ジョン・シンガー・サージェントは、パリで絵を学び伝統の写実的画風を身につけたが、同時に印象派の影響も受けます。
天性の筆使いと、みごとに本人の特徴をよく示す肖像画によって、アメリカとイギリスにおいて抜きんでた成功をおさめました。
年譜
1856年 フィレンツェで生まれる
1868年 最初のスペイン旅行。 ローマで絵を学ぶ
1876年 カルロス・デュランのアトリエに入る
1876年 初めてアメリカを訪れる
1884年 「マダムX」を発表 、スキャンダルを巻き起こす
1885年 ブロードウェイで夏を過ごす
1886年 ロンドンに転居
1890年 ボストン私立図書館の壁画に着手。 エジプトに旅行
1905年 従軍画家としてフランスに赴く
1925年 イギリスで死亡
「サージェント」フィレンツェで誕生
ジョン・シンガー・サージェントは1856年フィレンツェに生まれました。
両親は共にアメリカ人で、父親はフィラデルフィアで開業医で、母親はフィラデルフィアの富裕な毛皮商の娘でした。
第一子が死に夫妻は保養のたねヨーロッパに船出して、一時的なものがやがてライフスタイルになり、彼らは以後ずっと外国で暮らし、子供を育てたのでした。
「サージェント」の幼少時代
サージェント夫妻の外国暮らしは、都市や保養地を転々とする旅に明け暮れました。
ジョンと2人の妹エミリーとヴァイオレットにとって、こうした生活は、根を持たない孤立した子供時代をおくることとなります。
サージェントは、正規の教育をほとんど受けなかったにもかかわらず、旅の暮らしは彼の幅広い知識をもたらしました。
「サージェント」旅のスケッチ
サージェントの素描は当時、一家の生活の大きな部分を占めた旅行を記録する手段でした。
母親もアマチュアの水彩画家で、息子に旅の風景をスケッチするよう促し、現存する初期の何冊かのスケッチブックには、植物や鳥の素描、建物のスケッチ、過去の巨匠たちの作品の模写が含まれています。
若いころの手紙と素描に見られる特徴は、彼が観察の結果を正確に表そうとしたことだと言えます。
「サージェント」画家を目指す
父親は将来海軍軍人の道を歩ませたかったようですが、、息子自身は画家になる決意であったことが明らかになります。
パリのアトリエシステムで学生たちが1人の師のもとで、実物のモデルを素描とタブローに描く教育方法がとられており、そこが最良の修行の場と思われていました。
カロリュス・デュランのアトリエで、サージェントは師の指示に従い、じかに絵の具で描き、写実的に描写する手法を学びます。
アトリエでの1年間の授業が終わった夏休みには、仲間のグループで地方にスケッチ旅行に出かけました。
1877年にブルターニュのカンカルで、最初の重要な主題画「カンカルでカキを採る人々」のため外光スケッチをしました。
この絵は1878年のパリのサロンで推賞されます。
彼の印象派への関心が反映された作品でもあります。
「サージェント」アトリエのスターになる
いまやサージェントは明らかに、アトリエで抜きんでた学生で、師もおおいに満足し、ルーブル宮殿の大規模な天井画制作でこの弟子を助手に使っています。
1879年師をモデルにした肖像画がサロンで推賞され、自分のアトリエを持つ職業画家となり、制作依頼を受け始めたのでした。
1883年ロンドンのアメリカ大使館一等書記官夫人だったミセス・ヘンリー・ホワイトの肖像を描いたが、その出来栄えが優美で美しいことから社交界の人々の依頼を数多く受けることとなります。
「サージェント」名画「マダムX」を描く
パリ社交界の花マダム・ゴートロー・・・異色を放っていましたが、類まれない美貌で有名でした・・・を描いた作品は、逆に悲惨な結果をもたらします。
それは注文によるものではなく、サージェントの方から友人を通じて彼女に接近し、肖像画を描かせてもらうことを頼みこんだのです。
彼は、黒髪のエキゾチックな美貌、見事な体の線、印象的な横顔に魅せられました。
夫人は気難しいモデルでしたが、サージェントは忍耐強く描き、この絵によって名声が得られるだろうと確信していたようです。
ところが、1884年サロンに出品された「マダムX」はスキャンダルを引き起こし、批評家と大衆にこぞって背を向けられました。
この事件はサージェントを動揺させ、パリでの画歴の将来に暗雲を投げかけました。
サージェントはロンドンに渡ります。
「サージェント」社交界の肖像画家
1890年代、アメリカとロンドンの双方において、サージェントの名声は頂点を極めることになります。
1893年のロイヤル・アカデミー展に出品された「レディー・アグニュー」は傑作と評判が高く、これによりイギリスの画壇の地位を確立しました。
彼はにわか成金たちに引っ張りだこの画家となり、成金たちは、画家に見事な肖像画を描いてもらえば、自分の地位が社会に認められると考えたのでした。
1890年も終わりに近づくと、貴族階級が機会を求めて列をなしはじめます。
1902年にはロダンが「われらが時代のヴァン・ダイク」とさえ呼んでいます。
画風もこれまでになく形式ばったレノルズ流のグランド・マナー(大様式)に転じ、小道具を使って舞台装置を演出して、時代を超えた効果を生もうとしました。
「サージェント」スケッチ旅行での休暇
1907年までにはごく少数を除いて依頼を断るようになります。
肖像画制作という単調な地事から解放されたサージェントは、意のままに好きな主題を選ぶことができました。
サージェントの暮らしのパターンは一変し、毎年夏には二人の妹家族と、古くからの画家仲間と共に、3、4ヶ月をスケッチ旅行に費やします。
旅はアルプス、イタリア、スペインに足を運び、サージェントはたびたびヴェネツィアに赴き、素晴らしい水彩画を数多く描きました。
「サージェント」晩年の日々
家庭生活も徐々に形を変えていきます。
1889年に父が史に、ヴァイオレットが1891年に結婚して家を出たが、一番深刻な影響をもたらしたのは1905年の母の死でした。
エミリーが事実上一人で残されると、常にきわめて親密だった兄妹は、互いの世界の中心を占めるようになります。
ですが、ときとしてサージェントは結婚の思惑で乱れることがあったが、妹の病気を気にかけ思いを断ち切っていたと思われます。
第一次世界大戦の際に、サージェントは正規軍画家としてフランスに赴いて、戦地の事態を観察し記録しました。
しかし戦争は私的な面で悲惨な結果をもたらし、姪夫婦が命を落とすことになります。
彼はボストンの装飾の仕事を継続して、そして友人に「アメリカの仕事が終わったので、僕は好きな時に死ねると思う」と言っています。
1925年4月、画家は最後の数パネルを持ってアメリカに渡る船便を予約し、兄弟と親友を招き送別の夕食会を催しました。
翌朝サージェントはベッドで死んでおり、かたわらにヴォルテールの「哲学辞典」がぺージを開いたまま置かれていました。
死因は心臓発作であり、遺体はサリー州のブルックウッド共同墓地に葬られました。
「サージェント」の流麗な筆さばき
サージェントの流麗な筆さばきと画風は、師がベラスケスの信望者で筆を止めることなく、対象の色調を正確に写し取ることによって、写実的な効果を出すように指摘されたといわれます。
またベラスケスのほかに、サージェントの技法に大きな影響を与えた画家として、フランス・ハルスの名があげられます。
サージェントは1880年にハールレムを訪れてハルスの作品に接し、その豊な表現、活力と華やかさと筆使いに衝撃をうけたと思われます。
「サージェント」と「モネ」の親交
サージェントとモネが知り合ったのは、1876年以後1880年により親しくなったようです。
彼はノルマンディーのジベルニーにあるモネの家を訪れ、作品を4点買い、モネの肖像画を3点描きました。
サージェントは印象主義の関心事を論理的な結論までつきつめることはなく、彼の人物はより伝統的に表されており、印象主義な構図の中にあってもその形の跡をとどめています。
「サージェント」の制作
モデルをつとめた人々の回想によると、サージェントはエネルギッシュで感情を表す画家であったと言います。
イーゼルからかなりの距離までゆっくりあとずさりながら、モデルとキャンバスをみて、それからキャンバスに戻るやいなや、正確な筆使いで次の絵の具をおきはじめ、「ふん、くだらん!」とか「悪魔め!」と口ぐせのようにつぶやいたようです。
大きな筆に絵の具をたっぷり含ませて、素早い動きで背景の中から人物が浮かび上がらせていきました。
画家仲間のウィリアム・ローゼンスタインが書いていますが、彼は「影、中間色、光の大きな塊を、フォルムの特徴や細部にこだわらず無造作におき、最後に光と陰おマッスを整理し、人物をまとめあげた」つまりそれはカロリュス・デュランの教えを要約したもので、サージェントがロイヤル・アカデミー・スクールで学生たちに与えた助言でした。
彼はまた「絶えざる観察力」を養うことの重要性を強調し、自分の想像力の源を語ったくだりでは「なによりも戸外に出て、陽の光と目に映るすべてのものを見ることだ・・・・」と説いています。
まとめ
サージェントは空想的な絵画構成ではその才能に不向きであったが、肖像画ではずば抜けた才能を見せました。
瞬時に人物の特徴をとらえて描くその才能は、またたく間に世間に知れ渡り社交界で活躍することになりました。
彼の最も素晴らしい作品の一つ「マダムX」は、当時スキャンダルを引き起越しましたが、今までにない斬新な女性美を今に残しています。
彼は、印象派でもあり、光による神秘に夢中になっています。
彼の水彩画は、特に風景画が素晴らしく油彩画に負けない魅力を感じさせます。
サージェント以後は、肖像画の人気は徐々に低迷し、その後彼を越える肖像画家を見ることができません。
・「ピエロ・デラ・フランチェスカ」 サンセポルクロの高名な息子