ターナー イギリス最高の画家

ぶっきらぼうで常識を超えるマナーと、不敵なまでに新奇な画風を示したにもかかわらず、ターナーはイギリス美術界の権力の中枢だあるロイヤル・アカデミーにおいて名声をほしいままにしました。

生涯にわたって市の川沿いの地区で暮らしたが、イギリス国内だけでなくヨーロッパにも頻繁に旅をし、新しいドラマティックな風景を探し求めた。

76歳でこの世を去ったとき、2万点を超える膨大な作品が残されていたといいます。

年譜

1775年 ロンドンのコヴェント・ガーデンに生まれる

1790年 ロイヤル・アカデミー展に初出品

1799年 ロイヤル・アカデミー準会員に選ばれる

1800年 母が変気のためベスレム精神病院に入院

1802年 ロイヤル・アカデミー正会員に選出される。初めてヨーロッパ大陸に旅行

1807年 ロイヤル・アカデミーの遠近法教授となる

1819年 最初のイタリア旅行ー2か月間に1500点のスケッチを制作

1828年 再度イタリアを訪れる

1829年 父の死

1829年 生涯の愛人ブース夫人を知る

1838年 「戦艦テメレール号」を制作

1843年 ラスキンの「近代絵画論」第1巻刊行でターナーの特集を書く

1844年 「雨、蒸気、速力」を制作

1851年 チェルシーで死亡

 

アカデミーの天才

 

ターナーの生まれた町

ターナーは1775年4月23日ロンドンに生まれました。

ターナーは生涯テムズ川付近で過ごし、この川を愛し、社交界よりも波止場のざわめきの方を好みました。

子供のころから川に照る光の効果を見て育ち、海事の知識にかけては常に誇りを持っていたそうです。

 

ロイヤルアカデミースクール入学

ターナーはきちんとした美術教育を一切受けずに育ち、14歳でロイヤル・アカデミー・スクールに入学し免授業料免除学生に合格します。

32歳の時にはその教授になりました。

終生アカデミーに忠誠をつくし、実の母のようだと述べます。

実の母は精神病院で画家29歳の時に亡くなります。

 

21歳のターナー

ロイヤルアカデミー・スクールに通いながら、ターナーはモンロー博士が主催する「アカデミー」で夜事ほかの画家の作品をコピーし、金を稼ぎしながら水彩画で腕を磨きました。

有能な働き手だったターナーは、有名画家カズンズの描くスイスとイタリアの風景画に影響されて、自分で目にして描きたいようになります。

 

気難しい神秘主義者

 

ぶっきらぼうで無口

ターナーは生れつき背が低く、のちにずんぐり太ったけれども、恐ろしいまでの精力は衰えなかったようです。

物腰はぶっきらぼうで気難しい性格で無口で、ごく親しい人間にしか温かいところを示さない人でした。

自分の制作方法を謎にしたし、私生活の神秘主義は特に有名でした。

 

「ターナー」巨匠と張り合う

1799年の春、ターナーのパトロンであるウィリアム・ベックフォードが人々を自邸に招き、巨匠クロード・ロランの手になる有名な作品を披露しました。

ターナーはこれらの絵にインパクトを受け、すぐさま同様の大きなスケールで歴史画を描こうと決心します。

過去の巨匠の作品に圧倒されず、本能的に模倣し、張合い、りょうがしようとする姿勢は1802年弱冠26歳にして、ターナーはロイヤル・アカデミーの正会員に選出されました。

 

アカデミーの教授

 

誰も聞き取れない授業

1807年32歳のとき、ターナーはアカデミーで遠近法の教授に任命されましたが、学生たちはきちんと出席したにもかかわらず、彼らはほとんど何も学ばなかったのです。

ターナーは講義のあいだずっと助手に向かってつぶやくだけで、誰も話を聞き取れなかったのです。

「奴隷船」 1840年

ターナーは海を愛し、荒れた海を比類ないほど激しい調子で表現した。

この作品は、船上で疫病が発生したときに、船長のとった行為の実話にもとづいて描かれている。

彼は奴隷を生きたまま海になげ捨てた。

溺れた者については保険金が請求できるが、疫病だとそれができないからだ。

 

ルーブル美術館で研究

ナポレオンはヨーロッパ征服のあいだ略奪した膨大な美術品をルーブル美術館で展示することに決めます。

ターナーはそれを見るために、イギリス海峡を渡った画家の一人でした。

ルーブル美術館で30点を超える絵画をつぶさに研究したといいます。

国を代表する風景画家

財政状態は向上の一途をたどり、1804年には自信を得たのか、ハーリー街の家を隣接するクイーン・アン街に大きな展示ギャラリーを設け、そこで個展を開くまでになりました。

画歴をつむにつれ、ターナーは徐々に国を代表する風景画家の一人とみなされるようになります。

批評家ラスキンが「ときたま、200年に一度、理解を超える人間が登場し、過剰な光をそなえた闇となるだろう」と評価しています。

 

最初のイタリア旅行

1819年彼の人生に大きな転機が訪れます。

44歳の円熟の盛りに初めてイタリアに旅したのです。

イタリアの多くの美術が彼を感動させたが、何にもましてイタリアの陽光に深く心を動かされました。

わずか二か月でローマ内外で1500点近い鉛筆スケッチをしており、ヴェスピオ火山の噴火も目にして描いています。

 

ヴェネツィアの風景

1830年代の初期にヴェネツィア風景を発表しはじめます。

この都市と素晴らしい陽光にとりつかれ、それは生涯におよびました。

ターナーは見えるがままの自然を描こうとする熱意を失わず、蒸気船のマストに我が身を縛り付けて嵐の海をスケッチすることまでしたのでした。

彼のヴェネツィア風景は特に建設の正確さと大気の魔術的ともいえる輝きが組み合わされているからこそなのです。

 

チェルシーのギャラリーと晩年の天才

彼はチェルシーのチェイン・ウィークに家を購入して、住居内に小さなギャラリーを設けます。

ターナーの描く嵐は、自然の圧倒的な破壊力の前では、人間が取るに足らない存在であるという信念の表明であると同時に、明るく輝く色彩の光は、生命をもたらす自然の本質を確証しています。

この大きく矛盾する2つの視点の間にある緊張こそが、ターナーを天才たらしめたのです。

「雨、蒸気、速力」 1844年

グレート・ウェスタン鉄道を走る初期の蒸気機関車を描いたもので、ターナーは例によって入念な準備のうえで制作した。

汽車の窓から、爆風雨のなかに顔を10分間突き出し、観察したという。

列車は鉄橋を渡っており、下の川に小舟が見える。

 

ターナーの遺言

ターナーは以前にもまして世間に背を向けるようになり、70歳を超えて健康もついに衰え始めていました。

最後の作品になることを考慮して、ターナーは【墓参り】と題する作品をロイヤル・アカデミー展に送り、1851年12月19日にテムズ川を見晴らす自分の寝室で息をひきとりました。

ターナーは約300点の油彩画と2万点近い水彩画を国家に寄贈し、特別展示室に飾られるようもとめました。

また、14ポンドにのぼる遺産によって、イギリスの貧しい画家たちのための施設を創建するよう書き残してもいましたが、彼の願いは現在もかなえられていません。

 

自然が織りなすドラマ

ターナーは一般に、19世紀風景画家の最も独創的な天才とみなされていますが、晩年には陸や海や空でなく、光そのものを描く画家となったというのが正しいでしょう。

彼の輝くばかりの色彩にかなう画家は一人もいませんでした。

光を用いて自然の圧倒的なイメージと、自然が人間の運命に及ぼす力をこれほどみごとに表現した画家は、ターナー以外にいません。

 

川がもたらした空想

ターナーはロンドンとテムズ川を、ほかの偉大な文明と結びつけました。

ヴェネチア、古代ローマ、カルタゴなど・・・

油絵に熟達しても、ターナーは水彩への関心を失うことは決してなく、双方ともに、記憶の助けとしてのスケッチだけで終わらず、独立した表現として使いました。

事実ターナーの油彩のテクニックは、水彩での実験に負うところが大きいとされています。

たとえば、キャンバスに真珠母の膜をごく薄くほどこす技法を考案して、画面に独特の繊細さをもたせました。

1805年ころまで、ターナーは絵具を大胆かつ自由に塗り、円ないし渦巻きを中心に構図を組み立てるようになります。

もう一つターナーに特徴的なのは、視点がほぼ一貫してまっすぐ太陽に向けられている点です。

後期の傑作には、蒸気、煙、霧、雲などがフォルムをつつみ、物の形は光の輝きの中に溶けて、解体するように見えます。

実際、最も実験的な何点かの作品では、完全にフォルムを排除し、もっぱら色彩の力だけに頼っているといえます。

 

ターナーとヴェネツィア風景

ターナーのヴェネツィア風景、特に当地を訪れた直後に描かれたものが感動的なのは、まさに建築の厳密な正確さと、大気の魔術的ともいえる輝きが組み合わされているからこそなのです。

同時に明るく輝く色彩と光は、生命をもたらす自然の本質を確証しています。

 

名画「戦艦テメレール号」

1838年のある夏の夕べ、たーなーは定期船に乗ってテムズ川をマーギットからロンドンに向かっていました。

ターナーは船の手すりにもたれながら、かつてトラフィルガー海戦でめざましい働きをした戦艦テメレール号が燃えるような夕焼けのなか、蒸気船に引かれていくのをみつめていました。

98門の砲を備えたこの老戦艦はスクラップにされるため、解体場へ運ばれていきます。

ターナーは格好の絵になると気づき、カードに何点もの小さなスケッチを素早く描きました。

翌年「戦艦テメレール号」はロイヤル・アカデミー展に出品されて、絶賛を博しました。

大衆と批評家とも熱狂し、ターナーは大成功をおさめます。

 

まとめ

1840年以後、光と色彩それ自体がターナー作品の主題となり、青と黄色をふんだんに使った作品は、見る者に激しい衝撃を与えました。

批評家は、この独創性に拍手を送るべきか、嘆くべきかわからなかったと言います。

このような天才的絵画は、当時の人達の理論を超えて議論することより、批評家を含めた多くの人の心にストレートに衝撃と感動を与えたのだと思えます。

ラスキンが言うように、まさに200年に一度の奇跡の画家だったのだといえます。

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画家活動をしています。西洋絵画を専門としていますが、東洋美術や歴史、文化が大好きです。 現在は、独学で絵を学ぶ人と、絵画コレクター、絵画と芸術を愛する人のためのブログを書いています。 頑張ってブログ更新していますので、「友達はスフィンクス」をよろしくお願いします。