シャルダンは18世紀フランス絵画史にあって、ひときわ個性的な存在の画家です。
ブーシェやフラゴナールと同時代の画家で、当時は華麗なロココ様式が栄え、官能的な神話画がもてはやされていたにもかかわらず、シャルダンの名声を高めたのは、穏やかな静物画と家庭的な風俗画であり、その率直で明快な画風は市民段級だけでなく王侯貴族にも受け入れられていました。
年譜
- 1699年 パリに生まれる
- 1724年 聖ルカ組合に登録
- 1728年 アカデミーに入会
- 1731年 マグリット・サンタールと結婚 息子ジャン・ピエール誕生
- 1733年 風俗画を描き始める
- 1735年 妻マルグリットが死ぬ
- 1743年 アカデミーの理事となる
- 1744年 フランソワーズ・マルグリット・プーシェと再婚
- 1752年 王室年金を賜る
- 1754年 ジャン・ピエールがローマ賞を得る
- 1755年 アカデミー財務役に選出される
- 1762年 ジャンピエール、海賊に誘拐される
- 1779年 パリで死亡
「シャルダン」 パリで生まれる
ジャン・パティスト・シメオン・シャルダンは1699年11月2日、パリの芸術家街であるサン・ジェルマン・デ・プレ修道院管内に生まれました。
父親のジャンは王室用のビリヤード台を作る指物師で、当然ながらこの長男が自分のあとを継ぐものと考えていました。
したがって、幼いシャルダンは職人となるにふさわしい実地の訓練を受けて育ちました。
しかし、彼は早くに絵の才能を発揮して18歳の時に宮廷画家ピエール・ジャック・カーズに弟子入りしています。
師は大規模な宗教画を専門に描く画家だったといいます。
カーズの教えは版画の模写という単調な作業で、シャルダンは、この方法ではどんな画家にとっても大切な自然を観察する心構えが育たないと不平をもらすこととなり、別の画家にコラ・コワペルのもとでこれより長期間学んだようです。
コワぺルは肖像画の一点に鉄砲を描き込むようシャルダンにすすめ、彼の静物に対する興味を最初に目覚めさせます。
ですが、シャルダンはおおむね独学の画家だったと言っていいでしょう。
20代の半ばまでにシャルダンは静物画家として一本立ちし、1724年には聖ルカ組合の親方として名が登録されました。
この組合は実際には職人の組織で、アカデミーとは比べ物にならず、知的格式をまったく欠いていました。
「シャルダン」の最初の成功
1720年の半ばから、シャルダンは「青年美術家展」に作品を発表し始めました。
若い無名画家たちのために、毎年ドーフィーヌ広場で催された野外展覧会で、1728年に「えい」など数点を展示したところ、著名な画家二コラ・ド・ラルジリエールがたまたま通りかかって感激し、シャルダンにアカデミーに出品するようすすめます。
この思いがけない名誉が信じられず、彼はアカデミーの真意を確かめるために、小さな部屋の目立たない場所に作品を数点掲げ、そばで待機していたのです。
またもやラルジリエールがシャルダンの絵に目をとめてほめちぎり、フランドルの巨匠の作に違いないと友達に話していました。
シャルダンが進み出て自分の絵だと言明すると、ラルジリエールはすぐさまアカデミーの会員に応募するようせきたて、その年の9月に花と静物や果実をテーマにする画家としてアカデミーに入会を許されます。
1731年シャルダンはマルグリット・サンタールと近所の教会で結婚しています。
「シャルダン」風俗画を描く
若夫婦はプラセン通りのあったシャルダンの屋敷内に家庭を築き、あてがわれた3つの部屋のうち、最上階がシャルダンのアトリエに確保されました。
ですが、結婚生活は短く、不幸にもマルグリットが早く1735年に死んでしまいます。
シャルダンは家庭の台所や上品な客間の情景を描き始め、それが非常に人気を博し展示された作品は、すぐに版画に刷られだし多くの人々が知るようになりました。
1740年にシャルダンが王に拝謁してから、ルイ15世は彼の絵におおいに興味を示し始めたし、スウェーデン王女ルイーゼ・ウルリクは彼女のパリ大使がシャルダンの作品を2点所有しているのを見て、ドロットニングホルムの自分の宮殿のために、同主題の作品を2点制作するよう大使を通してシャルダンに依頼しました。
王女は依頼して一年以上待たされ、シャルダンの有名な遅筆ぶりはパトロンたちをいらだたせたようです。
画家の収入は思ったほどではなかったでしょう。
しかし、40代半ば、シャルダンは物質面での暮らしが保証されたのは、1744年子のない37歳の富裕な未亡人フランソワーズ・マルグリット・プーシェと再婚し、彼女の所有する土地から定期的な収入が得られたからでした。
「シャルダン」の高まる名声
制作点数の少なさゆえに批評家から批判されていたものの、シャルダンは1740年代と50年代を通して着実に仕事をこなし続けました。
1743年、アカデミーの理事に任命され、1755年には満場一致でその財務役に選出されます。
数年後には、サロンの展示を監督する特別な責任も委ねられ、多くの役職をこなしていた努力にもかかわらず、教授や院長という地位は得られませんでした。
それらは歴史画家たちが独占していたからです。
国王はますますシャルダンの絵を買い求めるようになり、1751年にオルゴールを持つ婦人を描いた作品を前例のない1500リーヴルという高額で買い上げ、1752年には500フランの王室年金を受けました。
その5年後、王の勅命によって、シャルダンはルーブル宮殿内に住居をあてがわれます。
ですが、シャルダンには、幸運の合間にもさまざまな障害がありました。
「シャルダン」と息子「ジャン・ピエール」
息子ジャン・ピエールにまつわる問題で、息子は常にシャルダンにとって頭痛の種だったのです。
ジャン・ピエールには、父の名誉心を満たすための歴史画家になる気は十分あったようですが、残念ながら父シャルダンの非凡な才能を受け継いでいませんでした。
ジャン・ピエールが1754年フランスの画学校で勝ち得た留学の権利を行使するためローマに赴く前に、父子の争いが起きたと言います。
母が残した遺産を巡って親子で相続争いをし、2人の関係が後に修復されたのか不明ですが、ジャン・ピエールは1762年にローマからの帰りに、ジェノバ沖で海賊につかまり、67年には消息をたってしまいました。
彼がなぜ命を落としたのか謎ですが、後にヴェネチアで自殺したという噂が広まり、年老いたシャルダンの悲しみを増す結果に終わります。
晩年の「シャルダン」
晩年はいろいろな問題をもたらしていました。
シャルダンは胆石の痛みにひどく悩まされるようになり、視力も落ち始めました。
批評家たちは冷たい論評を加え、同じテーマを無限に繰り返している彼を非難し、1770年代に入ると、シャルダンはますます苦境に立たされます。
アカデミーの新しい院長と王室建築総監の2人は、シャルダンをよく思ってなかったことで、王の寵愛を得るチャンスがさらに遠のいたばかりか、国家年金さえ削られてしまいました。
ここでシャルダンは、視力の低下に対抗しようと、パステルによる頭部習作を何点か1779年のサロンに出品し、かなりの賞賛を手にします。
王女の一人がパステル画を1点買い上げ、シャルダンにカギ煙草入れを贈りました。
こうした最後の成功にもかかわらず、シャルダンの芸術は人気を失い、19世紀半ばに、ゴングール兄弟が18世紀フランス絵画の意義をとり上げて、シャルダンの作品を絵画固有の特質という面で再評価の気運がたかまり、18世紀における最も独創的な画家として、揺るぎない地位を確保したのでした。
(シャルダン晩年の自画像)
「シャルダン」の好きこそゆえの苦労
シャルダンの風俗画作品は大きな成功を博し、その多くが落ち着きのある、完成度を示す傑作でした。
しかし、これらの風俗画は彼に多大な苦労をもたらし、晩年の20年間では、静物画に時間を割く度合いがしだいに増えています。
実物の静物
シャルダンは入念な習作デッサンをしてから鉛筆を握るのではなく、対象を前にしてじかにキャンバスに向かう画家でした。
彼は、デッサンを数多く残しているが、現存する絵画作品にはっきり関連づけられるものはほとんどありません。
だからといって仕事が速くなるわけでもなく、シャルダンは労力をかけてゆっくり制作したので、平均にして月に2点しか絵が仕上がらなかったのでした。
完璧なバランス
シャルダン芸術の重要な側面は、色彩とトーンの調和です。
キャンバスを用意すると、油の具で薄くコーティングをほどこし、下地を作ります。
そのうえに暗い色面、次にハーフトーン、最後にハイライトをおく順番で描いています。
明るい色と対応する暗い部分とのバランスを整えて、絵が一通り仕上がってから、すぐに用いた色で再び修正し、調和を完璧にしま
した。
画面の中の各事物は色のタッチで結びつけられ、その色はある物とそのまわりの物との関連で成り立っています。
たとえば花やイチゴの赤が、常にどこかの部分の赤と関連してバランスをとる感じなのです。
こうした入念な努力が合わさって、一見してごく自然で目に心地よい効果が生まれたのでした。
名作「食前の祈り」
1740年11月27日、文化相フィリペール・オリーの仲介により、シャルダンはルイ15世に謁見を許されました。
シャルダンはその年のサロンに出品した2点の自作「働き者の母親」と「食前の祈り」をささげ、王はそれをいたく気に入り2点とも自分の書斎に飾りました。
2枚の絵は1845年にようやくルーブル美術館で公開されると、「食前の祈り」はたちまち、そこで最も人気を集める傑作の仲間入りをしました。
17世紀オランダの画家たちが好んで取り上げたテーマですが、彼らの場合は宗教的意味合いを強調することが多かったのに比べ、シャルダンは単純に日常生活のエピソードたして描いています。
食事の支度をする母親と子供たちのあいだ3方向で交わされる視線のなかで、親密なムードが繊細に表現されています。