「カンスタブル」 ロンドンの田舎者

ジョン・カンスタブルはおそらくイギリスのすべての風景画家のなかで、最も偉大な独創的な存在といえる。

とりわけ故郷サフォークのストゥア川流域、ソールズペリ大聖堂、ハムステッド・ヒースの景観が有名。

田舎で生まれ育ち、イングランドの風景を深く愛する気持ちが、その美しさを記録にとどめようとする決意を育んで、形や色彩だけでなく、湿気や光、そして雰囲気までをとらえた。

今日、カンスタブルの才能ぶりは世界中で認められているが、生前には風景画家は人気がなく、彼は世に認められるために悪戦苦闘せねばなりませんでした。

39歳で初めて、自作の風景画が売れます。

そして、彼のみごとな作品はフランスでは喝采をあびたにもかかわらず、ロンドンのロイヤル・アカデミーは1829年までこの画家を正会員にしませんでした。

カンスタブルが正会員になったのは死の8年前しすぎない。

 

「カンスタブル」の幼少期

ジョン・カンスタブルは1776年6月11日、サフォークのイースト・バーグホールトに6人兄弟の第4子として生まれた。

父のゴールディングは富裕な穀物商で、イースト・バーグホールトと近くデダムに風車と水車による製粉場を所有していました。

村の地所とともに自分の小型船テレグラフ号を持っていて、ストゥア河口のミストリーに係留された船は、穀物をロンドンに運んだ。

カンスタブルは豊かで裕福な家庭でなに不自由なく育ちました。

自身がそう呼んでいるように、彼は「屈託のない子供時代」をストゥア川流域や周辺で過ごした。

ラヴェナムの寄宿学校に短期間いたのち、デダムの通学学校に移り、そこの教師の手ほどきで、カンスタブルは素描に興味をおぼえるようになります。

この関心をより実質的にうながしたのが、土地の配管工でガラス屋のジョン・ダンソーンであり、少年をスケッチ旅行に連れだした。

ゴールディング・カンスタブルは息子の趣味には消極的でしたが、彼を聖職につける教育は断念して、粉屋として仕込むことに決めました。

ジョンは1年間この仕事に携わった。

そして、家業を継ぐことはなかったが、専門知識は完全に習得した。

結局、弟のエイブラハムが家業をきりまわすようになったが、彼はしばしば製粉機の修理についてジョンに相談している。

 

初めて目にした名画

カンスタブルの美術への情熱を決定的にしたのは、素人画家で熱狂的な美術愛好家のサー・ジョージ・ボウモントで、彼には1795年に知り合った。

ボウモントはクロード・ロランの描いたフランス名画「ハガルと天使のいる風景」を所蔵しており、絵を特別製の旅行用のケースに入れて、どこへ行くときにも持ち歩いた。

この絵を目にして、カンスタブルは画家を天職とすることを心に決めたという。

その後まもなく、ロンドンに旅行した際、画家のアンティキティー・スミスことジョン・トマス・スミスにレッスンを受け始めました。

この画家は風変わりな人物であったが、カンスタブルにしっかりした助言を与え、彼を職業画家の世界へと導いたのです。

父は息子がもうけにならない、およそ尊敬されることのない職業につくのを嫌ったが、1799年頃には、下のエイブラハムが粉ひきと商売を継ぐ気を見せたこともあって、気持ちを和らげていた。

こうして、カンスタブルおロイヤル・アカデミー・スクールへの入学を許され、出発に際して父は少額ながら仕送りを約束して祝福しました。

ロンドンに出たカンスタブルはきわめて勤勉な学生となり、毎夜を読書とデッサンの練習で過ごした。

しかし、サフォークの友達や家族、それに田舎風景をなつかしむ気持ちを募らせていました。

しばらくのあいだ、ラムジー・レイナグルという学生と一緒に住んだが、カンスタブルはこの学生が昔の巨匠たちの作品を模写して美術市場であやしげな取引をしているのに嫌気が差してきた。

また、風景画と風景画家アカデミーのなかでひじょうに低い地位におとしめられているのがわかると、彼自身の士気もなえがちでした。

アカデミーでは歴史画と肖像画のみが重要視されていたからです。

一家の船で届く手紙と籠いっぱいの食べ物によってイースト・バーグホールトとの連絡は絶えなかったし、夏休みになるとたいてい両親の家に近い小屋のアトリエ代わりにして時を過ごした。

イングランド各地も何度も旅し、1801年にダービーシャーの山間の地ピーク・ディストリクトを訪れ、2年後には東インド会社の貿易船に乗ってロンドンからケント州のディールまで、短いながら船旅をしています。

また、1806年に赴いた湖水地方では、重苦しい孤独感を味わっている。

33歳を迎える1809年までに、カンスタブルはおおよその技術を身につけたが、まだまだ成功には手が届きませんでした。

アカデミーの正会員はおろか準会員にも選出されず、数少ない肖像画や祭壇画の注文で得るささやかな収入では自活もおぼつかなかった。

しかし、人生に見込みのないこの時期、彼はマリア・ピくネルと恋に落ちます。

彼女はカンスタブルより12歳年少で、上級公務員の娘でした。

というよりも、イースト・バーグホールの教区司祭で頑固な老人ラッド博士の孫娘だったというほうがいいでしょう。

老人は家族から、たいへんな金持ちだと信じられていた。

カンスタブルがマリアと結婚したい気持ちを告げると、ラッド博士は即座に孫娘の相続権を剝奪すると脅した。

 

 

長く苦しい求婚期間

以後7年間、不幸な恋人たちはしばしば仲を裂かれ、ときには手紙のやりとりさえ禁じられた。

しかし、長く苦しい求婚期間を通して、2人は互いに忠実であり続けました。

ロンドンでひどい孤独感にさいなまれたカンスタブルを支えたのは彼の家族であり、一家のだれもが2人の結婚を望んでいました。

また、ソールズペリ主教と同名で彼の甥にあたるジョン・フィッシャー師も救いの手をさしのべ、カンスタブルの最初のパトロンの1人となった。

頑迷なまでの性格なくしては、この辛い時期を乗りきれるはずはなかったが、その年月は同時にカンスタブルの意識消沈しがちでふさぎがちな傾向をさらに増幅させた。

仕事の関係者のあいだで冷淡、傲慢、との評判が立ち、それは絵を売る助けには決してなりませんでした。

ところが一方、家族と親しい友人たちにはこのうえなく寛大で、深い情愛を示した。

事実、彼の気質は多くの点で相矛盾していた。

たとえば、政治の面ではかたくなな保守主義者で、選挙法の改正には否定的だったが、芸術においてははっきりと急進派でした。

マリアとの恋愛期間中、彼の行動は判で押したようなものでした。

晩秋と冬と早春をロンドンで過ごし、自然の写生で技量を磨き、毎年5月に開かれるロイヤル・アカデミー展に出品する作品を準備した。

夏から初秋にかけては、都会を逃れて救いを求めるようにイースト・バーグホールに帰郷するのでした。

1815年に母親が死に、大きな痛手を受けます。

その後まもなくして、マリアの母も世を去った。

こうして不幸がかえって恋人たちの気持ちを強くしたようにで、1816年の2月までに2人はあらゆる反対を押し切って結婚する決意を固めました。

そうこうするうちに、5月にカンスタブルの父親が椅子に座ったまま静かに息をひきとります。

遺言に従って、エイブラハムが事業を引き継ぎ、ジョンには毎年およそ200ポンドの配当金が支払われることとなった。

以前からの仕送りと絵の収入しこの金が加わり、結婚がついに可能となったのです。

カンスタブルはラッド博士に手紙を送り、最終的な同意を求めた。

博士は返事を書かずに馬車を呼び寄せて伝言を託すにとどめたが、御者の顔には祝福の大きな笑みがあった。

最後の段階でカンスタブルは制作にかかりっきりになり、結婚式を延ばそうとしてマリアを仰天させたが、10月2日に2人は英国国教会大執事となっていた友人のフィッシャーの手でセント・マーティン・イン・ザ・フィールズ教会で式を上げました。

ただし、ピくネル側の家族はだれ1人として出席しなかった。

夫婦は長く幸せなハネムーンを楽しみ、12月にロンドンに戻る。

翌年の春にマリアが子を身ごもったが、すでに流産を経験していたこともあって、カンスタブルは母子のためにより大きな屋敷を確保する手はずを整えます。

選んだのはブルームズべリ地区のケッペル通りの家で、野原と池が見晴らせる点が彼は気に入ったようです。

大英博物館の近くには養豚場もあって、2人に故郷のサフォークを思い出させ、この田舎風の環境のなか、1817年に長男が誕生した。

結婚し、父親になったことが新たな創造力をもたらしたらしく、カンスタブルはまもなくストゥア川の風景を題材に長辺6フィート大

の作品をつぎつぎと描き始め、これらはのちのちまで彼の最も愛される傑作となる。

一家はいまや安定した暮らしを享受し、春ごとにこうした大作がうまれて、徐々に彼の名声も高まっていきました。

 

「乾草車」の習作

1820年に、彼は「乾草車」と呼ばれることになる作品の油彩スケッチに着手した。

荷馬車自体にひどくてこずり、とうとう旧友の息子ジョニー・ダンソーンに正確なデッサンを描いてもらわねばならなかった。

翌年の4月に、絵が完成。

次男の誕生後まもなくのことでした。

これは彼の最も有名な作品となったが、発表当時は、イギリスではほとんど注目されず、結局フランスの画商が買いとった。

マリアの健康状態は常におもわしくなく、カンスタブルは空気のきれいなハムステッドに転居します。

ロンドンの煤煙を120mほど下に見下ろす高台にあるハムステッドは当時、砂と砂利の採掘場がある農地でした。

ストゥア川流域やソールズペリと並んで、そこはカンスタブルの創意意欲をかきたてた数少ない風景の1つとなった。

1824年、パリのサロンでフランス王が画家不在のまま「乾草車」に金賞を授けた。

そして、毎年出品していた6フィート作品のなかで初めて、「水門」がロイヤル・アカデミーに展示中に言い値で買い取られた。

 

マリアの不幸な病気

画家として一本立ちできるかに思われたちょうどそのとき、いたましくも妻の命を奪うことになる病気(肺結核)の最初の微候が現ます。

健康を回復させるために、カンスタブルは妻とすでに4人になっていた幼い子供たちを、夏のあいだブライトンに送った。

自分も数週間そこにとどまり、何点かの海景画を描いている。

続く2年間にさらに2人の子をもうけたものの、マリアの病気はいっこうに回復しなかった。

そして1828年1月、第7子を産んだことが妻の体をひどく弱らせた。

3月に彼女の父が死に、2万ポンドの遺産が入ったため、夫婦の財政逼迫に終止符が打たれます。

だが、マリアの咳はひどくなる一方で、夜には熱が出て、夏を越すあいだに衰弱していきました。

彼女は11月23日に世を去り、ハムステッドに埋葬された。

カンスタブルは兄に「こんな気持ちを二度と味わうことはないでしょう。私は世の様相が完全に一変したかに見えるのです」と書き送っている。

あれほど待ちあぐねた結婚生活が、わずか12年しか続かなかったのです。

仕事に戻るのにも時間がかかり、皮肉なことに、翌年2月にアカデミー正会員に選ばれたが、ただしほんの1票差でした。

偉大なライバルだったターナーがこのニュースを伝えに来て、2人は夜遅くまで語り合ったという。

ちょうどそのころ、カンスタブルは新しいいくつかの構想に取り掛かっていた。

とりわけ絵画作品と油彩スケッチをもとにした版画集の刊行に心ひかれていたが、華やかな成功の時期もここまででした。

1835年に制作した「谷間の農家」には、「乾草車」にも登場したフラットフォードのウィリー・ロットの家が別の角度から描かれている。

買い手は、この絵が特別な誰かのために描かれたのか知りたがった。

「そうです」と画家は答えた。「きわめて特別な人のために描かれたのです。その人のためにこそ、私は終生絵を描き続けてきたのです。」

カンスタブルは1837年3月31日に永眠し、ハムステッドのマリアのそばに葬られた。

 

ストゥア川流域の景観

カンスタブルはイギリス風景を描いた最高の画家としばしば評されているが、サフォークの画家、あるいはむしろ、ストゥア川流域の画家と呼ぶほうが適切です。

生地イースト・バークホールト周辺の300ヘクタールが、画家の生前にあってさえカンスタブル・カントリーとして知られていました。

彼は自分にとって私的な意味をもたない風景に対しては、その類まれない才能を決して注ぎ込むことがなかった。

サフォークのほかには、ハムステッドとソールズペリ、それにずっと少ないブライントンが、彼の傑作の特徴である精密な観察眼と濃密な感情を刺激したにすぎない。

カンスタブルは自分の天分がどこにあるか、1802年に悟ったらしい。

ロンドンのロイヤル・アカデミー・スクールで学んでいたころです。

かつてのスケッチ旅行仲間だった村のガラス屋ジョン・ダンソーンに宛て、帰郷して自然を観察する決意であり、自然こそが芸術におけるあらゆる創意の源泉だと書き送っている。

彼の意図は子供時代に目にした風景を、「純粋にあるがままに再現」することにあった。

この目的を胸に秘め、その年の夏と秋をイースト・パーグホールトで過ごしただけでなく、村に小屋を買い求め、常用のアトリエにもした。

 

夏のスケッチブック

15年以上にわたってほとんど毎夏、彼は故郷の村に戻り、目にとまったあらゆる事物や活動や景色を写生帳に細かく記録した。

1813年の夏は特に有益でした。

気候がすばらしく、毎日ストゥア川流域を歩きまわって、とりつかれたようにスケッチしました。

「この訓練のためのに、目がほとんど見えなくなるほどだった」と彼はのちに書いています。

その年のスケッチブックが幸いにも残っていて、彼の制作方法がはっきりとうかがえる。

小さな素描は9×12㎝ほどしかないが、驚くほど多様な主題を描いています。

川とそこに浮かぶ小舟、暑さを逃れる木陰の羊、農家、畑と教会、もやの柱と睡蓮、農夫と馬たち、それに上着の袖口などを含む多様なものの細部。

何点もの作品が充分にできあがる量であり、彼がのちに絵画作品にした田園のテーマのほとんど全部を、ここに見いだすことができます。

自身が語っているように、こうした情景がカンスタブルを画家にしたのであり、目に映る美しさへの感動を高めたのが、水門や引き船道、舟造り場や牧草地でなされる労働に対する彼の共感でした。

父の水車場での修業から学んだのか、彼の目は単に建物や木々や人々に向けられるのでなく、空と川をも粉屋としての専門的な眼差しで見つめている。

粉屋の生計は、常に移ろいやすい天候をいかに把握するかにかかっていたから。

だが、サフォークとその田園風景にこれほど心をひかれたにもかかわらず、完成作の大部分はイースト・バークホールトでなくロンドンにおいて、スケッチブックとメモ代わりの小さな油彩習作を使いながら描きあげられました。

初期の「舟造り」1点だけは戸外で完成されたが、ほかの大作はいずれもロンドンのアトリエで冬のあいだに制作された。

ロイヤル・アカデミーに出品した有名な6フィート・カンバスのためには、おそらくほかの画家にはみられない、もう一段階の準備を経ている。

完成作と同寸大の油彩スケッチを描き、最終的に使う構図と色彩を決めたのです。

これらの同寸大スケッチも存在してり、イギリスの天候を細かな変化までとらえるために、パレットナイフを自在に駆使して絵の具をおいた技量は、現代の批評家たちからもおおいに賞賛されています。

 

みごとな運河の風景

だが、カンスタブルの天才ぶりが如実に示されているのはやはり、みごとな完成作の運河風景です。

ここでは他の場合にも増して、初夏の大気の印象、大きく広がったサフォークの空をよぎる雲の動き、大好きなストゥア川の水面の照る陽光の効果がうまくとらえられています。

川面にきらめき、風にそよぐ木々の葉叢に踊る陽の光をカンバス上に表現するために、彼は伝統的な風景画に見える「ヴァイオリンのような茶色」を捨て、自然がもつ真の色と質感を求めた。

彼が使う絵具の色数は限られ、水滴にあたる陽光のきらめきをまじりけない黄色と白で描き、雲と吹き抜ける風の動きは素早く神経のゆきとどいた筆遣いで表現しました。

彼ほどの感受性を持つ画家は、誰一人いなかった。

 

名画「乾草車」

カンスタブルは「乾草車」を、1820年から21年にかけての冬、ロンドンのアトリエで制作したが、備忘録として描いてあったスケッチと油彩習作を参考にしながら大作に取り組んだ。

彼は熟知した風景を選んでおり、フラットフォードの水車場とウィリー・ロットの家にはさまれたストゥア川の浅瀬が、乾草をつくる季節の典型的な情景に格好の舞台を提供している。

例によってカンスタブルは細部の正確さに気を配り、地元の画家に荷車のスケッチを送ってくれるよう頼みました。

しかし、この画面にはみごとな描写の農家や荷車だけでなく、それをはるかに超えたものが含まれています。

画家の真の主題は移ろいゆく1日の時間そのものであり、形を変える夏の雲と、木々と牧草地に踊る陽光が入念に観察されている。

 

まとめ

イギリスの風景画家といえばターナーが有名ですが、その彼が絶賛していた画家こそカンスタブルでした。

2人の作風はまったく違いますが、新時代を予感させる大胆な構図と、いきいきとした情景を描くことを得意としています。

彼の絵には、人間と自然との一体感と、天気の大気や空気感、湿気までを感じさせている不思議な力があります。

大胆なホワイトを使っていることや木の部分には、厚みのある絵の具をのせるなど、絵の存在感を引き出すリアリズムがある。

それは、彼の自然観察を最も感じさせる部分ですが、オランダの画家たちとの表現の違いは、グレーがかった風景はイギリスらしい空気を感じる。

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画家活動をしています。西洋絵画を専門としていますが、東洋美術や歴史、文化が大好きです。 現在は、独学で絵を学ぶ人と、絵画コレクター、絵画と芸術を愛する人のためのブログを書いています。 頑張ってブログ更新していますので、「友達はスフィンクス」をよろしくお願いします。