60年以上にわたって、ジョバンニ・ベリーニは故郷ヴェネツィアを代表する画家の地位を保ち続けました。
画家の一家に生まれた彼は、芸術面では地方の一都市にすぎなかった町を、ルネサスの一大中心地に変貌させることに貢献しています。
精密なゴシック様式を捨て、新しい油彩画の技法を完成することによって、「いと高き共和国」ラ・セレニッシーマとよばれた都市の御用画家として名をはせ、特権的な地位を享受しました。
年譜
- 1430年ころ ヴェネツィアで生まれる
- 1453~54年ころ マンティーニャがニッコロシア・ベリーニと結婚
- 1460年 父、兄とともに、パドヴァのガッタメラータ礼拝堂の祭壇画を制作
- 1470~71年ころ 父死亡
- 1474年 ジェンティーレがパラッツォ・ドゥカーレ大広間の装飾を開始
- 1483年 ヴェネツィア共和国の御用画家となる
- 1488年 「フラーリの祭壇画」を描く
- 1505年 「サン・ザッカリーアの祭壇画」を描く
- 1506年 マンティーニャ死亡
- 1507年 ジェンティーレ死亡
- 1516年 ヴェネツィアで死亡
「ベリーニ」の幼少期
ジョバンニ・ヴェリーニの生年は、その生涯の大半同様、定かではありません。
ベリーニの兄弟で同じくジェンティーレがのちにベリーニ家の家督を継いだことから、ジョバンニは彼の弟と推定されます。
彼らの父のヤコポは当時のヴェネツィアを代表する画家の一人で、ペーザロのアンナ・リンヴェン二という女性と結婚したのですが、彼女の遺言でジョバンニには言及しておらず、ジョバンニ誕生に関する記録がないために、彼はヤコポの愛人に生ませた息子ではないかと考える学者もいます。
ヴェネツィアは、当時有数の権勢を誇った都市で,イタリア全土のうちでも最も裕福で、東方との交易権を事実上独占していました。
ベリーニ兄弟が画家としての基本的な技を習得したのは、父ヤコポの工房においてでした。
実際、彼らの初期の作品は一族の誰の作品なのか見分けがつきません。
一族は共同で祭壇画、行列用の旗、小さな礼拝像、大きな歴史画などを制作したからです。
この時期、ベリーニ一族は定期的にパドヴァを訪れ、フィレンツェ出身の彫刻家ドナテロや、土地の画家アンドレ・マンティーニャとい革新的な芸術家の作品に親しみました。
パドヴァの美術界と彼らのつながりは、1453年から54年にマンティーニャがジョバンニの妹ニッコロシア・ベリーニと結婚するにおよび、いっそう深くなります。
その後まもなくマンティーニャは「楽園での苦悩」を描いています。
1450年代の終わりにマンティーニャがパドヴァを離れてマントヴァに去ったとき、ジョバンニは自分の工房をもつ画家として独立し、ベリーニ家の3人の画家は最後の共同制作を完成しつつありました。
これはヴェネツィアの隊長、ガッタメラータのためにドナテロがパドヴァで制作した記念碑に付随する祭壇画でした。
「ベリーニ」の名声と富
ヤコポが死んだ1470年か71年には、ジョバンニと兄ジョンテーレは40代初めの脂の乗りきった画家になっていて、ヴェネツィアの国家から高く評価され、名誉ある職を与えられていました。
1474年、ジョンテーレ・ベリーニはヴェネツィアの支配層から依頼されて、政治の中枢であるパラッツォ・ドゥカーレ(ヴェネツィア総督の公邸)の大広間を飾る古い絵を何点か修復しました。
以後35年間、ベリーニ兄弟はともに断続的にパラッツォ・ドゥカーレの仕事をすることになり、ヴェネツィア史の偉大な時代をいくつもの大壁画に描きました。
しかし、残念ながらこのことごとくが、1577年に宮殿の大火災によって消失してしまいました。
驚くことに、名声と技量の頂点にありながら、ジョバンニの画風は40代後半に大転換をとげます。
その原因は、1470年にヴェネツィアにやって来たアントネロ・メッシーナの影響だと考えられます。
メッシーナはシチリア出身の画家で、1世代前のフランドルの画家たちの油絵技法を習得していました。
ベリーニは機会を逃さずに新しい技法を取り入れ、自分がこれまで追求してきた色彩と光の陰影による効果をさらに高めようとしたのでした。
アントネロのやわらかな筆使いの作品に刺激されて、ベリーニはまた肖像画への関心を持ち、ヴェネツィアの名士だけでなく他国からの訪問者たちの肖像も描いたようです。
1479年コンスタンティノポリスを征服していたトルコ皇帝メフメト2世が、ヴェネツィアとの長い交渉の過程で、ジョバンニを貸してほしいと要求します。
ジョバンニはその時、国家的画家だったのでヴェネツィア側はジェンティーレを代わりに派遣しました。
その間、ジョバンニはジェンティーレがパラッツォ・ドゥカーレで手がけていた作品を完成するよう求められました。
詩人アリオストは当時を代表する3人の画家として、レオナルド、マンティーニャに並び彼の名を挙げています。
「聖フランチェスコ」、「キリストの変容」、「聖ヤコブの祭壇画」といった傑作を生み出す一方、さまざまな聖母像とピエタを描き続けました。
「ヴェネツィア」最高の名誉
1483年、ジョバンニはヴェネツィア共和国から特別の栄誉を授けられました。
ラ・セレニッシーマの御用画家に任命され、ヴェネツィア画家組合への義務(おもに会費)を免除されたのです。
2年後、ジョバンニの私生活に関する数少ない記録によると、彼はサン・マリーナ聖堂区に住んでおり、ジネヴラなる女性と結婚し、アルヴィーゼという名の息子を1人もうけています。
ですが、2世代以上にわたってヴェネツィアの芸術家の長であった男の家庭生活について、ほかには何もわかっていません。
1493年、マントヴァ公妃イザベラ・デステはヴェネツィアに滞在し、、ジェンティーレに大作「カイロ風景」を注文しました。
1501年に、彼女は自分のストゥディオーロ(書斎)のために、ジョバンニにも「古代の歴史か伝説に題をとって何か」描くよう依頼しました。
この書斎はジョバンニの義弟マンティーニャをはじめとする当時の巨匠たちの絵で飾られていて、これらの作品はイザベラ自身の発案になる神話体系に従って描かれたものでした。
彼女は、ジョバンニがそこに合ったテーマの作品を提供するという条件で、彼に25ドゥカート(金貨)の前渡し金をは払いました。
だが、制作は18ヶ月のあいだ着手されず、ジョバンニは健康を害したためと言い訳しています。
その時彼はイザベラに、マンティーニャの作品にはかなわないので主題を変えたいと申し出て、代理人は次のように告白しています。
「ジョバンニ・ベリーニは確かに、優れた幻想画を描くつもりだと言っています。だが、彼はまだ着手しておりません。
ある館の装飾を手がけなければならないのでと弁解していますが、皆様の意にかなうものを提供できるでしょうとも断言しております。」
イザベラはマントヴァでいらいらしながら絵の完成を待っていましたが、代理人は繰り返し延期を報告してくるだけでした。
「彼は、想像や神話の絵に向いていないのです。自分ではやるつもりだと言っていますが、現に手をつけていないのです」
ついに彼女はすトゥディオーロを飾るにふさわしい当初のアイデアを捨てて、宗教的テーマにするように同意せざるおえなかったようですが、何も得られないよりましだったのでしょう。
満足したイザベラ
ジョバンニ・ベリーニは聖母子に聖人たちを配した構図に着手し、「何らかの風景と幻想的要素を加えて」仕上げると約束します。
1503年10月、彼は1か月後に完成作を引き渡すと言明しますが、1年後、ベリーニは絵の具がまだ乾いていないからとして、さらに6か月を要求します。
怒ったイザベラは裁判に訴え、なんとしてもベリーニに絵を仕上げさせようとしました。
1504年7月に、彼はやっと作品を届けます。
イザベラは出来上がった絵が気に入り、残りの金を支払うことに決め、気前よくさらに25ドゥカートを送るのですが、これが年老いた巨匠を喜ばせたことは疑いありません。
しかも、これほどの待たされたことを考えると驚くべきですが、イザベラは別の絵をベリーニにまた依頼することにしました。
今回彼女の代理人は、人文学者の枢機卿で詩人のピエトロ・ベンボでした。
彼は画家自身にテーマを選ばせるようイザベラを説得します。
ベンボがイザベラに送った手紙には、「ベリーニは自分の慣れたやり方にそぐわないことを、あれこれ指定されるのを好まないのです。彼が言うには、気楽に仕事をし、作品を見る人たちを楽しい気分にさせるのが性分なのだそうです」と書いています。
この書簡は珍しくも人間ベリーニと、その性格をかいま見せてくれます。
「ベリーニ」の多面的な正確
宗教的主題を好み、芸術の面では独立心が強く、抜け目なく上流階級とつきあい、プライドが高い、そしてもちろん金を欲した点など、当時ヴェネツィアに滞在していた野心的な若い画家アルブレヒト・デューラーの手紙も、老齢のベリーニ像をうかがわせます。
「ジョバンニ・ベリーニは貴族が大勢いる前で、私をおおいにほめてくれました。そして私の手法をなんとか活用したがったのです。彼は私のところにやって来て、十分な報酬を払うから何か描いてくれと頼みさえしました。評判ではひじょうに誠実な人らしく、私も彼にとても好意を抱いています。もう高齢なのですが、依然としてこの地で最高の画家なのです」
とデューラーは書いています。
ここには、ベリーニの別の面が見られます。
若い芸術家への思いやりと、画歴の末期にあたりながらも新時代と歩調を合わせられる能力です。
当時、ジョルジョーネとティッティアーノはともにベリーニのかつての弟子で、ヴェネツィア美術のスタイルを一変させており、それはつづく数世代のあいだヨーロッパ絵画に大きな影響を及ぼすこととなりました。
ベリーニ自身は80歳になっていたにもかかわれず若い画家たちに学び、最晩年にも実験的な試みを絶やさず新たな業績をつみ重ね、パラッツォ・ドゥカーレの仕事をし、数々の注文を受け、傑作を生み出しました。
「牧場の聖母」、「サン・ザッカリーアの祭壇画」、「サン・ジョヴァンニ・クリゾストモの祭壇画」、それに革新的な「鏡を持つ若い婦人」はこの時期の作品です。
最高位をめぐる争い
マンティーニャが1506年に亡くなり、翌年にはジェンティーレ・ベリーニが世を去ります。
ジェンティーレは、自分が制作途中の「アレキサンドリアにおける聖マルコの説教」を完成させることを条件に、父の貴重なスケッチ帳の1冊を弟に遺贈しました。
そのような時期に、若い画家たちがようやくベリーニの至高の地位を脅かし始めます。
ティッティアーノが市議会に願い出て、ベリーニがパラッツォ・ドゥカーレの仕事で享受しているのと同じ特権を要求したのでした。
彼の願いは受諾されましたが、老齢のベリーニのパトロンたちが怒って抗議したため、1年後に議会は考えを改め、若い画家の特権を取り消します。
ティッティアーノと友人たちはそれならばと大広間の装飾に関して公開審査を提起し、その過程でベリーニの長期にわたる遅筆があらわになったため、ついにティッティアーノはベリーニに代わって「いと高き共和国」を代表する御用画家の地位を占めることとなります。
ジョバンニ・ベリーニについての最後の記述が、市の重要な出来事をすべて記録したヴェネツィア人マリン・サヌードの日記1516年11月29日に、「われわれは今朝、優れた画家ズアン・べリン(ジョバンニ・ベリーニの名のヴェネツィア方言表記)の死を耳にした。彼の名声は世界中に聞こえ、高齢にもかかわらず驚くほど旺盛に制作していた」と書いています。
マンティーニャの影響
1450年のベリーニは、そのころ隣の町マントヴァで活躍していた義弟アンドレア・マンティーニャの影響下にあり、マンティーニャがベリーニに教えたのは明快な空間表現で、それは遠近法によってデッサンする、新しくより系統なものでした。
この方法だと、小さな画面でも劇的な表現が可能でした。
マンティーニャの影響はベリーニの「園での苦悩」にはっきりとみられ、彼は義弟が数年前に描いた同様の構図の絵を意識的に真似ています。
徐々に遠のいていく風景、しわのよった衣装をまとう四角張った人物の入念な描写、岩と樹木と空と道の確固とした線の表現など、すべてがマンティーニャの影響を感じ取れます。
しかしすでに、根本的な違いも感じられのは、ベリーニの作品の方がより雄大で、人物たちの緊張的な表現は控えめです。
とりわけ色彩ははるかに豊かで、画面全体にやわらかな光が満ちていて、この光によって素晴らしい雰囲気がもたらされ、それはマンティーニャによる厳格な線的表現と大きく異なっています。
新しい画材
ベリーニがマンティーニャの影響から脱するきっかけとなったのは、1470年代半ばのアントネロ・ダ・メッシーナのヴェネツィア到着でした。
アントネロはシチリア島出身の画家で、フランドルの前世代の画家の描く細部のなめらかさ(肖像画)と堂々とした背景描写(祭壇画)はベリーニに感銘を与え、新しい画材がもつ可能性を伝えてくれました。
テンペラは不透明で乾きが早いため、画家には極度の正確さと事前の計画性が要求されますが、油彩は半透明で、乾く前に何度も描き直しができたので、この画材のおかげで、ベリーニの筆使いは大胆になり、それなでは入念に並べて塗らなければならなかった色を混ぜ合わせられるようになり、はるかにやわらかなトーンの表現が可能となりました。
繊細な色彩のグラデーションでフォルムを形づくるというより、光の効果で立体感が出せるようになったのです。
ベリーニの最初の油彩画の試みは、名作「聖フランチェスコ」と「キリストの変容」となって成果を表し、それらの画面は独特の光で満たされ、光自体が実体を備えているかのようです。
この頃、ベリーニをはじめとする数人の画家たちが、新しいタイプの祭壇画に挑んでおり、それはのちに「聖なる会話」と呼ばれることになる形式でした。
ベリーニは人物らちを一同に集め、まとまりある1つの空間の延長に見えるように描いています。
見事な「聖ヨブの祭壇画」は、この種の絵画の傑作で、そこにはヴェネツィア派の特徴が道あふれている作品で、金色のモザイク、大理石の象眼模様、絹の衣装、ガラスのランタンなどが描かれています。
「ベリーニ」の温和な肖像画
アンとネロ・ダ・メッシーナとの出会いにつづく数年間、ベリーニはますます肖像画を描くようになりました。
ヴェネツィア派第一流の画家として、ベリーニは総督たちの肖像を描くよう何度も依頼を受けますが、唯一現存しているのは壮麗な「総督レオナルド・ロレダンの肖像」です。
ここでベリーニはモデルをやせていくぶん陰気な表情に描いていますが、それでもオレンジと青を基調色にして総督像は威厳に満ちています。
この絵はベリーニの画風のもう一つの転換点を示すもので、輪郭線がこれまで以上に柔らかく不鮮明になり、画面の奥行きはそれほど感じられません。
この傾向は、晩年の作品ではもっと強まり「キリストの洗礼」においては、線的な遠近法を捨てて直接的な視覚効果をねらい、世界を純粋な色で描いてみせています。
80歳を超えても、彼は弟子のジョルジョーネとティッティアーノから熱心に学び新しいタイプの構図も手がけはじめ、古典的な「神々の祝宴」、「鏡を持つ若い婦人」などの作品も手がけています。
これらの非宗教的で官能性あふれる複雑な構図の絵でも、ベリーニの色彩のハーモニー、流麗なタッチ、光と陰による繊細な肉付けが、相変わらず健在であったとみられます。
名画「牧場の聖母」
この美しく絵は、眠れる聖子をあがめる聖母を描いたもので、ベリーニの最高傑作の1つとみなされています。
残念ながら、いつだれが依頼したかはわかっていませんが、1505年から1515年のあいだに描かれたと思われ、彼の晩年の作風をみごとに示す作品です。
ベリーニは、叙情的な風景が以前のどの作品よりも大きく広がり、情感豊かな雰囲気には弟子のジョルジョーネの影響がみられます。
弟子のジョルジョーネはこの情感をかきたてる様式を創出した画家で有名でした。
全体のムードは、悲しみの予兆を秘めた詩的夢想といったところでしょうか。
聖母は予知能力を持っていたと信じられており、彼女は、のちに死せるキリストが、眠る子と同じように自分のひざに横たわることになるだろうと直観で察知しているのです。
風景は象徴的な細部に満ちてキリスト受難のテーマを強調し、見る者は聖母と一体化して彼女とともに、キリストの苦しみに思いをはせるよう誘われます。