸術の域にまで高めた最初の画家は、レオナルドだったかもしれません。
レオナルドは画家としてだけでなく、批評家目線からも絵を見て考えていたと思います。
あらゆる作品は究極の美しさと神秘性を秘めており、絵画史上最高の画家の地位を不動のものにしています。
彼は完璧な究極の崇高な美を目指し、ギリシャ、ローマ美術を越えた絵画芸術を目指しました。
その素晴らしい作品の数々は、失われましたが伝説となって多くのコピーは存在しています。
イタリアのヴェネツィア派や、ミラノの画家たちに大きな影響を与えたことで、絵画芸術は大きな発展を遂げました。
絵画芸術だけでなく、他にも多くの功績を残した大天才は、今も我々に尽きることのない謎を残しています。
・「モナ・リザ」と「レオナルド・ダ・ヴィンチ」の衝撃の真実!!