グリューネヴァルトは、デューラーとともにルネサンス期最大のドイツの画家としての地位を占めている。
画歴の初めについてはよくわかっていないが、マインツ大司教の宮廷で独力で優れた経歴をつくりあげました。
グリューネヴァルトが得意としたのは、残酷なリアリズム、幻想的な力、そして明るく輝くような色彩を独特に混合した感情的効果をねらった宗教画です。
とくにイーゼンハイムの祭壇画は中世最後の傑作として今でも賞賛されている。
宮廷で活躍していたグリューネヴァルトだったが、
ルター派の活動に傾倒したことでマインツから追放されて、
ハレでペストにかかりこの世を去った。
グリューネバルトの初期の画歴
グリューネヴァルトは、1470年から80年のあいだに、ヴュルツブルクで生まれた。
若いころのことは、アウグスブルクのホルバイン(父)の工房で修行をしたのではないかと推測される以外には、なにもわかっていなません。
グリューネヴァルトの初期の画歴についての情報は、残念ながらひじょうに限られたものであり、
そしていまだに激しい論争の的となっている。
マティアスと呼ばれる「独立した」すなわち資格のある親方が、1501年にゼーリゲンシュタットで記録されているが、これがグリューネヴァルトだと考えられている。
北バイエルン地方のマイン川に沿ったゼーリゲンシュタットには芸術的な伝統はほとんどなかったが、
マインツの大司教の司教区に入っていたために、
きわめて小さな町であったにもかかわらず、ある程度の特権を享受していたようだ。
町の特許状は、グリューネヴァルトがその地域の強力なパトロンである大司教の宮廷にコネを得る手助けとなったと考えられる。
少なくとも、大司教とのつながりは、グリューネヴァルトがアシャッフェンブルクの大司教の代理人ヨハン・フォン・クロンベルクのために「キリストの嘲弄」の制作にとりかかった1504年にはできていた。
1508年ころ、グリューネヴァルトは、大司教ウリエル・フォン・ゲミンゲンによって宮廷画家に任命され、ウリエルの死ぬ1514年まで、この名誉ある地位についていた。
彼の地位から考えても、大司教は彼に盾形紋章の使用を認め、
刺繍した金地の襟付きシャツなどの優雅な宮廷衣装を与えていただろう。
大司教ウリエルのグリューネヴァルト雇用記録によると、
彼の才能は絵画以外にも及んでいたことがわかる。
彼は熟練した水力工学の技師であり、ときには噴水の建造についての助言のために呼ばれていて、
さらに宮廷の主任美術担当として、新しい建築工事を監督することも望まれていたのです。
また1511年、彼は大司教の宮廷の再建を監督するため、アシャッフェンブルクへ派遣されたている。
そのすぐあとで、グリューネヴァルトは、彼の傑作となった作品、アントニウス会修道院のための「イーゼンハイム祭壇画」にとりかかった。
アントニウス修道会は11世紀の終わりにフランスで組織され、病人の看護に奉仕している。
特に、「火のように激しい病」ペスト患者の世話をし、
聖アントニウスと聖セバスティアヌス(2人ともはっきり目立つように祭壇画に描かれている)はその厄災の守護聖人だった。
ペストが繰り返し発生するにつれて、アントニウス会はヨーロッパの主要な交通の要衝に宿泊施設綱をつくっている。
アルザスの小さな村イーゼンハイムは、イラン渓谷と地中海からの道が交わる重要な通商路に位置していたために、こうした場所の1つとして選ばれています。
イーゼンハイムの指導者グイド・ガエルシはマインツの司教区でのグリューネヴァルトの仕事ぶりを知っていたに違いないく、病院の礼拝堂のための祭壇画を彼に依頼しました。
患者たちは医学的な治療を受ける前にそこに運び込まれました。
聖アントニウスの祈りが奇跡的な治癒効果をあらわすこと、
また少なくともなんらの精神的安らぎをもたらすことを期待してのことでした。
禁欲的なリアリスト
キリストの苦悩を表すグリューネヴァルトの恐ろしいまでの写実的な描写は、西欧美術ではほかに比肩するものがない。
肉体的な苦痛は神の贖罪(しょくざい)の喜びに共有されているという思念によって、それは、病人がどうしようもなく気弱になったときに信仰を支えるよう構成され、描かれた。
まったく同じように、「聖アントニウスの誘惑」を描いたパネルは、ペスト患者の苦痛が投影された聖者の試練を表わしています。
グリューネヴァルトの個人的な生活について知られるわずかばかりの事柄は、
この祭壇の禁欲的な本質とよく一致しています。
ザンドラルトによると、彼は陰気で引っ込み思案の人物であり、
遅くなってからの結婚はきわめて不幸なものとなったと書いている。
妻の存在を証明する確実な証拠はないものの、
グリューネヴァルトにアンドレアス・ナイトハルトと呼ばれる養子がいたことは確かで、
じつはこの少年の名前が、グリューネヴァルトの身元確認における混乱の大きな原因となっている。
というのも、彼の息子に関する記事によれば、画家は自分の姓を使わずに、
自身を「ニートハルト」と呼んでいたという。
グリューネヴァルトは1515年に「イーゼンハイム祭壇画」を完成させ、
それから1年たたずしてマインツの新しい大司教に仕えるようになる。
ウリエルの後継者アルブレヒト・ファン・ブランデルブルグは、
グリューネヴァルトの以前の後援者よりもさらに高貴な人物でした。
彼はマインツの大司教兼選帝候となる前はマグデルブルクの大司教であり、
1518年にはついに枢機卿に列せられた。
10年のあいだ彼の後援を受けたグリューネヴァルトは仕事のうえで頂点に達していた。
枢機卿の宮廷
アルブレヒトは、前任者とほぼ同じ待遇でこの画家を召し抱えた。
グリューネヴァルトは、絵画に加えてあらゆる建築計画を監督するよう命じられます。
1520年から23年にかけて、彼は家庭を離れてハレの近くで仕事をしたが、
その地でアルブレヒトは新しい参事会聖堂の建築を命じます。
グリューネヴァルトの現存作品で、アルブレヒトのために制作された最も感動的なものは、実際ハレで制作された。
「聖エラスムスと聖マウリティウスの出会い」は、新しい施設の大がかりな装飾計画の一部をなすものであり、そこには聖エラスムスの頭髪や骨をはじめとする6000以上もの聖遺物が納められていました。
この依頼は、アルブレヒトを殉教した聖者として描く、露骨な自己賛美の作品をつくれというものだった。
枢機卿側近のなかでのグリューネヴァルトの高い身分は、彼がさらなる注文を受けるのに役立ったことだろう。
カーノン・ライツマンから受けた「雪の奇跡」の伝説の制作依頼もその1つだった。
この信仰はウリエルによってドイツにもたらされ、ライツマンがこの主題について研究書を著してアルブレヒトに献呈しました。
1520年10月、グリューネヴァルトはカール5世の戴冠式に列席するため、枢機卿に随行してアーヘンに赴くと、ここでようやく、偉大な同国人アルブレヒト・デューラーに会う機会が与えられます。
2人は以前に同じ計画「ヘラー祭壇画」にかかわっていたが、
それぞれまったく別の持ち場で働いていました。
デューラーは、2フロリンの価値のある自分の木版画と銅版画を数点グリューネヴァルトに贈ったと日記に記している。
当時においてこれは相当な贈り物であり、彼が仲間の画家に抱いていた尊敬を例証している。
しかしながら戴冠式は、グリューネヴァルトの一生にはあまり意義はなく、
逆に不幸な結果をもたらした。
アーヘンでのきわめて豊かで豪華な光景は、禁欲を重んじる彼を驚かせ、
盛んになりつつあるプロテスタント運動への共感を強めさせた。
ドイツでは、この運動はマルティン・ルターの活動が中心となっています。
後年グリューネヴァルトがプロテスタンティズムの理想に専心したことに議論の余地はありません。
彼の死後、身の回りの品々のなかに、「多くのルター派のがらくた」が発見されました。
27点のルターの説教集も含まれていたが、これは1冊持っているだけでも処罰に値するものでした。
さらに、グリューネヴァルトがスウェーデンの聖女ビルイッタの神秘的な著述からすでに強い影響を受けていたことを示す、はっきりとした証拠もある。
この信仰深いっ女性は後半生をローマで過ごし、貧しい人や病人の世話をし、教皇の堕落に対してはっきりとものをいい、
公然と教皇のことを「魔王をうらやみ、ピラトよりも不正で、ユダよりも過酷な魂の殺人者」と評した。
ビルイッタの「天啓」は1492年版はニュルンベルクから木版の挿絵入りで刊行され、ドイツで人気を博した。
その真面目な調子は、グリューネヴァルトの作品の強烈さと奇妙な比喩的表現の多くを解き明かしてくれる。
プロテスタントと農民戦争
プロテスタント問題は、1525年の農民戦争で頂点に達した。
同じような暴動は以前にも起こっていたが、これほど大規模なものはなかった。
ほとんど南ドイツ全体が巻き込まれ、城や修道院は略奪され、住民は虐殺されました。
はじめのうちルターは峰起を支援し、農民の要求を支持する「12か条」を刊行しました。
これがグリューネヴァルトの持ち物のなかから見つかっています。
しかしながら、流血が増すと立場を一変させ、反逆者を殺人者であり盗賊であるとして非難した。
マインツの司教区もこの暴動が起こり、アルブレヒト枢機卿の生命さえも、プロテスタントと通じていた司祭ヴィンクラー調停によってやっと救われた。
アシャッフェンブルクでは、大司教の代理人が荒れ狂う反逆者たちに降伏させざるをえず、こうした成功は短期的にすぎなかった。
数ヶ月もすると峰起は鎮圧され、当然のことながら報復が行われ、そこで何千もの反逆した農民たちが略式裁判で処刑された。
1526年、アルブレヒトは数人の暴徒たちの裁判を行うためにアシャッフェンブルクに戻ってくると、暴動の参加者たちは手荒に取り扱われ、嫌疑を受けた者たちは解雇された。
ゼーリゲンシュタットは町の特許状を失い、その地方の同業組合は昔からの特権を奪われてしまいます。
共鳴者として知られていたグリューネヴァルトも、解雇された人間の1人でした。
彼は1526年2月に最後の支払いを受け取り、同じ年、シモン・フランクが彼に代わって宮廷画家となった。
グリューネヴァルトの破滅への道
おそらくそれ以上の処罰を恐れて、グリューネヴァルトはフランクフルトへ逃れた。
これは適切な選択だった。
なぜなら帝国の自由都市としてのフランクフルトは、マインツの司法権から安全な天国のように思われたに違いなかったからだ。
旅立つ前にグリューネヴァルトは、息子アンドレアスを彫刻師であり家具職人であったアルノルト・リュッカーに弟子入りさせる手はずを整えた。
リュッカーは、ゼーリゲンシュタットの工房に参加していたかもしれない。
アンドレアス自身は、フランクフルトの学校で教えるための正式の許可を求めていたことが記されている1552年までは、文書によって存在が確認されている。
グリューネヴァルトの画歴の晩年は悲惨で、ほとんど絵を描くことができず、さまざまな卑しい仕事をして貧しい生活をなんとかやりくりしなければならなかった。
フランクフルトでは、彼はハンス・フォン・ザールブリュウッケンという絹刺繍師の家「ユニコーン」に滞在していました。
その間のグリューネヴァルトのおもな仕事は絵の具や鎮痛剤を売り歩くことで、そのための売り口上は、おそらくイーゼンハイムの病院で友人から学んだものだろう。
彼はまたマグデブルクの町からマイン川に設置される水車の設計図の依頼を受ける。
しかし、この仕事が完成する前にグリューネヴァルトはフランクフルトへ立ち去ったらしい。
1527年の夏、グリューネヴァルトは自分は見張られ、生命の危険にさらされちると確信するようになった。
そこで彼は遺言を作成し、フランクフルトからハレへと逃げ出します。
そこでは、同じルター派の見解をもつ同情的な市長が、水力技術師として彼を雇ってくれたのです。
しかし、これもほんのつかの間にすぎず、、、
1528年9月、絹織物職人ハンス・プロックと暮らしていたグリューネヴァルトはペストにかかり、それがもとで死亡した。
彼の所持品目録はその急激な没落をはっきりと示している。
ベッドが彼の所持する唯一の家具でだった。
これ以外には、何冊かの本、画材道具、さまざまな宮廷服、、、
かつての地位の悲しい思い出、、、
があった。
グリューネヴァルトは、墓所を示す墓石もないまま城壁の外に葬られました。
数年後には草が生え茂り、まもなくその場所も忘れさられてしまったといいます。
グリューネバルトの宗教的なヴィジョン
グリューネヴァルトは、ドイツ美術史のなかでは孤立した存在です。
きわめて個性的な彼の絵画スタイルは、当時のいかなる画家への傾倒も示しておらず、
彼の弟子や後継者も知られていない。
そして突然の失踪は、すみやかで完全なものだった。
1597年、皇帝ルドルフ2世が「イーゼンハイム祭壇画」を手に入れようとしたが、
制作者名はすでにわからなくなっていました。
そして、1852年になると、「雪の奇跡」は、無名の画家の平凡な作品としてとるに足らない値で売られていたので、彼に対するこうした軽視を説明するためにもちだされた1つの説は、
当時の鑑賞者たちはグリューネヴァルトがルター派の信者であったことから、故意に彼を無視したというものでした。
しかしながらより重要なのは、この時代にはめずらしく、彼はほとんど銅版画を制作していないという事実がある。
旅行が必ずしも容易ではなく、美術作品を鑑賞するために、たとえば「イーゼンハイム祭壇画」が設置されている疫病病院を訪れるなどという危険をおかそうとする人々はほとんどいなかった時代にあって、このことは彼の影響力の及ぶ範囲を決定的に限定した。
これに加えてグリューネヴァルトは、ルネサンスによって切り開かれた新しい可能性の世界を学ぶことに熱心ではなかったし、彼の芸術はまったく神の中心としたものでり、人間を中心としたものではありませんでした。
肖像画家としても健全な生活を送ることができたであろうことは、聖エラスムスとしてのアルブレヒト枢機卿を描いた作品からもはっきりしているが、現存する彼の数少ない作品はもっぱら宗教的な絵画に限られている。
もちろん彼はイタリア人が成し遂げた技術的な進歩、特に遠近法の法則や解剖学的な人体構造をある程度知ってはいたが、しかしそれらのものは彼の絵のなかではとるに足らない要素だとしていた。
グリューネヴァルトへの依頼のほとんどは祭壇画でした。
ゴシック末期になると、祭壇画は複雑ながら融通性のある構造となり、可動式のパネルが彫像を覆っていたり、華麗に彫刻した天蓋で覆われるようになった。
絵画は、教会の祭礼の儀式に応じて開閉ができる折りたたみ式の扉部分と、ブレデッラと呼ばれる絵の底辺部分の取りはずしできるパネルに描かれた。
イーゼンハイムの複雑な名作
「イーゼンハイム祭壇画」は、それまでにつくられたこうした形式の祭壇画のなかでも最も精巧な作品の1つです。
ニコラス・フォン・ハーゲナウが制作した聖人像をおさめたいちばん内側の部分は、グリューネヴァルトの作品とはまったく切り離してつくられた。
彼の作品は、二重の折りたたみ扉をもつ数多くのパネルからなっており、ときに応じて開示できる3つの絵の組み合わせが可能だった。
復活祭後の1週間は祭壇は閉じられ、荒涼とした「キリストの磔刑」が教会の服喪を象徴していたであろうし、1年の大半は扉を開き、「受胎告知」や「復活」の喜びに満ちた画面を示していただろう。
そして、修道会の守護聖人の祭日には、聖アントニウスの生涯の出来事を表した最後の画面が開示された。
この当時の画家の地位は、創造的な芸術家というよりもむしろ職人でした。
パトロンが絵の主題を選び、おおまかな構図を描いてみせた。
しかし、こうした束縛のなかでグリューネヴァルトは、表現主義的なリアリズムという彼独自の特徴を自由につくりあげた。
ある評論家は彼を「非常識であり、そして神学者だ」と評したが、これは彼の芸術の矛盾した要素を的確に言い表している。
グリューネヴァルトの作品には、多くのゴシック的な要素が残ってる。
キリストの受難の場面で実物以上に大きくキリストを描くのは、明らかに中世の特徴であり、「イーゼンハイム祭壇画」の「磔刑」に洗礼者ヨハネが登場することや、聖母にセレナーデを奏する奇妙な天使のオーケストラが描かれていることは、これらが聖書の出来事をありのままに図示したものであるというより、むしろ瞑想的な作品であることを示している。
グリューネヴァルトは、感情的なそして理想的な反応をしっかりとした信仰の絆に結び付けようとして、こうした知的な構図を前例のない写実的な表現と組み合わせた。
この目的のため彼は、自分の作品の生き生きとした力強さを増すように、形態を表現主義的にゆがめた。
たとえば彼の磔刑図でキリストの両足は伸ばされてゆがんだ弧をなしており、指は暗闇のなかでけいれんするように爪をたてる。
そして肉体は鉛色に変色し、イバラでできた傷の斑点がある。
切り取ったままの十字架の梁はかすかに曲がり、キリストの両腕は痛々しく硬直しているので、体は大きな弓につかえた無気力な矢のように見える。
グリューネバルトの表現力に富む色彩
グリューネヴァルトの芸術の兵器庫における最も強力な武器は、絶望の深みから至高の栄光にいたる人間の感情のあらゆる領域を揺り動かすことのできる生き生きとした色彩だろう。
彼は磔刑図で、常に暗く大ざっぱな背景に青白く血の気のない人物を配して、不気味で悲しみに沈んだ効果を出すために、光り輝く色彩の斑点でそれを引き立てている。
それとは対照的に、「聖母子」や「受胎告知」の場面はきらきらした喜びで輝いている。
そして「イーゼンハイム祭壇画」の「復活」は勝利にほかならない。
このテーマを扱った当時の多くの絵画では、キリストは眠っている兵士を起こすことなく墓からゆっくりと踏みだしている。
しかしグリューネヴァルトの絵では、救世主の復活とその昇天は光の爆発で1つになっている。
衛兵は役にたたない人形のようにかたわらへ抛り出されており、キリストは衣服を照らす虹色の円光につつまれて昇天している。
この当時、画家たちは自分の絵の具を用意するのが普通であり、その手法を他人に洩らさないように気を使っていた。
晩年には、グリューネヴァルトは一時期自分の絵の具を売らなければならないほど貧しかった。
彼はハレで死んだのち、この町の公認画家ハンス・ハルベルガーがそれを分析するために呼ばれたが、このことは彼の色彩の優秀さが評価されたことを示している。
残念なことにハルベルガーはその調合法を解明することができず、秘密はグリューネヴァルトとともに葬られてしまった。
ドナウ派の同時代の画家の絵に、グリューネヴァルトの個性的な作風の影響を見いだそうとする試みがなされている。
しかしグリューネヴァルトの印象の激しさは彼らをはるかにしのぐものだと言える。
さらに、ドイツ表現主義の最盛期であった20世紀に彼の作品が再評価されたということは、単なる偶然ではないでしょう。
名画の構成「イーゼンハイム祭壇画」
この驚くべき多翼祭壇画は、アルザスの彫刻家ニコラウス・フォン・ハーゲナウ作の木彫と、グリューネヴァルトが描いたいくつかのパネルを組み合わせたものです。
もともと両側に描かれた2対のパネルは動かすことができ、3つの異なった絵の組み合わせができるように閉じた状態のものだけを見ることができる。
この面はキリストの磔刑を扱っているが、まったく無駄のない傑作であり、
見る者の注意をキリストの苦痛からそらしかねない要素(十字架にかけられた盗賊たちや兵士たち、周囲の風景)は、大胆に取り去られている。
グリューネヴァルトはこの情景を実際の出来事としてではなく、信条として表現している。
彼は、嘆いている人々と、神の仔羊と人間の罪を指し示す洗礼者ヨハネとのバランスを注意深くとっている。
そして、色合いと光の扱い方は自然であるというよりむしろ象徴的である。
まとめ
グリューネヴァルトの絵画はすべて宗教的な主題を扱っており、中世末期の宗教感情の強さを示す例としてはこれにまさるものはない。
偉大な同時代の画家デューラーが身の回りのあらゆるものに興味を示したのに対し、グリューネヴァルトはその創造的な努力をすべて、キリスト教美術の中心テーマである磔刑図に注ぎ込んだ。
ここに示された3つの例は、キリストの苦悶を表すおぞましい細部描写が集中的になされているが、
グリューネヴァルトの天賦の才能は、単に気味悪いだけのものになりがちな情景を、崇高な悲劇にまで高めている。
なかでも最も畏敬の念をおこさせるのが「イーゼンハイム祭壇画」の磔刑図であり、このすばらしい祭壇画は、豊かな内容と深遠さという点で、システィーナ礼拝堂の天井画やヴァチカン宮殿の部屋の装飾画に匹敵する北方ヨーロッパの作品として位置づけられる。